十三.
ララは目を覚ました。
カーテンの外は明るくなり始めていた。
ララはベッドから身体を起こすと、長椅子には寄り添うようにレチリカとエレノアが眠り、壁の椅子には目を閉じたアロアがいた。
怪我をして戻って来たあの頃を思い出す。
目を覚ませば誰かがいた。
「皆傍にいてくれたのに…ひとりでいいなんて。私は愚かだな」
ララは思わずそう呟いた。
レチリカは目を擦りながら目を覚ますと、ベッドに近付いてくる。
「おはよ、ララ姉。もう大丈夫?」
「おはよう、レチ。もう大丈夫だよ」
そう言ってレチリカの頭を撫でると、嬉しそうに目を細める。
「ララ様」
アロアが目を開き駆け寄るとララの額に手を置いた。
「まだ少し熱いようですが、高熱ではないようですね。良かったです」
「ありがとう」
エレノアが静かに起き上がり、ララの方をみて微笑んだ。
「ありがとうございます、エレノア」
壁の時計を見ると、朝の五時だった。
「まだ眠り足りないわね」
エレノアが静かに欠伸をする。
「休んでください、アロアも。レチも客間のどこかで…」
レチリカは立ち上がると眠そうに目を擦り、ふとにやりと笑った。
「いいの。レチもちょっと寝て来るね」
「寝るってどこへ…」
「また後でね」
レチリカは楽しそうに扉へ向かうと、扉から顔だけ出して言った。
「さすがにいないね」
それがキアのことだと分かり、ララは思わず肩を縮める。
エレノアは立ち上がると、ララの頭に手を触れた。
まだ少し寝ぼけているのか小さな子どもにするように、ララの頭を撫で回した。
「立派に育ったわね。…あなたを見ればあの人のことが、分かりそうなものなのに」
「え?どうしたのですか、エレノア」
「何でもないの」
エレノアは静かにララの額に口づけた。
「少し眠ったらまた来るわ」
エレノアは、そういうと部屋を出て行った。
「わたくしはリアンと代わります」
「大丈夫だ、アロア。私ももう少し眠るから」
「分かりました。何かあったら呼んでください。…鍵は掛けておきますからね」
アロアはそう言って出て行くと、外から鍵を閉める音がした。
ララはベッドから下りると水桶で顔を洗い、口を濯いだ。
昨日と違い頭はすっきりとしていた。
「私は…私でいい」
エレノアの言葉を思い出すと、ララは不思議と笑顔になった。
そう、私は…誰にもなれない。
だからこそ、今のままの自分でキアに向き合うしかない。
私は…どうしたらいいだろうか。
キアに会ったら、どうすればいいのだろうか。
冷静になれず、子どものように泣き叫んでしまったことが今さら情けなくてみっともない。
カーテンを開き窓の外を見る。
雨上がりの庭が濡れて煌めいているのが分かった。
自分が、キアと一緒にいる必要はもはやない。
義務も責任も。
私は…どうしたいのだろう。
キアはいつだって、自分を傷つける。
鍛えようのない場所を、いつも痛めつけられる。
それが怖い。
怖いのに。
触れられるだけで、頬に口づけられるだけで。
そのことを思い出すだけで、胸の痛みなど忘れてしまう。
「私は、やはり…キアの傍にいたい」
ララはそう呟いた。
それが、傷が理由なのだとしても。
でも、キアは自由になるべきなのだ。
そして自分で選んだ、望んだ花嫁を探さなければ。
それに伯爵になるのなら、醜聞のある淑女でもないララは相応しくない。
それなら、王都に行って醜聞を調べてみればいい。
そして、もっと淑女になる努力をしてキアに選んでもらえるような…キアの隣に相応しい自分になれれば。
ララは思わず苦笑した。
「案外諦めが悪いな、私は」
ふいに窓の外を、一筋の煙が横切った。
はっとして、横の部屋のバルコニーに目を向けたが、そこに誰がいるかは分からなかった。
ララは、窓を開けテラスに出た。
隣を見るとそこにいたのは、煙草を咥えたキアだった。
一体いつからそこにいたのかは分からない。
しかし、キアの手元にある灰受けの皿には何本も煙草の吸殻があった。
キアはこちらに気付く様子もなく疲れきった顔でただ煙草を口に咥え、静かに吸った。
その姿を見るだけで、ララは思わず微笑んでしまった。
ララの気持ちは、やはり何も変わらなかった。
「美味いのか」
ララはそう声を出していた。
キアが目を見開き、こちらを向いた。
「煙草は…美味いものなのか」
「ごふっ」
唐突にキアがむせたので、ララは慌てた。
「す、すまない。急に声を掛けて」
「ごふっごふっ」
「だ、大丈夫か。キア…」
少しして、キアは煙草の火を皿で押し消し、涙目のまま顔を上げた。
その顔にララは微笑み、目を伏せた。
「キア、私は…」
ララが顔を上げた瞬間、キアは目の前のバルコニーにいなかった。
しかし、次の瞬間にはとんっと目の前の柵の上に立っていた。
「な、なにを考えているんだ!」
何事もなかったかのように、柵から降りて目の前に立ったキアへララは駆け寄り、思わずその手を取った。
「冷たい!一体いつから外にいたんだ。それに、ここは三階だぞ!飛べない距離ではないにしても…」
キアは悲しそうに顔を歪めると、ぎゅっとララの手を握った。
「…ララ」
ふいに抱き寄せられ、ララはキアの腕の中にいた。
ぎゅっと力を込めて抱き締められると、煙草の甘い匂いがした。
「ララ…ララ、ごめん、ごめん」
キアはそう何度も謝った。
「どうか僕を許して欲しい」
「キア」
「君が好きなんだ、ララ」
その言葉に、ララは目を見開いた。
「義務じゃいやなんだ。僕を好きだって言って欲しい。嫌いになんか…ならないでくれ」
呆けて声も出ないララを、キアはさらに力を込めて抱き締めていた。
「僕の想い人はずっと君だ。それなのに婚約者がいると聞いて…」
ララは驚いた。
婚約者って…ヴィンセントのふりをしていた時の話だろうか。
「君は僕のものにはならない。それが許せなくて、君に背を向けた。だが、死んだって聞いても、僕は…君を忘れられなくて」
キアは、ララの頭に頬を摺り寄せた。
「もう一度君に…ララティナに会って、僕はまた君を好きになった。この家がなければ、君が結婚を引き受けないのも分かっていた。だから僕が伯爵になって…この領地を奪ったって言えなかった」
キアは擦れた声で言った。
「頼むから…もう僕の前から消えてしまわないで」
泣き出してしまいそうな声に、ララはキアの背中に手を延ばしその身体を抱きしめた。
「私も…私もあなたが好き」
そう口にして、涙がにじんでくるのが分かった。
嬉しいのに、なぜ涙があふれて来るのか分からなかった。
キアから痛いほどに抱き締められると、その満たされたような感覚に、ララは涙が止められなかった。
「でも、あなたは伯爵だ。私はあなたに相応しく…」
「なら伯爵はやめる」
キアはきっぱりと言った。
「伯爵もここを治めるのもきっと誰にでもできる。でも、僕が傍にいたいのは君だけだ。君だけなんだ。」
キアは続けて口を開いた。
「マリエラとなんか抱き合ってない。あれは、マリエラが雷を怖がって僕に…こう掴みかかって」
ララは思わず微笑んだ。
「掴みかかる?」
「僕は触れてない。…好きだとか言われたが断った。彼女は結婚出来れば誰でもいいんだ」
「いや、きっと優しいあなたのことが…」
キアは違うというように首を振った。
「君の親戚でなければ、親切になどしない。…結婚が無理なんて言うつもりなかった。ただ…僕は君に追いかけて来て欲しかった」
キアの言葉に、ララは驚いた。
「そんなの嫌だと、こんなバケモノの僕のことでも必要だって…言って欲しかった」
「キア」
「そしたら、僕だって君に気持ちを伝えられるのにと…とても臆病で卑怯だった」
キアは悲しそうに続けた。
「僕は理由が欲しかった。この世界に…馴染めない、愛されない理由が欲しかった」
ララは、驚いた。
「だから、バケモノと呼ばれ世界に拒否され、自分でも拒否する理由を作って…すべて諦めていた。でも、君だけは諦めたくない…諦められないんだ」
「…キア」
ララは顔を上げた。
「私は…縋りたくなかった。きっとあなたにもっと嫌われると…」
「そんなことはない」
「私は…その私は…母と」
エレノアの時のように、説明できたらと思っていたが、キアに本当のことを知って欲しいという思いがあふれ、うまく言葉にできなかった。
それでも、ララは大きく息を吸って口を開いた。
「私も理由が欲しかった。愛されない…愛されなくなった理由が。私は父が消えた後、母から疎まれひどい言葉を浴びせられたり、暴力を…振るわれるようになった。騎士にさえなれば、また愛されると信じていた」
気が付くと、ララはキアの上着をぎゅっと掴んでいた。
「それでも母がこちらを向くことはなくて…いつしか母を軽蔑するようになっていた。ただ縋ることしかできない女になんかにならないって。でも、でも…怖がらずあなたの傍にいたいと伝えるべきだった。ただ、それだけで良かったのに」
ふいにキアはララを離した。
静かにララの前に跪くと、ララの手を強く握った。
「ララティナ・ガーディアス…君が好きだ。僕と結婚してください」
ララはその手を握り返し微笑んだ。
もう逃げる必要はない。
傍にいたい。
それでいい。
「ええ、キア・ティハル…あなたの花嫁になります」
「これを…もう一度受け取ってくれるか」
そう言って、キアはポケットから髪飾りを取り出した。
「もちろん…」
ララは、静かにそれを受け取り微笑むとキアは立ち上がり再びララを強く抱きしめた。
「愚かだな、僕は」
そう囁くようにキアは言う。
「あいつの言う通り…ただ伝えればよかった」
「あいつ?」
「君の叔父さん」
「あの人は素直な人だから」
ララが顔を上げ微笑むと、キアも淡く笑みを浮かべた。
その若葉色の煌めく瞳を見つめていると、ふいにその顔が近づいてくる。
柔らかく唇に唇が重ねられると、キアの乾いた唇の冷たさを感じる。
「まだ熱い」
そうキアは言いながら、再びララの唇に唇を寄せる。
深さと感触を味わう様に、今度は少し長く唇を吸われる。
唇を吸う音が耳に響いてくる。
その恥ずかしさに、ララは思わず俯く。
「キア、風邪がうつ…」
「うん」
頷きながらもキアはララの髪に指を差し込み、頭を引き寄せると今度はもっと深く唇を合わせた。
下唇を柔らかく食まれると、ぞくりとした感覚に身体が震える。
思いがけない心地よさにララは目を閉じていた。
キアから離れたくなくて、キアの唇を追い掛けるようにララは唇を合わせ、自然とキアの首に腕を回していた。
お互いの吐息と唇を吸う音だけが耳に響いてくる。
「キアさまぁ!」
そう隣の部屋からサリーの声が響く。
ララは目を開き口づけを止め、手を解いた。
自分から口づけを求めてしまったことが今さら恥ずかしくて目を伏せる。
キアが目を細め静かに身体を起こした。
「聞いてくださいよ、レチリカさんが僕のベッドにはいって来たんですよ!あんまりです!僕のことをなんだと…あれ?あれ?キアさま?」
キアは再び、ララの背中にぎゅっと手を回してきた。
「え?キア、サリーが…」
「聞こえない」
「え?」
「何も聞こえない」
コルセットをしていないララの身体に、キアが自分の身体を摺り寄せて来る。
「わわ、キ、キア。ちょっと…」
胸が思い切りキアの身体に押し付けられると、そのくすぐったいような感覚と、恥ずかしさにララは慌てる。
キアの手が寝間着の上からララの身体を撫でるように腰に回される。
「あんな防具…ない方がいい」
キアがララの首筋に顔を埋め、すっと息を吸ったのが分かった。
「わた、私風呂に入っていないのだが!」
「いい…今日はもうずっとこうしている」
「そんな子どものようなことを…」
キアは再び大きく息を吸うと、ララの身体から手を離した。
「わっ」
ララは身体が浮き上がるのを感じた。
キアに抱き上げられ、そのままベッドへと連れて行かれる。
キアはララをベッドに横たえると、毛布を被せ額に触れた。
「訓練の後でまた来る」
「ああ」
ふいにキアの瞳が間近に迫ると、唇に柔らかく唇を重ねられた。
驚いて目を見開いたララの額に、キアは名残惜しそうに額を摺り寄せると、再び柔らかく今度は深く口づけをすると名残惜しそうにゆっくりと離れた。
キアが窓の外へ出て行こうとするので、ララははっとして起き上がった。
「キア待て。部屋の入り口から出ていい」
キアはそうかと言った顔で、窓を閉じた。
「じゃあ後で」
キアは、扉の鍵を開けると出て行った。
サリーの声が響く。
「あれ?キア様、そこにいたんですか。ララ様ともう仲直りを?」
「ああ」
「…もしかして、僕空気が読めないことしました?」
「まあな」
「ええっ!ご、ご、ごめんなさい!」
サリーとキアの声が遠ざかっていくのを聞きながら、ララは一人ベッドの上で今更体温が上がってくるような感じがした。
「また熱が上がったかな」
昨日とは裏腹の気分で目を閉じたがなかなか眠れそうになかった。
「まだ熱が下がりきらないな。今日一日は安静にしていること」
朝早く診察に来てくれたトルニスタは、ララの額と首筋に触れるとそう言った。
「もう平気なのですが…」
「だから、倒れるまで気が付かないほどお前は熱に鈍感なんだ。気を付けろ。食事もしっかり食べろ。なんでもいいから…」
「分かりました」
「あと苦いが薬もしっかり飲め。毎食後な。アロア、頼んだぞ」
「はい、先生」
「で、キア君とは仲直りしたのか」
その言葉に、ララは目を見開いた。
口づけが頭を過り、頬が熱くなる。
「ほぉ良かったな」
「なな、何も言っていませんが!」
トルニスタはにやりと唇の端を持ち上げて笑うと、何も言わずにララの頭をぽんぽんと撫でた。
「人を子どもだと思って」
「そうだな、大事な子どもだ。…また夕方に来る」
そう言うと、トルニスタは笑いながら帰っていった。
アロアがお粥とミゼウルが買ってきてくれたと言うナシを剥いてきてくれた。
ベッドの上で食事をするララに付き合って、エレノアとレチリカも部屋で朝食を食べていた。
「ひどいんだよ、サリーちゃん。ちょっとふざけてベッドに入っただけなのに、正座させて説教したんだよ」
「それはレチが悪い。サリーは男の子なんだから」
「お兄ちゃんは許しません!なんて、レチってそんなに魅力ないかな?」
「怒ったのであれば、女の子だって意識しているからじゃないかしら。サリーちゃんは、レチちゃんが自分を怖がるようなことはしたくないのよ」
「サリーちゃんを?どうして?」
「さあね。…男性の気持ちなんて」
エレノアは笑顔で、ナシに向かってフォークを突き立てる。
「一生分からなくていいのよ」
瑞々しい果汁が流れ出るのをなぜか忌々し気に見つめている。
「…何かあったのですか?エレノア」
「いいえ、何も?」
そう言って、いつも通りの笑顔だったがどこか沈んでいるようにみえた。
レチリカが帰り、エレノアと部屋で過ごしていると扉を叩く音が響いた。
「おい、生きてるかー」
ミゼウルが顔を出すと、エレノアがすっと無表情になるのが分かった。
「叔父上、私はもう大丈夫です。ナシをありがとうございます」
「いやいや、お前が熱だなんて何年ぶりだろうな。心配で訓練さぼって来ちまったわ」
「さぼるのはいつものことでは?」
「よお、エレノア」
「どうも、モジャウルさん」
てっきりいつものように、綺麗だから結婚しようなどと言い出すのだろうと思っていたが、ミゼウルはエレノアにただ静かに微笑んだだけだった。
エレノアは、その笑顔を睨み付けると何も言わずに出て行った。
「エレノアと何かあったのですか?」
「何も。きっとあの日なんだ」
ミゼウルはそう言ってララに片目を瞑って見せると、ベッド横の椅子に座る。
ララは呆れながらミゼウルを見る。
「叔父上…そんなこと誰から教わるんですか?」
「え?先生。女は月の半分は狼になる性質だって」
ララは思いがけず笑みが零れた。
「何?なんかおかしい?」
「いえ。あなたはいつもそうやって、母上が不機嫌な理由を作ってくれましたね」
ミゼウルは思いがけず大きく目を見開いた。
「私の記憶では、母上は私が会う日はいつもあの日でしたが」
「あれはね、あれだよ。あれね」
ミゼウルが焦ったように言う。
ララは笑って話を逸らした。
「で、エレノアと何があったのですか」
「…いや、まあーべつに。いつも通りふられてんの」
ミゼウルはなんてことない風に言った。
しかし、ミゼウルがいつもになくしょんぼりとしているので、ララはミゼウルに手を伸ばし、その腕に触れる。
ミゼウルは静かに微笑んで、その手を握った。
「ララ、ごめんな」
「え?何のことですか」
「今まで…色々さ。男女とか、色々でかすぎるとか」
「今更どうしたんですか?」
ミゼウルは、少し俯いたまま続けた。
「お前は綺麗になったよ。…いや、昔から綺麗な女の子だった。でかい俺をみんな怖がるのに、お前だけは怖がらないでいつも肩車ねだってさ。俺はいつも救われてたんだ…姉さんとお前に」
ミゼウルはばりばりと頭を掻いた。
「本当はさ…お前が俺の知らない女なって、俺の傍からいなくなっちまうじゃないかって怖かったんだ。俺なんてもういらないって言われるのが。…ほんとばかだな、俺は。それでお前を傷つけてきたんだから」
「叔父上…」
ララは微笑んだ。
「叔父上、いつもありがとうございます」
ミゼウルは、顔を上げた。
「私が辛いときいつも一緒にいてくれたのはあなただった。それがあまりにも当たり前で、きちんとお礼を言ったことがなかったなと思って」
ララはミゼウルに微笑みながら続けた。
「あなたが私を戦うお姫様にしてくれたんです。騎士でお姫様って最強ですよね」
ミゼウルが大きく目を見開いた。
「あなたがいてくれて良かった。これからもずっと傍にいてくださいね」
ララがミゼウルの手を握ると、ミゼウルもその手に力を込めた。
「ふぐっ」
ミゼウルは泣きそうなのを堪える子どものような顔で、ララの手を放し立ち上がる。
「ば、ばかやろう、当然だろう。うざい叔父さんだって言われてもずっと一緒にいるんだからな!」
そう言って、目を抑えながら扉へと向かう。
扉を勢いよく開くとそこには、キアとサリーがいた。
ミゼウルは勢いよくキアの肩を掴む。
「むずめをだのんだ!」
次の瞬間、キアの頬目掛けて、ミゼウルは口づけた。
きゅぽんっと小気味の良い音を立てて離れると部屋を出て行った。
サリーが茫然と口を開く。
「キ、キア様になんてことを!」
あまりの衝撃に目を見開いたまま動けないでいたキアは、静かにその頬をさも嫌そうに手のひらで拭う。
「きたなっ!」
吐き捨てる様にそう言う姿を見て、ララは肩を震わせる。
「僕だってまだしたことないのに!」
「サリー?」
「あははは!」
ララが口元を抑えながらも笑い始めると、キアは顔を顰めララを睨む。
「笑えない」
それでも笑い続けるララを見て、キアは諦めた様に溜息を吐くと淡く笑みを浮かべた。
「ララ様、キア様が花を買っていらしてくれましたよ」
キア達の後ろからアロアが言った。アロアが手にした花瓶には、黄色や橙色のガーベラが挿してあった。
ララのベッドの横の机に載せてくれる。
「ありがとう、キア。アロアも」
「いいえ、失礼いたします」
アロアは微笑むとそのまま出て行った。
「とても綺麗だ」
「帰りのついでに…」
「わざわざですよね、キア様」
キアがサリーを睨むと、サリーは舌をぺろりと出してみせた。
キアは手に古い本のようなものを持ち、静かにベッドの横の椅子に座った。
「話をしていてもきつくないか」
「ああ」
「食欲は?」
「ある。もう大丈夫だ」
そう言って、ララがキアに微笑み掛けるとキアは黙ってララの手を握った。
「あの、僕邪魔ですよね。エレノア様に言われて付いてきちゃったけど。ララ様の具合も良さそうだし―…」
サリーがそう言うと、徐々に後ろに下がる。
「え?ちょっとサリー…」
「エレノア様が来たら扉叩いて合図しますから!これ以上空気読めない男の仲間入りしたくないんで!」
サリーは扉から出て行ってしまった。
キアとララは見つめ合い、ただ微笑みあった。
「ララ、君にみて欲しいものがある」
そう言って、キアはララから手を離すと古い本を開いた。
本というよりは、何かを書き込まれた手記のようだった。
「今朝君が言っていた…君と君の母さんのことだが」
ララは目を見開いた。
さっきの様子がおかしかったミゼウルのことを思い出す。
「…もしかして、叔父上から何か聞いたのか?」
キアは静かに目を伏せた。
「…話したくて話したんじゃない。僕が君を傷つけたせいだ。…あいつはすごく苦しそうだった。できれば、一生口にしたくなかったんじゃないかって思う」
「そうか。だから今日いきなりあんなことを。」
ララは深く息を吸うと口を開いた。
「本当は母に強くなれと言われたことも、もはや自分で作りだした記憶なのだと思う。そう言い聞かせてきたから。母が自ら死を選んだことでさえ、私は認めたくなかった」
キアが僅かに目を見開いたのが分かったので、ララは思わず苦笑した。
「騎士は死亡記録の閲覧ができる。…叔父上は優しすぎて、本当のことを言わなかった。だから私も、その嘘を信じることにした。ヴィンセントはきっとそれで救われた。父も母も私達を捨ててしまったことを知らずに済んだのだから」
「ララ」
キアは、優しくララの頬に触れた。
「僕は、親の愛情というものが分からない。だからこそ、君がそれを失ってどれだけ傷付けられたのか理解することは出来ない」
「そんなことはない。…あなただって大切な家族と離れ離れになったのだから」
キアは静かに微笑んだ。
「ララ…僕が託され引き継げたものがあるんだ」
キアは、手にしていた手記を捲るとひとつの頁を開いた。
そして、ララの方に差し出した。
ララはそれを受け取ると、目を通した。
インクで描かれた薔薇の絵とともに、ララティナの名が書いてある。
それから詳しい育て方が記されていた。
「ガーディアス家では昔から女の子が生まれると、その記念に薔薇を植えるそうだ」
ララは黙って本を捲った。
エレノアに、リヴィエラの名もそこに記されている。
そして、ララが会うこともなく昔亡くなったエレインという祖母の名も。
「この温室の薔薇はガーディアス家の歴史だから、守って欲しいとギデオン殿から言われた。大切な妻と娘、そして孫が生まれてきてくれた記念だからと」
ララは再び自分の頁を開く。
一番下に、苗を植えた日付とルルリナ、ヴィクターとともにと書かれている。
愛するララティナの誕生を祝してと。
「五月になれば、薄紅色の美しい薔薇が咲くそうだ。…僕も慣れないからリアンを頼りながら世話しようと思う」
自然と涙が零れ頁に落ちた。
キアが静かに手を伸ばしその涙を拭ってくれた。
「ありがとう、キア。産まれてこなければと…言われた。だが、きっとこの日だけは私が産まれたことを喜んでくれたのだろうな」
再び涙が零れる。
「私をお姫様だって言ってくれたこともあったんだ。愛されていると信じられていた時が。…だからこそ、諦めることができなかった。もう一度愛されると信じていた」
キアはララの隣に座ると黙ってララの肩を抱き、引き寄せた。
それだけでますます涙があふれた。
「おじい様とももっと話をすれば良かった。怖がるばかりで、あの人のことを知ろうともしていなかった」
ララはキアの身体に持たれ、その体温に静かな安堵感に包まれた。
涙が止まらないララの隣にキアはただ黙って座っていた。
ララは静かに本を撫でた。
「いつか、私達の子どもの名前もここに書く日が来るだろう…」
「もちろん」
キアは食い気味で返事をしたので、ララは思わず微笑んだ。
「義務じゃなくて、僕達が…その……証として」
キアがごにょりと言った言葉に、ララは首を傾げた。
「なんて?」
「えと――その…あいしあった証として」
キアは少し恥ずかしそうに目を伏せながらも、じっとララを見つめて言った。
「愛している、ララ。僕は愛がよく分からないが、君への気持ちはきっと愛だって思う」
ララは嬉しくなり微笑んだ。
キアの温もりを感じているだけで、大切にされているのが分かる。
「私も…愛している」
ララは再びキアの肩に持たれた。
「ありがとう、キア」
その時、扉を叩く音が聞こえララは頭を上げた。
キアと顔を見合わせると、キアは察したようにベッドから椅子へと戻った。
「失礼しちゃいまーす」
サリーがするりと扉の中へ飛び込んでくると、エレノアが入って来た。
ララの涙を見て、エレノアは目を剥くと少し低い声で言った。
「キア様?」
「これは違う」
キアが素早く答える。
「エレノア、これは…」
ララは涙を拭った。
「ララを泣かしたら、地獄に落ちた方がましな気分にさせられる。もう二度とごめんだ」
キアは、エレノアを見上げながら言った。
エレノアはふんっと鼻を鳴らした。
「分かっているならよろしい。あら懐かしいわね、それ」
エレノアはララの持っている古い本へ目を向けた。
「お母様がいた頃に教わったの。ガーディアスでは、女の子が生まれたら薔薇、男の子が生まれたら木を植えるって。見せてくれる?」
ララが本を渡すとエレノアは黙って頁を捲った。
「お父様…続けていらっしゃったのね。昔は、あんな風に家にこだわる人じゃなかったの。でも、お母様が急に亡くなって…辛かったわ。あの時から、お父様は笑わなくなってしまった。」
エレノアは静かに本を閉じた。
「でも、辛いからって何をしても許されるわけじゃないわ」
そう言葉にして、エレノア自身がはっとしたように目を見開いた。
「そうね、それはわたくしも同じだわ」
「エレノア?」
エレノアは、ララに微笑み掛けた。
「そういえばララ。何かあったの?モジャウルさん泣きながら帰っていったけれど」
「あ、叔父上ですか?なんか泣き出してしまって」
すかさずサリーが言った。
「そうですよ、キア様の頬にいきなりちゅーして去っていきました」
「やだ、男同士で気持ち悪い」
エレノアが冷たい目でキアを見る。
キアはうんざりした表情で言った。
「僕は被害者なのだが」
「キア様も、あまりララを疲れさせないでくださいね」
「分かった。ではまた。ララ、それは君が持っていてくれ」
「ああ、ありがとう。キア」
キアは名残惜しそうにララの手を握ると、サリーと共に出て行った。
ララはなんだかエレノアが苛立っているような気がした。
「エレノア、叔父上と何かあったのですか?」
「別に何もないわ。ただ…謝っても許して貰えないほど傷つけてしまったかもしれないわ」
「叔父上のことだから、すぐに忘れてしまうと思いますが」
「そう…かしら。そうだといいのだけれど」
エレノアは、どこか遠い目をして外を眺めていた。
「お姉様も逞しいわ。マリエラとキア様が駄目になったからって、誰を夫にしようと思っていると思う?…モジャウルさんよ」
「ええっ?」
「まったく!下品だのなんだの言っていたくせに、あれでもガーディアスの騎士団長だからって!まあ、マリエラは拒否したみたいだけれど。でも結婚式まではいるっているのだから、図太さは姉様譲りだわ」
「エレノア、怒っていますか?」
「やだ何に?」
「大丈夫ですよ。叔父上が相手にするとは思いません」
「当り前よ。あなたよりも年下の女の子となんて。そんなこと許さないわ」
ララは冗談めかして言った。
「もしかして、妬いているのですか?」
「何ですって?」
エレノアが低い声で言ったので、ララは思わず目を伏せた。
「いえ何でも…」
「やだ、違うの!」
エレノアははっとした様子で言った。
「でも、分からないの。なんで…なんで、あの男に惑わされなくちゃいけないのかと思うと腹が立って」
エレノアは、ララのベッドの端に座ると頬を膨らませた。
「腹が立つの…」
そう呟くエレノアは、まるで少女のように可愛らしかった。