本を読んだら魔導士になった!
『なんか、面白いことになってきたね』
『ねー。世の中ってそんな感じなんだ。知らなかったなー』
『・・・』
『せっかくだし、がんばってみちゃおうか』
『そだね。いい加減、今の暮らしも退屈だしね』
『これできるようになると、いろいろできちゃうんじゃない?それこそ旅に出ることだって』
『・・・』
『どうしたのさ。今日はずいぶん口数が少ないじゃない?』
『いや、別に・・・』
『へんなの。いつもはすぐパニーニに話しかけちゃうのにさ』
『・・・』
突如として鳴り響いた爆音に驚くように、影のような黒い何かは巨大な体を起こすと、音のした方角に長い首を向け、奇妙なうなり声を上げた。うなり声を上げながら体を震わせて四枚の大きな翼を広げると、力強く羽ばたき、そのまま爆発の起こった場所に向けて飛び去っていった。正体不明の黒い何かが飛び去った後には、大柄な男が自分の足を押さえながら苦しそうにしている。大男の足からは血が溢れていた。
木陰に隠れていた少年は、その黒い何かが飛び去った方角を注意深く見つめ、当面の危険が去ったことが確認できると素早く大男のもとに駆けつけた。少年は足下で苦しそうに喘ぐ大男をかばうように腰を落としながら、キョロキョロと周囲を見渡した。黒い何かが戻ってくる気配はない。飛び去ったあれは何だったのか。少年の脳裏にそんな疑問がよぎったが、まずはこの大男を家まで運びたい。傷はそれほど深くないようだが、このあたりは毒のある植物が多く、特に今の季節は毒のを含んだ胞子が漂っているから、早めに処置しなければ傷が化膿して、最悪の場合、足を失う恐れがある。少年は腰に下げた道具袋からロープを引っ張り出すと、ベルトの鞘に収めたナイフを引き抜き、手早くロープを切断した。出血はそれほど多くないが、大男を運ぶことを考えると、あらかじめ止血をしておいたほうがいい。少年は、大男の左足の付け根をロープで締め上げた。
「うあっ」
大男は足を締め上げられた痛みで声を上げた。少年は大男の悲鳴にかまわず、そのまま大男を後ろから抱えると、敵から身を隠せそうな場所までズルズルと引きずって運んだ。
大男は左足の太ももから血を流していたが、ロープで締め上げ血流を妨げていたため、血の流れは少なくなっている。少年は荷物を包むために持っていた布を傷に強く押し当てた。大男が声を上げる。少年はそれにかまわず、力強く幹部を圧迫した。しばらく圧迫を続けると出血が収まった。少年は持参していた消毒用アルコールで素早く傷口を洗い流した。大男は足に焼けるような痛みを感じ、短く叫んだ。少年はさらに化膿止めの薬を塗布して、新しい布を傷口をに当て、その上から包帯を巻いた。手持ちの道具では、ここまでの処置しかできない。大男の足の傷は刃物のような鋭利なもので切りつけられたものではなく、爪や牙のようなもので引き裂かれたようだ。先ほどの黒い何かに襲われたのだろう。
少年は、大男の手当てをしながら、7日ほど前にここよりさらに山奥の道で見つ死体を思い出していた。その死体には鋭利な刃物で引き裂かれたような傷が無数に見られた。男性のようであったが、比較的小柄で、少し中性的な顔立ちをしていた。胸のあたりには貫かれたような大きな穴が開いており、あたりには黒ずんだ血しぶきが広がっていた。
すでに強烈な死臭が漂い始めており、死んでから4~5日が過ぎているように感じられた。少年は、身元の手がかりになりそうなものを探したが、身元がわかりそうなものは何も持っていなかった。それどころか、所持品が極端に少なく、服装も山登りに適したものではなかった。どちらかというと部屋着に近い服装に思えた。
少年は、この死体の姿を見たとき、最初は夜盗の類い襲われて所持品を奪われたのかと考えた。しかし、死体は指輪やブレスレットなどを身につけたままだったので、もし夜盗に襲われたとしたら、それらがそのまま残されていることの説明がつかなかった。このあたりには野獣や魔獣が多いので、それらに襲われた可能性も考えられる。しかし、死体に食い荒らされた様子はないので、野獣や魔獣の餌食になったとも考えられない。何者かに誘拐されて、この山奥で殺害されたのかもしれないが、結局のところ何もわからなかった。
とりあえず、穏やかな顔をした小柄な死体をこのまま放置するわけにはいかず、少年は道から森に少し入ったところの枝を払い、適当な空き地を作ってから携帯用スコップで穴を掘り、死体を埋葬した。死体が身につけていた指輪とブレスレットは、身元の確認に必要になる可能性を考えて、取り外して持ち帰った。
「この間の死体も、さっきの黒い何かに襲われたのかな?」
少年は大男の口に水筒をあて、水を飲ませながらつぶやいた。
「わかったから、ちょっと静かにしてよ」
少年はさらにブツブツと独り言を続けていた。大男はわずかに目を開けて、少年を確認すると、声を絞り出すように言った。
「助けてくれたのか・・・」
「まだ助かっていません。最善は尽くしますが、アレが戻ってくる前にここを離れましょう」
少年は腰に下げている道具袋に手を突っ込んで中身を探った。すると、少年はボソボソと独り言をつぶやいた。
「だめでしょ。生きてるんだから。血は止まったから大丈夫だよ」
「そりゃ、あと二つあるけどさ、これ、音が大きいだけで威力はないからムリでしょ」
少年はまだつぶやいている。つぶやきながら、少年は道具袋から筒状のもの取り出した。腰のベルトに吊している矢筒から矢を二本を引き抜くとと、矢の先端部分に先ほど取り出した筒状のものを取り付けた。そして懐から着火具と取り出し、矢の筒状の部分に押し当てると、シュウシュウ音を立てながら、筒状のものから火花が散り始めた。少年は肩から提げていたショートボウを構えると、力強く引き絞った。ショートボウがギシギシと音を立てた。少年は、風上に向かって矢を放った。うなりを上げて矢が放物線を描く。しばらくして爆音が轟いた。
「じゃ、あと一発」
少年は、先ほどの一発よりもさらに弓を力強く引き絞り矢を放つと、矢はビュンと大きな音を立てて彼方へ飛び去り、先ほどよりずっと遠い場所で炸裂した。
「行きますよ、いいですか?」
少年は大男に声をかけると、自分より二回りは背の高い大男を担ぎ上げた。少年は決して小柄ではないが、それでも大男と比べると体格に差があり、普通ならとても運べるようには思われなかった。大男は言った。
「私をおいて君だけでも逃げなさい」
大男は苦しそうに声を絞り出した。
「私を担いでいては、またあの黒いものに見つかってしまう・・・」
少年は大男を担ぎ上げながら、軽く屈伸をすると、
「心配いりません。走って逃げますから」
と事もなげに言った。
「それはムリ・・・」
大男が言い終わる前に、少年は力強く跳躍し、獣のような俊敏な身のこなしで風のように走り出した。
「ちょ・・・、早っ・・・」
大男は顔を引きつらせながら、何とか目を開けると、景色がビュンビュンと流れていた。まるで疾駆する馬に乗っているような早さで少年は走っていた。少年が跳躍すると大男は少年の背の上で弓なりになった。少年が崖を飛び降りると、大男は少年の背の上で吐きそうになった。
「もう・・・もうちょっとゆっくり・・・」
「なんか言いましたかーーーー」
風きり音が大男の声をかき消した。森を駆け抜け、小川を飛び越え、岩場を飛び降りながら少年は走った。風よりも早く走った。ときどき小枝が大男の体をかすめる。少年は大男の体格をあまり意識していないようで、森の中でも速度を落とすことがなく、木々をすれすれで躱していくので、大男の体には枝やら岩やらが度々当たった。
「あた・・・当たってる・・・あちこち当たってる・・・痛、痛い」
「大丈夫!僕は体力には自信があるんです!」
「違・・・ちがう・・・。痛っ!取れちゃう、いろいろ取れちゃう・・・」
大男は少年の背にしがみつきながら、体から色々と取れてしまいそうな状況を説明しようとしたが、口を開けると舌を噛み切りそうなので、必死に歯を食いしばり、悲鳴を上げることもできないまま、雑に運ばれていった。
大男は、目を覚ました。
鳥のさえずりが聞こえる開放的な部屋で、清潔なベットに寝かされていた。ひどく喉が渇く。傍らを見るとベッド脇の台に木製のトレイが置かれており、水差しとグラスがあった。大男は体を起こし、グラスに水をいっぱい注ぐと、一息に飲み干した。水が体に染みこんでいくようで、これほど美味い水を飲んだのは初めてだ、と大男は心から感動した。
大男はベッドから立ち上がろうと体をひねると、左足に激しい痛みが走った。掛け布団を引っぺがし、足を確認すると清潔な包帯で手当がされていることがわかった。痛みは激しいが、足の指先にも感覚があり、動かすこともできるので、傷は思ったより深くはなかったようだ。左足以外にも体中に手当がされていた。
大男は、自分がどこにいるのかわからなかった。所々記憶が曖昧になっている。単身山奥に向かっていたが、そのあと自分は一体どうなったのか。そうだ、何か恐ろしいものが突如として現れて攻撃を受けたんだ。黒い影のようなものに襲われて・・・。とても恐ろしい経験だった。その恐ろしい経験のあと、なんだかわからないさらに恐ろしい目に遭ったような、かすかな記憶が残っていたが、うまく思い出せなかった。
大男は左足の太ももに両手を当て、目を閉じて何かをつぶやくと、両手がわずかに光った。男はそのままの姿勢で言葉を続けた。大男の額にうっすら汗がにじみ始めた。数分の間、男は目を閉じたまま言葉を続け、大きく息を吐いてベッドに倒れ込んだ。
「研究と実践は違うな」
大男は呼吸が落ち着くと再びベッドから体を起こすと、そのまま足をベッド脇から出し、立ち上がった。まだ痛みはあったが、歩くには支障がなかった。
部屋の扉を開けると、少年と言ってもよい年頃の若い男が、厨房に立っていた。
「あれ!?歩いてる!おかしいな、少なくとも2~3日は歩けないと思ったのに・・・」
少年は目を白黒させて驚いた。スープを作っていた手を止め、少年は大男に近づいた。
「具合はどうですか?」
少年は大男を見上げて、どこか怪訝そうな表情をした。
「ああ、ありがとう。だいぶいいよ。思い出した。君が助けてくれたんだね」
少年は表情を明るくし、ニコニコしながらうなずくと、テーブルを指さして座るように促した。厨房を兼ねた居室は清掃が行き届いていて、ほのかに花の香りがした。見上げると天井にいくつかのドライフラワーが提げられていた。壁には作り付けの書棚があり、驚くほどたくさんの本が収められてる。
「トルトーアのスープは、いかがですか?」
「ありがとう。好物だよ」
トルトーアはアルミナ地方の特産品の野菜で、少し酸味があるがスープにすると濃厚な味わいで、この地域の人は好んで食べていた。
「丸一日眠ったままでしたから、お腹すいてるでしょうけど、少しずつ食べてください」
少年は深い皿にスープを盛り付け、大男の座る席に置いた。
「そんなに眠っていたのか」
「ええ。左足の傷は放っておくと化膿するかもしれなかったので洗浄してから組織を縫合したんですけど、その後熱が出ていたので、少し毒が入ったのかもしれません。そんなに強い毒じゃないと思いますけど、何日か安静にした方がいいですよ」
「ありがとう。それにしても驚いた・・・。縫合って・・・君が手術してくれたのか」
少年はニコニコしながらうなずいた。そして冷めないうちにどうぞ、と大男に食事を促した。大男はスープを口に運ぶと驚きの声を上げて少年を見た。
「これはおいしい。いや、本当においしい!これは君が作ったもので良いんだよね?」
「そうですよ。お口に合ったようで良かったです」
少年は嬉しそうに笑った。あどけない笑顔だった。
「私はクリストファー・ヴェルダンという。クリスと呼んでほしい。助けてくれてありがとう」
クリスは少年に手を差し伸べた。手を取った少年は笑顔で答えた。
「僕はフライパニーニです。みんなからはパニーニと呼ばれています」
「ありがとう、パニーニ。本当に助かったよ。ここにはご家族で暮らしているのかい?」
パニーニは首を振った。
「いえ、10年前に祖父が他界してから、一人で暮らしています」
10年前と聞いて、クリスは少し驚いた。この少年はどう見ても若い。10年も前なら、幼児と言っても過言ではない年頃から一人暮らしだったことになる。
「10年前・・・。失礼だがパニーニ。君はいま年はいくつだ?」
「17ですね」
クリスは目を丸くした。
「17歳・・・。えっ、ということは7歳からここで一人で暮らしているのか!?」
「そういうことになりますねー」
こんな人里から離れた山奥で、7歳の子どもが10年もの長い間たった一人で暮らしているとは。クリスはもし自分が同じ境遇だったらとても生きていけないと思った。
食事をとりながらクリスはパニーニの生い立ちを興味深く聞いた。先の戦争に従軍した父親が戦死し、母親も自分を出産して間もなく死んだこと。そして生後まもなく祖父母の元に引き取られたこと。その後、祖母の死を期にこの地に移住し、7歳で祖父と死別してからは、この家で自給自足に近い生活をしていたこと。近くに良質な岩塩の取れる山があり、定期的にやってくる商隊にそれを販売し生計を立て、生活必需品もその商隊から購入していること。家には祖父の残した膨大な本があったので、生活に必要な仕事が終わってからは、一日中本を読んで過ごしていたことなど。
(なんて不憫な・・・)
クリスは、自分の生い立ちを楽しそうに話すパニーニを見て、深い憐憫の情を感じた。
「君に助けられ、手当もされて・・・、本当に世話になった」
クリスはテーブルに食器を置くと、パニーニ向かって深く頭を下げた。
「気にしないでください。助けたのは偶然通りかかったからですし、そもそも手当てした傷の大半は僕が担いで走っているときにそこら中にぶつけてできた傷ですから」
「え、この体中の傷は、襲われた時の傷じゃないの?」
「はい。襲われた時に傷は左足だけでしたね。あとは全部その後です!」
「う・・・うん。あ、そう。うん。ありがとう」
クリスは少し複雑な表情をしてうつむいた。
(あれ・・・?そういえば、襲われた時より怖い思いをしたような覚えがある・・・)
「傷が治るまでゆっくりしていってくださいね!」
パニーニは、はちきれんばかりの笑顔で答えた。
「そういえばクリスさん、もう歩いて平気なんですか?」
「ああ、平気だ。左足には治癒魔法をかけたから、もう傷は塞がっている」
「へー、クリスさん、魔導士なんですね!」
魔導士と聞いて、パニーニは目を輝かせた。
「魔導士といっても、私は魔導研究者だから、あまり魔法自体は得意ではないんだ」
「それでもあれだけの傷がこんなにすぐに塞がるなんて、魔法ってやっぱりすごいんですね」
パニーニは目をキラキラさせ、羨望のまなざしでクリスを見つめた。
「パニーニは魔法に興味があるのかい?」
パニーニは大きくうなずいた。
「魔法のことは本を読んで興味を持っていたんです。いつか自分でも使ってみたいと思っていました。でもうちには魔導書がなくて」
「お礼、というわけではないんだが、私は自分の魔導書を持ち歩いているから、良かったら読んでみるかい?」
ガタン、とパニーニは立ち上がると、身を乗り出すようにして叫んだ。
「いいんですか!是非お願いします!」
クリスはベッドのある部屋に戻ると、ベッドの傍らに置かれていた肩掛けのザックから一冊の本を取り出した。丈夫な革で装丁された分厚い本だ。後からついてきたパニーニは、明らかにウキウキした雰囲気で待っていた。
「あいにく魔導書は一冊しか持っていなくて、色々と書き込みをしてあるから君にあげることはできないけど、参考に読んでみるといいよ」
クリスは魔導書をパニーニに手渡した。
「ありがとうございます!」
パニーニは大げさに何度も何度も頭を下げて、とても嬉しそうな表情をしていた。
「喜んでくれて私も嬉しいよ」
クリスはベッドに腰を下ろした。左足の傷はまだ少し痛みがあったが、どちらかというと他の傷の方が痛い気がする。仕方がない。後で全身に治癒魔法をかけるか。クリスはそんなことを思いながら言葉を続けた。
「パニーニは、魔法の仕組みを知っているかい?」
「はい。本で読んだので大まかには理解していると思います」
「それなら話は早い。じゃあ、魔導書を開いてごらん」
パニーニは嬉しそうに本を開くと同時に、難しそうな表情をしてクリスを見上げた。
「これ、全然読めませんね・・・」
クリスは、ハハハ、と軽く笑うと続けた。
「古代魔法文明では『ハイルーン』という文字が使われていたことは知っているかな?魔導書はハイルーンで記述されているんだ」
クリスは魔導書の冒頭に記された文字を指さした。
「これは、『夜』を意味する『グライナ』。そしてこれは『光』を意味する『リーカイト』。そしてこれは『広がり』を意味する『アーレン』で、他にもいくつかの文字がつながると、魔導書の一行目は『夜明けが訪れるようにあなたの世界は広がり、理に導かれるだろう』というような意味になる」
ふむふむ、とパニーニは分かったような分からないような表情をしながら曖昧にうなずく。
「魔法は、大まかには自分に宿る生命エネルギー、マナって聞いたことあるよね、そのマナを魔力に変換して様々な効果を発現させるんだけど」
クリスは、パニーニを指さすと、指先をうっすらと光らせた。
「マナを魔力に変換する方法はいくつかあるんだけど、ハイルーンで書かれた魔導書を暗唱できるほど読み込んで、マナと魔力に関するイメージを体で覚えるのが手っ取り早いのさ」
「たったそれだけでいいんですか?」
パニーニは驚きで目を丸くした。
「簡単だと思っただろ?これが大変なんだな。何しろ、知らない文字を確認しながら、完全に記憶するまで読み込むんだから。魔術師養成学校に入学するほど頭脳明晰で優秀な学生が丸1年猛勉強して、やっと身につけるようなものだからね」
「へー、そんなもんですか・・・」
「まあ、あくまで参考程度に。どんなもんか見てごらん」
「はい、がんばります!」
パニーニは魔導書を受け取ると、嬉しそうに抱え込んで、自室と思われる部屋に駆け込んでいった。クリスはそんなパニーニをほほえましく見守った。
その日の夜。
クリスは喉の渇きを覚え、ベッドを抜け出すと、厨房のある部屋に向かった。小さなランプに灯がともっており、部屋をぼんやりと見渡すことができた。パニーニがランプをつけておいてくれたのだろう。本当に気が利く少年だな、とクリスは感心した。
厨房の貯水樽の取っ手をひねり、蛇口からコップに水を灌ぐと、窓辺に座り、外を見た。時々風の音がするほかは、虫の声が心地よく響く。とても静かだった。先日まで滞在していた宿は酒場も兼ねており、明け方まで騒がしかった。
「クルーシャ・・・どこにいってしまったんだ・・・」
ランプに照らされたクリスの顔は窓ガラスに映し出されたが、表情はどこか沈鬱としていた。
「クルーシャ・・・無事でいてくれ・・・んん?」
クリスは顔を上げ、昼間にパニーニが入った部屋のほうを見た。何か声がする。クリスはゆっくりと立ち上がり、扉に向かって歩いた。声の主はパニーニのようだ。盗み聞きをするのも悪いな、と思いつつ、クリスは扉の近くで息をひそめた。
「いやー、確かに面白いねー」
「ほんとそう。世の中には本だけではわからないことがたくさんあるねー」
「助かるよ。僕もがんばるからさ。確かにちょっと新しいこともしてみたいしね」
「マキさん、調子でも悪いの?」
クリスは、いぶかしげな表情をした。誰かと話をしているようだが、来客でもあったのだろうか。それにしてもこんな夜更けに誰と話しているのだろう。相手の声は聞こえない。部屋の中にいるパニーニに声をかけたい衝動を抑えつつ、クリスは首をかしげながら自分に与えられたベッドのある部屋に戻っていった。
クリスは目を覚ました。窓から差し込む朝日に目を細め、クリスは体を起こすと大きく背伸びをした。昨日の朝は鳥のさえずりで目を覚ましたように思う。ただ今朝は、何やらドタバタと騒々しい中で目を覚ました。ヒャッホー、とか明らかにテンションのおかしいパニーニの声が聞こえる。
「朝から何を騒いでいるんだか・・・」
クリスはベッドから抜け出すと、扉を開けて厨房のある居室に入った。
「なんで走りまわってるの!?」
奇声を上げながら部屋中を駆け回るパニーニを見て、クリスは思わず叫んだ。パニーニは、とても室内を走り回っているとは思えないほどの素早さで、飛んだり跳ねたりしながら部屋中を駆け回っていた。外で走ればいいのに。
「おはよう。朝からどうしたんだい?」
「あ、クリスさん!おはようございます!!いやー、清々しい。清々しい朝ですよ!眩しいなぁ、太陽が眩しい!魂が燃え上がるほど眩しい朝ですねーーー!!」
なんなんだ、このテンションは。何か変なものでも食べたのだろうか。クリスは椅子に腰かけると、子どものように駆け回るパニーニを眺めた。まあ、17才はまだ子どもだわな。楽しいことでもあったんだろう。
「クリスさん!魔導書は素晴らしいですよ!」
「そうかそうか、もしかして夜通し読んでいたのかい?」
「あたりまえだーーーーー!」
クリスは思わず眼がしらを抑えた。なんなんだ、このテンションは。
「気に入ってもらってよかったよ。冒頭の少しを読むだけでも面白いだろ。私も最初に読んだときは興奮したなぁ。自分の世界が広がっていくことが実感できてワクワクするよな」
「ええ!全然違います!昨日の僕と、今日の僕とは全くの別人です!」
何を大げさな・・・。クリスは苦笑いした。
「まぁ、魔導書を少し読んでみて面白いと思ったのなら、パニーニは魔導士に向いているのかもしれないな。将来は魔導書を入手して勉強するか、それか機会があったら養成学校にチャレンジしてもいいかもしれないぞ」
「そうですね!養成学校は興味あります!」
「そうかそうか。養成学校は楽しいぞ。でも勉強はとにかく大変なんだ。夕べも話したが、まずは魔導書を読み解いて、暗唱できるまで読んで読んで読み続けないといけないから。挫折する学生も多いんだよ」
「それなら大丈夫です!」
「よし!素晴らしい意気込みだ!」
「もう覚えました!」
「え?」
「もう覚えました!」
「??何を?」
「何をって、魔導書以外にありますか!?」
クリスはパニーニの勢いに少々面食らった。
「へー、どの辺まで?」
「全部にきまってるでしょ!!!!」
そんなわけあるか、と呆れるような表情をしつつ、クリスはパニーニを見つめて目を凝らした。その瞬間、クリスの表情は明らかに狼狽していた。そんなはずはない。クリスは両腕で目をこすりながら改めてパニーニを見つめると同時に、これ以上ないほどの衝撃を受けた。
パニーニの体を魔力が包み込んでいた。体内のマナを魔力に変換しているのだ。この現象は魔導書を読み込んでそれを体得した者に現れる。つまりパニーニは確かに魔導書を読んで、そのすべてを覚え、理解をしているのだ。
「そんな・・・はずはない」
クリスは立ち上がって、パニーニの両肩をつかんだ。
「頭脳明晰で、魔法の才能がある優秀な学生でも、どんなに早くても1年はかかるんだ!たった一晩で君は一体どうやって・・・。ハイルーンの意味を対照表と見比べながら翻訳するだけでも、1ページ終えるのに最初のうちは何時間もかかるというのに」
「そこは分業しましたから!」
「分業ってなんだーーーーーーーーー!」
「分業ってのはですね、まずカラーズに・・・」
パニーニは分業の説明を始めたが、クリスはそれどころではなかった。
(え??なんで?なんで一晩でできる??私なんか丸1年かけて魔導書を理解して、それでも変換のコツがうまくつかめなくて、さらに半年間試行錯誤してやっと魔力変換できるようになったのに!?そんなことある?私って、実は劣等生だった??いやいや、養成学校の同期も、まあ似たり寄ったりだったはずだ!そんなことある?聞いたことないし、そんな記録もないはずだ。えー、なにこれーーーー)
「・・・すると覚えちゃうんですよ」
「え?ああ、うん。そうなんだ・・・」
クリスはスーッと窓際まで歩き、窓の手を置きながら、少し離れたところに見える木の枝にとまった小鳥を遠い目で見つめた。背後から魔力の圧力を感じる。パニーニが、体内のマナを強弱をつけながら魔力に変換して遊んでいることが感じられた。あぁ、感覚をつかむことが難しい出力調整をしている・・・。天才なのか?。
クリスは、うっすら涙を浮かべている自分に気が付いた。泣いてなんかないぞ、花粉症が悪化して目から出ちゃっただけだ!袖で目を拭うと、背後にパニーニが立っている気配を感じた。
振り向くと、目をキラキラとさせたパニーニがモジモジしながら立っていた。どういう訳か、パニーニの背後にはピンク色の光がうっすらと射していた。
(こいつ・・・いつの間にか魔力変質まで・・・)
クリスは苦々しく思いつつも、キラキラパニーニに声をかけた。
「魔法・・・やってみたい?」
「やってみたいです!!!!!!」
「ちょっとだけね・・・」
パニーニは自身の発するピンク色の光を金色に変えて光輝いた。どういう仕組みか、ラメのようなものまで飛び散っているように見える。
(できてるじゃん。もう)
朝食はパンと、あぶった燻製肉と、山菜のスープだった。
パニーニは岩塩を販売した代金で、小麦粉を調達しており、パンは自分で焼いている。作り方は祖父の残した書籍で読んだという。庭にある小さな菜園で、栽培しやすい野菜は育てているが、その他は山菜や食べられる野草などを料理に使っている。肉は、狩りで取れた獲物の肉を、燻製にしたり塩漬けにしたりしている。ひと頃は鶏を飼育していたこともあったそうだが、家を留守にする間に野獣に襲われたことがあるとのことで、動物を飼育するのはやめたという。
「調味料なんかは、ちょっとこだわっているんですよ」
パニーニの採掘する岩塩は良質で、非常に味が良いと評判らしく、市場ではかなり高値で売れるという。パニーニの話によると、岩塩の鉱脈は険しい崖地にあり、パニーニ以外はたどり着けないため、商隊はほぼ自分の言い値で買ってくれるとのことで、実はかなり蓄えがあるとのことだった。
「調味料が違うと、味が全然違うんです」
たしかにパニーニの作る料理は、シンプルで素朴ながら、非常に味わい深い。仮に店を出したとしても、そこそこ繁盛するのではないか。森からは天然の香草がいくらでも採取できるため、商隊から入手した調味料の他に、オリジナルのスパイスのようなものも多数取りそろえているらしい。厨房の棚にはガラス製の小瓶が多数並んでいるので、おそらくそれが調味料類なのだろう。それだけでもちょっとした販売店が開けそうだった。
「ごちそうさま。本当においしかったよ」
パニーニは料理を人から教わったことがなく、基本は本を読んで覚えたようだが、本のレシピでは物足りなくなり、少しずつ改良を加えていると言った。自分の採掘した岩塩や、商隊から入手した無数の調味料。そして山から採取した香草や木の実を原料にしたオリジナルスパイス。それを組み合わせてオリジナルレシピを作ったという。この子は凝り性なのだな、とクリスは思った。そんな凝り性な子に魔法を教えるとなるとは・・・。今日は丸一日付き合わされるだろうな、クリスは思わす苦笑いした。
「今日の食事は、なんだか元気が出てくるね」
ごちそうさま、とクリスは食器を片付け始めた。
食事の片付けが終わると、クリスはパニーニを連れて家の外に出た。今日もとても天気が良い。心地よい程度のそよ風と、ぽかぽかとした陽気。いよいよ春らしくなってきた。クリスは、目をキラキラさせながらこちらを見ているパニーニを見た。さっきまでピンクだったり金色だったり、その後は今一つどういう仕組みかわからないが、虹色の光まで発していたパニーニが、今は興奮気味の目をしているものの、もう魔力を光に変質させ放射することはやめている。それどころか魔力を一切放出せず、まるで蓄えているような様子だった。
(本能的にわかるんだな、魔力を蓄えることができる、ということを)
末恐ろしいことだ。クリスはヤレヤレとため息をつきつつ、どこか自分もワクワクしていることに気がついた。
オホン、と咳払いをしてクリスは魔法について説明を始めた。
「一口に魔法と言っても、いろんな分類があるんだ。ただ、どんな魔法も魔力がその源で、基本的には自分のマナから変換させた魔力を消費して様々な効果を発現させる」
「基本的に、というとそうじゃないこともあるんですか」
「そのとおり。自分のマナも魔力も限りがあるからね。自分の魔力と、周囲に溢れる自然由来のマナを反応させて、より大きな効果を発動させることもできる。いわゆる上級魔法だね。ただこれは感覚をつかむことが難しい上に魔力調整が非常に繊細だから、上級魔法を操る魔導士は貴重な存在だ」
「そうなんですね。すごいなー」
「話を戻すけど、魔法の分類は大きく分けて3つ。一つは詠唱魔法。これは魔導書に記されているハイルーンを詠唱することで効果が発動する魔法だ。術者の能力により威力は様々だが、詠唱魔法は誰が使っても同じ効果が発動する。魔法と言われて人が想像するのは、詠唱魔法だな」
「そうですね。僕もそんな印象を持っていました」
「次は固有魔法。パニーニは魔獣を見たことはあるかい?」
「たまに見かけますね。まぁ、近づいてきそうなヤツは狩っていますけど」
「え、おまえ、魔獣狩りもできるの?」
「そりゃできますよ。今朝のお肉は魔獣の肉の燻製ですもん」
(えええぇぇぇ・・・マジで?)
「今日の魔獣は、体力と気力がみなぎる効果があるんですよ、多分ですけど」
クリスは、確かに今朝の食事は元気が出たな、としみじみ思い出した。魔獣って、以外とおいしいんだね、とクリスはポリポリと頭をかいた。
「森の動物はあまり狩りたくないし、たまに魔獣が現れたときにサクッと狩って、保存食にしてますね。毎日の食卓に出ている肉は、ほぼ魔獣の肉です」
一般的に魔獣の肉を食べるという習慣はない。というより、魔獣が現れると通常はすぐに討伐隊が編成され、駆除される。駆除された魔獣はその場で焼却処分されるため、食べる、という発想が持たれることはない。普段の肉が魔獣肉・・・そんな食卓見たことないよ。クリスは心の中でつぶやいた。
「えーと、そうだ。固有魔法ね。固有魔法。えーと、なんだっけな」
クリスはややまごついたが、コホンと咳払いをして続けた。
「魔獣は、魔力を秘めた野獣のことを言うんだけど、中には火を噴いたり、電撃を発したり、特殊な攻撃をしてくるものがいるんだ」
「ワイバーンやボルトワームですね」
「そう。いずれも魔力を使って特殊効果を発動しているんだが、魔獣はそこまで知能が高くないから、当然ハイルーンを詠唱しているわけではない。魔獣の特殊攻撃なんかは、基本的に固有魔法だ。固有魔法は、魔獣のように特定の種に備わっていたり、血統によって修得できる魔法であったり、あるいは特殊な環境で生きていた場合に身についたり、様々な要因で魔法を操れるようになることがある。これが固有魔法。魔力を使っているけど、ハイルーンを詠唱しているわけではないから、それぞれ効果はバラバラだし、詠唱魔法みたいに仕組みを知っていれば誰でも同じように使えるようなものではない。あくまで、固有の魔法だ」
「なるほどなるほど」
パニーニは大げさにうなずく。クリスは続けた。
「魔獣の特殊攻撃はほとんど固有魔法だし、厳しい修練を積んだ戦士が使う武技もハイルーンを用いない固有魔法の一種だ。他にも、一部の国の王族しか使えない魔法なんかも固有魔法だね。ちなみに知能の高い魔獣が詠唱魔法を使うこともあるけど、その場合は魔獣ではなく魔族と呼ばれているね」
「なるほどなるほど。そういえば動物を石に変える攻撃をしてくる大きな蛇みたいな魔獣と戦ったことがあります」
「・・・それって、バジリスクじゃない?もしかして退治しちゃったの?」
「もちろんです。かなりおいしかったです」
「それ、ふつうは討伐部隊が編成される魔獣だからね・・・」
「そんなぁ、大げさだなー。そんな手強い魔獣じゃありませんでしたよ。まぁ、おいしさはワイバーンの次くらいなので、僕にとっては良い魔獣ですね」
「え・・・ワイバーンも食べたの?アレって、高高度を高速で飛行して、火炎を吹きまくる激ヤバ魔獣だけど。そう・・・おいしかったの。良かったね」
クリスは、あまり驚かなくなっている自分に驚いた。慣れって、怖いね。
気を取り直してクリスは続けた。
「で、もう一つは、魔法というか魔力自体を使うことで色々な効果を発動させる方法」
クリスは指先をボゥっと光らせた。
「これは魔力を違うエネルギーに変換する魔力変質。魔力を光に変えているね。パニーニが体をピンクやら金色やらに光らせていたのもこれだね」
「え、そんなことしてませんよ」
「してたよ。ラメまでばら撒いていたよ」
えー、そんなことしたかなぁ、とパニーニは腕組みをした。
「その他にも魔力を使って身体強化をして戦闘能力を向上させたりするね。王都の近衛騎士団なんかはみんな魔力を使った身体強化をしているし、熟練の冒険家もけっこう使っているんだ。強力な魔獣もほぼ身体強化をしているね。魔導書を読まなくても、単純にマナを魔力に変換するだけなら、色々な修行で身につけられるんだよ」
パニーニは感心したようにうなずいていた。
「それじゃ、まずは詠唱魔法をやってみようか」
クリスは近くに落ちていた小枝を拾ってきて、クルクルと回しながらパニーニに近づくと、さっと小枝をパニーニに差し向けた。
「ファイエラ」
クリスがハイルーンを詠唱すると同時に、小枝の先が勢いよく燃え始めた。
「おおおおーーーーー!おおおおおおーーーーー!!!!」
パニーニは、驚きの声を上げながら、パチパチパチと手を叩いた。
「今のは、「火」を意味するハイルーン。ハイルーン一文字だから、効果はこんなもんだ。今は声を出して詠唱したが、これは別に頭で考えるだけでもいい。まあ、声を出さない無詠唱の場合、正確にハイルーンの発音を頭で考えなくちゃいけないから、ちょっとでも違うことを考えたりすると発動しない。だから、かなり経験を積まないと難しい」
クリスは小枝を振って火を消すと、ひょいっと小枝を空に放り投げた。その直後、小枝は激しく燃え上がり、燃えかすも残らず散っていった。
「これが無詠唱。頭で考えただけ。使ったハイルーンはファイエラの一文字だけど、魔力を強く込めたから燃え方の威力は段違いだっただろ?」
「すごーーーーーい!」
パニーニはしきりに拍手している。手の動きが速い。もはや目では追えない。パチパチという音はもはや聞こえず、何か高い音が鳴り続けているように聞こえる。
(お前・・・、もしかしてもう身体強化も使えてるんじゃない??)
クリスはもう一本の小枝を拾って、パニーニに渡した。
「じゃ、やってみようか。口に出してファイエラと、詠唱してごらん?」
「はい!わかりました!ファイエラ!」
そよ風が心地よい。日差しも暖かい。そして、パニーニの持つ小枝は、全く燃えない。
「あれ?あれ?ファイエラ!」
それでも全く小枝は燃えない。クリスは得意そうに笑った。
「ファイエラ、と詠唱しても燃えないだろ?」
「そうですね。って、そういえば今クリスさんがファイエラって言っても、何も燃えませんね」
「そのとおり!よく気がついたね。詠唱するだけではダメなんだ。まずは体内のマナを必要な分だけ魔力に変換する。もちろん、蓄積した魔力を使ってもいいよ。そして魔力を体内に循環させる。魔力が十分体を巡ってくると、ハイルーンに魔力が込められるようになる。そして、これから詠唱するハイルーンに魔力を注ぐぞ、という鍵を外すようなイメージをしてから詠唱して、初めて魔法が発動するんだ。この感覚をつかむのがまた難しくて、できるようになるまで何日も何日も・・・」
「ファイエラ」
パニーニはハイルーンを詠唱すると、持っていた小枝が激しい勢いで燃え始めた。
「うわっ!できた!」
(うわぁ、できた・・・)
クリスは、今日何回目かの遠い目をした。
火のついた小枝を振り回しながらキャッキャと喜ぶパニーニを見て、クリスは半ば呆れつつも、パニーニの魔法の才能を目の当たりにした興奮を抑えられなかった。パニーニは天才だ。今まで見たことがない、どの時代の記録にも例が見られないほどの天才だ。このまま魔法を訓練すれば一体どれほどの成長が見られるだろう。
「上出来だよ。驚いた。とても驚いた」
「ありがとうございます。僕も驚きました」
「ふふ。そうか。良かったな。パニーニはこれからも魔法の勉強をしたいかい?」
パニーニは、もちろんです、と首をブンブン振った。首の動きが目で追えない。首がもげるからやめなさい、とクリスはたしなめた。
「それなら、助けてくれたお礼に、ここにいる間は私が魔法を教えよう。傷が治るまでのわずかな期間になるが、それでもいいかい?」
「もちろんお願いします!」
わかったから首を止めなさい、もげるから。そう言うと、クリスは近くのイスに腰を下ろした。
「魔法の勉強は、まずはハイルーンを覚えること。って、そうか魔導書のハイルーンはもう覚えているんだったな。なんでかなー、そんなこと普通できないんだけどなー」
クリスは無意識に心の声が漏れていた。
「それと同時に、自分の魔力容量を増やす訓練をするんだ。さっき私が小枝を燃やしたとき、2回目の方が燃え方が激しかっただろ?あれは、ハイルーンに込めた魔力量が大きかったからだ。自分が蓄えられる魔力量には限界がある。それが魔力容量だ。魔力容量を超えてマナを魔力に変換することはできない。ただこれは、訓練次第で大きく増やすことができるんだ。自分の魔力容量が増えれば、当然込められる魔力を増やせるから、同じ詠唱魔法でも威力が強くなる」
クリスはイスに座りながら地面に落ちている小枝を次々と燃やして見せた。それぞれ燃え方が違う。クリスは詠唱に込める魔力量を変え、威力を調整している。
「魔力容量が増えれば、もちろん魔法を使える回数も増える。だから、魔力容量を増やす訓練はとにかく大切なんだ」
「どんな訓練をすればいいんですか?」
「筋トレと同じだよ。例えば腕の筋肉をつけたいときは、腕立て伏せなんかをするだろ?もう限界ってほど腕立て伏せをすると筋肉痛になるけど、それが回復するともっとできるようになるでしょ。それと同じでね、魔力容量を増やすためには、クタクタになるまで、できれば魔力が空っぽになるほど魔法を使うのさ。回復すると魔力容量が増えてる。それを地道に繰り返すの」
「なるほど。体を鍛えるのと同じなんですね」
「そうさ。今日はまず、ファイエラを限界まで発動させてみよう。できるだけ魔力を込めてね。ファイエラ1文字だけならどんなに魔力を込めてもそこまで威力が上がらないから、魔力容量を使い切るためには・・・そうだな、10回くらい発動すれば空っぽになるかな。まぁ、1時間くらいじっくり訓練してごらんよ。かなり疲れるから」
クリスは目を凝らし、パニーニが秘めている魔力容量をざっと確認して言った。パニーニの魔力容量は、まだまだ少ない。まさに、魔法を覚えたての駆け出し、という感じだ。一晩で魔導書を体得したことは驚異的で信じられないが、ついさっき初めて魔法を使った駆け出しであることは間違いない。どうやらパニーニは魔法の才能が極めて秀でていて、希代の天才といっても過言ではなさそうだ。どんなに優秀な魔導士でも一人前と認められるのに普通は5~6年かかるが、おそらくパニーニであれば、1年も訓練を積めば、一人前の魔導士になるだろう。とりあえず、今日は10回もファイエラを詠唱すれば魔力切れを起こして動けなくなるだろう。
「それじゃ、私は少し散歩でもさせてもらうから、がんばってな。そうそう、家から少し離れて訓練するんだぞ。パニーニの場合はもしかしたら普通より威力が強くなって、家が燃えちゃうかもしれないからな!」
ははは、とクリスは少し冗談を言って笑った。
「はい!わかりました!」
パニーニは素早く家から離れた。あぁ、またしても目で追えない。この子は魔法の才能が秀でているだけではなく、身体能力がずば抜けている。クリスはそんな印象を持ちつつ、パニーニの元から離れた。
パニーニはずいぶんと家から離れた。パニーニはざっくりしているようで、実は心配性なのかもしれない。家が燃えるなんて冗談を言わない方が良かったかな?クリスはそんなことを考えながら、森に向かって歩き始めた。
「じゃ、いこうか。せーのっ」
(ふふふ。何のかけ声なのか。やっぱり子どもだな)
クリスは微笑みながら歩くと、すぐにファイエラ、というパニーニの詠唱が聞こえた。
次の瞬間。
クリスの背後から強烈な閃光と熱波が襲ってきた。慌てて振り向くと、空中に大きな火球が発生していた。両腕で抱えられないほどの大きさの火球が轟音とともに空を燃やし、数秒の後に嘘のように消失した。
クリスは慌てた。なぜこれほどの威力が出たのか、とっさに理解することができなかった。火球の消失と同時に激しい突風が火球のあったところに向かって吹き荒れた。空気中の酸素を消費し尽くして、そこに勢いよく空気が流れ込んでいるようだった。
「パニーニ!」
パニーニは仰向けに倒れている。クリスはパニーニのもとに駆け寄った。パニーニは白目を剥いて倒れている。
「大丈夫か!おい!パニーニ!返事をしろ!!」
パニーニは気を失っていた。幸い息はしているし、火傷をしたような様子もない。倒れたときに頭を打ったような傷もない。クリスは目を凝らしてパニーニを見つめた。そして、パニーニの魔力がほぼ空っぽになっていることに気がついた。
「魔力切れ、か?」
パニーニのマナはまだ十分残っている。魔力切れによる一時的な意識喪失だろう。クリスはほっと胸をなで下ろした。しかしパニーニは何をやったんだ。先ほどの火球の威力は、とても魔法を覚え立ての魔導士に出せるものではない。そもそもハイルーン1文字程度の詠唱魔法に、これほどの威力が出るほど魔力が込められるものではない。これほどの威力なら、少なくともハイルーン3~4文字の魔法にかなりの魔力を込めないと発現しない。
(しかし、確かにパニーニは、ファイエラ1文字の詠唱をしていた。それにファイエラ1文字の魔法なら、パニーニの魔力容量を考えると、少なくとも10回は発動しないと、魔力切れを起こすほど消費しないはずだ)
クリスはパニーニを抱きかかえると、家に向かって歩き始めた。魔力切れを直すためには、魔力回復薬を投与するか、あるいはゆっくり休ませるしかない。クリスには魔力回復薬の手持ちがなかったので、家に入るとパニーニをベッドに寝かせた。呼吸は落ち着いているし、顔色も良い。しばらく休ませれば回復するだろう。
クリス自身も養成学校時代に何度か魔力切れを起こして保健室に担ぎ込まれたことがある。魔力切れを起こすとしばらく意識を失う。意識が戻ったとしても半日はまともに体を動かすことができず、場合によっては数日にわたって体の疲労が抜けないこともある。クリスは、養成学校の授業中に魔力切れを起こし、2・3日授業を休んだ経験があることを思いだした。
パニーニは、まぁ自分より明らかに魔法の才能があるから数時間で目は覚めるだろうが、少なくとも今日一日は身動きが取れないだろうな、とクリスは予想した。クリスはパニーニの横たわるベッド脇のイスに腰掛けると、安堵したためか急に眠気に襲われて、そのまま居眠りをし始めた。
「クリスさん、大丈夫ですか?」
クリスはパニーニの声で目を覚ました。いかん、パニーニを看病するはずが眠ってしまうとは。パニーニはクリスの顔を心配そうにのぞき込んでいる。手には水の入ったグラスを持っていた。クリスはパニーニからグラスを受け取ると、グビッと飲み干した。パニーニの様子を見る限り、どうやらかなり回復しているようだった。ずいぶん長時間居眠りをしていたらしい、とクリスは時計を見た。ところが、まだ昼前だった。この時計は壊れているのか?パニーニが訓練を始めてから1時間程度しか時間が経っていない。
「パニーニ、今、何時だい?」
パニーニはベッド脇の時計を見ると、11時半ですよ、と事もなげに答えた。
「いや、この時計はどうやら遅れているようだ。もう夕方くらいだと思うが」
「何言っているんですか、合ってますよ。他の部屋の時計だって11時半でしたし、まだ魔法の訓練を始めてから大して時間が経っていないじゃないですか」
そんなはずはない。魔力切れを起こして1時間程度で回復するなんてことはない。
「クリスさん、大丈夫ですか?ひどく疲れている様子ですけど」
「ああ、パニーニ。すまない。いや、私は大して疲れていないよ。それより君はまだ寝ていないとダメだ。魔力の回復にはまだしばらく時間が掛かるだろうから」
「僕は十分休みましたよ」
「そんなはずはない。君はついさっき魔力が空っぽだったんだ。半日は休まないと、魔法を使うどころか、体を動かすことさえできないはずだ」
「いえいえ、僕はもう元気ですよ」
何を馬鹿なことを言っているんだ、とクリスはパニーニを見つめたが、パニーニは確かに元気そうだった。念のため目を凝らしてパニーニの魔力を確認すると、なんと魔力容量いっぱいまで魔力が回復している。
「え・・・そんな、ばかな」
クリスはイスから崩れ落ちた。もう、なんだか足腰に力が入らない。
「ちょっと、クリスさん。本当に大丈夫ですか?」
「いや、なんだか。一体何が常識で、何が非常識なのかわからなくなってきた」
「もう何を言っているんですかクリスさん。拾い食いでもしたんですか?」
してねえよ、と心の中で毒づきながら、クリスは立ち上がった。
「パニーニ。おまえ、本当に体はなんともないのか?」
「ないですよ。むしろものすごくすっきりしていますし、なんだかさっきより魔力が充実しているように感じます」
クリスは改めてパニーニの魔力を確認すると、魔力容量いっぱいまで回復しているだけではなく、魔力容量自体もずいぶん増えていた。
「超回復してる・・・」
クリスは驚いた。魔力切れは、起こそうと思って起こせるものではない。魔力が切れるまで魔法を使おうとしても、無意識に魔力を抑えてしまい、魔力切れにならない。魔力切れを起こすと意識を失ってしまうので、実戦では魔力切れを起こすと、死ぬ可能性が高い。普通は、本能的に魔力切れを回避する。
体を鍛えるトレーニングと同様に、余力を残したトレーニングより、極限まで体力を振り絞ったトレーニング、いわゆる強度の高い訓練の方が、効果が高い。パニーニは魔力切れ状態から回復しているので、とても効率的な訓練になっているようだった。
「パニーニ、どういう体質しているんだ?ものすごい回復力じゃないか」
「そうなんですかね?ちょっと他の人がどうなのかよくわからないんで何とも言えないんですけど、でもまぁ、どんなに疲れていても30分も寝れば大体良くなりますね」
「それって、昔からそうなの?」
パニーニは首をかしげながら考えた。
「いや、小さい頃は確か疲れたらずっと寝ていたような覚えがありますね。体が強くなったって実感したのはここ3年くらいですかね。最近は夜ちょっと寝るだけで一日の疲れはとれますね」
「おいおい、いったいどんな生活をすればそんな体質になるんだよ」
「なんでしょうね。なんか変なものでも食べたんですかね?」
パニーニはケラケラと笑った。
「この訓練を続ければいいんですよね!」
パニーニは元気にそういった。
「う、うん。そう」
「じゃ、また行ってきまーす」
「はい、いってらっしゃーい」
パニーニは勢いよく家から駆け出すと、その数秒後に窓の外が閃光に包まれ、轟音が響き渡り、その後に暴風が吹き荒れ、家を震わせた。外を見えるとパニーニがひっくり返っている。クリスはパニーニを担ぎ上げるとベッドに運ぶ。しばらくするとパニーニはベッドから跳ね起きて、また外にかけだして、閃光、轟音、暴風。そしてクリスにベッドに運ばれる。ちょっと休むとパニーニはベッドから飛び出し、そして閃光、轟音、暴風、ベッド、閃光、轟音、暴風、ベッド・・・。日が沈む頃にはクリスは、訓練をしているわけでもないのにヘトヘトで、ついにテーブルに突っ伏したまま眠ってしまった。パニーニは、クリスがダウンした後も、夜通し閃光、轟音、暴風を繰り返し、そして朝になった。
「なに?これ・・・」
クリスは窓から見える景色が変わっていることに衝撃を受けた。パニーニが魔法の訓練をしていた庭の先に続いていた森が、広範囲で消し飛んでいた。ちょっとした湖を思わせるほどの広さが、一面焼け野原のようになっている。
「ファイエラでこうなったの?」
「なりましたね」
「夜の間、ずっと訓練していたの?」
「そうですよ」
「元気そうだね・・・?」
「えー、元気ですよ。ちゃんと休憩しながら訓練しましたし。それに明け方くらいに、やっと100回目が終わったところですから、まだまだ余裕ですね」
(うわー、そんなにやったの?)
「いや、パニーニ。普通はな。あくまで普通は、の話だけど。1回でも魔力切れを起こすと、下手すると2・3日動けなくなるんだけど。魔力切れを起こすような訓練を、1日で100回もやったってことか?」
体を鍛える訓練だとしても、体力・筋力が空っぽになるほど追い込んだ訓練など、そうそうできることではない。パニーニの場合、魔力が空っぽになるほどの訓練を、1日のうちに100回もこなしている。普通の魔導士の100日分、いや、魔力が空になるほどの訓練はそうそうできないし、回復まで2~3日かかることも考えると、1年分に近いほどの非常に強度の高い訓練を、たった1日でこなしている。クリスは恐る恐るパニーニを見つめ、目を凝らした。その瞬間、背中から冷や汗が噴き出した。
「み・・・見えない」
クリスには、パニーニの魔力容量がわからなかった。クリスの基準ではパニーニの魔力容量を測ることができない。つまり、パニーニはたった1日でクリスを超えるほどの魔力容量を身につけるという、とてつもないほどの進化を果たしていた。訓練を始めたときから、パニーニが魔法の天才であることはわかっていた。1年も訓練を積めば、一人前の魔導士になるだろうと想定していた。それが、たった一日で一人前どころか、熟練の魔導士にも引けを取らないほどの魔力容量を身につけた。
「パニーニ。君の魔力容量は飛躍的に大きくなっているよ。どれほど成長したか、正直に言うと私にはよくわからないんだ」
クリスは正直に告げた。
「それにしても、普通はあり得ないんだ。ハイルーン一文字の魔法は、もちろん魔導士の実力によって差はあるが、それほど魔力が込められるようなものではないんだ。もうすでに君は相当な魔力容量をもっているが、それをたった一度の魔法発動で魔力を使い切るなんてことは、考えられないんだよ」
「そうなんですか?でもまぁ、ずっと『せいしょう』してましたから」
「・・・せいしょう??」
「そうです。今回はカラーズだけではなくナンバーズも一緒に・・・」
(せいしょう?せいしょうって何のことだ!?そんな言葉は聞いたこともない。あ、いや、聞いたことはあるか。歌だよな。校歌斉唱とかって、養成学校の卒業式であったもんな。いやいや、そんなわけあるか!魔法だ、魔法の話をしているんだ。魔導研究者として古代魔法文明やハイルーンの研究に心血を注ぐ毎日だというのに、そんな私が、パニーニの言っていることが全く理解ができない!ああ、校歌斉唱しか思い浮かばない。われらは深淵目指すもの~、行く手に何が待とうとも~、ってああ、校歌がループする!!助けて、ウィルゲイム先生!ウィルゲイムせんせーーーーーい!)
「・・・という感じで、って聞いてます?クリスさん」
「あ、ああ、すまない」
「クリスさんって、大分変わっていますよね」
「おまえさんに言われたくないんですけど!?」
クリスは自分が空腹だったことに気がついた。よくよく考えると、昨日の朝食を食べてからパニーニの訓練に付き合って、パニーニがひっくり返っている間に、ちょこちょこと焼き菓子を食べた程度で、結局夕食を食べずに自分も眠りこけてしまった。その後もびっくりしたり、興奮したり気持ちの浮き沈みが激しくて、余計におなかがすいたのかもしれない。パニーニの焼くパンの香りが鼻腔をくすぐる。口の中に唾液が溢れてくる。
「はい、焼けましたよー」
パニーニは焼きたてのパンの他に、小瓶をたくさん出してきた。パニーニが森の果実から作ったジャムだった。色とりどりのジャムは見た目も美しく、一層食欲を掻き立てる。焼いた腸詰めからは香ばしい香りが漂い、ジューシーな肉汁が溢れていて、とてもおいしそうだった。
「魔法が使えると便利ですね。焼きがまに火を入れるのなんて、一瞬ですもんね。洗い物も、井戸から水を汲む必要がないから楽ちんでした」
「あ、もう水も出しちゃったのね」
クリスは既に驚かない。焼きたてのパンに赤いジャムを塗り、頬ばっていた。
「出ましたね。でも飲み水にするには、ちょっと味気ないというか」
「水を意味するハイルーンの「ビュージュ」は、確かに水を生成するけど、生成されるのは純水だから、飲料水や料理に使うのには向かないかもね」
「なるほど、奥深いですね」
「人が飲んでおいしいと感じる水は、雑味を含むんだ。そんな水を生成することもできるけど、それは水に溶け込んだミネラルなんかも生成する必要があるから、かなりのハイルーンを使った魔法を発動しなくちゃ行けないんだ。とても高度な技術が必要だね」
クリスはモグモグとパンを食べながら、器用に答えた。
「井戸から水をくんだ方が早そうですね」
「そ。魔法はすごく便利なんだけど、魔法を使わない方が手っ取り早いことの方が多いね」
「クリスさんは本当に物知りですね」
「言ったろ、私は魔導研究者だからさ」
「すごいですねー」
パニーニは目をキラキラさせながら、背後にうっすら花のような模様を発現させた。また器用なことを、とクリスは思いながら、別のジャムを塗ったパンを口に放り込んだ。甘みのあるパンと、少し酸味のあるジャムとは相性がとても良い。すごいのは私ではなく、おまえだな。クリスはそんなことを思いながらパンを味わった。
「それはそうとハイルーンにも相性があってね。ただ詠唱すれば魔法が発動する、というわけではないんだ。パンとジャムのようにね。相性の良いハイルーンを掛け合わせると効率よく魔法が発動するけど、相性が悪いと反発しあってうまく行かないことがあるんだ。甘いパンには酸味のあるジャム、だな!」
パンとジャムの相性に例えて説明したが、我ながら下手な例えだとクリスは思った。焼いた腸詰めはちょっと感動的においしかった。なんとなく、鼻づまりが改善したような気がする。
「じゃあ、食事が終わったら、昨日の続きをするかい?」
「はい。お願いします!」
朝食を片付けると、パニーニとクリスは庭に出た。庭から先は一面の焼け野原になっているが、すでに植物が芽吹き始めていた。クリスは本格的な春の到来を感じた。
「魔力容量を増やす訓練はこれからも継続するように。でも方法は少し変えないとダメかもな」
「なんでですか?」
「なんで、って。森をこれだけ焼き払っておいてなんでも何もないだろう」
「そっか。たしかにそうですね。今朝ももうちょっと続けようと思ったんですけど、火球が大きくなりすぎて、次にやったら家ごとクリスさんを燃やしそうだったんですよね。ちょっと迷ったんですけど、せっかく傷が治りかけているクリスさんを丸焦げにするのも忍びなくてやめておきました」
「それ、ふつうはちょっとも迷わないよ?」
「そうですね、あははは」
クリスは、一点の曇りもないパニーニの笑顔を見て、顔を引きつらせた。こいつは天才ではあるが、どこか黒い気がする・・・と思いつつ、クリスは続けた。
「パニーニ。魔法の威力を上げる場合、どうすればいいと思う?」
「ハイルーンに込める魔力量を上げます」
「そのとおり。魔力量を増やすことで、足し算のように威力が増えるんだ。込められる魔力に上限はあるけどね」
通常、ハイルーンに込められる魔力にはそれぞれ上限がある。ファイエラは初心者が最初に覚えるハイルーンだったので、扱いやすい分、それほど多くの魔力を込めることができない。にもかかわらず、パニーニは凄まじい魔力を込めてファイエラを詠唱していた。魔導学的に考えられる上限の、およそ100倍の魔力は込められていたのではないか。まったく、どんなやり方をすれば森を焼き払うほどの威力を込められるのか。
「ただ、もっと効率よく威力を上げる方法があるんだ。かけ算のようにね」
「ハイルーンを増やすってことですか」
「そう。正解。例えば、「片手の指」を示すハイルーン『ソルフィン』は5倍という意味があるし、「両手の指」を示すハイルーン『アルフィン』は10倍という意味がある。ソルフィン・ファイエラと詠唱すると、ファイエラの威力がおよそ5倍になるけど、魔力は5倍も消費しない。だからとても効率がいいんだ」
「なるほどー。それは便利ですね。今日教えてもらって良かったです。昨日教えてもらってたら、もうとっくにやっていて、きっと今頃クリスさん消し炭でしたね」
教える順番を間違えなくて本当に良かった。クリスは心の底から安堵した。
「ファイエラ自体の威力を上げるには、それでいいんだ。でも、『炎』の威力を上げるにはもっと他にも効率のいい方法があるんだ。何だと思う?」
「なんだろう。全く別のハイルーンと組み合わせるってことですかね」
「そう!そのとおり。パニーニはパンを焼くとき、焼き窯の火の威力を上げるときにどうする?」
「ふいごを使って空気を送り込みますね。あ、風のハイルーンだ」
「大正解!風のハイルーン『ウィンディ』と組み合わせると、炎の威力は格段に上がる。でも魔力消費はさらにグッと抑えられる。やってみるから見ていて」
クリスは、木の棒を手にして、ファイエラと詠唱すると、棒の先端部分が勢いよく燃え始めた。
「これが通常のファイエラ。で、5倍の魔力を込めたファイエラはこうなる」
クリスの手にしていた棒が、激しい勢いで燃え始めた。確かにおおよそ5倍はあろうかというほどの炎が発生した。
「じゃ、次ね。ソルフィン・ファイエラ」
「おー!さっきの5倍のファイエラとほとんど同じくらいですね」
「そうだろ。でも魔力はさっきの半分くらいしか消費しないんだ」
パニーニは感心した。確かに効率的だと感じられた。ハイルーンは魔導書に記されているものの他にも数多く存在し、まだ知られていないハイルーンも存在するという。おそらく魔導研究者は新しいハイルーンを探し、発見されたハイルーンを研究し、様々に組み合わせて新しい魔法を構築しているのだろう。
「さっきクリスさん、魔導研究者として古代魔法文明やハイルーンの研究に心血を注ぐ毎日とか言ってましたけど、本当にそうなんですね」
「え!もしかして声出ちゃってた!?」
「だだ漏れでしたよ」
「え、すごい恥ずかしいじゃん!」
「なんか変な曲まで歌ってましたしね」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「クリスさんは変わってますね」
「じゃあ次は、炎の威力を上げる方法だな」
「何事もなかったように話を戻すんですね」
「うるさい。まず、ハイルーンに込める魔力を増やす。それと、ハイルーンの効果に影響する別のハイルーンと組み合わせて威力を増す。これはあくまでファイエラ自体の威力を高めるものなんだ。さっき話したように、ふいごを使って風を送るように、風のハイルーンを組み合わせると」
クリスは、ファイエラ・ウィンディと詠唱すると、棒の先端が激しく燃え始めた。風によって炎が渦を巻き、先ほどの炎より勢いがある。
「これは、ファイエラ自体の威力を強くしたというより、炎の威力を強めたんだ。だから5倍のファイエラより、ソルフィン・ファイエラより、さらに魔力消費が少ない。ただ、とてもバランスをとることが難しい。例えば・・・」
クリスは手に持っている棒に少し力を込めると、炎はたちまち消えてしまった。
「いま、ウィンディに込める魔力を少し増やした。そうすると風が強くなりすぎて炎が消えてしまったんだ」
ふんふん、とパニーニはうなずく。
「ハイルーンを組み合わせる場合、例えば炎に風を送ると炎の火力が上がる、という自然現象を理解した上で、さらにどの程度の魔力加減をすれば効率が良いか、そういうことを理解しないと魔法として成立しない。だからやみくもにハイルーンを組み合わせても効果が出ないんだ。ハイルーンには相性も合って、例えば火のハイルーンと水のハイルーンを組み合わせても、お互いをかき消してしまう。基本的にね」
パニーニは大きくうなずいた。そして小刻みに小さくうなずいた。
「炎の威力を増やすためには、『燃料』を加えるのもアリだね。燃焼する気体を発現させるハイルーンと掛け合わせることで、炎の威力はさらに高まる。ただ、ハイルーンの文字数が増えれば増えるほど、それに異質なものと組み合わせるほど魔力制御が難しいから、それはもう少し基本ができてからの応用になるかな」
「わかりました。じゃ、次の訓練は、二つのハイルーンを組み合わせて、うまくバランスをとって効率的な魔法効果を発現させる練習ですね!」
「そうだ。早速やってごらん」
クリスに促されたパニーニは、大きく息を吸い、肩の力を抜いてから目を閉じた。そしてゆっくりと両手を胸の前に差し出すと、手の少し先で白いモヤのようなものが上がって、すぐに消えてしまった。無詠唱を試したのだろう。ふー、と大きく息を吐いたパニーニは、少し汗ばんでいるようだった。
「なるほど、これはかなり疲れますね」
「そうだろう。じっくりやってごらん。じゃ、私は昨日できなかった、この辺りの散歩をさせてもらうよ」
「はい、まだ傷も完全に癒えていないでしょうから、あまり遠くまで行かないでくださいね」
「ありがとう。頑張ってな!」
クリスが歩き始めると、パニーニは急に駆け出し、納屋のようなところに飛び込んだ。クリスは、パニーニがなぜ納屋に飛び込んだのかよくわからなかった。しばらくするとパニーニは納屋から飛び出してきて、焼け残っている2本の木の間に、何かロープのようなものを張っている。クリスは家から少し離れたところまで歩いてきていたが、あたり一面はパニーニが焼き払っていたので、パニーニの行動はよく見えた。
「何をしているんだろう?」
クリスは歩きながらパニーニを見ていると、木の間にロープのようなものを張ったパニーニは、その上に横になった。どうやら、ハンモックを張ったらしい。
「寝る、のかな?」
クリスには、いったいパニーニが何をしているのか、全く見当がつかなかった。ハンモックに寝転がったパニーニはじっとしていたが、ときどき横たわるパニーニの上に、何か白いモヤのようなものが発生し、そしてすぐに消えた。パニーニはそのまま動かない。クリスは何が何だかわからなかったが、まぁパニーニのすることを気にしていても仕方がないと思い、散歩という名目の周辺捜索を始めた。
(クルーシャは、この近くに来ているはずなんだ)
クリスはまだ少し痛みのある足をかばうように、森の中に入っていった。
日が少し傾いたころ、クリスは家に戻ってきた。パニーニを探すと、まだハンモックの上に寝転がっている。なんだかんだで昨日はかなり厳しい訓練をしていたから、今日は休養に充てたのかな、と想像し、クリスはパニーニのハンモックに近づいた。
パニーニの顔が見えるほどに近づくと、急にパニーニの周辺から白いモヤが立ち上った。今朝、パニーニがハンモックに寝転がった直後に発生したモヤに比べるとはるかに濃くて量が多い。
「あっ、熱!!!」
クリスは顔を背けて後ずさりした。この白いモヤは熱い。どうやら湯気のようだ。クリスは木の根に足を取られて尻もちをついた。
「あ!クリスさん、大丈夫ですか!?」
パニーニはハンモックから体を起こし、クリスに声をかけた。腰のあたりをさすりながらクリスは立ち上がると、パニーニに近づいた。
「あ、いや。ところで今日は休養することにしたのかい?」
「え、訓練中ですけど?」
「ハンモックに寝ているだけに見えるけど、それが訓練なの?」
「そうですよ、結構疲れるんです」
「???何の訓練しているの?」
パニーニはハンモックから降りて、少しよろけながらクリスに向かって歩いた。
「今朝教えてもらった二つのハイルーンを組み合わせる訓練なんですけどね、せっかくだから昨日の魔力容量を上げる訓練と一緒にやろうと思いまして」
「ふんふん。それで?」
「でも、これ以上この辺りを焼き払うわけにもいきませんから」
焼き払うって・・・。クリスは口に出かかった言葉を飲み込んだ。
「で、火のファイエラと水のビュージュを掛け合わせたんですけど、そうしたら打ち消しあって水蒸気が出たんです」
それが両手の先から最初に出した白いモヤか。クリスは今朝の光景を思い出していた。
「で、炎がでないように、水がでないように、って魔力のバランスを取りながら、『せいしょう』すれば、魔力のバランスを調整しながら、一気に魔力を使い切れるかなって思いまして」
(また『せいしょう』だ。なんなんだ『せいしょう」って?)
「で、最初からハンモックで寝ていれば、魔力切れを起こして意識を失ったとしても倒れることもないし、運んでもらう必要もないので、ずっと寝っ転がりながらそれを繰り返していたんです」
パニーニは、火のハイルーンと水のハイルーンを組み合わせて、水蒸気を作っていたという。火のハイルーンに魔力を込めすぎると、炎が噴き出す。逆に水のハイルーンに魔力を込めすぎると水があふれてしまう。火力と水量を調整して、すべて水蒸気にするのは、確かに高度な調整が必要だった。さらに、それを魔力が尽きるまで大出力でやっていたというのは、とても駆け出しの魔導士ができるとは思えないほどの高度な技術だった。いや、むしろ人間業ではない。クリスは改めてパニーニの行動に呆れる思いだった。
「それで、魔力の調節、コツはつかめた?」
「そうですね。手応えはあります」
パニーニは地面に落ちている木片を拾った。右手の人差し指を額の近くに寄せ、指先に小さな炎を灯すと、ゆらゆら揺れていた炎は次第に青白く小さくなり、指先の小さな点のようになった。その指先を木片に押し当てると、ちょうど指先と同じ大きさの穴が開いた。木片を燃やすことなく、指を当てた部分だけを焼き、穴を開けて見せたのだ。クリスは目を丸くした。
「それ、どうやったの?」
「指先の小さな範囲にファイエラをかけ魔力を多めに込めました。そこにウィンディを少しずつ込めて、炎の温度を上げました。で、その周りが熱くならないように、冷却のハイルーン『クルド』を展開しつつ、穴を開けました」
パニーニは、そのまま木片に自分の名前を彫り込んだ。
「本当に器用だなぁ」
クリスは呆れつつ感心した。
「これ、結構楽しいですね!」
パニーニは嬉しそうに笑った。クリスは目を凝らしてパニーニの魔力容量を図ろうとしたが、やはり全体像を把握することができず、むしろ底知れない深い海底を覗き込んでいるような心地がした。たった二日でどれほどの魔力容量を身につけたのか。
「じゃあ、そろそろ家に戻りましょうか」
パニーニはクリスを伴って家に向かった。パニーニは家に戻るとクリスに飲み物を差し出し、ちょっと待っていてくださいね、と言い残し、外に出て行った。そして数分ののち、パニーニは楽しそうに戻ってきた。
「お風呂ができましたよ。入りますか?」
クリスはイスから立ち上がって叫んだ。
「この家にはお風呂があるのか?!」
「まさか。ありませんよ。でも、納屋に昔使っていた大きな水瓶がありましてね。結構な大きさで、人が入れるくらいなんですけど。魔法でお湯を生成して水瓶に貯めてみたんですけど、お風呂みたいになったんですよ」
納屋に行ってみるとそこには大きな水瓶があり、たっぷりのお湯が張られていた。かなり裕福な家ではない限り、普通は個人の家に風呂はない。王都出身のクリスは、公衆浴場に通っていた。王都の住人でも、一般的に風呂に入るのは数日に一回程度だが、クリスは毎日公衆浴場に足を運ぶほどの風呂好きだった。2日も風呂に入らないと我慢ができなくなる。クリスは水瓶に手を伸ばし、お湯をすくった。少し熱いくらいでちょうど良い温度だった。
「風呂に適した温水を生成するのは、かなり高度な魔力調整が必要だ。これはすごいな。魔力調整のコツが完全につかめているな。これだって普通は何年も訓練が必要なのに」
「いやー、魔法って本当に便利ですね」
「便利だよ。でも誰でも魔法を使えるわけではないし、魔法を使えたとしても便利さを実感できるほどの技術を身につけるためには血のにじむような努力が必要、なんだけどね」
パニーニの魔力容量と、魔力調整は、とっくに一人前と呼べる水準を超えていた。
「せっかくですから、ゆっくりお風呂に入ってください」
クリスは、パニーニに促され風呂に入った。湯にはパニーニが調合したという入浴剤が入れられており、花のような香りがする。パニーニが作ったという石鹸も大変な出来栄えで、これも商店で販売できるのではないかと思えるほどだった。体の傷は、定期的に回復魔法をかけており、左太ももの深い傷はまだ完治していないものの、日常的な動作はほぼ支障ない程度まで回復していた。久しぶりの風呂が、クリスの心身を癒していた。
「お湯加減はどうですか?」
納屋の外からパニーニの声がする。
「ああ、とても具合がいいよ。まぁ、少しお湯が冷めてきたけど」
「そうですか。じゃあこれでどうですか?」
水瓶のお湯が少しずつ増え、お湯の温度も上がっていった。少し熱めの温度まで上がると、お湯の増加と温度上昇はぴたりと止まった。パニーニは、離れた場所から任意の場所に適温のお湯を生成することができるようだ。本当に恐ろしい才能だ、とクリスは思いつつも、パニーニならそのくらいならできるだろうな、と妙に納得していた。
「ああ、とても気持ちがいいよ。ありがとう」
「ところで、クリスさんはじいちゃんの知り合いなんですか?」
「え?なんだって?」
「じいちゃんの知り合いなんですか?」
パニーニは少し大きめの声で言った。
「なんの話?パニーニのじいちゃんなんて、私は知らないよ」
「さっき呼んでいたじゃないですか」
呼んでねえよ、とクリスは思いつつ、気のせいだと答えた。
「えー、さっき変な歌を歌いながら、呼んでたじゃないですか、ウィルゲイム先生って」
ガタン、うわあああ、ガシャン、ざばぁぁぁという慌ただしい音がした後、素っ裸のクリスが納屋から飛び出してきた。
「ウィルゲイム先生、アルフレッド・ウィルゲイム先生か?」
「そうです。アルじいちゃんです」
クリスはパニーニの暮らす家をせわしなく見まわした。
「ここは、ウィルゲイム先生のお宅だったのか!?」
「そうですよ」
「おま、パニーニ、お前、先生の孫か??」
「そうですよ」
「何で言わなかったんだ!」
クリスは、噛みつくようにパニーニの両肩をつかんだ。
「無理言わないで下さいよ。クリスさんがじいちゃんの知り合いだなんてわかるわけないでしょ」
「そりゃあ・・・。うん。たしかにそうだわな」
「そうですよ。それより隠すもの隠してくださいよ」
クリスはそそくさと納屋に駆け込んだ。先ほどクリスが慌てて飛び出したからだろう。水瓶は倒れてヒビが入っていた。パニーニは中を覗き込むとつぶやいた。
「壊れたものを直す魔法ってあるのかな?」
服を着替えたクリスは厨房のある部屋に入った。パニーニは夕食の支度を終えていた。夕食のメインは近くの川で獲れた魚の干物らしい。川魚にしては大きいのと、なぜか角のようなものが生えていることが少々気になったが、一口食べてみると旨味が凝縮した濃厚な味わいで、大変な美味だった。
クリスは食事を楽しみつつ、これまでの経緯を話し始めた。
「パニーニのおじいさんは、私の研究学校時代の恩師でね。先生は魔法の専門家ではなかったが、古代史の研究をされていて、よく古代魔法文明のことについて教えてもらっていたんだ」
クリスは話しながら食べるのが上手い。話しぶりからは咀嚼している様子は感じられないのに、料理を次々と平らげていく。やっぱり変わった人だ、とパニーニは思った。
「先生は研究学校の教授職を引退するときに、未解明の遺跡の近くに引っ越して生涯の研究にするということをおっしゃられて、この地方に移り住んだと聞いていた。もう15年ほど前の話だったと思う」
「岩塩鉱脈のすぐ隣にあるアレのことですね」
パニーニはその遺跡を知っているようだった。
「私の研究がちょっと行き詰っていてね。ちょうどこの地域の遺跡を調査する研究チームが派遣されると聞いたので、もしかしたら先生にお目にかかる機会もあるかもしれないと思って、研究チームに志願したんだ。そうか・・・先生はお亡くなりになっていたか。それにしてもパニーニが先生の孫だったとは驚いたな」
クリスは部屋の中を改めて見た。壁に作り付けられた書棚には書籍がびっしり保管されている。クリスは昔見たウィルゲイムの研究室を思い出していた。この書籍はあの研究室の蔵書だったのか。
「そういえば、前に、手の空いた時間は本を読んでいた、って言っていたけど、じゃあ、ここにあるウィルゲイム先生の本を読んでいたのかい?」
「そうです。じいちゃんの蔵書は、この棚の他にもたくさんあって。この5倍くらいかな。暇さえあればずっと読んでいましたね。読みたい本がなくなってしまって、最近は暇を持て余していたんです」
「この書棚の5倍って、ちょっとした図書館くらいあるじゃないか!」
「そうなんですか?まぁ、とにかく時間はたくさんありましたから」
「私の今まで読んだ本よりも多いかもしれないなぁ・・・」
クリスは魔導研究者としての自信が少し揺らいだ。
「でもこれだけ本があれば、まだ読んでいない本もかなりあるんだろ?ウィルゲイム先生の蔵書は専門書が多いだろうから、難解なものもあるだろうし」
「いえ、それがもうここにある本はもう一通り目を通してしまったんです。もちろん目を通しただけの本もありますけど。でも、ほとんどの本は内容を覚えてしまったので。だから、正確に言うと、読みたい本がもうないのではなくて、読む本がもうないんです」
「そんな、馬鹿なことがあるのか」
壁の書棚には、200冊ほどの本があった。クリスは食事の合間に棚の本を読ませてもらったことがあるが、古代史の他にも各国の歴史書や地理、その他に自然科学系の書籍も多数あったが、中には文学もちらほら混ざっており、多種多様といった蔵書内容だった。この5倍というと、1000冊にも及ぶのではないか。
「いくら時間があったといっても、数百冊の本の内容を覚えることなんて、そりゃムリだろう」
クリスが怪訝な顔をして言う。
「えー、じゃあ試してみます?」
といって、パニーニはクリスに、書棚からどれでも好きな本を手に取るように伝えた。クリスは「先史時代のカラマン族の生活様式」と書かれた本を手に取った。
「どこでも好きなページを開いて、そこに書いてある文章を読んでもらえますか?」
クリスはパニーニの言うとおり、適当にページをめくり、読み始めた。
「装飾品の一部には現代にも通じる技巧が施されており、極めて高い技術力を持っていたものと推測される、ってこれでいいのか?」
「一方で食料等の貯蔵に使っていたと考えられる器などは、飾り気のない簡素な土器が使用されており、この民族が身体を飾り付けることにある種異様な熱意を持っていたことがうかがえる」
パニーニは事もなげに答えた。クリスの読み上げた一文の、次の一文だった。クリスは目を見開いて、本を見たりパニーニの顔を見たりを繰り返した。
「ほんとうに。ほんとうに覚えているのか」
クリスは手に持った本の表紙をパニーニに向けて言った。
「覚えてますね」
クリスは本を書棚に戻すと、ヨロヨロとテーブルに戻ってきて、ドカッとイスに座った。手をだらしなく垂らし、口を半開きにしながら天井を見つめた。読んだ本の文書を全て記憶することなどできることではない。クリスはそれなりに名の通った研究者だったが、本の内容を覚えていても、本に書かれている文書自体を覚えているものなどない。しかし、パニーニは確かに本に書かれた文書を覚えている。そういえば魔導書も一晩で暗記していた。いったいどんな頭の構造をしているのか。
しばらく呆然としたクリスは、気を取り直したようにスープを口に運んだ。ミルクと小麦粉とバターをゆっくり加熱しながら煮込んだという、とろみのある濃厚なスープだった。これも本当においしい。そういえば、今朝も飲んだミルクは、どこから調達したのだろう。パニーニは家畜を飼っていないと言っていたが。クリスはそんなことを考えつつ、気持ちを落ち着かせようと努力した。
少し風が強いようだ。窓がカタカタと小さく音を立てている。昨日までは風で揺れる木々の音が聞こえていたが、窓から見える外は焼け野原になっているので、風を遮るものがなくなって、家に直接当たっているようだった。
落ち着きを取り戻したクリスは、スープを飲みながら改めてパニーニを問いただした。
「この本がそんなに気に入っていたのか?私が言うのもなんだが、そんなに面白いような本ではないだろ。なぜこの本を覚えようと思ったんだ?」
「覚えようと思って覚えたんじゃないですよ。ほんとうに面白くなかったですし。特に興味はなかったんで、一回、ざっと読んだだけです」
「・・・それで覚えられるのか?」
「そうですねぇ、みんなで読んじゃうんですよ。勝手に。だからイヤでも覚えちゃうんですよね」
「みんなで、って誰と読むんだ?」
「マキさん次第ですけど、大体はカラーズですね。時々ナンバーズも読んだりしますけどね」
「???誰さん?」
「マキさん」
「どちらさま??」
「なんと言ったらいいんですかね。最初の友だちですかね?」
クリスは少しほっとした。この付近に集落はないので、パニーニはこの山奥で一人ぼっちで暮らしているとものだと思っていた。友だちがいるということは、近くに人が住んでいるのだろう。
「なんだ、読書仲間がいるのか。それは良かった。でも、友だちと一緒に本を読んだところで、一度読むくらいでは本の内容が頭にはいらないだろう?」
「まぁ、そうなんだと思いますけど、マキさん、僕によく言うんですよ。学校も行っていないんだから、せめて本の知識くらい身につけなさいって。カラーズだけならいいんですけど、マキさん、いい本だと思うとナンバーズにも声かけちゃって。みんなで一緒に読むとなると、もううるさくってうるさくって、・・・あ、ちがうちがう、イヤじゃないって。ちゃんと感謝してるから」
「???」
「ほんと本当。色々覚えられたし、それなりに賢くなったって、実感あるからさ。いや、うるさいってのはさ、でもだってそうでしょ。実際にうるさいんだもん」
「????」
「ほら、クリスさん不思議がってるし。えー、もしかして恥ずかしいの?やだなー、そんなの気にしてたの?大丈夫だって。だって現にさ・・・」
パニーニは急に独り言を始めた。
「?????」
クリスは呆然としつつ、独り言を続けるパニーニに声をかけた。
「パニーニ、急にどうしたんだ?独り言なんて」
「独り言?なんのことですか?」
「いや、おまえ、さっきから独り言を話しているじゃないか」
「これはマキさんと話しているんですよ」
クリスはガバッともの凄い勢いで後ろを振り向いた。
(誰かいるのか!?いや、誰もいないよな・・・。右も左も、部屋中を見回したいけど誰もいないよな!って、それより慌てて振り向いたときに首がグキっていったから、なんかもう首が痛い。首が痛くてなんだかどうでもよくなってきた。でも・・・え?マキさんって、本当に誰?そんな人どこにいるの?誰もいないじゃん、お化け?お化けいるの?ここ、お化けいるの?先生!ウィルゲイムせんせーーーーーーい!)
「だから、お化けなんていないし、じいちゃんもいませんって」
「ぎゃーーー!また漏れちゃってた!?」
「漏れてますって。口からスープもろとも漏れてますよ。ほんと、変わってますね、クリスさんって」
首に手を当てて回復魔法を発動させつつ、クリスは続けた。
「で、マキさんって、どこにいるの?」
「どこって言われるとどこにいるのかわからないんですけど、ここですかね?」
パニーニは自分の胸元を指さした。
「体の中から声が聞こえるんですよ」
「えぇぇぇ・・・」
クリスはとても重々しい気持ちになった。
「ってことは、パニーニは自問自答している、ってことなのか?」
「違いますって。マキさんと話しているんですよ」
クリスはますます重々しい気持ちになった。もしかしたらパニーニは・・・。
「マキさんとはいつ頃から話をするようになったのかな?」
クリスは、無意識に丁寧な口調になっていた。
「そうですねー。じいちゃんが死んでから少ししてから、ですかね?」
やはりそうだ。クリスは確信した。人の心の動きなどを専門に研究する同僚から聞いたことがある。人は何らかの要因によって、心の中に別の人格を作ることがあるという。それは、ひどい恐怖に襲われたときに現実から逃避するために作られたり、あるいは孤独を紛らわせるために作られたり。頭部に外傷を受けた患者にそのような症状が見られることもあるとも聞いた。多重人格、といったか。
「マキさんの声は、どんなときに聞こえたのかな?」
「急にじいちゃんが死んで、どうしたらいいかわからないときに、マキさんが話かけてきましてね。それで友だちになったんです」
「そっか・・・」
クリスは、不意にパニーニを抱きしめたくなった。祖父を亡くしてから10年間、パニーニは一人で生きてきたのだ。孤独だったのだろう。おそらく孤独を紛らわせるために、心の中に別人格を作って、話し相手にしていたのだろう。それなのにこんなに明るく振る舞って。なんて健気な少年なのか。
クリスは意識して優しいまなざしを作って、続けた。
「ところで、さっき話していた、カラーズって、それは何なのかな?」
「それはここにいる、僕の別人格ですね」
パニーニは、自分の頭を指さした。クリスの優しいまなざしは、一転して冷めた目に変わった。
「え?なに。別人格??」
「そうです。別の僕です。まぁ、多重人格ですね」
「!!多重人格って、おまえ、多重人格の自覚あるの!?」
「そりゃありますよ。心理学の本に書いてありましたもん。そのくらい知ってますよ」
なんだよ、ぜんぜん健気な少年じゃないじゃん。クリスはパニーニを抱きしめなくて本当に良かったと思った。ちょっと出てしまった鼻水を拭きながらクリスは続けた。
「まぁ、僕の場合は頭の中に別の人格があるっていうだけで、僕自身が別人格と入れ替わったりすることはないので、心理学の本に症例として書かれている多重人格とは違うみたいですけどね」
「そ・・・そうなんだ」
クリスは少しオドオドしながら続けた。
「カラーズ、って何?カラーズってことは何人かいるの?」
「8人いますね」
「そんなにいるの!?」
クリスの口から、スープなのか何なのかわからない飛沫が飛んだ。飛沫は、パニーニの顔の直前で何かに遮られたように留まり、そして下に落ちていった。
「いるんですよ。見た目は僕と変わらないんで、見分けられるように髪の毛に色を塗ったんですよ。赤、青、黄色、って。だからまとめてカラーズって呼んでます」
「・・・色、塗れるんだ?」
いま、パニーニ、魔法障壁を発動させたよな??口から飛んだ飛沫、顔の前で止まってたもんな・・・。何この子、なんだかもう才能がありすぎてちょっと怖い・・・。クリスはそんなことを考えながら、「色を塗れるのか」という自分でもよくわからない質問をしてしまったことに苦笑いした。
「そりゃ塗れますよ。だって頭の中にいる自分ですもん。好き勝手できますよ」
「あー・・・、そういうもんなんだ。え?じゃあ、ナンバーズって?」
「カラーズの外側に座ってる、別の僕です」
「座ってるの!?」
「座ってますよ。立ったままじゃ疲れるでしょ?鼻水でてますよ」
クリスはテーブルの上に置かれた鼻紙で鼻と口を拭った。次々と湧き上がる興味を抑えきれなくなり、クリスはパニーニに質問を続けた。
「多重人格って、立ってると疲れるの?そういうものなの?座るって、どんな感じなの?」
「カラーズはですね。丸いテーブルをぐるっと囲んで座っているんです」
「あぁ、円卓だね!」
「そう、円卓みたいな感じですね。でナンバーズは、その外側をさらにぐるっと囲んでいるんです。首脳会談とかする国際会議場の「陪席」みたいな感じですね」
こいつ、そんな本も読んだことがあるのか。クリスは思った。クリスは訳がわからなくなりつつも、パニーニの生態を解明するのが楽しくなってきていた。
「で、ナンバーズは、何でナンバーズっていうのさ?」
「何でって、ナンバーズは100人いるんですけど」
「そんなにいるの!?」
「いるんですよ。で、色を塗るのが面倒になったんで、首から番号の書いた札をぶら下げさせてるんですよ。1番から100番まで」
「・・・そんなことできるの?」
「だからできますって。僕なんですから。よその人の首に番号ぶら下げるんじゃないんですよ?他人に札をつけるなんて、そりゃ大変でしょうけど、僕が自分で札をぶら下げるんですから。できるでしょ、普通」
「それ、普通なの??」
パニーニは、もちろんです、と大きくうなずいた。
「パニーニは、えっと、多重人格者で、別人格が108人いる、ってことでいいの?」
「もっといますよ」
「まだいるの!?」
「マキさんが連れてきちゃうんですよ」
「・・・マキさん・・・」
何やってるの、マキさん。クリスはよく知りもしないマキさんの働きぶりに衝撃を感じた。
「僕、小さい頃にお願いしちゃったんですよ、たくさん友だちがほしいって」
「マキさんに?」
「そうです。マキさんに。ばあちゃんが生きてた頃に、よく僕に歌を歌ってくれたんですけど、それをマキさんに伝えたら、マキさん張り切っちゃって」
「どんな歌をマキさんに伝えたのさ?」
「ほら、7歳から幼年学校の初年次生になるじゃないですか」
「義務教育だからな」
「僕も、もちろん行く予定だったんですよ。じいちゃんとばあちゃんが死んじゃって、結局幼年学校に入学できなかったんですけど。ばあちゃん、生きてる頃は僕が入学するのが楽しみだって、よく言っていましてね。それで、幼年学校に入ったら友だちがたくさんできる、って歌をよく歌ってくれたんです」
「あー、あの歌ね。知ってる知ってる」
クリスは大きくうなずいた。おそらく、この国のほとんどの子どもが、親や祖父母からその歌を教わっているはずだ。
「初年次生になったーら」
パニーニは子どもにとってのおなじみの歌を歌い始めた。
「初年次せーいになったーら、友だち3000人できるかな」
「多い!!お友だちの数が多い!!」
「え?多い??」
「その歌・・・お友だち、そんなに多くなかったと思うぞ!?」
「ばあちゃんはそう歌ってましたけど?」
「あ、ああ・・・そうだった?なら、まぁそうなんだろうね・・・」
あぁ・・・おばあさま!友だちの人数が多いです。本来の歌詞の30倍くらい多いです。クリスは、すでに他界しているパニーニのおばあさんに向かって心の中で叫んだ。
「あー、多かったんですね。いや、僕も3000人は多いんじゃないかなって思ってはいたんですよ。でもばあちゃん、そう歌っていましたから、そういうもんなんだと思ってました。僕のばあちゃん、そういうところあるんですよ」
そういうところがあるばあちゃん・・・。そういえばウィルゲイム先生はかなりぶっ飛んでいたし、その奥さんならきっとそんな感じなんだろうな、とクリスは思った。
ハッとクリスは気がついた。パニーニは、マキさんにこの歌を伝えたと言っていた。マキさんは張り切って友だち、つまり別人格のパニーニを連れてくると言っていた。
「もしかしてパニーニ。多重人格の、別のパニーニが、3000人いるってこと?」
「いますよ。アリーナ席に座らせています」
「アリーナ!!!?」
「もうアリーナ席の連中は誰が誰だかよくわからなくて、まぁ僕なんでみんな同じ顔しているんですけど。区別がつかないから話をすることはないですね」
「というと、アリーナ席の方々とは、どんな接し方をするの?」
「呼びかけると歓声で応えてくれるんです」
「マジかー!!」
次々と明らかになるパニーニの生態に、クリスは興奮を隠しきれなくなってきた。
「あのさ、あのさ、じゃあ、マキさんもパニーニと同じ顔をしているのかい?」
「そんなわけないでしょ。マキさんは友だちですもん。僕じゃないから違う顔してますよ。それに女の子だし」
「女の子なの!?」
「マキって、女の子の名前らしいですよ。この辺じゃあまり聞かない名前ですけど」
確かに女性名として「マキ」という名前を聞いたことがなかった。マーキハラという名前の貴族の友人をマッキーというあだ名で呼んでいたことを、クリスはなんとなく思い出した。
「で、マキさんも円卓に座っているの?」
「いや、マキさんは個室です」
「個室があるのか!?」
「マキさんはこっちにいるんですから、そりゃ個室ですよ」
パニーニは自分の胸元を指さした。そういえば、パニーニは、マキさんのいる場所として胸元を指さし、他の別人格パニーニたちのいるところを頭だと、指で示していたような気がする。
「マキさんは話をするときに個室から出てくるんですよ」
「へ・・・へぇー」
「でも、マキさん、準備ができていないときは、こっちから呼んでも中々出てこないんですよ。そんなときは『でんわ』で話をするんですけど・・・」
「なに?!でんわって??」
「よくわからないんですけど、声だけ聞こえる時は『でんわ』らしいです」
クリスは何から何までわからない。ただ、パニーニの仕組みが楽しい。
「ところで、準備?マキさんって、なんの準備しているの?」
「身だしなみに決まっているじゃないですか。マキさん、女の子ですよ。前室の鏡で全身くまなくチェックしてるみたいですよ。2枚の鏡使って・・・あぁ、合わせ鏡って言うんでしたっけ?ちゃんと背中のラインまでチェックしているんです」
「前室もあるんだ・・・」
「『ごえるでぃーけー』だって言ってましたね」
「何それ??」
「よくわかりませんけど、広い部屋って意味らしいです」
「・・・とりあえず、マキさんって、良いところのお嬢さんなんだね、きっと」
「あ、それですけどね。僕も昔、そんなこと聞いたことあるんですけど、違うんですって。ちゃんと働いて自分で稼いでいたって、照れてましたよ」
「稼ぐの?マキさん??」
自分で稼ぐ多重人格って、一体何なんだ。クリスはそんな疑問で頭がいっぱいになりつつも、パニーニの愉快な仲間たち(多重人格の自分)に妙な親近感を抱いていた。パニーニは話を続けた。
「本を読む時なんて大変なんですよ。マキさんの好みで読み方変えちゃうから。マキさんが好きな本は、みんなで読むし、マキさんが好きじゃない本の時は、むしろ横で大騒ぎして読ませてくれないんです。じいちゃんがばあちゃんに内緒で集めていた、男女間のきわどい内容が書いてある本を読もうとした時なんて、もうマキさんすごかったんですから」
「へ・・・へぇー、どんな風にすごかったの?」
「『あんたにはまだ早い!じょうれい違反だ』って。じょうれい、ってなんでしょうね?」
「知るかよ・・・」
マキさん、あんた、パニーニの多重人格のくせに、なんでパニーニの知らない言葉まで知ってるんだよ、とクリスは内心鋭く突っ込んだ。しかし、「まぁ、パニーニだから」とクリスはあっさりと納得していた。パニーニは、さらに話を続けた。
「マキさん、本の好みは結構うるさくて。マキさんの好みの本なんて、カラーズだけじゃなくて、ナンバーズまで動員してみんなで読むから、もううるさくて仕方ないんですけど、そのおかげで一度読むだけで覚えられるんですよ」
クリスは、ハッとした。パニーニの記憶力の秘密にたどり着いた気がした。おそらく、パニーニの脳内別人格の「マキさん」が重要だと認識した本は、パニーニ本人の他に、108人の別人格も一緒に本を読んでいる。つまり一度の読書で、100回以上繰り返し読んでいるのと同じ量のインプットが行われていることになる。さらに詳しく話を聞いていくと、アリーナ席の3000人の別人格たちは、普段は静かに作業をしているらしい。本を読んでいたり、何かの計算をしていたり。どうもこれが「復習」のような効果を生んでいるらしい。つまり、パニーニは一度の読書で、普通の人が100回以上繰り返し読むのと同じだけの情報を得て、その上で3000人の別人格が、記憶が定着するまで黙々と反復作業をしているようだ。
「おまえが魔導書を「分業」して読んだ、っていうのは、別人格たちはどんな仕事をしていたの?」
「あれはですね。ナンバーズたちが一人何文字かずつのハイルーンを担当しましてね、それを読むことでカラーズが文字と文字のつながりから文章として翻訳して、アリーナ席の3000人が、ひたすら書きまくって覚えたんです。マキさん、あっちこっちに指示を出して大忙しでしたね」
「そんなことしていたのか・・・」
クリスはさらに重要なことに気がついた。パニーニの詠唱魔法も、多重人格たちが何かしていたのではないか。
「パニーニ、ハイルーンを詠唱するとき、もしかしてカラーズあたりと一緒に詠唱してた?」
「あ、すごいです!よくわかりましたね。それが斉唱です」
たしか斉唱とは、複数の人が同じ旋律を歌うことを指す音楽用語のはずだ。つまり、パニーニの詠唱を、カラーズたちも一緒に同じように詠唱していた、つまり、斉唱していたのだ。本当に歌の斉唱だったんだ、とクリスは素直に驚いた。
「やっぱり、マキさんが指示してたのか?」
「そうです。マキさん、最初はカラーズだけで詠唱していたんですけど、少しずつ人数を増やしていって、いつの間にかナンバーズまで詠唱させていたんですよ。マキさんったら、魔力がすっからかんになって、それから回復すると魔力容量が上がるって話を聞いてから、少しずつ詠唱させる人数を増やしていって、一回の詠唱で魔力切れを起こすように調整していたんですよ。そして最終的には・・・」
「さ、最終的には??」
クリスはゴクリと生唾を飲み込んだ。
「最終的には、マキさん、『アリーナ!』って叫んで、会場全員で斉唱してました」
「もう歌姫だね・・・マキさんって」
パニーニが、ハイルーン1文字の魔法に恐ろしいほどの魔力を込められたのは、単純に100人以上の別人格が「同時詠唱」していたからだった。最終的には数千人で同時詠唱していた訳だから、ファイエラ一文字のハイルーン詠唱でも森が焼き払われたのだろう。通常、同時詠唱は複数の魔導士が同時に詠唱することで大きな効果を発現させる手段だが、パニーニはそれを一人で行っていた訳だ。それなら一回で魔力切れも起こすし、恐ろしいほどの魔力が込められることも理解できる。
「あれ?今、マキさんが『話を聞いてから』って言ってたけど、マキさんって他の人の話を、例えば私の話を聞いているの?」
パニーニは少し難しい顔をした。
「うーん。それがなんというか。聞いているときもあるし、聞いていないときもあるし・・・。聞いていないふりをするときもあるし、聞いているくせに僕が改めて言わないと知らんぷりすることもあるし・・・。女性の気持ちはわからないって、じいちゃんの持っていた人生相談に関する本に書いてありましたけど、そんな感じですね」
クリスは自分の身近にいた女性を思い出して、なんとなく納得した。
「それでもマキさんが個室から出てきている時は、基本的に僕が見たり聞いたりすることは、マキさんも一緒に見たり聞いたりしてますね」
「じゃあ、マキさんとパニーニは、ずっと一緒にいるんだな」
パニーニは首をかしげながら、少し上目遣いになり、口に手を当てて何かを考えたようだった。
「うーん。そうでもないですかね。マキさん、基本的に寝るのが早くて、起きるのが遅いし」
「寝るんだ・・・マキさん」
「それに、たまに出かけて何日か留守の時もあるんですよね」
「出かけるの!?マキさん!?」
「そういえば、他の連中は寝たり出かけたりしないのに、何ででしょうね」
パニーニから話を聞けば聞くほど、謎が深まる別人格女性のマキさん。クリスは何が何だかわからなくなりつつも、妙に人間っぽいマキさんに親近感を抱いていた。
その後パニーニは、カラーズメンバーの性格を楽しそうに話した。どうやら会話を楽しむために、メンバーの性格をそれぞれ決めているらしい。情熱的な『レッドパニーニ』や、クールな『ブルーパニーニ』。陽気な『イエローパニーニ』に、おっとりとした性格の『グリーンパニーニ』。可愛いものが大好きな『ピンクパニーニ』や、何を考えているのかよくわからない『パープルパニーニ』。そして恐ろしく清らかな『ホワイトパニーニ』と、腹黒い『ブラックパニーニ』。
「ブラックパニーニなんて、黒髪なんだろ?じゃあ、本物のパニーニと差がないじゃない?」
「そうなんです。ブラックパニーニは、僕と見た目も考え方も似てますから、気が合うんです」
「え、ブラックパニーニって、腹黒いんじゃないの?」
「そうなんですよ。とっても気が合うんですよ」
あぁ、ということはパニーニも腹黒いのか。確かに言われてみればそうかもな、とクリスは妙に納得した。
「ファイエラの訓練しているときも、もうちょっと続けようかと思ったんですけどね。レッドは『悔いが残らないようにやれるところまでやろう!』とか言うんですけど、パープルはめんどくさそうな顔するんですよ」
「ふ、ふーん・・・」
「ブルーは『次あたりは家まで燃えそうだけど?』って感じで言うんですけど、イエローは『それも楽しそうだねー』って。」
「ふ、ふーん・・・」
「で、最終的には『クリスさん燃やしちゃっても、どうせすぐ元気になるでしょ』っていうブラックを、ホワイトがしばき倒しましてね。まぁ、もうちょっと続けても良かったんですけど、そこでおしまいにしました」
「ほほう」
クリスは、自分のこめかみあたりがピクピクと震えていることを感じた。
「それで、そのときにピンクパニーニと、グリーンパニーニはどうしてたの?」
「ピンクはぬいぐるみで遊んでいて、グリーンはニコニコしていました」
カオスだ!!何という脳内カオスなんだ!クリスは驚愕しつつも、興味と興奮が抑えられない。
「あのさ、あのさ。別人格たちって、ほかに何かやってるの?」
「色々やってますね、たとえば・・・」
次々と明かされるパニーニの生態に、クリスは驚いたり納得したり、時には吹き出したりしながら、楽しい夜は更けていった。
『パニーニ、今日は楽しそうだったじゃない』
「そうですね。とても楽しかったです!」
『・・・なんか、やだ』
「えぇ!どうしたんですか、マキさん!」
『パニーニが他の人と楽しそうに話しているのが、なんかやだ』
「そんなぁ。誰とでも仲良くしなさいって、マキさんが言ったんじゃないですか」
『言ってない』
「うわっ。酷っ!」
『もー!いいからパニーニはもう寝なさい!明日いろいろやることあるから、いいわね?』
「また何か思いついたんですか?やだなぁ」
『やだじゃない』
「ずるいよ、マキさん。なんかやだ、とかさっきマキさんの方が先に言ってたじゃない」
『言ってない』
「うわぁぁぁぁ・・・」
夜が明けた。
今にも雨が降りそうだった。厚い雲が立ちこめている。遠くで雷が鳴っているようで、時々低い地鳴りのような音がしたり、山の向こうが光ったりしている。
クリスの傷はもうほとんど癒えているようで、足をかばうような仕草も見られない。いつの間にか、クリスが元々着ていた服は洗濯されていて、破れていた部分も繕われていた。クリスは久しぶりに自分の衣服に袖を通していた。昨日まで着ていた服は、おそらくこの家の元の主人、ウィルゲイム博士のものだったのだろう。
朝食は少し大きめにスライスされたパンに、ベーコンと目玉焼きがのせて、岩塩と香草をブレンドした調味料が振りかけられた、オープンサンドのようなものだった。ベーコンはワイバーンの肉から作ったもので、卵はハーピーの巣から今朝採ってきたものだという。ハーピーは人面の鳥で、奇声を上げながら襲いかかってくる魔獣で、クリスにはその卵が食用であるとはとても思えなかった。パニーニによると、ハーピーの雛は少し大きめのヒヨコみたいなもので、見た目は完全に鳥なんだという。成長するに従い、頭が人間に似てくるらしい。
クリスは過去に一度、ハーピーに襲われたことがある。ハーピーは基本的に群れで行動するが、そのときは10数体のハーピーに囲まれていた。幸いそのときは護衛の傭兵団が同行していたので、10数体のハーピーは弓の一斉射撃で次々と撃ち落とされていった。矢に射貫かれて奇声を上げながら落下するハーピーの顔はまさに人間のそれで、地面に落下したハーピーは、とても正視することができなかった。
「これ、ハーピーの卵なの?」
「はい。ハーピーの卵です。どうかしましたか?」
クリスは過去のトラウマが蘇り、口をつけるべきか躊躇した。
「ちょっと、昔色々とあって、ハーピーは苦手かも・・・」
「えー!好き嫌いはダメですよ、美味しいんですから。それにハーピーの卵は目にとても良いので、クリスさんみたいな研究者は食べた方が絶対に良いですよ」
世話になっておいて出されたものを食べないのも失礼だな、とクリスは恐る恐るオープンサンドを口に運んで、思いっきり噛みしめた。そして目を見開いた。驚くほど美味しい。黄身の部分は濃厚でありながらクセがなく、岩塩の塩味がとてもよく合う。ワイバーンのベーコンも表面はカリカリなのにジューシーで、口の中にじわっと肉汁が溢れる。パニーニの焼いた少し甘めのパンに、本当によく合っていた。
「これは・・・美味しいね」
「そうでしょー!これ食べちゃうと普通の目玉焼きが味気なく感じちゃうんですよ。それに黄身に含まれる成分に、目の周りの筋肉にとても良いものがあるみたいで、食べるとすぐに視力が回復する効果があるんですよ」
クリスは部屋の中を見渡しが、確かにいつもよりはっきり見える。最近は本の読み過ぎで遠くが霞んでよく見えなかったが、それが嘘のようによく見えるようになっていた。
「本当だ・・・よく見える!」
「今はまだ一時的な回復ですけどね。定期的に食べるとすっかり目が良くなりますよ」
「へー、それは知らなかった」
パニーニは魔法の才能だけではなく、身体能力や回復力も突出している。もしかすると、毎日当たり前のように魔獣の肉を食べることによって、特別な体質が備わっているのかもしれない。
「そういえば、クリスさんは何で一人で山奥にいたんですか?」
パニーニはサラダを頬張りながら言った。
クリスは急に沈鬱な表情になり、食事の手を止めた。
「実は、今回私が同行していた研究チームには、私の弟も参加していたんだ。もう3週間ほど前になるが、研究チームが拠点にしていた町の宿舎から、弟が突然いなくなってしまったんだ」
「この辺で町っていうと、サウロカの宿場町のことですか?」
「そう街道沿いの宿場町だな。この家からだと、4日間くらいかかるかな。」
「え?4日ですか?4時間くらいで着きますよ?」
「・・・普通は4日かかるんだ」
パニーニは不思議そうな顔をしている。パニーニには一般常識が通じないところがある。
「とにかく、弟、クルーシャは突然、宿舎から姿を消してしまったんだ。目撃者の話では、真夜中にほとんど着の身着のままでフラフラと歩いていて、声をかけても反応がなかったそうだ。仲間たちと宿場町や街道の周辺を探したが見つからなかった」
「どこに行ってしまったんでしょうね?」
「ああ、わからない。でも、手掛かりがあったんだ。クルーシャがいなくなってから7日間ほど経ったときに、山奥から帰ってきたという狩人から、クルーシャと思われる人物を見たという証言があった。街道から山奥に向かう道で、それらしい人物とすれ違ったという。ブツブツと何かをつぶやいていて、声をかけても反応を示さなかったみたいなんだ」
「サウロカの宿場町から山奥に向かう道というと、この家の近くを通る道ですね・・・」
パニーニは視線を落とした。脳裏に10日程前の記憶がよみがえる。
「私はクルーシャを探すために、研究チームと別行動をとることにして、一人で山奥に向かったんだ。そして4日目だったかな、山道を4日進んだところで、あの黒い大きな怪物に襲われた。あとはパニーニの知っているとおりだよ」
しばらくの間、沈黙が続いた。パニーニは、相変わらず視線を落としていたが、いつの間にか頭を抱えるような姿勢をしている。つい先ほどまで明るく元気だったパニーニの変化を訝しく思った。
この時、パニーニはすでに予想してしまっている。そして自分の予想が、おそらく外れていないこともわかっていた。胸がひどく苦しい。急激に口が乾く。パニーニは頭を抱えながら、ボソッとつぶやいた。
「・・・クルーシャさんは、その・・・どんな、どんな特徴の方ですか?」
「年の離れた弟でね。私より10歳若い25歳なんだ。母親似で私よりも随分小柄なんだ。一見すると女性のようにも見えるかな。私物がほとんど部屋に残されていたので、本当に普段着で、あぁ当日はどんな服装だったかな、とにかく、荷物も何も持たずに急にいなくなってしまったんだ」
パニーニは少し青ざめて、よろよろと立ち上がった。その様子を見たクリスは、何かを察したのか、目を見開いて立ち上がった。パニーニの手は小刻みに震えているようだった。
パニーニは壁際まで歩くと、戸棚の扉を開けて浅いため息をついた。振り返ったパニーニの手には、何か金属のようなものが握られており、パニーニは黙ってクリスに差し出した。
「これに、見覚えはありませんか?」
「これは・・・。弟のブレスレットによく似ている?いや、弟のものだ!これはなぜここにある!?」
クリスは早口でまくし立てた。
パニーニは、10日ほど前に山奥で倒れている人を見つけたこと。その人は既に死んでいたこと。特徴がクリスの弟に似ていること。そして、身元の手掛かりのためにブレスレットを外し、遺体を埋葬したことを伝えた。クリスはブレスレットを握りしめ、無言で天を仰いだ。しばらくして、クリスは絞り出すようにパニーニに問いかけた。
「その場所を・・・教えてもらえるか?」
「もちろんです。案内します」
空は暗く、今にも雨が降り始めそうだった。
朝食を片付けると、パニーニとクリスは身支度を調え、山奥に続く道に向かった。パニーニは、クリスを背負って走ろうかと提案したが、クリスは力なく笑って断った。パニーニが遺体を見つけた現場は、大人の足で半日ほどかかる。途中、ほとんど休むことなく、パニーニが遺体を見つけた現場に向かった。二人の足取りは重く、ほとんど会話を交さなかった。
しばらくするとボツボツと小雨が降り始めた。二人とも雨具の用意をしていたが、それを使うこともなく、濡れながら歩いた。クリスはうつむきながら歩いた。自分がどう歩いたのかよくわからなかった。ただひたすら歩いた。顔が火照っている。首のあたりが妙に張っている。時々目の前が真っ暗になって足腰から力が抜けることがあったが、それでも歩き続けた。
パニーニはクリスを気遣うように足を止め、振り返った。クリスはその都度、激しく動揺した。そして、パニーニが歩き始めると、安堵した。それが、幾度となく繰り返された。
パニーニが足を止めた。
振り返らない。
クリスは叫びだしたいような衝動に駆られた。
「あそこに、見えますか?」
茂みの少し先が切り開かれていて、少し広い空間が作られていた。下草だけではなく、木々の枝も一部取り払われていて、山奥の森に似つかわしくない開放的な場所だった。その中央に、やや粗く加工された円筒形の白い岩が、墓標として置かれていた。パニーニが作ったものだろう。
クリスは墓標の前に座り込んだ。墓標には、ネックレスがかけられていた。震える手でネックレスに触れると、そのまま肩を落としてうつむいた。クリスの大柄な体が、ひどく小さく見える。パニーニは少し離れたところで、黙ったまま見守った。
いつの間にか小雨がやんでいた。雲の切れ間から陽光が差し、墓標を照らした。白い墓標は雨に濡れ、日差しを反射してキラキラと輝いた。しばらく俯いていたクリスは、顔を上げ墓標を見つめた。パニーニは何も言わない。クリスは長いこと墓標を見つめていたが、不意に立ち上がり振り返った。寂しそうな笑顔だった。
「パニーニは、死後の世界って信じているかい?」
「僕はあまり信じていないんです」
「ははは・・・私もそうだ」
クリスは空を見上げて、眩しそうに目を細めた。
「クルーシャが笑って言ったんだ。先に行くけど、気長に待っているからゆっくりしておいで、って。そんな声が聞こえたんだ」
「そんな不思議なことってありますかね?クリスさんの頭の中にクルーシャさんの人格でもできたんじゃないですか?」
「ははははっ!私も多重人格者か!」
「そうですよ。僕とクリスさんは多重人格仲間です」
クリスは指で目尻を拭った。寂しそうだが、弟の死を受入れたように見えた。
「じゃあ、戻ろうか」
「はい。墓標は・・・このままでいいですか?」
「ああ。ありがとう。このままでいいよ。とてもきれいだ」
クリスはまたしばらく墓標を見つめ、大きく深呼吸すると、ゆっくり歩き始めた。
小屋への帰り道、クリスは楽しそうに話をした。子どもの頃にクルーシャとけんかをした話や、一緒にいたずらして両親からこっぴどく叱られたことや、魔導研究という同じ道を歩むライバル関係だったこと。パニーニは笑ったり時々茶々を入れたりと、楽しく話を聞いていた。小屋に向かう下り道は時々泥濘んだところがあったものの、足を取られるほどでもなく、二人は、行きに比べるとずいぶん速いペースで歩いた。
すでに夕方に近く、日が傾いている。もうまもなくパニーニの小屋に着くだろう。クリスは少し疲れてきて、パニーニに小休止を求めた。パニーニは足を止めたが、返事をする訳でもなく、振り返るわけでもなく、ただ足を止めた。クリスは道ばたの岩に腰を下ろすと、水筒を口に当て、水を飲み干した。
「パニーニ、君も少し座りなよ」
パニーニは返事をしない。
「どうした?なにか忘れ物でもしたのかい?」
パニーニは返事をせず、少し腰を落とすと、ベルトに下げられたナイフを引き抜き、森の中をじっと見つめていた。クリスは、パニーニが何かを察していることに気がつき、立ち上がって短剣を構えた。まだ空は明るかったが、日が傾いていたため、森の中の小道はすでに薄暗い。風が木立を揺らし、ザワザワと音を立てている。
シュッとした短い音が聞こえ、黒い何かが飛んできたと思うと、パニーニは素早くナイフではじき返した。パニーニにはじき返された黒いものは、大木の幹に突き刺さった。黒い矢のようなものだが、鏃も羽もない。そしてすぐに黒煙を上げて霧散していった。
「な・・・何なんだ!」
クリスは叫んだ。
「狙いは正確です。動かないでください」
パニーニはクリスに向かって静かに言った。パニーニは、黒い矢のようなものが発せられた場所とクリスの間に立ち、森に向かってナイフを構えている。
短い音が立て続けに発せらる。
パニーニは次々と黒い矢のようなものをはじき返した。はじかれた黒い矢はパニーニの周囲に散らばり、霧散した。クリスにはパニーニの動作が見えない。
直後、森の奥から黒い巨大な影がパニーニに飛びかかった。長い腕がパニーニを切り裂こうと振り下ろされる。
パニーニはナイフで腕を払うと、素早く黒い巨体の懐に潜り込み、左腕をたたき込んで巨大な火球を食らわせた。巨体は一瞬で巨大な炎に包まれ、絶叫した。
パニーニは素早く飛び退き、クリスに岩陰に隠れるよう指示した。黒い巨体は絶叫しながら地面をのたうち回り、ようやく炎が消えると低いうなり声を上げて立ち上がった。
「コイツだ!コイツに襲われた!」
岩陰のクリスは叫んだ。
パニーニの目つきが変わった。
人の2倍はありそうな黒い巨体に、長い腕のようなものが4本。2本足で立ち、翼のようなものが4つ見える。長い首の先には小さな頭があり、無数にある小さな目のようなものがギョロギョロとあちこちを見回している。黒巨人は叫び声を上げるとパニーニに向かって2本の腕を差し向けると、指のようなものが突然鋭くトゲのように伸び、シュッという音とともに連続して発射された。
パニーニは素早い身のこなしで、数本のトゲを躱し、他のトゲをナイフではじき返した。
黒巨人がパニーニに飛びかかる。
2本の腕の先が巨大な鎌のようになり、もう2本の腕からトゲが生えた。
2本の腕からトゲが発射される。
パニーニは躱すことなく距離を詰める。
トゲはパニーニの面前で何かにはじかれた。
「魔力障壁!?」
クリスは叫んだ。
パニーニはナイフで黒巨人の鎌を切り落とそうとする。
乾いた音がして、パニーニのナイフは黒巨人の腕の外殻にはじかれる。
バランスを崩したパニーニにもう片腕の鎌が振り下ろされる。避けられない、とクリスが思うと同時に、パニーニは後ろに吹っ飛び、振り下ろされた鎌を躱した。風のハイルーン「ウィンディ」で自分の体を後方に飛ばした。
パニーニは着地すると間髪入れずに黒巨人に向けて飛びかかる。強靱な脚力に加え、風のハイルーンを併用し、常人では目視できないほどの速度で黒巨人に迫る。
黒巨人は4本の腕を鎌に変えて迎え撃つ。
黒巨人はパニーニに鎌を振り下ろす。
パニーニは空中で風のハイルーンで体をひねり、鎌を躱す。
パニーニは振り下ろされた鎌にナイフを叩きつける。ナイフが外殻に届く直前、ナイフの先端に水のハイルーン「ビュージュ」と冷気のハイルーン「クルド」、そして圧縮を意味する「プレシオ」を掛け合わせた無数の氷刃を生成し、氷刃とナイフを連続して切りつけた。
氷刃で傷つけらた外殻はナイフで切り破られ、黒巨人の腕は両断された。
黒巨人は叫ぶ。
パニーニは着地した刹那、残りの3本の腕を切断し、黒巨人の腹部に巨大な火球を叩きつけた。
黒巨人は絶叫し燃え上がり、ヨロヨロと後ずさりした。
パニーニは身構える。
後ずさりした黒巨人は、火炎に焼かれながら、何かとても耳障りなうなり声のようなものを上げた。
その瞬間、黒巨人は閃光を上げ、パニーニに向けて電撃を発した。
とても避けられない。
パニーニは電撃の直撃を受け、体が硬直すると、ガクっと膝をついた。
大きなダメージを受けたはずだ。だが、パニーニは黒巨人から目をそらさない。
「ハイルーン詠唱!?パニーニ!コイツは魔族だ!」
クリスが叫ぶ。
パニーニは立ち上がり、再び身構える。
黒巨人は火炎に包まれながら、うなり声を上げ、電撃を発する。
パニーニに直撃する。だが、パニーニは魔力障壁を展開し、電撃の威力が減退させた。
パニーニのダメージは大きくない。だが、次々と繰り出される電撃で、パニーニは黒巨人に近づくことができない。パニーニは後方に大きく跳躍し、黒巨人から距離をとった。
肩を大きく揺らし息をするパニーニ。魔力障壁は、特殊な訓練を積むことで収束した魔力の壁を作ることができるが、その訓練を受けていないパニーニは、無意識に全方位に魔力を放出し、電撃を弱めようとしている。当然、魔力の消費は激しく、体力も大幅に削られる。
黒巨人は火炎に包まれながら、いまだ倒れる気配がない。ナイフによる斬撃と火炎攻撃では、黒巨人を倒すための決定打とならないようだ。
黒巨人がパニーニ向かって、一歩踏み出した。
パニーニはさらに後方へ飛びのく。激しい火炎の中で、黒巨人の切断された腕が、伸びているように見えた。
「再生、しているのか・・・?」
クリスは信じられないようにうめいた。
じりじりと後退しながら、ナイフで身構えていたパニーニは、不意にナイフをベルトの鞘に収め、両腕を前に突き出した。その直後、パニーニの前に巨大な火炎が現れると、その火炎は徐々に収縮し、拳大の白い光の球となった。
「あの火炎の大きさ・・・10倍威力のファイエラ、ファイエラアルフィンをさらに10倍にしている!それを圧縮しているのか!?」
白い光の球は、ジジッと音を立てている。光の球が大気を揺るがす。
パニーニは大きく息を吸い、右腕を腰まで引き、殴りつけるように前に突き出した。
白い光の球は黒巨人に向かって突っ込み、大爆発した。
森の木をなぎ倒し、地面を吹き飛ばし、轟音とともに灼熱の爆風が黒巨人を襲う。クリスは岩陰に隠れ身を伏せるが、岩ごと吹き飛ばされた。
「なんて威力だ・・・」
クリスはなんとか体を起こし、爆心地を見ると、火炎に焼かれながら、なお黒巨人は立ち、咆哮を上げている。よく見ると切断された腕が再生し始めている。
「そんな・・・あの爆発の中で生きていられるのか!?」
パニーニは、フーっと大きく息を吐いた。
そして両腕を前に突き出すと、また巨大な火炎を発生させ、白い光の球を生成した。
「あれをもう一発食らわせるのか!?」
あの威力の攻撃をもう一度繰り出せば、あの魔族を倒せるかもしれない、クリスは思った。
パニーニの白い光の球が、ジジジっと音を出すと同時に、また新たな巨大な火球が現れた。
「!!二つの魔法を同時に!?多重魔法・・・いや、同時詠唱か!!」
クリスが叫ぶと、新たに発生した巨大な火球は、また白い光の球に収束していった。
パニーニの目が光った。
次の瞬間、パニーニの周りには次々と巨大な火炎が出現し、それが光の球になっていき、8つの光の球が浮かび上がった。光の球はそれぞれが反発し合うように等間隔で円を描いて並んでいる。
「1、2、・・・8個!!?あの球を8個も使うのか!!」
クリスは叫んだ。
「パニーニ!私に遠慮しなくていい!やってしまえ!!」
パニーニは腰を落とし、腕を引いた。
呼吸を整え、体に力を込め、黒巨人を睨む目に一層力を込めて、そして叫んだ!
「行くよ!マキさん!!」
「え?マキさん!?私じゃなくてマキさん!??」
どういうわけか、クリスも叫んだ!
パニーニが拳を突き出すと、8つの白い球は大気を震わせて黒巨人に襲いかかり、次々と黒巨人に着弾すると、真っ白な閃光とともに巨大な爆発が起こった。森が吹き飛び、地面が大きくえぐられ、巨大地震のように大地が揺れた。クリスは身を伏せて頭を抱え、吹き飛ばされまいと、必死に大岩にしがみついた。灼熱の爆風で体が焦げそうだった。クリスは目を閉じて必死に耐えた。激しい爆音が聞こえたが、すぐに耳鳴りに変わった。あまりの音で耳の感覚がおかしくなった。
どのくらい時間がたったのだろう。
ようやく爆風が収まり、少しずつ音が聞こえるようになってから、恐る恐る目を開けたクリスは、無残に吹き飛ばされた森と、地獄の入口のようにぽっかりと口を開いた、巨大な穴を見た。穴の中心には、バラバラになって焼け焦げた黒巨人の残骸のようなものが見られた。穴のふちに立っていたパニーニは、高く跳躍し、穴の中心に降り立った。それと同時に、黒巨人の残骸に無数の氷刃を繰り出し、残骸をさらに細切れにして、塵になるまで燃やし尽くした。
しばらくするとパニーニはクリスに向かって手を振った。
「もう、大丈夫だと思いますよーーー」
パニーニは笑顔で手を振っていた。クリスはへなへなと腰が抜け、情けない笑顔を向けた。
クリスは、爆風に吹き飛ばされたときに、あちこち擦りむいて、少々の打撲を負っていた。幸い、いずれも大したケガではなく、治癒魔法をかければ一晩で回復する程度の傷だった。手を振るパニーニは元気そうだ。クリスはほっとして、力なく手を振り返した。
「ちょっとーーー!クリスさん、大丈夫ですかーーーー」
パニーニは楽しそうな表情でクリスに向かって歩き始めた。
「これは、君がやったのかい?」
パニーニの全身が硬直した。パニーニの背後に何者かが立っていた。背の高いその男は身動き一つしないパニーニの耳元に口を寄せ、声をかけた。
「すごいなぁ。でも、ちょっとやりすぎかな」
パニーニは目を見開いたまま、指一本動かすこともせず、声も上げない。背の高い男はパニーニの背後に転がる黒巨人の残骸に目を向け、続けた。
「君に危害を加えるつもりはないから安心して良いよ。確認しに来ただけなんだ。見た感じ、君は違うみたいだし、少し残念だけど良かったよ」
背の高い男はニコニコと笑いながら、パニーニをジロジロと眺めてゆっくり歩いた。
「うん、やっぱり違うね。そっかそっか。でも念のため聞いてもいい?」
背の高い男はパニーニの正面の立つと自分の膝に手を置き、少し腰をかがめてパニーニの顔に、自分の顔を寄せた。背の高い男は、さっと表情を消す。
「※/%&#¥$?」
『!!!!』
「え?」
パニーニはようやく小さく声を出した。背の高い男は冷たい表情のまま、もう一度話しかけた。
「※/%&#¥$?」
背の高い男は何かを問いかけているようだが、パニーニは何を言われているのか全く理解することができず、何の反応もできない。その様子を見た背の高い男はニコッと笑って顔を離した。
「うんうん。そうだよね。ありがとう。驚かせちゃって悪かったね」
背の高い男は手を振るような仕草をすると、パニーニの目の前から音もなく消えた。パニーニは呆然としたまま、しばらく身動きすることなく立ち尽くした。
クリスがおぼつかない足取りでパニーニの元に駆けつけた。
「おい、パニーニ!おい!大丈夫か!?」
クリスはパニーニの両肩をつかんで体を強く揺すった。パニーニはハッと我に返って、慌てて大きく息を吸った。どうやら呼吸をしていなかったらしい。しゃがみ込んで荒い息をするパニーニに、クリスは水筒を差し出した。金属製の水筒は、爆風で吹き飛ばされたときにどこかにぶつけたようで、大きく歪んでいた。水筒を受け取ると、パニーニはゴクゴクと水を飲んだ。
「ありがとうございます。助かりました」
パニーニの表情を見て、クリスは安堵の表情を浮かべた。
「なあ・・・。さっき、誰かいたように見えたんだけど」
「はい。いました。急に後ろから声をかけられて。どこから現れたのか全くわかりませんでした。で、よくわからないうちに、消えました」
「何だったんだろうな・・・。そうだ!おまえ、けがはないのか?」
パニーニから水筒を受け取ったクリスは、そう言うとパニーニの体を見回した。
「あ、けがはないと思います。たぶん何も当たってませんから」
あれほどの激しい戦闘のなか、パニーニはかすり傷一つ受けていないようだった。クリスは呆れつつ、パニーニの無事を喜んだ。パニーニは立ち上がると、足腰をパンパンと払った。首を回し両手を突き上げて背伸びをすると、明るく言った。
「じゃ、帰りましょうか」