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山ひとつ越えたところ

作者: 種村朔
掲載日:2026/05/16


 図書委員に選ばれた。相方は同じクラスの女子だった。

 髪の長い女子だった。


 最初のうちは、仕事は淡々としていた。

 返却された本を棚に戻し、貸出を記録する。それだけだった。


 図書室はいつも静かで、話す理由がなかった。

 それでも、彼女が本棚の間に立つと、その位置だけが少しだけ明るく見えることがあった。


 長い髪が、ページをめくる動きや棚の影に、遅れてついてくることがあった。


 放課後、図書室で作業をしているとき、彼女が小さく何かを口ずさむことがあった。

 流行りの落語家のギャグだった。意味のない言葉なのに、図書室の空気にだけ残った。


 そのあと、ふと気づくと、彼女が先にいなくなっていることがあった。

 髪だけが、まだそこに残っているように錯覚する瞬間があった。


 本の分類で迷っているとき、彼女が横から短く正したことがあった。

 その声は、実際に聞いたものだったのかどうか、後になると曖昧だった。


 ただ、そのときから、図書室の棚の並び方が少し違って見えるようになった。


 翌日、そのことを同級生に話した。

 同級生は軽く笑いながら、彼女のことをいいと思っていると言い、自分も少し気になっていると言った。


 その言葉は、なぜか遠くから聞こえたように思えた。


 やがて彼女は別のクラスになった。


 それから、図書室でも教室でも会うことは減っていった。


 それでも時々、長い髪だけが視界の端に残ることがあったが、それが彼女だったかどうかは分からなかった。


 あるとき、住んでいる場所を聞いたことがある。

 彼女は少し考えて、「山ひとつ越えたところ」と言った。


 その言葉だけが、やけに正確に残った。


 時間が過ぎた。


 彼女のことを考える時間は減っていったが、完全には消えなかった。

 ときどき図書室に入ると、誰もいないはずなのにページをめくる音だけが聞こえることがあった。


 数年後、駅前で彼女を見かけた。


 人の流れの中に立っていた彼女は、以前より少し大人びていた。

 長い髪だけが、記憶の中と同じ形で残っていた。


 一目で彼女だと分かったが、その確信がどこから来ているのかは分からなかった。


 声をかけることはできなかった。


 彼女は気づかないまま通り過ぎた。


 そのとき、図書室と駅前が同じ場所だったような気がした。


 次の瞬間には、人の流れの中に彼女の姿はなかった。


 あとに残ったのは、「見た」という記憶だけだった。


 だがそれが本当に記憶なのか、今ではもう分からない。

 最初から彼女という人物がいたのかどうかも、分からなかった。

高校時代の思いは、懐かしい。

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