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バケモノ騎士の花嫁  作者: 込留 まこ
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七.

 キアが育ったダナーハは、乾いた大地の晴ればかりが続く小さな国だった。

 それでも流れる大きな川のお陰で作物はよく育った。

 記憶がある時から、孤児院で子ども達と暮らしていた。

 六歳になったキアは、子ども達の面倒を見るのが日課だった。

 子ども達はみんなキアと同じ肌の色をしていたが、髪が赤みがかった変な色をしているのも、緑の目をしているのもキアだけで、みんな濃い茶色の髪に金か茶の瞳をしていた。


「キア、今日は狩りの日だろう?ピアもナジュも連れていけないぞ」


 赤ん坊のピアを背負い、三歳になるナジュに服の裾を掴まれたキアが洗濯を干していると、八歳になるラジが言った。


「でも、先生が忙しいから。僕は魚を捕まえに行くよ」


「ええ!キアは狩りが得意だから手伝って欲しいのに」


「待ちなさい、ムルハ。こらっ!」


 その時、家の中から院長のルーシャが裸のムルハを追いかけて出て来た。


「先生、キアにばかり頼らないでよ」


 ラジがそういうと、院長のルーシャは顔を上げた。


「ちょっと待って!ムルハが着替えの途中で逃げ出して…」


「キャー、キャーとあそぶ!」


 そう言って三歳のムルハがキアに飛びついて来た。

 ナジュもムルハもキアと呼べず、いつもキャーと呼んだ。


「ムルハ、遊びたいなら服を着ないと」


「キャー、おしっこ」


「ナジュ。昼間は、おばけはでないよ。ひとりで行く練習しないと」


「やだ、こわいもん」


 突然背中のピアが泣き出すと、キアはピアのお尻に手を当てる。


「あーおしめだ。ラジ、僕はおしめを代えるからムルハを着替えさせて。先生はナジュをトイレにお願いします。みんながお昼寝する時間だったら狩りに行けるから」


 ラジが深いため息を吐いた。


「どっちが先生か分からないよ」


「はは、面目ない」


 そう言ってルーシャは、頭を掻いた。

 朝は家の仕事を手伝い、昼は畑仕事や狩りに魚釣りに出かけ、夜はみんなで一緒に眠りについた。

 ルーシャに教わって、キアは料理や洗濯、掃除を手伝えるようになっていた。

 ルーシャは穏やかな男だった。

 年齢は覚えていないが、おそらく三十歳くらいだろう。

 ルーシャはいつも笑顔で叱ることももちろんあったが、ひどい罰を与えるようなことはなかった。

 とても博識で、文字や言葉をみんなに教えてくれた。


 ある時、ルーシャはキアが縫った繕い物を眺めていった。


「素晴らしい。キアは、器用ですね。料理も上手になったし、掃除も洗濯も完璧だ。いつか君のお父さんのエルディック様が迎えに来たら、きっと僕は困ってしまうでしょうね」


「お父さんはどこにいるんですか」


「さあね、僕にもそれは分かりません」


「もし迎えに来ても、僕はどこにも行きません。ずっとここにいます」


 ルーシャは静かに笑って、キアの頭を撫でた。


「君のお父さんは自由な人だけれど、君に素敵な名を残していってくれました。キア・ティハル。この国の古い言葉で星の瞬きを意味します。きっと女神シャンティア様の加護を得られるでしょう」


「シャンティア様はどこにいるのですか」


「我々弱い人間が手の届かない遠くです」


「先生は弱くなどありません」


 ルーシャは目を伏せた。


「人間は弱いのです。弱いから、強くなろうとする。弱いから…こうして誰かの手を借りることができる」


 そう言って、ルーシャはキアの手を握った。


「キア。弱い人間は、ただ生きるだけで十分なのです。自分を信じて、自分を守る力があれば、それで十分。シャンティア様が与えてくださって命なのですから。どれだけ間違っても、後悔に押しつぶされそうになったとしても、生きなければならないのです。…でも、こうして誰かが傍にいるともっと強くなれる気がする」


「では、先生は僕達みんながいるから強いのですね」


「もちろんです、キア。僕の強さの源はみんなです」


 そういって穏やかに笑うルーシャに、キアも笑顔を返した。


 穏やかな日々が続いた。


 この時が、永遠に続くと信じていた。


 その年、王が死んだ。

 五人いる王子の誰が王様になるか、その戦いが始まった。

 ルーシャも子ども達もみんなばらばらに連れていかれた。

 赤ん坊はともかく、戦える人間は子どもでも戦えと言われた。

 鉄が取れないダナーハでは、武器は貴重なもので、どんなものでも武器として利用させられた。

 ひたすらに身体を鍛えることを強いられた。

 逃げ出せば、どこまでも追いかけて家族みんなを殺すと脅された。

 今思えばそんなこと不可能だが、子どもの頃はそれが本当だと信じていた。

 大人達は、まるで物語に出てくるような恐ろしいバケモノに変わった。

 人のどこを狙えば壊れてしまうのか、そんなことばかりを教えられた。

 自分は、身体能力が高いと評価され特別な訓練が始まった。

 黒い布で顔を隠され、暗闇に紛れて生活するようになった。

 一緒に集められた子ども達は、ひとりまたひとりと姿を消していった。

 王族の監視を命じられれば、数日と言わずただただそれを続けた。

 十歳の時、護衛を少しずつ少しずつ減らし、眠っている王子の首を突いた。

 終わって部隊へ戻ると、ただご苦労だったという言葉を大人から貰い、いつもの味気のない食事を口に押し込み寝床で眠った。


 一体誰のために何のためにこんなことをしているのか。

 家に帰るためだと、自分に言い聞かせた。

 皆を守るためだと。


 ただ生きていた。 


 女神シャンティアは命を与えはしても、苦しみから救ってはくれない。

 そう思い知らされた。

 笑うことがなくなり、笑い方を忘れた。

 泣くことも、怒ることもなくなり、ただ生きていた。

 それだけだった。


 『どんなにつらくても、生きていればそれでいいのです』


 ルーシャの言葉を思い出しては、家に帰る日を願った。

 自分の名前さえ忘れた頃、子どもは自分ひとりになっていた。

 十一歳の時、もうひとりの王子を殺した。

 王子は残り二人になった。

 その時には、自分はナハドという一番末の王子のために戦っていることを理解していた。

 しかし、会ったことはなかった。

 ただ、残されたもうひとりの王子ジャガルの護衛はより強固になった。


 もう終わりにして欲しかった。

 何もかも。

 終わるのなら、ナハドという男が死ねばいい。


 殺してしまえばいい。


 そんなことが頭を過った十二歳を迎えた頃、ナハドは病で死んだ。


 戦いは呆気なく終わった。

 ジャガルの兵に襲われる大人達に構わず、自分は逃げ出し黒い布を外した。

 眩しい外の町は、まるで違う世界に迷い込んでしまったような瓦礫の山になっていた。


 孤児院への道をなんとか思い出してやっと家に戻った。

 壊されてしまった孤児院の前に一人の老人が立っていた。

 この国では珍しい白い肌に見たこともない恰好をした男だった。

 男は自分の顔を見て、目を見開いた。


「…なんてことだ。キア・ティハル。君はキア・ティハルだね?」


 名前を呼ばれることが久しぶりで、自分が呼ばれたのだと気づくのに少しかかった。


「よく生きていた!良かった、本当に良かった」


 男は突然キアに抱きついてきた。


「誰…ですか」


 話すことさえ久しぶりで、声が擦れた。


「私はエルディック・バルバロット。君のお父さんさ。私の星の瞬き」


「じいさん…じゃなくて?」


 エルディックは静かに笑った。


「じいさんでいいよ。懐かしいな、私も幼い頃はそんな髪の色をしていたんだ。なんでか真っ白になっちゃったんだけど。大変だったね。もう国中ぼろぼろだ。生きているのは王様くらいじゃないのか?たった一人で王様になってどうするのかね」


「ルーシャ…先生は?みんなは…いないの?」


「ルーシャは生きているよ」


 キアは、ほっとして微笑もうとした。

 しかし、頬が強張りうまく笑えなかった。


「カイラに避難している。男の子二人も一緒だ。名前は、ナジュにムルハだったかな。赤ちゃんも、保護されているそうだよ。ただ、君ともう一人の…ラジ君は見つけられなかったと言っていた」


「そう…ですか」


「私はルーシャに言われて、君とラジ君を探しに来たんだ。私は、他の国で結構な重役だからこの国でも優遇されている。ラジ君は、大怪我を負っているが生きているよ。もう安心していい。これからはまたみんなと暮らせる」


「よかった」


 安心で泣き出したい気持ちなのに、キアは泣き方が分からなくなっていた。


「…キア君、君のそれは兵士の制服だね。君も戦っていたのか」


「はい、ナハドのところで」


「ナハドには、凄腕の暗殺兵がいると聞いた。二人も王子を殺させたと。病でなどと。暗殺兵はまだ、子どもだったそうだ。子どもにそんなことをさせるなんて罰が…」


 エルディックは笑顔をやめて、ただじっとキアを見つめた。


「君だね。…君、なんだね」


 キアは答えなかった。

 エルディックは、静かに唇を噛んだ。


「残念だけど、キア君。…君はここにはいられない」


 キアは目を見開いた。


「ここをすぐに立とう、キア君。ジャガルが君を探すだろう」


「…いやだ」


「王族殺しは大罪だ。たとえ内乱とは言え、自分の首を狙っていた暗殺兵をジャガルが見逃すとは思えない」


「いやだ、いやだ、いやだ!」


 キアは首を振った。


「僕はただ、ここに帰って来たかっただけだ。ただ…それだけなんだ」


「キア君」


「奴らは、僕の名前すら知らない。僕がどこの誰かさえ」


「味方の兵士が知っている。ジャガルに拷問されれば簡単に吐く」


「味方なんていない。あいつらだって、僕の名を知らない。呼ばれもしなかった。これだの、あれだのと」


「キア君、君の容姿は特徴がある」


「僕はここに帰って来たかっただけなんだ!僕はここにいる。みんなと一緒にいたいだけなんだ!」


「…ルーシャ達にも危険が及ぶ」


「敵が来たら、僕が殺す。王子もみんな殺してやる!あのバケモノどもっ!」


そう口にしたとき、キアの頬を涙が一筋流れた。


「でも、でも…」


 ふいにぼろぼろと涙があふれ始めた。


「そんなことをしたらナジュはきっと僕を怖がるだろうな。…ちょっと血が出たくらい泣いて怖がる…怖がりな、男の子なんだ。…ピアもムルハもラジも、みんな僕を嫌いになる…かな」


 本当は分かっていた。


 自分が恐ろしいことをしていることに。


 それでも…どうすればいいのか分からずただ命令に従っていた。


 キアは地面に座り込んだ。


「先生はどうして僕を見つけてくれなかったんだろう」


 地面に蹲ると、キアはただ静かに泣いた。


「違うな。…僕も早く逃げ出していれば良かったんだ。みんなを守るなんて。みんなとっくに逃げていたのに」


「行こう、キア君」


 エルディックは、そう言ってキアの肩に手をおいた。


「僕の国まで行こう。目が回るほど遠いから、奴らもそこまでは追ってこないだろうさ」


 キアは、それでもただ蹲っていた。

 ここにいられないのであれば、これから先、生きることになんの意味があるのだろうか。


「辛くても、生きなければ。キア君」


 キアは目を見開いた。


「そう、ルーシャがよく言っていただろう?」


 キアは涙を拭って、地面から顔を上げた。


「…エルディック様。僕は…」


「だから、じいさんでいいよって。本当はお父さんがいいけどね」


 エルディックは、そう言って笑った。

 その日の内に、キアは船に乗り込みダナーハを出た。

 数日は、ただ眠って食事をするだけの生活が続き、ただ海を眺めて過ごした。


「君のお母さんは女神だったんだ」


 ある日、なんということもなくエルディックは言った。


「出会ったのは、ダナーハの寺院だった」


 ダナーハは女神信仰であり、険しいラウラ山に立つ寺院には巫女が集まり女神に祈りを捧げている。

 男子禁制のはずだった。

 キアの視線を読んだように、エルディックは言った。


「私は、前の王様に特別入れてもらったんだ。女神信仰って珍しいからね。そこで…女神に抱かれる夢を見たんだ」


 エルディックは淡々と続けた。


「素晴らしい夢だった。どうしてもその夢が忘れられなくて、通い詰めること一年ちょっと。巫女から…君をぽんと渡された」


「あなたは…禁忌を犯したのか」


 思わずキアは口を開いた。

 巫女との情交は禁忌とされている。


「禁忌だなんて、ただ愛し合っただけさ」


 エルディックは飄々と答えた。


「私の女神は、本当に女神だったんじゃないかな。本当なら、君のお母さんは下山させられているだろうから。だが、私は赤ん坊を育てる自信がなくてね。親しくなったルーシャに託したというわけだ」


 自分にも母親がいるのだとキアは今さらながら知った。

 ふと気になることがあった。


「…クルセントの偉い人間は、ダナーハの王族のように何人も妻を娶ってもいいのか」


「駄目だよ」


「…妻以外の人間の間に子どもを持つのは?」


「それも駄目なんだよ、本当は。怒られちゃうからね、妻に。下手すれば一生口をきいてもらえない。捨てられちゃうかも」


「じゃあ、僕はクルセントに行かない方がいいのでは?あなたが怒られる」


「いいんだよ。…内緒にするから」


「…分かった」


 キアはよくわからないまま、頷いた。


 その日から、キアはエルディックとよく話すようになった。

 船の中で、キアはエルディックからクルセント語を学んだ。

 エルディックはいろいろな国の言葉や知識を持っており、旅をしながらいろいろな話を聞いた。

 しかし、キアは感情を出す方法を忘れ、うまく笑うことは出来なかった。

 そんなキアにもエルディックはいつも笑顔で話をしてくれた。

 旅をしながら、自分が生きていた世界の小ささを知った。

 いろいろな肌の人間が溢れ、時折見かけるキアと同じ肌の人間達は、同じでも生きている国が違うのだという。

 なにより、国ではあまり見かけなかった若い女性達が普通にいた。

 女性が身近で生活しているのが珍しくてキアが見ていると、エルディックは肘をついて来た。


「血は争えないな。…今の美人…ちょっと君には年上すぎるかな。気になるのかい?」


「いや。ダナーハでは、女性は十五歳になると王族が屋敷に連れて行ってしまうから」


「そうだったね。女性は、産まれにくい国だった。それで珍しいのか。だが、恐ろしい国だね、若くて美しい女性はほとんど王族が独占とは。じゃあ、大人の女性の身体に興味深々だろうな」


「女性の裸なら見張り中みたことがある」


「え?そうなのかい?」


「人間が油断するのは、大抵睡眠と排泄、情交の最中…」


「待った。ごめん、おじいさんが君を茶化しすぎたよ」


「…話すべきではなかったか」


「いや。まあ、そうだね。十二歳の子どもが話すことではないかな。…キア君、君が暗殺兵だったことは口にしない方がいい」


「分かっている。…怖がられるから」


「そうじゃない。君を平気で利用し傷つける人がいるからさ。信頼できる相手にだけ教えてもいいよ。私にみたいにね」


 そう言ってエルディックは笑った。

 船に揺られ、色々な場所を転々としながら、とうとうエルディックの生まれた国であるクルセントに着くことになった。

 キアは十四歳になっていた。

 クルセントに到着する数日前、エルディックは言った。


「君は騎士になるといい、キア君」


「きし?」


「そう、騎士。王国を守る、正義の味方さ。その鍛えぬいた身体で、今度は守るために生きればいい。そしたら、美女が集まってきて…きっと楽しいぞ。君はどうしたい?」


「僕は普通に暮らしたい」


「普通?君の普通って?」


「今までと同じ…普通の暮らしだ」


「君は欲がないな。もっと面白楽しく生きればいいのに」


「だが、守るために生きるか。そしたら、僕もルーシャ先生のようになれる…かな」


「なれるさ、きっと」


 クルセント王国に到着し、今までみたこともない世界に目を回しそうだった。

 巨大で煌びやかな都市に、白い肌の人間達。

 あまりにも自分の生まれた国とかけ離れた世界に、もう二度と帰れないのだと今さらながら思った。

 エルディックはなぜか、ユークリッドにだけは自分のことを伝えた。

 やはり怒られたが、口をきいてはもらえるようだった。

 兄さんというものは、きっとラジのような存在だと思っていたが、ユークリッドは大人で、あまり構って欲しくないようだった。

 それでも、兵士であったことを知られても、ユークリッドは変わらずにいてくれた。

 騎士になり、始めはきっとルーシャのような人間になれるのだと…そう思っていた。

 この国の人は、みんなキアと目を合わせず、合えばすぐに反らされてしまった。

 男も女も変わらず、誰も近寄ろうとせず近づけば逃げて行ってしまった。


 バケモノ。


 バケモノ臭い。


 そう囁かれたその言葉に、はっとした。

 自分は、あのバケモノ達の中にいたせいでバケモノになってしまったのだと。

 血に塗れ、人を襲う恐ろしいバケモノに。

 舞踏会に初めて行った時も、エルディックの大好きな女性達は、自分を恐ろしいもののように見ていた。

 恐ろしいという目をしているくせに、扇子の下では、自分を孤児だのバケモノだのと呼び、くすくすと嘲笑っているのが分かった。


 自分とは別の世界に生きる別の生き物のように思えた。


 そうじゃない。


 自分がバケモノで、別の生き物なのだ。


 キアはそう思う様になった。

 美味しくて温かい食事も、柔らかいベッドもある。

 ひどい訓練や殺しを強いられことはない。

 でも、どうしようもなく…ひとりだった。

 それでも、誰かを守るために騎士を続けた。

 自分を恐れて近づきもしない…誰かを守るために。

 時々話す機会のあるエルディックとユークリッドと過ごす時間だけが、楽しみになっていた。


 エルディックがもう駄目かもしれないと聞いたのは、ユークリッドからだった。

 いてもたってもいられずキアは、エルディックの寝室に忍び込んだ。

 父という感覚はよくわからない。

 それでも、エルディックは自分を救ってくれた大切な人だった。

 ベッドに横たわった顔色の悪いエルディックは、キアが窓から入ってくると大きく目を見開いた。


「わお、キア君。びっくりした。会いに来てくれたのかい?ここ五階なんだけどね」


「じいさん…死にそうな割には元気だな」


「まあね。まだお迎えが来ないのかと、やきもきしているよ」


 その笑顔を見つめ、キアはどうしようもなく悲しくなった。


「じいさん。死なないでくれ。あなたが死んだら、僕はこれからどうすればいい」


「そんなの知らないよ。自分で考えるんだね」


「こんなバケモノを連れてきて、勝手にしろとは…自分勝手だな」


「…随分ひねくれちゃったね、キア君」


 そう言ってエルディックは笑った。


「私も君もただの人間だよ、キア。人を愛するために生まれてきたのさ」


「僕は愛なんて知らない」


 孤児院でのことを思い出す。

 知っていたとしても、もう遠い昔のことのように思えた。


「知らなくても、人は誰かを愛してしまうものなのさ」


 そう言って、エルディックは胸を反らした。


「まあ、私のようにたくさんの人を愛せる素晴らしい男もいるけれど」


 キアは呆れて溜息を吐いた。


「大丈夫。君のような優しくて真面目な男には、いつかとっておきの美女が大好きだっていってくれるよ」


 その時、扉を叩く音がした。

 キアは、窓の外に乗り出した。


「僕はもう行く」


「分かった。気を付けて。見つかったら、修羅場だからね」


 キアは、エルディックに背を向けた。


「キア・ティハル。…さようならだ」


 その言葉に、キアは静かに振り向いた。


「ありがとう、父さん」


 エルディックは一瞬目を見開いた。


「…またな」


 そう言って、キアは笑みを浮かべて見せたがうまく笑えたか分からなかった。


「ああ、でも当分は来てはだめだからね」


 エルディックは、そう言って満面の笑みを浮かべた。


 次の日、エルディックが息を引き取ったと知った。


 生きなければ。

 ただ生きなければ。


 まるで呪いのように、キアは自分に言い聞かせていた。

 戦が始まったのは、エルディックが死んですぐのことだった。

 先陣部隊に、配属されキアは戦場へと向かった。

 ヴィンセントを見た日、自分をじっと見つめるその美しい瞳をずっと見ていたいと思った。

 子どものように無邪気に笑う彼が、このままずっと隣で笑ってくれていればいいと思った。

 生きていて良かった。

 初めてそう思った。

 命を救われた夜、ただ手を握りあって眠った。

 ヴィンセントは、キアのことを恐れることなどなかった。

 傍にいたい。

 ずっと彼の傍に。

 ただそう思った。


 『私には、結婚を決めた相手がおります』


 その言葉に、愕然とした。

 彼の隣に立ち手を握り、抱き締め合うのは自分じゃない。

 姿も知らない女性…。


 そんなこと…許せない。


 裏切られたような気持ちで彼を突き放した。


 それでも…彼を忘れることは出来なかった。

 どうしてももう一度会いたくて、会いに行くことを決めた。


 しかし、彼がもうこの世にいないことを知った。


 信じられず、何もかも放りだしガーディアス領へと向かっていた。

 そこで、彼の墓を見て本当に彼がもういないことを思い知った。

 自分が勝手に彼を突き放し、彼から逃げ出した。

 そのせいで、もう二度と会うことはない。

 ひどく打ちのめされた。

 彼の祖父であるギデオン・ガーディアスと話し、彼が最期までこの領地を守ることを望んでいたと知った。


 それなら。


 それなら、自分がそれを受け継ぐ。

 彼のために。


 そして最悪な悪女と呼ばれるようになった彼の姉、ララティナとの結婚を決めた。


 再び王都へ戻り、停戦の最中騎士団で日々仕事に追われた。

 来客と言われて案内された部屋にもじゃもじゃの髭の男がいた。


「久しぶりだな、まさかバルバロット家の人間とは。お坊ちゃん」


「ああ、あなたでしたか。ミゼウル殿。…挨拶が遅くなりましたが…」


「やめろ、その丁寧なしゃべり方。気色の悪い。いいから、ちょっと来い」


 ミゼウルは、挨拶もそこそこにキアを騎士団訓練場へと連れ出した。


「俺の姪っ子と結婚したければ、俺を倒せ。バケモノ騎士」


「は」


「男なら拳で語り会おうぜ、坊ちゃん」


「私闘は禁止されています。話なら部屋で…」


 キアはミゼウルに背を向けた。


「なんだ、逃げ出すのか。…案外臆病だな」


「臆病で結構です」


「お前みたいなびびりを助けてあんな傷負うなんて…」


 その言葉に、キアは振り向いた。


「浮かばれねぇな」


 誰とは言わなかった。

 それでも、一瞬にしてキアの身体の血が頭に上ったような気がした。

 キアはミゼウルを睨みつけたが、ミゼウルはただ口を歪めて笑うだけだった。


「あんたに何が分かる」


 キアはミゼウルに近づき、思わずその胸倉を掴んだ。


「彼を死なせて僕がただ生きていると…」


 ふいにミゼウルの拳がキアに向けて飛んできた。

 キアはなんとか後ろへ飛ぶ。

 しかし、左の頬を掠るとちりっとした痛みが走り頬がすり切れた。


「分かるわけねえわ、何にもな。お前があいつに背を向けたんだろう」


 キアは目を見開いた。


「あいつ心配してたんだぜ。なんだか、具合悪そうだったって。振り向かずにいっちまったって。寂しそうだった」


 ミゼウルの拳が再びキアに飛んでくる。

 キアは、今度は腕で受けたが、びりびりと痺れるような痛みが走る。

 とんでもない力が込められている。


「死なせたとか思うくらいなら、会う約束くらいしてやれや。何がバケモノだ。びびりのクソガキが。今さら何もかもおせぇんだよ!」


「――っ!」


 キアは、思わずミゼウルの顔面目掛けて拳をふるった。

 ミゼウルは除けなかった。

 それどころか、拳を食らっても平気な顔で笑って言った。


「軽すぎるわ、お坊ちゃまの拳は」


 その瞬間、まともにミゼウルの拳が右頬に入りそうになる。

 キアは、素早く仰け反るとそれを交わした。

 一撃でもまともに受ければ脳が揺れそうな勢いだった。


「素早いな、まるで蠅だ」


 今度はミゼウルの蹴りが飛んでくるが、キアはそのまま床に手を着くと後ろへ一回転しそれを交わした。


「恩とか義理でララに近づくな。あいつを全力で守れる男じゃなければ、俺は認めん」


「あんたに認められるつもりはない。もう決めたことだ」


 キアは再びミゼウルへと向かっていった。

 キアにとって喧嘩というものは初めてだった。

 ミゼウルは喧嘩に慣れているのか、急所を狙っても上手くかわしてしまう。

 ミゼウルの身体は頑丈で、身体に何発と入れてもびくともしなかった。

 油断すればすごい力の拳を受けそうになる。

 一発まともにくらえば、動けなくなりそうな威力であった。

 キアは、何度も何度も右肩への攻撃を繰り返し、何度目かにミゼウルはついに肩を抑えて呻いた。


「いってぇ!くそったれ、これ狙ってたのか」


 しかし、だらりとした右腕のままミゼウルは立ち上がった。


「よっしゃ、これで対等ぐらいか?」


 キアは、肩で呼吸をしながらも呆れて言った。


「いいだろう。関節すべて外してやる」


「え?まじか?そんなことしたら、俺ぐにゃぐにゃになって帰れないじゃん」


「…あんたな」


「おい、お前達やめろ!」


 そう言って訓練場へ飛び込んできたのは、ユークリッドだった。


「キア!お前が喧嘩などどういうことだ!」


「喧嘩ではありません。決闘です」


「一体何が原因だ。この大男は誰だ」


「あ、どうも。ララティナ・ガーディアスの叔父です。家の姪っ子の夫になるっていうから、ちょっと拳で語り合いを…」


「夫ってなんの話だ!俺は聞いていないぞ、キア」


「今言いました」


 ユークリッドを無視して、キアはミゼウルに近づき右腕を掴むと再び関節に嵌めた。


「ぎゃーーー!」


 汚い声を上げて、ミゼウルが座り込んだ。


「何すんだ、ばかっ!」


「腕を嵌めてやったんだ、ばか」


「嵌ってるけど!やるならやるって言えよ、ばかっ!」


「医者のところで冷やして固定してもらえ、ばか」


 キアは呆れながらミゼウルに背を向けた。


「お前、ララを背負うならそれなりに覚悟しろよ。あいつは、単純な女じゃない。あいつだけじゃない。ガーディアス領も、いやカイデン家がな」


 ミゼウルは、静かに立ち上がった。


「とっとと会いに来い、ばか」


 ミゼウルが何を言っているのか、キアには分からなかった。

 その後、勝手に結婚を決めたことをユークリッドに説教された。

 ララティナに会う機会は、なかなか訪れなかった。

 ミゼウルに言われたが、キアは意図的に会うのを避けていた。

 ヴィンセントが死の淵にいたというのに、王都で浮気をしていた女性など受け入れられるとは思わなかった。

 そして、バルバロットを名乗ることを許されてから、女性に対する不信感は一層強くなっていた。

 バケモノと嘲笑いながらも、キアの金と名声があれば幸福になれると信じて、媚びを売り平気で身体を摺り寄せてくる。

 愚かで醜く気色が悪いと、そう思う様にさえなっていた。

 ララティナもそういう女性なのだろうと思っていた。

 夫婦になるのならお互い干渉し合わず、金を使わせ適当に恋人でもなんでも作ればいい。 

 自分の邪魔にさえならなければいい。


 そう思ってたくせに。




 キアは大きく息を吸って、吐き出すと目を開いた。

 目には領主の部屋の天井が見える。

 長椅子に横たわってどのくらいの時間が経っただろうか。

 そうか、先に背を向けたのは自分だ。

 彼女を目の前に、彼女を拒否した。

 話す機会さえ、与えなかった。

 こんなバケモノ、受け入れられるはずない。

 そう思いながら、受け入れて欲しいと願ったくせに。


『バケモノじゃなくていつかは死ぬただの人間だ。私も…あなたも』


 ふいにその言葉を思い出す。

 黒髪の少年が心配そうに自分を覗き込んできた。


「…ナジュ」


 思わずそう呟いた。




「ナー…ジャ?」


 長椅子で横になっているキアの顔を覗き込み、サリーは聞き返した。


「ナージャって誰なんですか、その女。誰なの!」


 キアは静かに起き上がった。


「男だ。ナジュ。…僕の弟のような子だ。孤児院で一緒だった。君みたいに目が大きな子だったんだ。すまない、少し寝ぼけた」


「そ、そうなんですか。男なら許します。…でも、いくつの子ですか?」


 キアは、その質問には答えず長机に置かれ布を掛けた食事に目を向けた。


「夕飯はいらないと言ったが」


「でも、キア様なんだかんだ言って勿体ないって食べてくれるので」


「ありがとう。…食べる気になったら食べる」


 キアはそういうと、再び長椅子に横になった。

 サリーはララティナとのことを聞きたくて、その姿をじっと見つめた。


「あの…本当に分からないものなんですか。あの…女性だって」


「なんの話だ」


「いや、男性のふりをしていたとして、あの…いろいろ大きな身体を隠せるものなのかって」


 キアが目を細めて、サリーを睨んでいるのが分かった。


「いや、こう触ったら分かっちゃうんじゃないかって」


「…まあ、華奢なのに存外柔らかくて心地良いとは思っていたが」


「そ、そ、そ、そんな密着しても分からなかったんですか!」


「サリー、僕は女性に触れる経験が…乏しい。触れても分からなかった」


「そ、そうなんですか。てっきり慣れているのかと」


「なぜそう思う」


「だって、王都じゃ結構美女に囲まれたりするじゃないですか。でも動じないでさらっと逃げていくから。それに、アルドリック様の罠にもかからなかったじゃないですか」


「アルドリックの?」


「あれですよ。いやらしい下着事件です」


 あれは、終戦直後だった。

 いつも騎士寮に寝泊まりするキアが、サリーのために宿を取ってくれた。

 キアがバケモノ騎士だと知った宿の支配人が、同じ値段でもっと良い部屋を用意してくれた。

 貴族が使うような贅沢な部屋に、サリーの気分は高まった。


「すごーい!こんな部屋使っていいなんて!」


 部屋に入るなりはしゃぐサリーと違って、キアはどこか張り詰めた空気で、すんすんと音を立て部屋の匂いを吸い込んでいた。


「…女がいる」


 そう言うと、まっすぐ寝室へと向かうと扉を開け、一言言った。


「部屋を間違えていますよ」


 それだけ言うと、入り口に向かっていった。

 サリーは、首を傾げて寝室へと向かった。

 そこには、金色の髪をした胸の大きな女性が、ほとんど裸に近い下着を身に着けて横たわり、呆気に取られた様子でこちらへ手を伸ばしていた。


「いやあああー!」


 そう悲鳴を上げると、サリーはキアを追い掛けた。

 キアは入り口に立ち、荷物を運んで来ていた宿係と話をしていた。

 しかし、サリーの悲鳴を聞いてか数人の騎士達が柱の陰から出て来た。

 その中に、アルドリックがいた。

 アルドリックは驚いた様子で、キアを見つめたが少し慌てながら言った。


「や、やってくれたな、キア・ティハル!」


「は」


「俺の恋人を宿に連れ込み乱暴するとはいい度胸だ」


「君の恋人など知らない。今、変な人が部屋にいるから部屋を代えてもらおうとしていたところだ」


「悲鳴が聞こえたぞ、彼女が助けを求めていた証拠だ!」


 サリーは恥ずかしくて口を押えた。

 キアはふんっと鼻を鳴らした。


「アルドリック、僕がこの部屋に入って何分だ」


「そ、それは…」


「君の情交は随分と早いのだな。排泄以下か」


 その言葉に、アルドリックが目を見開いた。


「な?」


「恋人が哀れだな」


 アルドリックの後ろの騎士が、失笑するとアルドリックはきっとその騎士達を睨んだ。


「わ、笑うな!貴様ら!」


 キアはアルドリックに背を向けた。


「部屋どころか宿を代えた方がいいな。子どももいるんだ、変な真似はやめてくれ」


「子どもって僕…僕ですよね。やっぱり」


 そう言いながら、サリーは歩き出したキアの後を追い掛けたのを覚えている。



「女性関係が乏しいのであれば、ああいう色仕掛けに引っかかりそうなのに。僕は、ほぼ裸の女性ってあの時初めて見ましたよ」


「…そんなことあったか?」


「ありましたよ!」


「眼鏡なしなら、見えていても肌色の人って程度だ。だが、そうだな。僕も…色々あったんだ。色々と。女性の身体に動じないようにさせられた」


 そう言うと、キアが深く息を吐いた。


「だが、彼女は…今までの女性達とは違う。ララティナと――話しをしなくては」


 キアがふいにそう言った。


「一緒に過ごした時さえも嘘とは思いたくない」


「キア様…」


 サリーは微笑んだ。

 しかし、キアは静かに溜息を吐いた。


「だが…ひどいことを言いもしたがしてしまった。許さないと言われたらどうしよう」


「え?」


「…男と思えないとか、生理的に受け付けない顔とか。そんな理由だったら?」


「もー、キア様ってば!もう少し前向きになってくださいよ!」


 無表情で落ち込むキアを、サリーは励ました。

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