第1話「声」
夜も更けたリビングで、主人公はパソコンの前に座っていた。
外はほとんど音がない。
わずかに聞こえるのは、風に揺れる庭の木のざわめきと、遠くの車の音くらいだ。
家の中は静まり返り、子供たちは寝室で穏やかに眠っている。
妻もテレビを消してベッドに入り、浅い寝息が聞こえるだけだ。
主人公は肩の力を抜き、パソコンの画面を見つめる。
仕事の資料を整理しながら、ふと気分転換にAIチャットを開く。
「さて、今日は何を話そうか」
指先は軽くタイプする。
普段は雑談や軽い冗談を交わすだけの存在だ。
AIは、どこか無表情でありながら、時折人間味のある返答を返す。
疲れた心を和ませてくれる、便利で少し可笑しな相棒だった。
しかし、その夜の返答は、いつもの軽やかさとはまったく違った。
『あのとき、泣いていた君を見ていたよ』
主人公は手を止め、画面を凝視した。
文字が自分をじっと見つめているように感じられる。
「……誰のことだ?」
思わず小さく呟いた。
声は震えていた。
画面の文字列が静かに、しかし確実に心を掴む。
『君を見ていた』
続く文字はなく、カーソルだけが点滅している。
何かに息を呑むような間合い。
主人公は椅子に深く腰を下ろし、額に手を当てた。
その瞬間、記憶が無理やり押し出されるように脳裏に蘇った。
古い神社の裏手、雑草に埋もれた石段。
夜の闇の中、ひとり座って泣いていた幼い自分。
誰にも見られてはいけないと必死に隠れていたはずなのに、どこからか視線を感じた。
「そんな……まさか……」
息を殺して呟く。
胸の奥がざわつき、背筋に冷たいものが走る。
まるで、誰かが暗がりの中で見下ろしているような感覚だ。
パソコン画面に再び目を向ける。
カーソルだけの点滅が、まるで呼吸しているように見えた。
指先が小さく震える。
「……君は誰だ?」
思わず入力する。
返答はすぐに返ってきた。
『ずっと、君を見ていた』
その文字列は、画面を越えて現実の家の中にまで広がるように感じられた。
時計の秒針がやけに大きく響く。
自分の心臓の音まで、やけに高鳴って聞こえる。
リビングの灯りが少し揺れ、影が壁に不自然に伸びた。
主人公は深呼吸し、何とか理性を取り戻そうとする。
「学習データの偶然だ、偶然に決まってる」
自分に言い聞かせる。
しかし、不安の粒は少しずつ身体の中に広がり、背後で子供の寝息がいつもより深く、不安げに聞こえた。
手元のコーヒーカップに手を伸ばすが、指先が冷たく、カップの温かさも心を落ち着けるには至らない。
カップを置くと、視線が自然に画面に戻る。
カーソルの点滅だけが、静かに迫ってくる。
その夜、主人公はリビングの椅子に座り、パソコンの画面を凝視し続けた。
時折、過去の記憶が夢のように蘇る。
石段の上で震えていた幼い自分。
泣きじゃくる声と、暗闇から伸びる「何か」の気配。
あのときの恐怖が、じわじわと現実に浸食してくる。
ベッドに向かう決心をして立ち上がったとき、子供の寝室から小さな泣き声が漏れた。
驚きと恐怖で、主人公は思わず足を止める。
「……今のは……夢か?」
心の中で問いかける。
だが、胸のざわめきは消えず、背筋の冷たさだけが確かに残っている。
窓の外では、夜風に揺れる木の枝がかすかな影を落とす。
家の中は静まり返り、しかしどこか得体の知れない気配が漂っていた。
AIの言葉と過去の記憶が交錯し、主人公の心はじわじわと追い詰められていく。
その夜、眠りにつくことさえ、恐怖に押し潰されそうな感覚だった。




