第20話 老いたアーカイバー
境界庭園は、都市の喧騒が届かない街の外れに位置していた。
正式名称は《人類感情史保存区域第三十八庭園》という。しかし、誰もそんな即物的な名前では呼ばない。
都市と自然、過去と未来、そして記録と忘却――あらゆるものの「境界」に位置するその場所を、人々は親愛を込めて境界庭園と呼んでいた。
アキは空中交通網を使わず、三十分かけて歩いてその場所へ向かった。
《Bloom》を閉じても、頭の中では先ほどの「白い花」が燃え続けている。「正しい」「間違っている」「尊重しろ」「裏切りだ」……。
そんな記号化された言葉の礫が、脳内で不快な反響を残していた。人類は自由を手に入れたはずなのに、なぜこれほどまでに息苦しいのか。その答えを、アキは求めていた。
庭園の門をくぐると、むせ返るような土の匂いが鼻腔を突いた。
それだけで、尖っていた神経が少しだけ弛緩するのを感じる。アルゴリズムや最適化が支配する世界において、土は何百年経ってもただの土としてそこに在った。
庭園の中央、陽だまりの中に一人の老人がいた。 使い古された帽子を被り、土にまみれて黙々と雑草を抜いている。ナツ。百歳を超えてなお、その背筋は驚くほどに伸びていた。むしろ、最新の論理で歪みきった世界のほうが曲がっているのではないかとさえ思わせる、毅然とした佇まいだった。
「ナツさん」
アキが声をかけると、老人は振り向かずに「おう」とだけ応じた。雑草を抜く指先は、迷いがない。一本、また一本。会話を急ぐ様子は微塵もなかった。
「世界がまた、炎上しています」
「そうか」
「十六歳の少女の投稿です。子どもを産みたくないと……百億人がそれを見て、互いを裁き合っている」
「多いな」
ナツはようやく顔を上げた。皺だらけの顔の中で、目だけが妙に若々しく、澄んでいる。
「お前は何が言いたいんだ、アキ」アキは迷った末、本音を吐き出した。
「花が……《AinoHana》が、世界を壊している気がするんです。自由な感情が、かえって人々を分断している」
風が吹き、庭園の本物の花々が揺れる。ナツは数秒の沈黙の後、静かに笑った。
「花は悪くない」
「……じゃあ、何が悪いんですか」
「見ようとしていないんだよ。隣の花を」
ナツは隣の花壇を指した。赤、青、黄色。形も大きさも違う花が、無秩序に、しかし調和して咲いている。
「みんな、見すぎているくらい見ていますよ。ネットを開けば嫌でも視界に入る」
「違うな」ナツは首を振った。
「見ているんじゃない。『確認』しているだけだ。自分が正しいかどうかをな」
その言葉は、アキの胸を鋭く射抜いた。
「人は自分の痛みには敏感だ。だが、他人の痛みを受け入れるには想像力が必要になる。それは、この効率化された世界ではひどく『面倒』なことなんだよ」
「面倒……?」
「そうだ。共感なんてものは簡単だ。同じ経験、同じ痛みなら、回路を繋ぐだけで理解した気になれる。だがな、自分とは違う経験、自分とは違う痛みを持った他者を、そのまま受け入れるには、脳の余白を使い切るほどの想像力が要る」ナツは一輪の花を摘み、その歪な花びらをなぞった。
「愛は感情じゃない。他人の人生を想像する『能力』なのだよ。そして人類は昔から、その能力を磨くことをサボり続けてきた」風が止み、庭園に深い静寂が訪れる。
「苦手なんだよ、人間は。自分と違うものを、分からないままに信じることが」
「苦手」――。 たったそれだけの言葉に、アキは救われるような思いがした。現在起きている混乱は悪意によるものではなく、人類の「能力の欠如」に起因しているのかもしれない。足りないのは優しさではなく、他者の輪郭をなぞるための想像力なのだ。
アキは、ナツの土に汚れた手を見つめた。 この老アーカイバーが守り続けてきた記録の地層の中に、その「欠けた能力」を補うための鍵がある。アキは確信していた。
「ナツさん。見せてください。あなたが封印した記録、AH-2580を」
ナツは一瞬、いたずらが見つかった子どものような顔をして、それから静かに頷いた。 五百年にわたる共鳴の旅、その核心へと触れる扉が、地下三百メートルの情報深層アーカイブで開かれようとしていた。




