36.お招き
第四章 開幕です
名前を呼ばれて振り向きましたが、そこには見たことのないお顔。五十路を過ぎたくらいの男性です。彼は自分の事を「ルイ様の秘書をしている」って言っておられ、私の事を知っていらしたようです。
でも、いきなり知らない人から声を掛けられるってドキッとしますよね。それも自分の名前を言われると「何故に私の個人情報を知っているのだ」って気になります。何かのネタをちらつかされて、良い様に使われるなんてこともあるかもしれない。突然、拉致されたりしないわよね。パパ活もしませんよと、だんだん懐疑的になる私。
本当にルイ様のお付きの方ですか?私の顔は不信感満載です。だって、見たことがない人ですもの。
「あの…ご心配されませぬよう。私はルイ様の秘書でモーリスと言うものです。普段はルイ様と距離を取って行動しているので、お気付きにならなかったかもしれませんが、これが秘書の証です」
そう言って、モーリスさんはセント・ライトランド公爵家の紋章の入った名刺くらいの大きさの身分証を見せてくださいました。
それを見てふんふんと頷いたのですが、実はそう言ったものを見せられても、その身分証が本物であるかなど私には判別できないのです。ただ、彼は物腰も柔らかいし、言葉遣いも丁寧。これ以上疑うと、私自身の心の狭さに自責の念に駆られそうなので、大人の対応をします。何かあってもリセットすりゃいいさ、ケセラセラです。
「はい。その秘書のモーリスさんは私に何の用でしょう?」
軽く笑顔を作りそう返事すると、モーリスさんは少しほっとされた様でした。でも、まだ警戒はしていますよ、あまり近づかないでくださいね。
「率直に申しますと、今回の収容児童捜索や役場の件で、ルイ様はミドリ様に興味を持たれまして、一度ゆっくりお話をしたいと申されております。妹君のマリア様からミドリ様は甘いものがお好きとお聞きになり、是非、お屋敷へ…」
「お屋敷ですか?」
お屋敷と聞いた私は、思わずモーリスさんの言葉を遮ってしまいました。
「いえ、お屋敷へと思われたのですが、ミドリ様は堅苦しいのが嫌でしょうし、お屋敷内のテラスでお茶会などは如何かと申されておられまして…」
ぐふふ。お屋敷のテラスでお茶会ですって、それもイケメンの公爵家の方と一緒に?甘いもの?おっと、思わず涎が…なんて、思う訳ないでしょ。でも、収容児童捜索や役場の件を知っていらっしゃるので、ルイ様の秘書というのは本当の様です。
でもね、できれば私自身あまり公爵家とは関わりあいたくないのです。だって、マリア様にも散々、公爵家の悪口を言っちゃったしね。「さわらぬ神にたたりなし」ですよ。
「有難いお話ですが、私は単なる若輩者の冒険者、公爵家にお呼ばれされる身ではありません。それに、礼儀作法もよく知らないですし、恥をかくのも嫌なのでお気持ちだけを頂き、ご辞退させて頂きます。では、失礼をば…」
私が、その場をそそくさと立ち去ろうとすると、モーリスさんは「あいや、待たれよ」と言わんとばかりに進行方向を遮られました。
「ミドリ様、『牛にひかれて善光寺参り』という諺をご存じですか?こういうご縁があなたを良い方向に導いてくれるはずです」
何を言っておられるのだろう…意味が解りません。
「牛に轢かれて不幸になったから、お寺をお参りするという事ですか?」
「いえいえ、違います。信仰心のないおばあさんが、牛が干していた洗濯物を引っ掛けて歩いて行ったのを追いかけると、善光寺という有難いお寺に辿り着いて信仰心が深まったという逸話から、ちょっとしたきっかけや出会いが、良い方向へ導かれるという意味です」
そういえば、中学生の頃に聞いたかも…私の返答…恥ずかしい。うぅ…ここは私も諺返しで。
「言っておられる意味はわかりましたが、『君子危うきに近寄らず』とも言いますので、どうかお引き取りを…」
危うきなんて言葉を使っちゃいました。気を悪くしちゃったかしら…
それでも、モーリス様もなかなか引いてはくれません。
「いえいえ、それを仰るなら『虎穴に入らずんば虎子を得ず』ですぞ。ミドリ様もこれから冒険者として生きていかれるのなら、このような機会は大切だと思いますぞ」
…さすがは年の功、上手を行かれる。他に何かいい諺はないかしら…
…
あぁ…もうなにも浮かばない。色々考えましたが、気の利いた言葉はこれ以上浮かびません。それに、モーリスさんの表情を見ていると、本当に私の事を考えて仰って下さっていることは分かります。そこまで、言われるとこれもこの後出てくる何らかのイベントの前振りかもしれません。知らんけど…年の功に従いますよ。
「…分かりました『苦言は薬なり甘言は病なり』と申しますので、モーリスさんに従う事にします。日取りはいつなのでしょう?」
私のその言葉を聞いたモーリスさんは、手をポンと打ち「勿論、今です」と
なんですって、藪から棒な…
「ふふふ、ミドリ様『好機逸すべからず』です。さあ、参りましょう。
はぁ、今日はたいへん国語の勉強になりました。
モーリスさんに見えない縄を首につながれたが如く、私は彼に連れられ、突如として公爵家に行くことになったのでした。
いつも読んで下さりありがとうございます。




