第1章 宝箱
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「バカンスもこれで最後か」
来季はビーチパラソルの下にあるハンモックの中で寝返りを打とうとするも、残る余暇を堪能するため起き上がった。
本を読みながらいつの間にかうたた寝してしまったようだ。
ギンギンに照らしつける日光もすでに西の果てへと傾き始めている。
ヤシの木が生い茂るこの浜辺で、真夏のイメージを象徴するかのような光景だ。
自分は最高の夏を楽しんでいる。
それがれっきとして証明できるひとときだった。
明日の朝までまだ時間はある。
そろそろ海水浴でも楽しんでおくか。
水着姿のままハンモックからゆっくりと降りると、本をその上に置いて浜辺へと向かった。
休憩地から歩けばすぐに煌びやかな海の見える浜辺が見える。ごつごつとした岩場も多く、浜辺にはカニの歩く姿や空高くを舞うカモメたちの声、そして落ち着いたさざ波の音が聞こえてくるのがよく分かる。
沖縄は好きだが、数多く旅行してきた列島の中で一番好きな離島は何と言ってもやはりここ石垣島だった。
どの島も好きではあるが、特段この島のこの浜辺が催す景色に一発で惚れた来季の脳裏には、夏の休暇を楽しむスポットと言えば、確実にこの場所しか思い浮かばなかった。
海辺沿いの歩道を散歩すれば、そこはもう来季の楽園そのものだった。
少し歩いて大きな岩場のある浜辺まで来た。
傾きつつある太陽を眺めながら、ゆっくりと砂場に腰を落ち着ける。
胡坐をかきながら、両手をゆっくりと後部に置いてそのまま寝そべろうとした。
途端に右手の指が何かに挟まれるような強い痛みを感じ、反射的に手を振る。
「いったっっっ!」
近くでパサッと乾いた音がして、何かが落ちた。
目を向けると小さなカニが急いで来季から逃れようとせっせと横ばいしていた。
「おう、お前か。いてえよ」
指をさすりながら、その行く末を見やった。
カニは近くの窪んだ場所を見つけてそこに無理矢理自身の体を押し込んでいく。
すぐさま姿が見えなくなったかと思いきや、カリカリと何かを引っ掻く音がして穴から出てきた。
来季の反対側へ向かい、少し横ばいして逃げ切ったかと思うと、また同じように穴を掘ってその姿を消した。
最初の逃げ口が気に入らなかったらしい。
少しばかり滑稽な光景に思えた。
ただ………。
「なんか、金属を引っ掻くような音だったな」
当たり障りのない妄想癖が彼の想像力をかき立てた。
もしかして宝箱でも埋もれているのか?
そうとなれば一攫千金のチャンスだぜ。
もちろん本気でそうは思ってはいないことを理解していながら、来季は片手を突っ込んでカニの最初の逃亡先を掘り起こした。
すぐに硬い何かに手を触れた。
表面が平坦になっていて、横に広がっているようだ。
その表面にかかっている砂を両手で払い、そこに現れたものを見た。
中央には丸い鍵穴があり、青磁色の金属でできた鉄板のようなものに所々棒のような支柱が張り巡らされている。
………まさか、そんなことが?
彼は周りをまさぐって角がないか探してみた。
あった。
周りをさらに掘ってその全貌をさらしてみた。
上部が丸くなった横長の、まさに宝箱とも呼ぶべき形状の鉄の箱がそこにはあった。
両端にある取っ手を使って外へと引っ張り出してみる。
思わずといった形で誰かに見られていないか周辺に視線を投げてから、宝箱に目を落とした。
「マジかよ。キャプテンキッドの最後の財宝でも入ってるのか?」
冗談で驚きを隠せない感情を誤魔化そうとするも、好奇心がすでに頭をもたげていた。
自分はトレジャーハンターではないし、その類の関心もない。
だが、こういったものを実物として目にする度にある分野の関心が向くことは避けられなかった。
「これはきっと、オーパーツの類かなんかだな」
それにしても、これはどうやって開けるのだろう?
鍵がかかっているだろうし、どちらにしても確かめることはできないのでは?
そう思いつつ上部の蓋に力を込めてみた。
すると、少しばかり動き始めたではないか。
鍵はかかっていないようだ。
鼓動が早くなっているのが容易に確認できた。
本当に一攫千金のチャンスがあるのかもしれない。
これを世に公表したとして、どこかの財団か何かに買収することができれば………。
高鳴る鼓動を抑え、彼はゆっくりとその蓋を開けてみた。
強く塩辛い匂いと、泥のきつい匂いが混じって来季の鼻を刺激する。
中に入っていたのは、古びた古紙がくしゃくしゃになって丸まっているものだった。
何かを包んでいるらしい。
宝箱を置いて、古紙を取り出す。
手触りで確認する限り、平べったいものが包まれているようだ。
彼はそれを取り除いて、幾重にも包まれたものの正体を見た。
それは、手のひらに乗るほどの大きさの、金色のメダルだった。
表面には何やらいびつな形をしたアメーバのような模様が描かれており、その内部のある一点に小さなバツ印が刻み込まれている。裏側に返してみると表のバツ印と同じくらいのサイズで英語のような表記が中央に並ぶ形で六、七行ほど書かれている。
何かの記念品だろうか。
少なくとも大きな値打ちのある代物ではなかったことは確かのようだ。
「………何だよ、つまんねえ」
思わず声に出して不満を漏らす。
だけど………。
ふと考えを改めてみる。
どんな代物なのか自分が単に知らないだけであって、後々にそれが一世一代の大発見だった、という展開もありうるんじゃないか。………例えばこれが昔の王様だけが持っていた何らかの権威の象徴とか。後々になって価値のあるものだったなんてことは、この世界じゃあザラにある。
一応持って帰ろう。誰に咎められるわけでもないしな。
そう考えてメダルを箱から完全に取り出し、くしゃくしゃの紙を丁寧に箱の中に納め、それを丸ごとハンモックに放り投げた。
………何枚かの古紙のうち、その一枚の裏にも英語に似た表記―少なくともその文字を見たとするなら確実に英語であることが確認できるはずだ―が記されているであろうなどといったことは知る由もなかった。
ましてや、その意味なども知りえることは今のこの青年にとって到底実現することのない現実だったであろう。
もう少し入念な性格の持ち主であれば、その文字の執筆者が大航海時代に生きた航海家であり、更に遥か太古の時代から脈々と継承されてきた、ある可能性を未来の世代に託した、という歴史的発見を知ることにもなりえたであっただろう。
しかし、知らぬが仏としか言いようのないこの若者の行動はそれを実現不可能にさせたのだった。
彼はそれを知らない運命を辿ろうとした。
少なくとも、今の時点では。
そこに誰にも理解しえない、荒唐無稽な表現が綴られていたという事実を知ることになるであろうなどとは。
………「巨人の心臓、ここにありき」などという、奇想天外な言葉を知るなどということは、彼の現在の行動範囲の中からでは、ほぼ確実に不可能なことだった。
だが、そのすぐのちに彼は自分がこの世界で突拍子もない代物を拾ったことを否応なく知ることになる。
その引き金を引くのは、まんざら意外な人物でもなかった。
そう、彼の友人である英章だ。
昔からの古株の仲である彼に、来季はさりげなく、しかし、実にどうでもよい電話をかけたのだった。
「本当に来るのか、あいつ。まだ向こうだろ?」
関心のなさそうな、さり気ない友達の発言に対抗するかのように英章は言い返す。
「もちろん来るさ!俺と来季の絆ってやつを侮るもんじゃないぜ」
がやがやした空港から離れたビジネスホテルの一室から外の様子を眺めていた剛毅は、ベッドで横たわる彼に視線を戻す。
自分の友達でもある彼の発言に対抗心があると見たわけではない。あえて言った軽い冗談のようなものだと認識してはいる。それでも、共通の友人である来季に対するちょっとした不満を漏らさずにはいられなかった。
「そもそも、本来的に石垣島のバカンスは俺たち二人も同行する予定だったんだぜ。それが今回のお前の留学の件で丸つぶれになっちまった。どんなに親しくても、仲間無しで一人旅行に行くってのは、まあ、何と言うか、癪だという言い方もできなくはないよな。とはいえ、プログラミングの応用知識だけでも教えることができたのは俺は良かったと思うし、その意味では結果オーライなんだが」
「ああ、感謝してる」
「まあ、そう捉えるなら別に来季が一人で何をしようとも俺らには何の言いがかりもないんだがな」
その時、テーブルに置いてあった端末がブルブルと鳴った。
手に取った英章が表示された画面を見ると、電話だった。来季からだった。
それを目にした剛毅が「話題の尽きない男とでもいうべきかねえ」と呟く。
それには答えず、英章は画面をスワイプして耳に押し当てる。
「悟りバカンス、ご苦労だな」
「いやいや、悟ってねえって」
「沖縄に行くと悟りを開けそうだ、とかいつも言ってるだろ」
「ああ、その類の悟りじゃねえな。全てを知りえる境地に至れるかもしれない、って意味さ」
「悟りじゃねえか」
フッと笑った英章の口調が気に入っているのか、来季はさして不機嫌な声音を取ることもなく話し始める。
「その悟りだがな、俺は億万長者になれるかもしれねえ、って意味の悟りを開けそうだぜ、ついにな」
「億万長者?漁でもしたついでにお宝でも釣り上げたか?」
「若干似てるけど、似ても似つかねえ」
「………どんな一攫千金を?」
そう聞かれた来季は自分でも考えてなかったほらを吹く。
「古代の遺産であろう、大昔の金貨だ!これは海賊キャプテンキッドの最後の財宝で、英国王室の実権を握れたはずの究極の代物なんだぞ!どうだ、驚いたか、がはは」
「………何ががははだ、見え透いた嘘をつく癖はそろそろ終わりにするべきだぞ、この英国王室相続権剥奪丸見えのハゲタカ野郎」
意味の分からない下らないジョークであることを知ってなお、来季は笑いながら続ける。
「帰ったら、実物を見せてやるから度肝抜かれるつもりで待っててくれよな。ちなみにハゲタカじゃなくてカモメのケバブなら土産にできるぜ」
再びフッと笑いを漏らす英章。
「楽しみにしてるよ。ちゃんと持ってこいよ?」
「ああ、間違いなく持ってく」
「ホントか?一緒にお前のほら吹きを証明する法螺貝でも持ってきてくれなきゃ、信頼できねえってやつだな」
「己の魂に懸けて持ってくる。ただ、俺の魂は法螺貝に突っ込んで持ってくるから、お前が渾身の力で吹いて吹き出さなきゃ魂に懸けて持ってきたことは証明できねえな。魂が逃げ出さないように虫かごでも用意しておけよな」
「お前の魂は虫かご並みのレベルか」
「そうだ。前世はカマキリだった」
「そうとなればメスにその頭を食い殺されること間違いなしだな」
「カマキリの習性か。以前は女房に惚れ込み過ぎて足元に口づけをしそうになったその瞬間に、危うく首なし男爵になりそうだった」
「いつからそんな"紳士的な"振る舞いを?」
「ヤマンバのような女房に富士山級盛りのビビンバを作ってもらった時だったな」
「………かけているようで、かけきれていないぜ」
「かけてるのは俺の魂であってヤマンバじゃないぜ。さっき言ったろ」
ブッと吹く英章。
思わずといった調子で吹いてしまった。今後は俺がほら吹きになるだろう。「ほら、吹いた」などと言われる前に何とか言葉を返さねば。だが、遅かった。
「ほら、今お前が吹いたおかげで俺の魂が法螺から出てこれた。これで俺はまっとうな正直者を証明できたことになる。まだまだだな、英章」
こいつめ。相変わらず、下らないジョークだけは達者だな。次回再会したらその首をとっちめてやろう。
それにしても、こんなジョークのために連絡したわけではあるまい。
「それで、バカンスは今日で最後だろ?なんか言づてでもあるのか?」
「ああ。明日は九時半ごろに羽田空港に到着する見込みだから、それまでに来るようにお願いしたくてな」
「………それだけか?」
「そう聞かれればそうだな。まあ、古代の遺産は本当の話なんだけどな」
「そうか。事実にしても虚実にしてもお前が言うとあんまり驚かないな。というより」
………そんなことで連絡してきたんかい。
内心突っ込みたくなる発言を堪えて、別の話を持ち出す。
「ところで、その"お宝"とやらは実際に持ち出して大丈夫なのか?どっかの記念館とかから物色してきたとかじゃないよな?」
「んなわけないだろ?ちゃんと自分で浜辺の中から発見したものだぜ。まあ、ちょっとした案内役に導かれたけどな」
「案内役?」
「実はな、カニさんが俺の指を挟んでおいて逃げていったついでに、その潜った砂の深くでカチッと金属の音がしてな。何かと思って掘り出してみたらこりゃあびっくりおったまげー、キャプテンキッドの秘宝だったというわけさ」
「カニに挟まれたのか。だっさ」
「雨降って地固まる、結果オーライさ」
「………少しばかり意味が違うけどな。まあ、盗んできたものじゃないならなんだっていいさ。というより、それは、どんなものなんだ?本当に金貨か何かか?」
「おう。見るも素晴らしい黄金の金貨よ。表面にはアメーバみたいな形の模様があるけどな」
「本当に金貨ならアメーバなんか刻まれていないと思いはするがな………もしかして何かの地形だったりとか?」
「まさか、そんなんあるわけ」
ないよな、と言いかけて言葉に詰まった。
………何かの地形?
突如として真面目に考え始める来季。
半ば本気でアメーバだと思っていたが、確かにアメーバが本当に金貨と呼ばれる代物に刻まれているような事例はない。彫り込まれるのは本当に価値がある何かだ。
だとすれば、いびつな形状のそれは一体全体何なのか。
もう一度見てみよう。
ハンモックに放り投げておいた箱を無造作に取り出して、中をもう一度開け、目的のものを手のひらに乗せて眺めてみた。
………何となくアメーバにしか見えないような気がするんだが。地形?
妙なところで興味が湧くこの大学生の関心は、次第に真面目なものへと移ろっていった。
確かによく見直してみると、まるでイギリス本島とか、どっかの島とか、そんな風に見えなくもない。
待てよ、島………?
島と呼ぶ何らかの形を象徴しているとしたら、確かに島だ。
というより………。
………あれ???
「えええっっっ!!!」
そんなことが果たして本当にあるのか!?
この形は………沖縄地方を攻略した者なら誰でも分かるはず。
というより、これは本当にそうとしか思えない!
来季は電話越しに思わず叫んだ。
「ちょっと待てよ!!!これ、石垣島の形にそっくりだぞ!?石垣島で石垣島の金貨を発見って、一世一代の発見じゃね???」
「ん~まんざらびっくりでもないかもしれんが、まあ、偶然の一致ということはあり得るよな」
「いや、マジですげえよ、これ!!!おっかなびっくり度、百パーセント確実!すげえ!!!」
あまりに音量が大きいので、英章は通話をマイク設定にして剛毅と彼の声を共有した。声が大きいので、共有する以前から何となく会話の流れを掴んでいた剛毅も関心を示す。
「昔の人物か何かが石垣島の上陸の証として金貨にしたとか?」
久しぶりに聞いた友人の声で剛毅も喜ぶ。
「いや、金貨として鋳造するには島の形を実際に測ってから本国かどこかで鋳る必要があるだろう。金貨の作られた場所がここ日本以外だとしたら、また母国に戻ってからこっちへ来るのはかなり骨が折れるぞ?実際に大航海時代だとしたら二度目が全く同じ場所に到達するとは限らん」
わりかしかなり現実的なことをさらっと述べる英章。それでも、剛毅は来季の感情に協調的だ。「でも、ちょっとした偶然にしては、すごいと思ってもおかしくないよな!」と驚きを隠さない。
「いや、ただの偶然だろ」
否定的な意見を崩さない英章の発言をも耳には届かない来季は、ふっとその島に刻まれたものに視線をやった。
バツ印が刻まれている部分だ。
「今回で人生最後のおさらばというわけではないが、しばらくは会えそうにないな。まあ、たまに連絡をやり取りするくらいなら全然できるんだが」
「おう、さりげなく寂しい思いをさせられることに関しては何も咎めていないぜ。ヒデの健闘を祈ってるよ」
「ありがとうな。俺が実現させたいことのためにいろいろと手を貸してくれたことは本当に感謝してるよ」
「礼は要らないさ。俺も俺で手伝ってもらったことはたくさんあったしな。それぞれの夢を実現させるためにもお互い邁進していこう」
急に真摯な口調になったことに安心感のような感覚を覚えながら「そうだな」と返すにとどめる英章。
「それじゃあ、また明日な」
「おうともよ。楽しみにしてるよ」
端末を耳から離した直後に剛毅が話しかける。
「相変わらずの蛇足的な連絡だったみたいだな」
「どうやらな。ホント相変わらずだぜ」
にやにや笑いを止めずにテーブルに端末を置く。
親しみを込めて連絡をくれたことが何となく嬉しいと感じた。
とはいえ、この時点では誰にも明かすつもりはなかった。
カリフォルニア大学へ留学することの真の目的が、ベンチャー企業の創業に向けた準備とは別に、謎のプログラミングに特化したある研究の募集にあるということを。
この世界には、未だに知られていないテクノロジーが存在する。
それを掌握することができるのは一握りの者だけである。
目の前の技術に関してそう解釈することでしか物事の視点を捉えられないメルロイ先進研究局長は、今自身が関わっている秘密組織の中枢部にある国家機密を目の前にしてほくそ笑んでいた。すなわちそれは、全人類の脅威となる存在に対して同等の脅威をもって抑制する存在のことだった。とはいえ、「現物」が今自分の目の前にいるわけではない。あるのは、手元にある「現物」の設計図だ。紙面に事細かく羅列された極小の説明文やそのモデリングデータ、「現物」を製造する根源となった本体から採取してきたサンプルの解説など、専門用語が所狭しと並べられているそのいくつかの用紙を眺めるだけで内心に潜む優越感のようなものを抑えられずにはいられなかった。他国に比べて我が国の軍事力が圧倒的な優位を占めていることに関してだ。
だが、それでも………。
それでも、このテクノロジーが存在するということは、上部の者たちから伝えられてきた「それ」が現に実在することに他ならないということでもある。
「それ」が意味するもの。
決して考えたくはない。
だが、現実に訪れる可能性はないわけではない。むしろ、現実化する確率の方が飛躍的に高い。だからこそ自分たちのような存在たちが抑止力として行使しなければならないのだ。
異文明に端を発する種族の脅威をこの武力をもって退けることを。
途端に真剣な表情に変わったメルロイは、資料室を抜けると長い廊下を渡って目的の部屋へと向かった。
脅威がいつ来るにせよ、常に万端の態勢を喫しておく必要がある。たとえ世界的な大混乱を避けられないにしてもだ。
だが、部屋に入った途端にその予測は緊急性の高い事項となっていた。
メルロイの部下が焦ったような表情で近づいてきた。
「局長。今ちょうどお見せしたいものがありまして」
「なんだ?どうした?」
緊張が走った部下の面持ちを見て、メルロイの中で一気に不安が広がった。
「これを見て下さい」
彼が座る前には大きなディスプレイとハードウェアの設置された業務用のデスクがある。
彼はディスプレイに映るレーダーチャートを見た。別の画面には熱反応を示すバロメーターの数値が表示されている。チャートには赤い点がいくつか点滅しており、それがチャートの中心部に向かってゆっくりとではあるが接近しているのがわかる。
「高度一万七千フィートの地点から突如として熱エネルギー反応が出現した模様です。現在も高度を下げながら地上へ向かって落下してきています。墜落地点を物体の軌道から計算した結果、ユーラシア大陸から少し離れたアジア地域の都市部へ落下する見込みです」
「具体的にはどこだ?」
「日本の神奈川県横浜市に該当する地域です」
メルロイは自身の顔から一気に血の気が引いたような感覚を覚えた。日頃から懸念していた出来事がついに起こり始めたということか?
「まずいな。すぐに国防総省に連絡し、日本政府に警戒態勢を取るように伝えろ。物体の正体を特定している余裕はない」
………とはいえ、これが以前から我が組織で秘密裏に警告されていたあの存在だということかもしれない。いや、そうとしか考えられない。
「ですが………」
「なんだ?」
部下の躊躇した表情に若干の苛立ちが湧く。
「私たちが所属する我が組織は世間一般には公開されていないだけでなく、自国政府、及び大統領にもこの存在を知られておりません。今回の件で今までずっとひた隠しにしてきたテクノロジーを大統領に告白することは、来たる脅威に備えるための世間一般への公開を招くことにもなり、それは大きなパニックを世界的に引き起こしかねない事態を招くと思われます。それでも、伝えることが賢明でしょうか?」
今度はメルロイが躊躇する番だった。目を瞑って事の顛末を整理しようとする。
少し考えた後、言った。
「今回の事態はどのみち大きな混乱を呼ぶだろう。今後、物体がどんな動きをしてくるかも予測できん。なるべく被害を最小限に食い止めることを目的として警戒にあたらせろ。ただし、このことは極秘事項として事を進める。国防長官には日本政府に当組織の臨時職員を招き入れ、日本支部を設立して互いの情報を共有する手立てを取れ。そして、だ。アウターマシン一号機『バーク1』を出動させるようすぐに準備しろ。初めのうちはこの一体だけだ」
「承知いたしました」
事に取りかかった彼から目を逸らし、彼は画面のレーダーチャートを見た。
それにしても、一体なぜ、今になって動き出したのだろう?仮に「彼ら」だとしたら、一体何の目的があって地上へ?
彼がその答えを知る時は世界の様相は大きく変容していることになるとは想定さえもできなかった。
「やあ、お嬢さん。今日も暑いねえ」
犬の散歩がてらにいつも見に来てくれる年配の男性の声に気づいて、真菜は作業をしている手を止めた。
「あら、能屋さん、こんにちは。そうですねえ」
額に汗をかいていることに気づいて拭うところを見たのか、この常連客は親切にタオルをポケットから出して渡してくれた。
「ありがとうございます!」
丁寧に受け取って顔周りを吹く真菜に男性は笑顔で話しかける。
「こんなに熱気があるようじゃあ、お花が枯れちまわないか不安になっちゃうよ」
「でも、お水を上げてるし、ここの店舗はちょうど日陰なので、私はあんまりその心配はないかな、と思ってます」
お手柔らかに答える真菜の面持ちをいつも気に入っているらしい。真菜がタオルを返すと、男性は物珍しそうに店頭に並んでいるハイビスカスを眺めた。
「まあ、夏のお花はそんなに心配はないのかもしれんな」
そう言って、花びらをちょんちょんとつつく。
途端にギンギンに照らしつける日光が揺らいだ。それは陰るというよりも文字通り日の光に差し込んだ陰りと相まって変な動きを見せた、ということだ。
「おや、入道雲でも出てきたかな?おっと、夕立ち用の折りたたみ傘は持ってきてないぞ」
肩から下げるポシェットの中をまさぐる男性とは裏腹に、真菜は不思議なものを見るかのように、太陽を直視した。花屋の周りを歩く人々もその不可思議な光景を見つめている。
「いや、違いますよ。なんか、あれ………」
真菜が指をさした先を見て、男性も眉をひそめた。
太陽が歪んでいる。いや、歪んでいるというよりも空全体に透明の霧がかかったように、ゆらゆらと揺れている。時折、何かがちらりと煌めくような点滅が起きるが、それが何に反射して光っているのか、まるで分からない。時空が歪んでいるような印象さえ、受ける。
一体、何が起きているのだろうか。