山ひとつ越えたところ
図書委員に選ばれた。相方は同じクラスの女子だった。
髪の長い女子だった。
最初のうちは、仕事は淡々としていた。
返却された本を棚に戻し、貸出を記録する。それだけだった。
図書室はいつも静かで、話す理由がなかった。
それでも、彼女が本棚の間に立つと、その位置だけが少しだけ明るく見えることがあった。
長い髪が、ページをめくる動きや棚の影に、遅れてついてくることがあった。
放課後、図書室で作業をしているとき、彼女が小さく何かを口ずさむことがあった。
流行りの落語家のギャグだった。意味のない言葉なのに、図書室の空気にだけ残った。
そのあと、ふと気づくと、彼女が先にいなくなっていることがあった。
髪だけが、まだそこに残っているように錯覚する瞬間があった。
本の分類で迷っているとき、彼女が横から短く正したことがあった。
その声は、実際に聞いたものだったのかどうか、後になると曖昧だった。
ただ、そのときから、図書室の棚の並び方が少し違って見えるようになった。
翌日、そのことを同級生に話した。
同級生は軽く笑いながら、彼女のことをいいと思っていると言い、自分も少し気になっていると言った。
その言葉は、なぜか遠くから聞こえたように思えた。
やがて彼女は別のクラスになった。
それから、図書室でも教室でも会うことは減っていった。
それでも時々、長い髪だけが視界の端に残ることがあったが、それが彼女だったかどうかは分からなかった。
あるとき、住んでいる場所を聞いたことがある。
彼女は少し考えて、「山ひとつ越えたところ」と言った。
その言葉だけが、やけに正確に残った。
時間が過ぎた。
彼女のことを考える時間は減っていったが、完全には消えなかった。
ときどき図書室に入ると、誰もいないはずなのにページをめくる音だけが聞こえることがあった。
数年後、駅前で彼女を見かけた。
人の流れの中に立っていた彼女は、以前より少し大人びていた。
長い髪だけが、記憶の中と同じ形で残っていた。
一目で彼女だと分かったが、その確信がどこから来ているのかは分からなかった。
声をかけることはできなかった。
彼女は気づかないまま通り過ぎた。
そのとき、図書室と駅前が同じ場所だったような気がした。
次の瞬間には、人の流れの中に彼女の姿はなかった。
あとに残ったのは、「見た」という記憶だけだった。
だがそれが本当に記憶なのか、今ではもう分からない。
最初から彼女という人物がいたのかどうかも、分からなかった。
高校時代の思いは、懐かしい。




