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バケモノ騎士の花嫁  作者: 込留 まこ
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三.

 お茶の席を切り上げたララは、自分の部屋へと入り大きく息を吐いた。


「ああ、疲れた」


 そう言いながら、首筋の薔薇の匂いを取るように擦る。


「やはり強い匂いは苦手だ。頭が痛くなる」 


 そうぶつぶつ言いながら、長椅子へと座る。


「これから…これから一体どうしろというのだ」


 ララがキアと出会ったのは、もう五年も前になる。

 あの日…彼を見たあの日を、今でも忘れることは出来ない。

 王国騎士団が到着したあの日、一際背の高いキアの姿は一瞬で自分の視線を奪った。


 柔らかそうな銅色の髪に滑らかな褐色の肌。

 若葉色の瞳は、宝石のように煌めいて見えた。

 天の神がこの地に降りて来たのなら、彼のように美しい姿をしているのだろう。

 目がキアの姿を追うのを止められず、一目でもこちらを向くことはないだろうかと願っていた。


 自分がヴィンセントのふりをしていることなど忘れて。



 ララは、このガーディアス家の長女として生まれた。

 その二年後、待望の長男としてヴィンセントが産まれた。

 そして、ララが五歳の時父ヴィクターが失踪した。

 若いメイドを連れて。

 ヴィンセントが、心臓が弱く長く生きられないかもしれないと知りながら、ガーディアス家の長男として産まれたすべての重荷を押し付けて消えたのだ。

 その絶望的な状況の中、母ルルリナはガーディアスを支え続けた。

 親しい者から、ルルと呼ばれる母と同じように、ララティナはララと呼ばれることが好きだった。


「強くなりなさい、ララ」


 父が去ったその日に、母はララの髪を綺麗に切るとそう言った。


「男に頼らなくていいように強くなるの」


 母は美しくそして強い女性だった。

 母は、ガーディアス領で暮らす旧タイラン人の血を引いていた。

 タイランは百年以上昔にあった小国で、すでにクルセントの一部となっていた。

 身体能力のすぐれた人種で、女性でもクルセント人の男性より力が強いことがあった。

 タイラン人は好戦的ではなかったが、誇り高く自らの血族を尊ぶ民族で、度々ガーディアス領のクルセント人達と仲違いが起こっていた。

 そこで祖父ギデオンは、タイラン人であるダグラル・カイデンの娘ルルリナと、自分の息子ヴィクターの縁談を望んだ。

 ダグラルは資産家でガーディアス領の大半の事業を支配しており、この結婚でガーディアス領に平穏が訪れるはずであった。

 しかし、父と母は真に愛し合うことは出来なかった。

 母は、ヴィンセントの代わりにララが騎士になることを望んだ。

 自分はヴィンセントの看病で忙しいため、何でも自分で出来る様になるように言われ、厳しく叱ることもあった。

 ある時、母は弟であるミゼウルに頼み、ララに本格的に騎士として教育を受けさせることになった。

 ララは叔父であるミゼウルの家で暮らす様になった。

 ミゼウルは、カイデン家の次男であったが、七歳で行方不明となりその八年後ガーディアスへ戻った。

 船に隠れて乗り込んだら、帰れなくなってしまったのだそうだ。

 しかし、その船の船長が色々世話をしてくれたという。

 船の上で雑用をしながら大陸を巡り、船に乗ってくる色々な土地の男達から戦い方を学んだ。 

 その後は、自分の体格を生かし用心棒をして働いていた。

 十五歳の時に帰って来たミゼウルは、カイデン家からいなかったものとされ、絶縁されてしまった。

 だが、母の声掛けと用心棒をしていたというその強さを認められ騎士団に入ることを許された。

 その後は、山小屋を買ってひとりで暮らしていた。

 ララもその山小屋で暮らすようになったが、ギデオンがそのことに対して何も言うことはなかった。

 しかし、孫が教養のない人間になることは望まず、ララの教育をしてくれることになった。

 ギデオンは、以前王国騎士に務めたことのある騎士だった。

 豊富な知識を身に着けているが、正解を導き出せないと苛立つ様子が、ララには怖かった。

 教育の時間が終わり、ミゼウルが迎えに来るのが嬉しくて堪らなかったことを覚えている。


 ララが十歳の時、二つ年上の従兄弟エドバルがふざけて剣の勝負を挑んだ。

 エドバルは、母の兄レナウルの息子であり、カイデン家の正当な後継ぎであった。

 遊びの勝負であったが、ララはエドバルに勝ち、エドバルは泣いて逃げ帰ってしまった。

 ギデオンは、それを見かけてから率先してララが騎士団で訓練することを許すようになり、ついにはララが十四歳の時正式に騎士団へ入団させた。


「素晴らしいわ、ララ。あなたは、もう立派な騎士様ね」


 母はそう言って、喜んでくれた。

 週に一回は家に戻り、家族で食事をする。

 その時だけが母とヴィンセントに会える時間だった。

 胸が大きくなってくると、ガーディアス家の専属医であるトルニスタ・バレルがコルセットを改良し、大きな制服を身に着けるようになった。

 初潮を迎えた時の対処もアロアとトルニスタが教えてくれた。

 ガーディアス騎士団は、クルセント王国一の厳しい環境の騎士団ということもあり、雪山の訓練などは過酷を極めた。 

 それでも、泣き言は許されなかった。

 気が付くと、騎士団でララを女として扱うものなど一人もおらず、剣の腕前も認められるようになった。

 隣国アウストから流れてくる放浪者の対処に参加するようにもなり、人を殺めなければならないこともあった。

 始めこそ眠れない時を過ごしたが、領民達の命を守るためだと言い聞かせた。

 本来ならララが長女として婿を迎えガーディアス家を継ぐべきだが、母もギデオンもヴィンセントの命を諦める選択をすることはなかった。

 髪を長く伸ばしていたのは遥か昔のこと。

 美しいドレスに身を包むこともなかった。

 ガーディアス騎士団の制服に常に身を包み、騎士として戦うことがララの日常だった。

 心臓の病のせいで、走ることも叶わないヴィンセントは、十三歳になってもその体調は変わらず季節の変わり目には必ずと言っていいほど熱を出し、母とギデオンからまるで壊れ物のように扱われていた。


「姉様ばかり…本当にごめんね」


 ララが見舞いに行くと、淡い金色の巻き毛を揺らし大きな青い瞳を潤ませ、いつもそう言っていた。

 

「それは違う。これが私の望んだ生き方だ。私があなたもこの家も守る」


 そうララが言うと、ヴィンセントは可愛らしい笑みを浮かべた。


「…ふふ。僕が元気だとしても、姉様以上の騎士にはなれそうにないや」


 ヴィンセントは、思い通りにならない身体への不満も不平も零すことなく、いつも笑っていた。

 ララは、公の場でもいつも騎士の制服に身を包んでいた。

 それをどれだけ憐れまれ、嘲笑を浴びても、自分を不憫に思ったことなどなかった。


「お前は立派な騎士だ。それを理解できない奴らなんてほっとけよ」


 ミゼウルは、ララに良くそう言ってくれた。

 十七歳の時、アウスト国に新しい王が立ち、放浪者がクルセントに流れてくることが少なくなった。

 同じ年、母はこの世を去った。

 馬車に轢かれそうになった子どもを庇い、自らが命を落としてしまった。

 ヴィンセントは笑うことが少なくなり、塞ぎ込むようになるとどんどん弱っていった。

 ララは再び屋敷で暮らす様にギデオンから言われ、ミゼウルの家を出るとヴィンセントの看病をしながら騎士としての生活を続けた。

 そして、ララが二十一歳のころ西のキュノス国からの侵略が始まった。

 王国からリンゼイ領へ早急に応援に向かうよう命じられたのは、ヴィンセントだった。

 ヴィンセントには、その命令に従うことは出来ず、ギデオンは歳を取り過ぎていた。

 しかし、率いる当主なく騎士団だけが戦に向かえば、ガーディアス家がもう終わりだと告げているようなものだった。

 そう嘆くギデオンの前でララは言った。


「私が行きます。…ヴィンセントのふりをして」


 ギデオンは、表情なくララを見つめた。

 そう言うのを待っていたと言わんばかりに、反対しなかった。


「もしも、女だと知られるようなことがあっても私の名は出すな」


 ギデオンは、冷たく言い放った。


「私は…何があっても、このガーディアスを守る義務と責任があるのだ」


 さらにギデオンは、娘のエレノアに一人の女性を雇わせ王都でララティナ・ガ―ディスとして社交界デビューさせることを決めた。

 今年中に婿を見つけたいが、ララの体調が思わしくないと言い、ララの体調が戻り次第王都に向かわせその女性と入れ替わらせると嘘を吐いた。

 王都にララティナがいたという事実があれば、ララが戦場で命を落としたとしても誤魔化すことができると思ったのだろう。

 ヴィンセントにも、社交界に出るのだと嘘を吐いた。


「社交界に?姉様ドレスを着るの?」


 ヴィンセントのやせ細ってしまった手を握り、ララは笑顔で言った。


「ああ。髪はかつらを被るんだそうだ。エレノア伯母上が面倒をみてくれる」


「わあー見てみたかったな!姉様ならきっと素敵な人が見つけてくれるよ。素敵なお婿さんが来てくれるといいね」


「ヴィンセント…」


 その言葉に、ララはヴィンセントがすでに生きることを諦めているような気がした。


「違うよ、ヴィンセント。私はお嫁に行くんだ」


「え?」


「だから、お前は早く元気になって美しい花嫁を迎えなくては」


 ヴィンセントは静かに目を伏せた。


「…無理だよ、姉様。母様が…僕を呼んでいる」


「だめ」


 ララは、泣きたくなるのを堪えてヴィンセントの痩せた身体を抱き締めた。


「お願い、私をひとりにしないで。ヴィンセント」


 ヴィンセントは力なく、ララの背中に手を回し静かに撫でてくれた。

 それでも、うんとは言ってくれなかった。

 正体を知られることになれば、死を…その覚悟でララは戦場に向かうことに決めた。

 髪と眉を金色に染め、丁度長く伸びた前髪で顔を隠した。

 騎士団には自分がヴィンセントのふりをして出撃することを明かした。


「お前の実力はみんな分かってる。俺達が協力しないわけないだろう。俺が守ってやるからな!」


 ミゼウルは、ララに反対せず協力してくれることになった。


 そして…キアに出会った。


 彼を救った時のことは、生涯忘れることはできないだろう。


 早朝に王国騎士団が、キュノス国へ向けて進軍を開始した。

 それから、数時間もしないうちに逃げ戻ってくると報告を受けた時は、すでにララ達も森を見張っていた。

 予想していた通り、ララ達の選んだ森の道を雪崩れ込むように騎士達が戻って来た。

 ララはミゼウルと共にガーディアス騎士団を率いて、森の半ばまで進攻し追手を追い返した。

 しかし、敵の数は予想より少なく、きっと森で迷っているのだろうと思われた。 

 どこを見渡しても、目立つキアの姿を見つけることはなかった。

 ララは、自分がひどく焦っているのが分かった。


 なぜ。

 なぜ戻らない。


 この道は、彼が一番知っているはず。

 バケモノと呼ばれるほど強いのであれば、なぜ一番に戻らない。

 まだ、戦っているとでもいうのか。

 次第に森に進む足が速まった。

 気が付くと、ミゼウルとも逸れてしまった。

 それでも、足を止めることは出来なかった。

 キアが生きている姿を見つけた時は、心の底から安堵した。

 剣を振り上げる敵とキアの間に割って入り、その瞬間敵の首に短剣を刺した。

 間に合ったのだと分かると、ただただ嬉しかった。

 背中には何か当たった程度だと思うほど高揚していた。

 目の前で倒れ込むキアを慌てて抱き留めた。


「なぜ僕を庇った」


 そう囁きながら、キアの熱い涙が首筋に落ちた。

 思わず彼の頭を抱き締めると、キアの両目から熱い涙があふれ出し、冷えた胸元を濡らした。

 声を漏らさず泣きだしたキアを抱き締めながら、愛おしさで胸がいっぱいになった。


 どうしよう。


 私…この人が好き。


 誰かのことをそんな風に思ったのは、初めてだった。

 その後茂みに隠れ、キアの傷を縛った。

 自分の背中から大量の血が流れだしていることに気が付いたときはぞっとしたが、上着を脱いで慌てて自分の傷も縛った。


「おい、どこだ!ララ!」


 ミゼウルの声に、ララは茂みから顔を出した。


「その名で呼ばないでください、叔父上」


「ばかやろう、勝手に行くなよ!まだ敵がうろついて…お前、どうしたその背中!」


「ああ、ちょっと」


「ちょっとじゃねぇよ!血が止まってねぇ!」


 ミゼウルは慌てながら、鞄から包帯を取り出した。


「…なんてこった」


 そう言いながら痛いほどララの傷を縛る。


「俺が守ってやるなんてどの口が吐いたんだか」


 ミゼウルの珍しく暗い声に、ララは戸惑った。


「そんなにひどいですか」


「骨まではいってない。だが、傷がでかい」


「跡が残りそうですか」


「ああ」


「そうですか。どの道、傷が残って困ることはないでしょう」


「そんな問題じゃないの。お前が怪我するのは…いつだって嫌なんだよ」


「いえ、怪我ならよく」


「今までのかすり傷とは違う。…怒ったって仕方ねぇけど。目は回らないか?」


「ええ。…すみません」


「そうだぞ!勝手にずんずん行きやがって!こんなお坊ちゃんを助けるために。まあ、こいつのお陰で敵はしばらく森に入って来ないだろうよ」


「どういう意味ですか?」


「とりあえず戻るぞ。歩けるか」


 ララは立ちあがるとふいに背中に強い痛みを感じた。

 目の前も少し薄暗いような気がしたが、動けないことはなかった。


「なんとか」


 ミゼウルは、キアを背負うと歩き出した。


「大したバケモノ野郎だよ、こいつは」


 ミゼウルは、大きく息を吐きながら言った。


「敵は、人数揃えないともう森には入って来ないだろうよ」


「どういうことですか」


「結構な数、西側の森の入り口で再起不能だ。首とか腹とか…人間の急所をこいつはよく分かってる。俺達以上に戦いに…いや、人を壊すのに慣れてる」


 ミゼウルは肩を竦めた。


「敵は、王国騎士団にはバケモノがいるって大騒ぎだ。こいつの強さが半端じゃないってことだ。なんと、予告通り敵の頭も吹き飛ばしやがる」


「…まさか、そこまで」


「まあ、お前の考え通り敵はそれでも止まらなかったが。こりゃ、こいつ次期王国騎士団長様だな。…お前、今の内に跨っとけよ」


「は?跨る?」


「既成事実さえ作っとけば、将来団長夫人だぞ」


 ララは思わず絶句した。


「叔父上、品が無さすぎます」


 ミゼウルは悪びれず続けた。


「じゃなければ誰がお前みたいなでか尻筋肉女相手にするかよ」


「人が気にしていることを。勝手に大きくなったのだから仕方ないでしょう」


「しかし、こいつ王都に帰ればさぞ人気だろうな。綺麗な顔立ちしやがって、羨ましい。美女がごろごろ群がってくるんだろうなぁ」


「そうですね」


「だから、今しかないって。ちょっと触れば死に掛けでもすぐ元気になるのから、その間に…」


「お願いですから、もう黙ってください」


 ララは溜息を吐きながら、ミゼウルの品のない冗談の意味が分かってしまうことを恥ずかしく思った。

 しかし、くだらない話を続けていれば疼く背中の傷に意識が向かなくて済むような気がした。

 日暮れには基地へ到着した。


「戻ったか。お前らで最後だ」


 出迎えてくれたのは医師のトルニスタ・バレルだった。

 その横から、ぼさぼさの金茶の髪を整えながら、ガーディアス騎士団副団長のエリック・ノーランが顔を出した。


「よかった。ミゼウル、ラ―いや、ヴィンセント様」


 トルニスタは、バレル子爵家の八男で以前は王都で医師を務めていた。

 妻の故郷であるガーディアス領へ移り住み、妻が亡くなった後もガーディアス家の主治医として働いている。

 白髪交じりの黒髪に茶色の目に老眼鏡を掛け、老体に鞭を打ちやがってと文句を言いながらも、騎士団に同行してくれた。

 エリック・ノーランは、ミゼウルと同期で歳も同じということもあり、性格はまったく違うが親友同士であった。

 背はララより少し大きいくらいで屈強な騎士達と比べると小柄だが、淡い茶色の瞳はいつも穏やかな笑顔を浮かべている。

 騎士団の団長に就任したミゼウルが、時折暴走するのを冷静に宥められるのは副団長のエリックだけであった。


「遅いから心配したぞ、お前ら」


「心配をおかけしました、先生。ノーラン副隊長」


「他の奴らはどうだ、エリック」


「ガーディアス騎士団、全員無事帰還しました。怪我人数名、重傷者三名。命に係わる傷ではありません。王国騎士団は、怪我人数百名、重傷者多数。生き残れたのは三分の二かと」


「ま、無事だったほうだろう。こいつのお陰か」


 トルニスタは、ミゼウルに背負われたキアに目を向ける。


「…そいつは?」


「ララの恋人」


 ミゼウルの言葉に、ララは顔を顰める。


「叔父上」


「え?ララティナ様の?あっ…」


「ノーラン副隊長、冗談ですから」


「おいおい、戦中に余裕だな」


「先生までやめてください」


「どうする?テントは、王国騎士団の奴らでほとんど埋まっているぞ。ララ、お前のテントに運んでいいのか」


「構いません」


「襲っちまえよ、ララ」


「叔父上、いい加減にしてください」


「エリック、王国騎士団に応援要請を。今度はクソみたいな男を隊長にすんなってな」


「もうすでに要請済みです」


「さすが。…じゃ、お前も休んでてくれ」


「分かりました」


「ありがとうございました、ノーラン副隊長」


 エリックは一礼すると、その場を離れた。

 ララは、ミゼウルを追って自分のテントへ入った。


「そこに寝かせろ」


 布を引いた地面にキアを横たわらせる。

 トルニスタは口元を布で覆うと、キアの傷口を縛っていた布を鋏で切ろうとした。


「先生、こいつよりララの傷を先に見てくれよ」


「いや、私は…」


 ミゼウルはララの肩を掴むと、トルニスタの方に背を向けさせる。


「――っ!」


 ララは痛みで顔を歪ませた。


「あ、悪い。痛かった?」


「ええ。とっても」


「お前!なんだって、嫁入り前の身体にそんなっ!」


 血の量で傷の大きさを把握したのだろう。

 トルニスタの声が響くと、ララは項垂れた。


「先生、大声で言わないでください」


「おい、ミゼウル。そいつはしっかり止血しろ」


「いえ、彼の方が…」


「いいから奥に入れ!傷を見せろ!」


 トルニスタに言われ、ララは白い布を吊るした向こうの寝場所へと向かった。

 そこでララは上着を脱ぎ、胸当てを外した。

 縫合の道具を持ってトルニスタが巻かれた包帯を急いで切る。


「これも外せ」


 胸を押さえるために改良したコルセットのベルトを外すと、コルセットが血にまみれさらに背中部分が大きく切れていた。

 ララは改めて傷の大きさにぞっとした。


「横になれ。…深さはそこまでだがばっさりいったな。胸を締め上げていたお陰で助かったな」


「まさか、そんなことに役立つとは」


 ララは苦笑した。


「いくぞ。叫んでも構わんからな」


「私が嫌なので」


 ララは、手近にあった白い布を口に詰めた。

 傷の痛みもあるが、小さな針で皮膚を刺される感覚は最悪だった。

 それが何度も何度も続けられ、永遠に続くような痛みに涙があふれ、もうやめてくれと叫びたくなるのを堪える。

 吊るした布の向こうから、ミゼウルが心配そうにこちらを覗くのが涙目ながらに分かる。

 その視線に気が付き、トルニスタが口を開いた。


「ミゼウル、お前はそいつを縫い始めとけ。やり方知ってるだろう。消毒を忘れるなよ」


「で、でもよ」


「お前が縫えるのか、ララを。できないだろうが」


「…分かったよ」


 傷を縫う痛みがやっと終わると、痛いほど包帯でぐるぐる巻きにされる。


「腕が痺れてきたら言え、少し緩める」


 そう言いながら、トルニスタは白い布の外へと出て行った。

 ララは、涎まみれになった布を吐き出し、しばらく床に倒れていた。

 少しして痛みに耐えながら起き上がり、新しいシャツを着ると胸当てだけを付けた。

 包帯で巻かれているため、胸の厚みは分からないだろう。

 寝場所の外へ出ると、トルニスタはキアの身体を縫っていた。

 ミゼウルは、時折無意識にキアが手を伸ばし抵抗するのを押さえていた。


「ララ、起きてくんな。休んどけ」


「大丈夫です、叔父上。心配をおかけしました」


 ミゼウルは、心底疲れた様子で息を吐いた。


「俺の寿命が縮まったわ」


「ずっと下品な冗談を言っていたくせに」


「うるせ」


「先生、彼は?」


「重症だな。肩に腕に、胸の傷が深いが内臓までいってない。運のいい奴だ。死ぬにはしないだろう。ララ、薬を飲め。痛み止めと止血、化膿止めのやつ」


「分かりました」


 ララはトルニスタの道具箱を開き、革の水筒の水を飲みながら紙に包まれた粉薬を飲み下した。 


「しっかし、なんともいやらしい身体してるな、こいつ」


 ミゼウルがふいに言ったので、ララは水を吹き出すところだった。


「…叔父上、そんな趣味が?」


「違う!ただ、俺みたいに胸毛もじゃもじゃじゃないし…」


「あなたは髭の方を気にすべきだと思いますが」


 確かに、キアの鍛えられた身体は、半裸でうろつく騎士達を見慣れているララでさえ、妙な艶めかしさを感じる。

 ミゼウルと比べると細身ではあるが、身体中どの部位も鍛え抜かれているのが分かる。

 しかし、身体は古い傷がいくつもあった。


「俺も鍛えてはいるが…こんなに見事に腹は割れないぞ』


「あなたは葡萄酒やら泡麦酒を飲み過ぎなのです」


「うるせぇな!こいつきっと自分の筋肉に溺れる自分大好き変態…」


「ミゼウル、ちょっと黙ってろ!唾を飛ばすな!」


 トルニスタに怒られ、ララもミゼウルも口を閉じた。


「糸が足らないな。顔の傷は綺麗には縫えんな」


 眉の傷を縫いながら、トルニスタが言った。


「いいよな、これくらいの傷」


「…なんで私に聞くのですか」


 ミゼウルのひやかす様な顔をララは静かに睨んだ。

 数刻して、キアの治療は終わった。


「あー疲れた。俺はもう自分のテントに戻る」


「ミゼウル、お前はまだ元気だろう?他の奴らの様子を見に行くから来い」


「はぁー?先生、俺だって戦って来たんだぜ!」


「私も行きます」


「お前は寝とけ、ばか」


 ミゼウルはララの額を指で軽く小突くとトルニスタの後を追ってテントから出て行った。

 ララは眠るキアの隣に座った。

 キアの呼吸を聞きながら、もう少し近くで顔を見たくなり近づき、キアの隣にうつ伏せになり自分の腕を枕にする。

 こうして眠っていると吊り上がった眉が下がり、幼く見える。

 ララは無意識に手を伸ばしていた。

 髪と同じ銅色の形の良い眉に触れ、短い睫毛に縁取られた目をなぞる。

 高い鼻を撫で薄い柔らかな唇に触れる。

 ふいにキアが呻き、ララは手を離した。

 そして、そのまま隣でキアの顔を眺めながら枕元においたランプを消すと目を閉じた。


 ララが、荒い息遣いに目を覚ましたのは夜のことだった。

 ひきつるような荒い息を立てているのは、キアだった。

 ララは暗闇に手を伸ばし、キアの身体を探した。

 手が肩に触れた瞬間、キアの身体がびくりと震えた。


「―っ!」


「キア・ティハル」


 暗闇でキアがこちらを見ているのが分かった。


「もう、大丈夫だ。キア・ティハル。私が分かるか」


「…ヴィンセント」


 ララは、まだ浅い呼吸をしているキアの頬に触れた。

 冷や汗をかき、まだ震えているのが分かる。


「僕は…生きているのか?」


「ああ」


 ララが手を引こうとすると、ふいにキアがララの手を握った。


「ありがとう」


 キアが力なく口を開いた。


「助けてくれて」


 ララは、微笑んだ。


「いや、間に合って良かった」


 キアは、ララの手を握りしめたままだった。

 離せば再び悪夢に襲われると思っているのだろうか。

 ララは、その手を握り返した。


「あなたは強いな。森に入って来た敵がほとんどやられていたと聞いた。敵の頭も。さすが王国騎士団だ」


 キアはぽつりと言った。


「僕は…バケモノだから」


 その言葉に、ララは驚いた。


「騎士なんかじゃない。ただの…バケモノだ」


「そんなことはない。今回大勢の騎士を救ったのはあなただ。バケモノだなんて冗談かと…」


「バケモノになったんだ。バケモノにさせられた。普通に…普通の人間だったのに」


 キアはそういうと、深く息を吸った。


「大人達に無理やり居場所を奪われ、王族の愚かな殺し合いに巻き込まれ…暗闇に紛れて大勢の人間の命を奪った。自分が何をさせられているかも分からず、ただ…家に帰りたかっただけなのに。…気が付けばあいつらと同じバケモノになっていた」


 苦しそうな声で続けるキアは、今では痛いほどララの手を握っていた。


「君に救われる価値なんてない…バケモノなんだ」


 ララは思わず両手でキアの手を握った。


「それでも…生きていて良かっただろう?だから、安心して泣いたのだろう」


 ララは暗闇にいるキアに話続けた。


「人の命を奪ってきたことで、あなたが自分をバケモノと呼ぶなら、私だってバケモノだ」


「君は、騎士として人を守るためだ」


「私が騎士になったのは人を守るためではない。母に…必要とされるためだ」


 その言葉に、ララ自身が驚いた。

 だが、それは真実だと気が付いた。


「騎士になり、必要だと言われたかった。私を…もう一度愛して欲しかった」


 そう口にして、ふいに泣きたくなるのをララは堪えた。


「あなたと同じ…全部自分のためだ。その母もいない。私がここにいるのも、あなたを助けたのも…自分のためだ」


 ララは、暗闇にいるキアに微笑みかけた。


「今日でよく分かっただろう。バケモノじゃなくていつかは死ぬただの人間だ。私も…あなたも」


 キアは頭を少し動かすと、じっとララを見ていた。


「生きていて良かった…か」


 そう呟くとキアは、ララを握る手を緩めたが、離さずにいた。


「…そう思える日が来るなんて思わなかった」


 キアの声が、わずかに震えているのが分かった。

 涙を堪えているのだろうか。


「そうか」


 ララは、それ以上は何も言わずキアの手を握っていた。

 少ししてキアの穏やかな寝息が聞こえてくると、ララは微笑んで再びキアの隣に横になった。

 キアは、ララの想像もつかないような目にあってこれほど強くなったのだろう。

 それなら、これ以上キアが辛い目に合わなければいい。

 そう思いながら。



 朝の光に、ララは目を開いた。

 キアも目を開きこちらを見ているのが分かった。


「おはよう」


 そう言ってララが微笑むとキアは、はっとした様子でララの手を離した。


「ああ、僕は…。すまない。手を…」


 キアはひどくばつが悪そうに目を伏せた。

 ララは、ふと自分が今は男であることを思い出した。

 キアにしてみたら、ミゼウルの手を握っていたということなのだろうか。


 なんて気持ちの悪い!


「いや、いいんだ!気にしないでくれ。水を飲めるか?」


 キアは、静かに頷いた。

 ララは傷が痛まないようにゆっくりと立ち上がると、近くの革の水筒を引き寄せる。

 キアは何とか自分で起き上がろうとしていた。

 しかし、目を眩ませ再び倒れ込みそうになる。

 ララは慌てて、キアの背中を抱き留め地面に膝を付いた。

 不用意に動いたせいで、背中の傷にびりりとした痛みが走る。

 ララは、声が漏れそうになるのを堪えた。


「…出血が多かった。目が回るだろう」


 そう言いながら、キアを支える。

 キアの身体の包帯からは血が滲んではいたが、すでに乾いていた。

 キアは掠れた声で言った。


「すまない。君も怪我をしているのに。大丈夫なのか?」


「ああ。少し痛むが、かすり傷だ」


 キアは静かにララに持たれていた。

 心地の良い重みが胸に掛かり、銅色の髪がララの首をくすぐる。


「僕以外の騎士達はどうなった」


「助かったのは三分の二だ」


「そうか」


「リバロ隊長は無事だ。あなたの予想通り、一番に撤退してきた」


「敵は僕達の倍だった。あの男は、僕達を囮に逃げ出した」


 ララはその言葉に、目を見開いた。


「…最低の屑だ」


 思わずそう吐き捨てる。


「水を飲めるか」


「君から先に」


「そうか」


 ララは数口革の水筒から水を飲むと、キアにそれを渡した。

 キアは頭を上げそれを口に運んだ。


「全部飲んでも構わない。まだ水樽に入っている」


「ああ、ありがとう」


 キアが水筒を飲み干すと、頭に巻いた包帯が目元に下がってくる。

 ララはそれを引き上げ、キアの目を覗き込んだ。


「左の目の上、眉の辺りを斬られている」


 思いがけず近い位置に顔があった。

 キアは顔を上げ、ララの瞳を子どものようにじっと逸らさずに見つめる。

 ララもその澄んだ瞳に引き込まれる。

 なんて美しいのだろうか。

 自然と視線が唇へ向く。

 少し首を傾け、唇を合わせてしまいたい衝動に駆られながら、再び視線を瞳へ戻す。

 ふいに、瞳の中に金色の光が見える。


「…不思議な目の色だ。若葉の色に星の光が見える」


 キアははっとしたように突然顔を背けた。

 その瞬間、ララも我に返る。


 いま、何を考えていた?

 自分から口づけようとかしてなかった?


 ミゼウルの襲っちまえという言葉を思い出し、ララはなんだか恥ずかしくなる。


「…星の瞬き」


 ふいにキアが口を開いた。


「え?」


「僕の名の意味」


 それは、以前ララがした質問の答えだった。


「ああ!その瞳が由来しているのか。なるほど、素晴らしい名だ」


 そう言うと、キアは少しだけ唇を歪ませ恥ずかしそうに淡く笑みを浮かべた。


 笑った。


 その静かな笑顔に、思いがけずララは、胸がきゅっと締め付けられたような気がした。

 その笑顔に、ララも笑顔になる。


「…横になるか?」


 キアは答えず、ふいに再びララの胸に頭を寄せた。


「もう少し…いいか?」


「あ、ああ」


 その甘えるような行動に、ララの心臓の鼓動が早くなる。

 キアはただ黙ってララに身体を預けていた。

 心地の良い重みと温かさを身体に感じた。

 まるで後ろから抱き締めているような状況に戸惑いながらも、キアの頭に触れた。


「森でも思ったが…ふわふわだな」


「ただの癖毛だ」


「いや、私も癖毛だがこんなには…」


 この骨ばった首筋の滑らかな肌に唇を這わせたら、どんな味がするのだろうか。

 ララは思わずぎょっとする。

 先ほどから自分はいったい何を考えている。

 これが色気にやられているということだろうか。


「…いい匂いがする」

 

 思わずそう口にした瞬間、キアはララから逃げる様に離れた。

 ララは自分の言葉が漏れてしまったことにはっとする。


「ああ、すまない。匂いだなんて。私も疲れているな」


 キアは目元を抑え、眩暈を堪えていた。


「大丈夫か」


 ララが再び寄るのを、キアは拒むように手で制した。


「どうしたんだ、急に」


「風呂に…入ってない」


「ああ、私もそうだ。…臭かったか」


「いや、…石鹸」


「おかしいな、シャツを変えたからだろう」


「僕は…バケモノ臭いと言われる」


「バケモノ臭い?」


 ララがキアに鼻を寄せようとすると、キアが拒否するように身体を反らした。


「変態」


「失礼だな」


 ララは嗅ぐのを止めたが、キアは険しい顔のまま口を閉じていた。

 ララは、少し考えて言った。


「…キア・ティハル。本当のバケモノの臭いを知っているか」


「は?」


「叔父上の靴下の臭いだ」


「…嗅いだのか」


「あの人は臭ければ臭いほど他人に嗅がせて来るんだ」


「最悪だな」


「本当に最悪だ」


 キアは、再び淡く笑った。

 ララはほっとして、笑みを返した。


「おい、起きているか」


 そう言ってテントの入り口から顔を出したのはトルニスタだった。


「おお、生き返ったな」


 キアは、眉を顰めてトルニスタを見た。


「ああ、トルニスタ・バレル先生だ。あなたを治療してくれた」


「…ありがとうございます。キア・ティハルです」


 キアは静かに頭を下げる。


「おお、案外と礼儀正しい奴だな。キア君」


「今何時ごろですか、先生」


 ララが尋ねるとトルニスタは腰に下げた懐中時計を見た。


「七時前だ。血は止まったようだな」


 トルニスタは、キアの身体を見てそう言った。


「お前の背中は?」


「私は大丈夫です」


「後で包帯を取り換えるぞ。…何か食べられるか?昨日の羊の煮込みが残っている。いつもすぐなくなるが、俺がこっそり取っといたんだ。夜食にしようと思ったが疲れて寝ちまった」


「もらっていいのですか」


「ああ」


 ララはキアの方を向く。


「食べられるか」


 キアは一瞬視線を泳がせたが、静かに頷いた。

 トルニスタが小鍋にじゃがいもとトマトと羊の肉を煮込んだものと、表面を焼き直したパンを盆に載せて運んで来た。

 煮込みを木の器に盛り付け匙を沿えるとキアとララに渡す。

 さらに、二人分の紙に包んだ薬を持って来た。


「先生は?」


「俺は、さっき少しもらった」


「ありがとうございます」


「いただきます」


 キアは礼儀正しくそう言う。

 匙で一口食べると、目を見開く。

 そのまま無言で掻きこみ、大きな口を開けてパンを頬張り、頬に食事を目一杯詰めてもぎゅもぎゅと食べる。

 その姿に、ララとトルニスタは顔を合わせて微笑んだ。


「美味いか、キア君。こいつが食事を作るとすぐなくなるから、貴重だぞ」


「美味いです。…こいつとは?」


「私だ。昨日の夜作った。最近私にばかり食事係が回ってくるのですが」


「味が良いからな。アントンの店で教えてもらったんだったか?」


「そうです。私が作るようになるまでは、叔父上のとんでもない料理でしたから』


「ただし具は大きいが」


 トルニスタが、大きな口を開けてキアがジャガイモにかじりつくのを見て言う。


「…途中で面倒に」


「そこはミゼウルに似たな、お前」


 キアはぺろりと皿を空にして言った。


「羊は妙な味がするかと思っていた」


「新鮮だからな。ディアス村から買ったばかりだ」


 ララがそう言うとキアはじっと鍋の方を見ていた。

 鍋はもう空だった。


「私の分も食べるか」


「いや」


「私はパンだけでいい」


 そう言ってララが自分の皿を差し出すと、キアはそれをじっと見つめた。


「…いいのか」


「ああ。そんな風に食べて貰えると私も嬉しい」


「ありがとう」


 キアは、皿を受け取ると再び食べ始めた。

 その様子を見ていたトルニスタがなぜかにやにやと笑いながら言った。


「お前ら…結婚すればいい」


 ララはぎょっとする。


「やめてください、先生」


「へいへい」


 キアは特に気にする様子もなく食事を続けていた。

 ああ、そうだった。

 私は今ヴィンセントだった。

 自分ばかり動揺したことが、ララは恥ずかしかった。


「叔父上はどうしたのですか」


「見回りに行った。エリック君も一緒だ。俺も怪我人を見て回ってくる」


 トルニスタはそう言って、立ち上がった。


「食事が終わったら、薬を飲めよ」


 トルニスタがテントを出て行った。


「食べ終わる前に飲んだ方がいい」


 ララはそう言って、キアに薬を勧める。


「覚悟して飲まないとものすごく苦い…」


 キアは、薬をするっと口にした。

 そして、再び皿の煮込みを食べ始めると、あっという間に皿を空にしてしまった。

 口元を拭うキアに、ララは言った。


「怪我に慣れているみたいだな。古い傷も多い」


「ああ」


「貧血には肝臓の料理がいいと聞く。今日は…」


 その時、テントに王国騎士団の男が二人何も言わずに飛び込んで来た。


「…ヴィンセント・ガーディアスだな。来い!」


 突然ララの腕を乱暴に掴んだので、背中の傷が引きつりララは顔を顰めた。


「待て。彼が一体何を…!」


 立ち上がろうとするキアをララは手で制した。


「問題ない。…まだ動いては駄目だ」


 ララは騎士の手を振りほどいた。


「私に触るな。自分で歩ける」


 そう言って、近くに置いていた血で汚れたままの制服の上着に袖を通す。


「すぐに戻る」


 キアにそう告げると、テントを出た。

 ララが案内されたのは、予想通りマレキスのテントだった。

 ララが入るなり、マレキスの不愉快な声が響いた。


「彼です、バルバロット様。彼が嘘の情報を我々に流し、あろうことが王国騎士団を陥れたのです」


 テントの中央に座るのは、黄金の柄の剣を持つ男だった。


 バルバロット…あの王国騎士団長のユークリッド・バルバロットか。


 その背後には三人の騎士が立っており、ララを連れに来た騎士二人は出口を封じるようにララの後ろへ立った。

 ララは静かに頭を下げた。


「お初にお目にかかります。わたくしは…」


「挨拶は必要ない。ヴィンセント・ガーディアス」


 そうひどく機嫌の悪そうな声が響いた。


「リバロ子爵の話は真実かどうか、俺はそれだけが知りたい」


 ララは静かに頭を上げた。

 その場で理解した。

 マレキスは、自らの命令違反をララのせいにするつもりなのだ。


「真実ではありません」


「バルバロット様。私とこの少年、どちらの意見をっ!」


「黙っていてください、リバロ殿。ヴィンセント・ガーディアス。残念なことに、こちらには証人が二人いる」 


 そう言って、ユークリッドが目を向けたのはマレキスの両隣に控えた騎士二人だった。

 一人の赤毛の騎士が悪びれる様子もなく口を開いた。


「我々は、彼から敵が少数であるという情報を受けています」


「先陣部隊だけで十分に殲滅可能であると」


 全身の血が沸き立つような気分だった。

 怒りのあまり手が震えた。

 この場で大嘘付きと喚き散らしたいのを堪える。


 考えろ。

 考えろ!


 怪我をしているキアを…巻き込みたくない。

 しかし、尋問となれば何をされるか分からない。

 正体が、ばれるよりはいっそ…!

 ララは唇を噛み、そして静かに息を吐いた。


「私は嘘は言っておりません。応援を待つべきだと報告しました」


「…この場に及んで何を」


「リバロ殿、発言はお待ち下さい。では、どうする。貴様は、王国騎士団の中でも長い歴史を誇るリバロ伯爵家が嘘を吐いていると…そう言うのか」


 ララは静かに息を吐いた。


 ごめんなさい、叔父上。


「私は、私の言葉に責任を持ちます。敵の情報を伝えたのはこの私です。ガ―ディス騎士団には何も関わりはありません。処罰するというのなら私を。この場で首を切り落とすというのなら…それで構いません」


 沈黙が流れた。

 その中で、ユークリッドが静かに笑いを漏らした。


「君は、いくつだ。ヴィンセント」


「…十九です」


「それほどの若さで、己より騎士団の心配か。…素晴らしい」


 ユークリッドが僅かに傍らに立つ騎士に視線を向けると、その騎士が剣を抜いた。

 ララは、目を閉じた。

 背後で誰かの呻く声が聞こえ、ララは思わず目を開き振り向いた。

 次の瞬間、キアに身体を引き寄せられていた。


「キア・ティハル!」


 荒い呼吸のキアは、包帯を巻いた身体に上着も着ず、靴さえ履いていなかった。

 キアはララを抱きよせると、そのまま目の前の剣を手にした騎士の首に、素早く手で一撃を打ち込んだ。

 騎士はぐっと呻き声を上げ、地面に崩れ落ちた。

 その場にいる騎士達が剣を構えたが、ユークリッドがそれを手で制した。


「武器なしでも…やれるのか」


 そう言いながら首を撫でるユークリッドを、キアは威嚇するように低い声で言った。


「兄さん、どうして」


 兄さん?


 状況が読めずララはキアを見上げる。

 腰に回された手に力が入り、今ではまるで抱き締められているような状態だ。

 ユークリッドは顔を顰め深く息を吐いた。

 ララの背後で倒れている二人の騎士と、目の前で気を失っている騎士が仲間から助け起こされるのを見つめる。


「…悪い、コリン。キア、ただの悪ふざけだ」


「彼は僕の命の恩人だ」


「あんまり落ち着いているから、少しでも動揺するか試しただけだ。それにしても…キア!生きていたのならすぐに俺の所へ来い!」


「…来ました」


 声を荒げるユークリッドにキアは飄々と答えた。


「なんだ、その姿は!なにを勝手に死にかけてやがる!」


「全力を尽くした結果です」


「命を掛けろとは言っていない!お前に死なれたら、俺は親父に…!」


 そう言いながら、ユークリッドは深く息吐いた。


「もういい。…顔色が悪いな」


「もともとこんな色です」


「だが、お前以上に悪い奴らがいる」


 そう言って、ユークリッドはマレキスの方を向いた。


「話せ、マレキス・リバロ。ただし、俺は弟の言葉しか信じるつもりはない」


 弟?


 では、あのエルディック・バルバロットの息子?


 一体いくつの時の子どもなのだろう。

 というか、暗殺兵という話は一体?

 それより、この腰に手を回された状態を一体どうすればいいのだろうか。


 逞しい胸に顔を寄せている状況に、ララは自分の鼓動がうるさいほどに耳に響いた。

 マレキスは何度かはくはくと音を立て、口を動かした。


「お、弟?そんな…まさか!」


「俺の親父が認めた。正式な遺言書でキア・ティハルが自分の息子だと」


 マレキスは何度もキアとユークリッドの顔を見比べたが、何も言わずにその場へ座り込んでしまった。


「命令違反の上、虚偽まで。貴様は、己だけでなく部隊全員を危険に晒し、貴様を信頼する部下達を死なせた。その罪を思い知れ!」


 マレキスと騎士二人が連れて行かれると、キアはようやくララの腰から手を離し、ララの顔を覗き込んだ。


「すまない、強く引いて。傷は痛まないか」


「え?ああ」


 傷の痛みなど思わず忘れていた。

 キアはほっとしたように淡く笑みを浮かべた。

 動くことすら辛いであろう大怪我なのに、私のために来てくれたのか。

 そう思うと、ララは胸が苦しくなった。


「…驚いた。お前の笑った顔など初めてみた。しかし、女や子どもではないのだ。そんなに過敏になるな」


 ユークリッドのその言葉に、ララは一瞬身体を固くする。


「まったく、そんな格好で…」


 そう言いながら、ユークリッドはキアに自分のコートを脱いで渡した。


「ありがとうございます」


 キアは、それを受け取ると袖を通した。


「お前は俺の隊へ加われ。どのくらいで動ける?」


「…二日もあれば」


 え?ララは驚いてキアを見上げた。


「いや、そんな傷では…」


「分かった」


「いや、ちょっと意味が…」


「君は、どうする」


 そう言いながら、ユークリッドは視線をララへ移した。


「その度胸気に入った。王国騎士団に正式に入団しないか」


「私…ですか?」


 ララは、心が躍るのを抑えられなかった。


「君の祖父、ギデオン・ガーディアス殿も嘗ては王国騎士団に在籍していた。君も、数年王国騎士団に籍を置けば領地を治める上での学びになると思うが」


 王国騎士団長が私を求めるなんて。

 それに、王国騎士団に入れば…キアの傍にいられる。

 しかし、不意に思い出した。


 違う。


 私ではない。


 私は、ララティナなのだ。


「ありがとうございます。夢のようなお話ですが、私は私が守るべきもの、それを守るだけで精一杯の人間です」


「そうか。…まだ若いのだから、王都で花嫁選びをしてもいいと思うのだが。田舎に比べたら美しい女が多いぞ?」


 この人、絶対女好きだろうな。

 そう思いながら、ララは苦笑を返した。


「ありがとうございます。しかし、私には結婚を約束した相手がおります」


 本当はヴィンセントにも自分にもいない。

 だが、これ以上話を長引かせれば説得されてしまうような気がして、ララは嘘を吐いた。


「そうか。それは残念だ。こいつに、やっと良い友人が出来ると思ったのだが」


 そう言って、ユークリッドはキアの背を軽く叩いた。

 キアは、黙ってララを見ていた。

 傷が痛むのかどこか暗く見えた。


「大丈夫か?」


 ララがそう言って、腕に触れるとそれを拒絶するようにキアは離れた。


「ああ」


「そう…か」


 ユークリッドが言った。


「君は戻るといい。これまでの働きに感謝する。状況によっては領地への帰還も許可できるだろう」


「分かりました」


「キア、お前はとりあえず医者のところへ行って来い」


「はい」


 キアとララはテントを出た。


「医師のところまで手を貸そうか」


「必要ない」


 キアがあまりにも突然素っ気なくなってしまったので、ララは戸惑った。


「傷が痛むのか?」


「平気だ」


「キア・ティハル、ありがとう。…私を助けに来てくれて」


「いや、借りを返しただけだ」


「借り?」


「命を救われた借りだ。…これで、借りはない」


 そう突き放すようにキアは言った。

 その言葉に、ララは胸が痛むような気がした。


 もう何もない。


 私達の間には。


 いや、あってはならないのだ。

 私がここで存在してはいけないのだから。


「君は…いるのだな」


 ふいにキアが呟いた。


「え?」


「なんでもない」


 キアはそれきり口を噤んだ。


「じゃあ、あまり無理はするな。…元気で」


 ララはそう告げるとキアに背を向け歩き出した。

 キアは何も言わなかった。


 もし、もしも…また会うことが出来れば。


 ララは、ふと足を止めて振り向いた。

 キアは、まだ動かずそこに立っていた。

 互いに互いを見ていた。

 もし今、私が本当の自分を明かせば。


「キア…」


 手を伸ばし名を呼んだ瞬間、キアははっとした様子で逃げる様にこちらに背中を向けて行ってしまった。

 彼が自分を無視して行ってしまったことに、ララは再び胸が痛んだ。

 頭を過った愚かな考えを振り払うように、ララは首を振った。


 少しして、ガーディアス騎士団へ帰還命令が下り、ララはガーディアス領へ戻った。

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