心躍る冒険は本の海で
見上げる頭上まで乱雑に積まれた本と、糸で綴じられた紙の束。
少しかび臭くて、でも乾いていて、古いものの匂い。
日向の畳の匂いとよく似たその匂いが好きだった。
子どもの頃のふうこは体力がなかったからなのか、いつの間にか他の子たちから離れた場所でじっと何かに没頭している類の子供だった。
あの日も、そうやっていつの間にかはぐれたのが切っ掛けだった。
誰かが、知らない言葉で怒鳴っている。
その剣幕が怖くて、ふうこは強く目をつぶった。
「……ごめん。帰り道、分かるか?」
さっきまで怒鳴り散らしていたお兄さんが、心配そうにひざを折って顔を覗き込んで来る。
見たこともない不思議な色の髪と、瞳。
家族で行った北の冬の海を思い出す。
限りなく黒に近いけど、青だと分かるような色。
触れればひんやりと冷たそうな色。
だけど、戸惑いがちに伸ばされた手は不器用に頬をなでていく。
その手が優しくて温かくて、ふうこは嫌じゃないと思った。
だけど、怖くなくなった途端にあきはお兄さんの背後にある沢山の古そうな本に目が釘付けになった。
「本!」
思わず走り出して掴もうと手を伸ばしたふうこを、驚くほどの素早さでお兄さんは抱き留めた。
その力の強さに、ふうこの口からカエルが潰れたような音が漏れる。
「駄目だ! ……ここの本は、危ないから触っちゃだめだ!」
有無を言わせない強い口調に体を強張らせ、ふうこは伸ばしたままだった手を慌てて引っ込めた。
「あんまり怒鳴ると嫌われますよ~」
「だっ、れのせいだと思ってるんだよ」
突然暗がりから掛けられた声にビクッとするふうこを抱き留めたまま、反射的に声を荒げようとしたお兄さんは思い直したように声を小さくする。
そのまま唇を尖らせて黙り込む。
「この本なら、大丈夫ですよ」
暗がりから出て来た染みだらけで薄汚れたずるずるとした服を着たおじさんに、ふうこは目を丸くする。
そして、その手に握られた分厚い革表紙の本に釘付けになる。
「この本を貸し出してあげましょう。この本は、ふうこさんを思い描いた冒険の旅に連れて行ってくれますよ」
にこにこと優しそうな笑顔を浮かべているそのおじさんから、ふうこを抱き留めたままのお兄さんが、素早く本を受け取る。
「ちょっと、ルーイン」
「……夢見の術式か。目覚めなくなりそうな危険はない、か」
いいんじゃないか、と呟いたお兄さんがふうこに本を手渡す。
「ああ、そうそう。その本は貸し出しですから、必ず返してくださいね」
そう言ってふうこを覗き込むおじさんの目が金色に光ったような気がして、ふうこは体を震わせた。
何度もうなずくふうこの肩を、おじさんは笑顔のまま、ちょん、と軽い力で押す。
「では、100年後ぐらいに」
それはちょっと無理なんじゃないかなと思ったふうこは、立っていられないほど眠くなって思わず座り込んだ。
その体が、どこかに引っ張られるように落ちる感覚がした。
「ふうちゃん! 探したんだからね。駄目でしょ、勝手にいなくなっちゃ」
息を切らせたお母さんに見つけてもらうまで、ふうこは古本屋さんで平積みにされた本にもたれかかるようにして眠っていたらしかった。
ほおには本の痕が付き、でも本によだれの痕がついていなかったことにふうこはホッと胸を撫で下ろした。
そして、その腕の中には古い革表紙の分厚い本が抱きしめられていて。
お会計をしようとして、誰もそんな本は見たことがないと言われ、なぜか誰も開くことが出来なかったその本には金の文字でこう書かれていた。
『心躍る冒険は本の海で』
ふうこは、結局無償でもらってきたその本をそっと開いてみた。
砕ける波しぶきに、波を切り裂いて進む帆船。
ふうこは今日も、大海原を旅する。
朝日とともに消える冒険の中で、ふうこは声を上げて笑い、焼き付く日差しは世界を色鮮やかに輝かせる。
「ふうこ、あまり身を乗り出すと落ちる」
言葉少なに叱るのは、いつかの少年。
じりじりと灼ける日差しを受けて、紺青の髪が塩風になびく。
船に張り巡らされた綱を握り締めて、少年は眩し気に目を細めた。