十一.
キアが帰って来る日は、あいにくの曇り空だった。
昼食を終えると、ララは勝手に身体がそわそわしてくるような気がした。
自分の部屋でエレノアと紅茶を飲みながら、心を決めた。
「エ、エレノア」
「どうしたの、ララ?」
「おね、お願いがあるのです」
「やだ、どうしたの?」
ララは立ち上がると、鏡台の引き出しにしまっていた髪飾りの箱を取り出した。
「こ、これに合う服装と髪型にして欲しくて」
エレノアは箱を受け取ると開いた。
「まぁ、綺麗な髪飾り!どうしたの、これ」
「キ、キアに貰ったんです」
「まあ、キア様ってばこんなものを用意していたなんて!」
「今日、キアが帰ってくるらしくて。まだ一度も付けたことがないので…今日」
エレノアは立ち上がると思い切りララを抱き締めた。
「あなたがそんな風にもじもじするなんて。可愛いい!」
「え?もじもじ?」
「もちろんよ、ララ。全力で選ぶわ!」
エレノアは、髪飾りと黒髪が生える様にと淡い黄色のドレスを選んでくれた。
ドレスに着替えたララを鏡台の前に座らせると、髪を丁寧に編み込んで纏めてくれた。
そして、綺麗に結い上げたララの髪に髪飾りを差し込む。
「あなたの黒髪に映えるわ。本当に綺麗」
「そ、そうですかね」
鏡に映る自分に、ララは落ち着かなかった。
少し顔を傾けると、自分の髪の右側に髪飾りが煌めいているのが分かる。
「私には…勿体ないような」
「何を言っているの。恥ずかしがらないで、ララ。戻って来たキア様をびっくりさせましょう」
エレノアが鏡越しにララに微笑む。
ララもその笑顔に笑みを返した。
誰かから貰ったものを身に付けることがこんなにも嬉しくて、そして恥ずかしいことだとはララは知らなかった。
「気付かれなかったらどうしよう」
ララが不安そうに髪飾りに触れると、エレノアが鏡の中で満面の笑みを浮かべた。
「まさか!きっと気付いてくれるわ。そして、すごく喜んでくれるわよ」
「そ、そうですかね。でも、似合ってないって思われたら…」
「なんて可愛いの、ララ!」
エレノアは、再びララを後ろから抱き締めた。
「もう完全に恋する乙女ね」
「こ、恋?それに、お、おとめ?また、私に似つかわしい言葉を」
「そんなことないわよ!お姫様みたい」
「エレノア、もう恥ずかしいこと言わないでくださいよ!」
ララはエレノアを見上げた。
「そんなことないわ。女の子は誰でもお姫様になれるのよ」
エレノアはララの頬を両手で挟んだ。
「その手伝いが出来てすごく嬉しいわ」
そう言って、エレノアはララの額に静かに口づけた。
ララは微笑んだ。
「ありがとうございます。エレノア」
その時、扉を叩く音がしてリアンの声がした。
「失礼します。キア様が戻られました」
ララは背筋を伸ばすと、エレノアが言った。
「じゃあ、わたくしは覗きたいのを我慢して…姉様のところにいるわ」
「え?エレノア。でも…私」
ララは思わず縋るようにエレノアのドレスを掴んだ。
その手をエレノアが優しく解く。
「大丈夫。自信をもって。あなたは世界で一番きれいなお姫様よ」
それだけ言うと、エレノアは部屋を出て行った。
ララは再び鏡の方を向いた。
「お姫様…か」
自分の姿に満更でもないかもと思いながら微笑んでみせると、キアに渡すためのブローチを引き出しから取り出した。
すぐに行ったら、待っていたのがばれてしまうだろうか。
というかうっかり、唇に口づけてしまったことは覚えているだろうか。
どんな顔で合えば。
そんなことを考えながらしばらく窓から外の灰色の空を見つめていたが、思い立って部屋の外へ出た。
ララの部屋からキアの部屋までは長い廊下を抜けてすぐだ。
今更だが、こんな気合を入れた恰好で行って驚かれるだろうか。
そう思うと立ち止まった。
そうだ。
何でもない話かもしれないのに。
でも、大事な話だと言っていたし。
そう。
…髪飾りに似合う恰好をしたかっただけだ。
だから。
でも。
廊下でもたもたとしながら、ララはいったりきたりを繰り返していた。
しかし、ついにキアの部屋の前の廊下についてしまった。
外から雷の音が響き出したのが分かった。
廊下の奥のキアの部屋を前にララは大きく息を吸った。
「大丈夫。……大丈夫」
そう呟き、廊下を歩いていくとキアの部屋はすでに僅かに空いているのが分かった。
ララは扉を叩くのを躊躇い、中を覗いた。
目を見開いた。
扉のすぐ前で、キアとその胸に顔を埋めるマリエラの姿があった。
「キア様…好きです」
そうマリエラの声が聞こえ雷が静かに鳴り響き、白い光の中二人の姿が焼き付く様にララの目に残る。
ララは扉から離れた。
頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回されたようだった。
なんだ、これは。
私は何を見せられたんだ。
大事な話というのはこれなのか。
私でなく、マリエラを選ぶと…そういうことなのか。
まさか。
そんなわけない。
私に触れたくせに。
頬の口づけは?
あんなこと…簡単にできるというの?
胸が苦しい。
息が出来ない。
止めて。
こんなの…嘘。
ララは茫然としながら、キアの部屋の前から立ち去った。
全身の血が凍ってしまったかのように、身体が冷たく重かった。
「あ、ララ様」
サリーが廊下の向こうから走って来る。
「こんにちは。髪飾り着けたんですね。すごく綺麗です!」
サリーが無邪気に微笑む。
「もう、キア様ったらそれを渡すのにずっとずっと胸のポケットに入れて持ち歩いていたんですよ。おかしいでしょう」
サリーが何を言っているのか分からず、ララは力なく微笑む。
「キア様喜んでいたでしょう?」
「あ、ああ」
ララの様子に、サリーは首を傾げた。
「どうしたんですか。顔色が…」
「いや、何でもない。何でもないんだ」
ララは逃げる様にその場を立ち去った。
部屋に戻ると乱暴に扉を閉めた。
髪飾りをむしり取る様に外し机に投げると、その反動で床へと転がっていった。
そのまま、ブローチもそこに投げつける。
「愚かだな、ララティナ・ガーディアス」
そう言いながら、髪をぐちゃぐちゃに崩す。
「一体誰がお前を必要とするんだ」
ドレスも脱ぎ捨て長椅子に投げた。
涙は出なかった。
ずっと覚悟していた。
こうなると、分かっていた。
やはりそうだ。
やはりこうなるはずだったのだ。
『女のなりそこないのようなお前に!』
そうだ。
そんな自分が彼の隣に立つなんてありえないことだったのだ。
あの雷の中、寄り添うキアとマリエラ。
あの小鳥が寄りどころとなる木を見つけたような美しい姿。
あれこそが正しい。
『強く生きなさい、ララ。男に頼らず自分ひとりの力で』
母の声が響く。
「そうです、母上。だから、私は一人で生きられるように騎士に…」
『いらないのよ!あんたなんか!』
再び母の声が響く。
『男に媚びる女なんていらないのよ!』
白い稲妻が光る。
ふいに銀色の光る鋏を握り、髪を引き千切るように掴む母の恐ろしい顔が脳裏に浮かぶ。
「やめて…!」
ララはそう呟き、耳を塞いだ。
駄目だ。
これ以上、思い出してはだめ。
雨が降り出す音が聞こえる。
ララは静かに窓の外を見て、はっと我に返った。
一瞬中庭に白い小さな影が見えた。
子どものようにみえたが、一瞬で茂みの中に消えてしまった。
「まさか、クラリッサ?」
ララは慌てて髪を後ろで結うとシャツとズボンに着替え、コートを羽織った。
部屋を出るとキアの部屋の前の廊下でふと言うべきなのかを迷う。
しかし、先ほどの光景が目に浮かびそのまま階下へと降りた。
玄関にいたリアンに声を掛ける。
「リアン、クラリッサがどこにいるか知っているか?」
「エレノア様とリヴィエラ様と一緒に居間かと」
「さっき外に子どもが居たような気がする。見に行ってくる」
「では、わたくしも…」
「あなたはまず屋敷の中の確認を。私もいなかったら戻ってくる」
「キア様へはもう伝えてあるのですか」
ララは口を閉じた。
「いや…屋敷の中にいなかったらあなたが伝えてくれ」
「ララ様。少しお待ちを」
リアンの声に振り向かず、ララは裏口へ向かい中庭へ出た。
冷たい雨が降り注ぐ中、ひたすらに歩き続けた。
白い影を見たのは、中庭の端の方だった。
裏門から出れば森が広がり、獣が出る可能性もあった。
だが、裏門には門番のレイがいるはずだ。
自分の勘違いであってくれればいいと願いながら、歩き続ける。
こうしていれば、先ほどのことを忘れられる。
いや、忘れられない。
このまま、どこかへ消えてしまいたい。
別れを告げられて、自分は冷静でいられるだろうか。
潔く去ることが出来るのだろうか。
マリエラがふさわしいとか言っていたくせに。
覚悟していたはずなのに。
諦められると思っていたのに。
キアがいけないのだ。
なんでもないことのように…私に触れるから。
「最低だな。私は…。今はクラリッサを探すことに集中しろ」
自分を叱咤しながら、ララは歩き続けた。
館から中庭を抜け、裏門までは十分ほどで到着する。
四歳のクラリッサの足でそこまで行けるとは思わない。
雨は初めは強く降っていたが次第にその勢いが弱まり、今ではさらさらと霧のような雨に変わっていた。
ララは庭を見回りながら、早足で歩き続けて裏門まで到着する。
「ララ様、どうされたんですか」
声を掛けて来たのは、門番のレイモンド・カリフだった。
騎士を引退してから長く門番を務めているレイは、この屋敷でも最年長の老人だ。
杖を突きながら、ララに歩み寄ってくる。
「ずぶ濡れじゃないですか。いったい…」
「レイ、ここにクラリッサが来なかったか?」
「クラリッサ?ああ、リヴィエラ様の三女様ですね。いえ、門からは誰も」
「そうか。私の見間違いであれば、それで…」
ふと裏門の外の森の入り口に小さな靴が落ちているのが分かった。
「門を抜けていいか、レイ」
「ですが…」
「すぐに戻る」
ララは門から外へ出た。
泥濘に嵌ったままの小さな靴を拾う。
大きさからして、クラリッサのものに間違いない。
ふと外壁に目を向けると小さな穴が開いているのが分かった。
子ども一人通れそうな穴だ。
「修繕したのではないのか」
文句をいいながら、森へと入る。
「クラリッサ!」
声を上げる。
「出ておいで、クラリッサ!」
クラリッサとララは、会話さえ交わしたことがなかった。
「お母様と姉上と…キ…」
名を呼べば泣いてしまいそうな気がして、ララは首を振った。
「みんなが心配している。出ておいで、クラリッサ!」
その時、子猫の鳴き声が聞こえた。
その声を頼りに、ララは森を歩きついに大きな木の下にクラリッサを見つけた。
クラリッサは子猫を抱いて、きょとんとララを見上げていた。
「良かった、クラリッサ!」
「ねこちゃんがいたの。かみなりでにげちゃったから」
クラリッサは鳴いている子猫を自慢するように差し出す。
ララはクラリッサの頭を優しく撫でる。
「そうだね。子猫を追ってこんな遠くまで来たのか」
あまり雨に濡れていない身体に、ララはほっとする。
「あ、くつ!ぬげちゃったの。ありがとう。ラ、ララ…」
「ララでいいよ。クラリッサ。私と帰ろう。皆待っているよ。寒くない?」
「うん」
ララはクラリッサに靴を履かせると、コートを脱いでクラリッサに掛けるとその身体を抱き上げた。
濡れているが、何もないよりはいいだろう。
「つめたーい」
クラリッサは嫌がるように、コートを嫌がった。
「ごめん、ごめん。雨に濡れたから」
そう言いながら、ララは歩きだした。
「結構重たいね、クラリッサ。…あんなに軽々持ち上げて肩車していたのに」
「キアさまのこと?あたし、キアさまだいすき」
クラリッサの笑顔に、ララは泣きそうになりながらも笑顔を返す。
「そっか」
「クラリッサのおとうさんになるの」
「え?」
その言葉に、ララは思わず立ち止まる。
「…お父さんはいるでしょう?」
クラリッサは首を振る。
「おとうさんになるの」
そう無邪気にクラリッサは笑った。
ふいに、右の木陰から人の気配を感じた。
ララはそちらを向かず、左側へと飛んだ。
しかし、クラリッサの重みでいつもより飛べず、右の額にちりっとした痛みと何かが通り過ぎるような風の音が耳に響く。
そこには黒い外套の男が立っていた。
手には棍棒を持ち、それを構え再びララの頭を狙ってくる。
ララは、腰ベルトの剣を抜こうとしたがクラリッサを抱えては戦えなかった。
そのまま敵に背を向け走り出す。
敵も素早く走り出すのが分かった。
追いつかれるのは時間の問題だった。
「クラリッサ、少しごめん」
ララはそのまま地面にクラリッサを降ろした。
男が再び棍棒を振り上げて来る。
ララは短剣を抜き左手で構えると棍棒を短剣で受け流し、そのまま相手の懐に入ると顎目掛けて拳を突き上げた。
狙った通りに顎に当たる。
「がっ…!」
男が仰け反ると、赤い髪が外套から覗く。
「走って、クラリッサ!」
ララはぽかんとしたままのクラリッサの手を握り、再び走り出した。
コートが落ちてしまったが、そのまま振り向かず走る。
森を抜けると、裏門の入り口でレイが待っていた。
「ララ様、一体何が…!」
「いいから門を閉めろ!」
門の中に入ると、レイが慌てて門を閉める。
ララは息を切らしながら振り向いたが、森から出て来る人間はいなかった。
クラリッサが、火が付いたように泣き始める。
「ああ、怖かったね。もう大丈夫だよ」
ララは困ってクラリッサを撫でる。
それでも泣き止まなかった。
「ララ様、血が…」
右の額に触れると血が滲み垂れてくるのが分かる。
「掠っただけだ。レイ、騎士を呼んでくれ。森に不審者がいた」
「わ、わかりました」
「私はこのまま屋敷に戻るから、キアには私が伝えておく」
「ララ様、これを…」
「大丈夫、すぐそこだから」
レイが自分のコートを脱ごうとするのを制して、ララは泣き喚くクラリッサを抱き上げると歩き出した。
クラリッサの鳴き声と子猫の泣き声を聞きながら、思わず深い溜息を付く。
「どうして私はこんなについてないんだ…」
袖で右の額の血を拭い、隠すように濡れた髪をおろす。
これで怪我をしたと気が付かれなくて済むだろう。
剣ではなく棍棒だった。
明らかに力を加減し、殺すつもりがないようだった。
そしてあの赤毛。
何かを思い出しそうで思い出せない。
気が付くと、クラリッサは腕の中で静かに眠っていた。
その重たさに耐えられなくなり、何度か座って休みながらララは歩き続けた。
今何時くらいだろうか。
灰色の空の下、だんだんと気温が下がって来たせいで濡れた身体が寒くて震える。
クラリッサの体温だけが温かい。
クラリッサの腕の中で、子猫も静かに眠っていた。
「まったく。可愛らしいな」
「ララ様!」
目の前に現れたのはリアンだった。
「クラリッサ様も。屋敷のどこにもいなくて全員で探していたところです。ララ様大丈夫ですか。…びしょ濡れじゃないですか」
「私は大丈夫だ。それより、クラリッサを抱いてくれるか。腕が限界で」
リアンは慌ててクラリッサを抱える。
「レイに言ったのだが、森に不審者が…」
「森…だと」
そう低い声が響いた。
リアンの後ろから現れたのはキアだった。
若葉色の瞳が怒りで満ちているのが分かる。
「リアン、先に行け」
キアがそう告げる。
「…分かりました」
リアンはララを気にしながら、クラリッサを抱えて行った。
ララは深く息を吸い吐くと、緊張しながら口を開いた。
「クラリッサを追って森に行ったのだが…黒い外套を着た男が棍棒をつかって私を襲ってきた。殺すつもりはないようだったが。赤毛の男だった」
「そうか。…無事で何よりだ」
キアは静か過ぎて逆に怖かった。
キアはコートを脱ぐとララに被せた。
「あ、ありがとう」
キアはそのまま歩き始めた。
しばらく歩き、ふいに言った。
「なぜ僕に何も言わずに出て行った。…帰って来たとリアンが伝えたはずだ」
「それは…」
先ほど抱き合っていた二人の姿が頭を過る。
「すまない。私一人で十分と…」
ふいにキアが振り向いた。
「自分の力を過信するのもいい加減にしろ!」
その大声にララは口を噤んだ。
「君に何かあったら…僕は…」
キアは、堪えるように唇を噛んだ。
「過信ではない。ただ…」
ララは震える声で言った。
しかし、言葉が出てこなかった。
キアは静かにそれでも怒りに満ちた声で言った。
「外にひとりで出て行くなと言ったはずだ」
「だ、だが、クラリッサの靴が…」
「あの子を言い訳にするな」
キアの有無を言わせない様子に、ララは口を閉じた。
キアは拳を強く握りしめ、まだ何か言いたそうにしていたが、口を閉ざすとそのまま黙って歩き出した。
泣き出してしまいそうな気持ちを堪え、ララもそれに続いた。
過信じゃない。
ただ、見たくなかった。
抱き合う二人を…もう一度目にするなど怖くて出来なかった。
屋敷に到着すると、ララはキアとともにそのまま裏口から中へと入った。
玄関ホールでは、クラリッサを抱えてマリエラが泣いていた。
「ごめんね、ごめんね。一人にしてごめんね」
それをおろおろとしながら、リヴィエラが見ていた。
まさか。
『おとうさんになるの』
ふいに、クラリッサの声が蘇る。
そういう…こと。
マリエラがこちらに気が付きクラリッサを抱えて来る。
「ありがとうございます、ララティナ姉様。本当にありがとうございます」
「いや…」
ララはまともにマリエラを見ることが出来ず目を伏せていた。
マリエラ達が二階へ上がっていくのをララは見送った。
「君は勝手だ」
キアは言った。
「なぜ僕を頼らない。なぜ一人で何もかもしようとする」
違う。
本当は…言いたかった。
でも。
「…こんなことでは、結婚など無理だ」
ララは顔を上げた。
キアは怒りに満ちた瞳でこちらを見つめていたが、何も言わずララに背を向けると歩きだした。
「キア…」
ララは、思わずキアの背中に手を伸ばす。
しかし、キアは振り向かなかった。
行かないで。
どうして?
どうして今さらマリエラを選ぶの?
私の方がずっとずっと…。
『どうしてだめなの?どうして私ではだめなの?』
頭に響くのは母の泣き叫ぶ声だった。
ララは目を見開いた。
嫌だ。
ララは足早に大階段を駆け上がった。
キアのコートを落としたが構わなかった。
静かに唇を噛む。
勝手に涙が零れ落ちてくるのを止めることはできなかった。
母の声が追いかけてくる。
『どうして私を愛してくれないの?』
やめて。
思い出させないで。
あんな風には絶対なりたくない。
『私には…あなたしかいないのに!』
父に縋りながら、母は醜く泣き叫ぶ姿が蘇る。
父が出て行く前の晩、扉の隙間から見えた光景だ。
どうして、どうして今更出てくるの。
ずっと忘れていたかったのに。
忘れたふりをしていたかったのに。
『いらないのよ。お前なんていらない!』
耳元で鋏が髪を切刻んでいく音が響く。
恐怖に身体が震える。
『どうしてお前なの?どうしてヴィンセントじゃないの?』
ごめんなさい。
『変わりなさいよ、ヴィンセントと!変わりなさいよ!』
ごめんなさい。
『全部…全部お前のせいよ!あの人が出て行ったのは、お前のせいよ!』
許して。
『どうして一人で出来ないの?どうして私の言う通りに出来ないの?』
ごめんなさい。
箒で身体をぶたれるのを、蹲って耐えた。
『女など産まなければよかった!お前のせいよ、全部お前のせいよ!』
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
許して。
前のお母様に戻って。
優しいお母様に。
『ララ、騎士になるって本当か?』
ミゼウルの声が響く。
『なら、叔父さんと暮らそう。…叔父さんがお前を強い騎士にしてやるよ』
そう言いながら、ミゼウルはララを抱き締めた。
『姉さんは、ちょっと疲れただけなんだ。少し休めば…きっともとに戻るから』
ミゼウルは、そう言って悲しそうに笑った。
『あんたのせいで、ミゼウルはあたしとの結婚を諦めたの』
リリアの声が響く。
『あんたさえ、いなければミゼウルは幸せになれたのに!全部あんたのせいよ!』
じゃあ、どうすればいい?
どうすれば…いいの?
私の何が駄目なの?
理由が欲しい。
愛されない理由が欲しい。
それが分かれば、誰にも期待せずひとりで生きていけるから。
たったひとりで。
ふいに誰かに手を握られ振り向いた。
もう少しで自分の部屋の前だというところだった。
そこにいたのは、キアだった。
ララの顔をみて、キアの目が零れ落ちそうなほどに大きく見開かれる。
キアの手は熱かった。
いや、自分の身体がそれほど冷え切っているのだろう。
ララは、乱暴にその手を引き抜いた。
「ラ、ララ。…血が」
キアの手が頭に伸びて来たが、ララはその手を払う。
「触らないで」
「ララ」
「私に…触らないで!」
そう叫んでキアを睨みつけると、キアは当惑した様子でララを見つめた。
ララはそれを無視して再び歩き出した。
キアが付いてくるのが分かった。
「ララ、待て。待ってくれ。怪我の治療をしないと」
ああ、嫌だ。
お願い来ないで。
どうして…終わりにしてくれない。
このまま潔く去りたい。
「僕が悪かった。すまない」
キアに縋り困らせるようなことは、絶対にしたくない。
「あ、あんなこと言うつもりじゃ…」
「何も悪くない」
「だが…」
「マリエラと幸せになれ」
キアが再び手を握る。
「何のことだ」
ララは振り向かないまま再び振りほどこうとしたが、キアは力を込める。
「彼女と一緒になるのだろう。だから結婚は無理なのだろう」
「違う。…何を言っている」
とぼけるキアに苛立ち、ララは思わず振り向き声を荒げた。
「抱き合っていた!」
キアは目を見開いた。
「好きだと言っていた!」
「違う、ララ。あれは…」
「私の方が先だったのに」
やめて。
「私の方がずっとあなたを好きだったのに!」
溢れだす言葉を止められず俯き、そう叫ぶ。
母のようには、なりたくない。
なりたく……なかったのに。
床にぼたぼたと自分の涙が落ちていった。
縋れば、愛してくれるのだろうか。
醜く愛を叫べば。
それでも、母は父に捨てられ…壊れてしまった。
ふいにキアの手から力が抜けたのが分かった。
ララは、その隙に手を乱暴に振りほどくと走り出した。
「ララ!」
キアに捕まる前に、ララは何とか自分の部屋に身体を押し込み鍵を掛ける。
そのまま扉を背に泣き崩れる。
「ララ、頼む。開けてくれ」
「もう終わりだ!結婚なんかこっちからお断りだ!」
「ララ…」
「嫌い!あなたなんて…大っ嫌い!」
ララは床に倒れこむと、大声を上げて泣いた。
まるで子どものような自分の泣き声が、部屋中に響き渡る。
それでも、堪えることは出来なかった。
キアが扉の取っ手を握り、がちゃがちゃと音を立てる。
「鍵を開けてくれ。僕が…僕が悪かったから。頼む」
ララはもう何も聞きたくなくて、泣きながら扉から這うように離れる。
「頼む、ララ。僕は…」
「そこから離れていただけない?キア様」
そう響いたのは、エレノアの声だった。
「今何が必要なのか分からないようね」
「なんだと?」
「だから、怖い思いをしたララを怒鳴るなんて、最低な真似が出来るのですわ」
エレノアは低い声で続ける。
「これだから男性は嫌なのですわ。怒鳴れば女性が怖がって言うことを聞くと思って」
「そんなことは…」
「そんな騎士の風上にも置けない男は、地獄へ落ちろ…ですわ」
ララは泣きながらも思わずその言葉に笑ってしまった。
「ララには、もうガーディアスを守る義務も責任も何もないわ。ねぇ、キア・ティハル・バルバロット伯爵様」
その言葉に、ララは思わず振り向いた。
「ララ、聞こえている?あなたが無理にキア様と結婚する必要はないのよ。…わたくしね、キア様は英雄騎士なのにどうして王都でいい噂のないララと結婚することになったのかミー君…ミシェルに調べて貰っていたの。この間やっと返事が来たわ。キア様、あなたは爵位を賜り、そしてこの領地を任された。つまり、ガーディアス家はすでに終わっているのよね。あなたがララと結婚するのは、完全にあなたの自己満足なのでしょう?」
「それは…」
「もうララがこの家を守る義務なんてないのよね。それなのに、あなたがララを必要とするのはてっきりララのことを好きだからだと思っていたのに。…こんな風にあの子を泣かせるあなたに、あの子は渡さないわ」
「違う、違うんだ。僕は…」
「わたくし、こうみえて侯爵家の未亡人ですの。お金なら十分にありますわ。どうぞ、ララのことはわたくしにお任せを。女二人で楽しく暮らして行きますから。…どいてくださる?」
エレノアの声が扉越しに響いた。
「ララ、開けて頂戴。お願い。まずは身体を温めないと。怪我をしているの?トルニスタ先生をすぐに呼ぶわ」
ララはその言葉には答えず洋服棚の扉を開くと、シャツとズボンの着替えを握って浴室へと向かった。
扉を閉めてしまえば、声はもう聞こえなかった。
「なんだ、それ」
思わず、そう声が漏れる。
再び涙が溢れて来る。
ララは何度も涙を拭ったが零れてくる。
『私には、このガーディアス家を守る責任がある』
ふいにギデオンの声が蘇る。
『逃げることは許さないぞ、ララ!』
ふと、身体の力が抜けるような気がした。
もう終わっていた。
私が守るものなど最初からない。
キアが私と結婚する必要は……ない。
寒い。
身体が震えていた。
ララは濡れた服を脱ぎ、身体と髪を拭いた。
出て行かなくては。
でも、寒い。
寒くて堪らない。
着替えて浴室を出ても扉を叩く音がしていたが無視した。
コートを着て、震えながらも荷物を袋に詰める。
着替えは一回分あれば十分だ。
それを洗えばいい。
武器も必要だ。
騎士時代に貯めていた金貨があれば、しばらくは暮らしていけるだろう。
誰にももう頼りたくない。
誰も困らせたくない。
ひとりになりたい。
ひとりでいい。
ふと床に落ちた髪飾りとブローチに目が向く。
「ばかみたい」
思わず呟いた。
あんなに浮かれて。
それを拾うと机に置いてしばらくそれを見つめ、思いがけず髪飾りを撫でる。
それだけでまた泣きたくなる。
ブローチは再び布でくるみ、その隣に置いた。
早く行かなくては。
リアンに言えばこの部屋の鍵を持っている。
出て行こう。
もう、ここは私の居場所ではない。
三階からでも、バルコニーから柱をつたえば降りていける。
ララは思わず微笑んだ。
それで、ヴィンセントの部屋に忍び込んだことがある。
会いに行けば…お母様に殴られるから。
ヴィンセントは喜んでくれたっけ。
窓を開くと、風の音が響いた。
冷たいはずの風も今は心地が良かった。
身体は、気が付けば温まっていた。
興奮しているのかむしろ暑いとさえ感じる。
まるで燃えているようだった。
頭がひどく痛む。
まあ、問題はないだろう。
どこに行こう。
もう私は…どこにでも行ける。
どこにでも。
バルコニーの柵を掴み、身体の気怠さにララは地面に膝を着いた。
あつい。
あつくて、たまらない。
すこしやすもう。
やすめば…すぐによくなるだろうから。
ララの部屋の前の壁にもたれ、キアは途方に暮れていた。
手にした髪飾りを見つめる。
リアンに部屋を開けてもらい、ララがバルコニーで倒れていたのを見つけたのはさっきのこと。
トルニスタを呼びに行く前机に残された髪飾りを見つけ、つい握って来てしまった。
トルニスタを連れて来て一緒に部屋に入ろうとしたが、エレノアから追い出され部屋には鍵を掛けられてしまった。
「どうしてこうなった」
思わず呟いた。
数刻前までの浮かれていた自分は、もうどこにもいなかった。
キアは騎士団から家へ帰ると、すぐにリアンに自分が帰ってきたことをララに伝えさせた。
自分の部屋で机に置いた結婚証明書を目の前にキアは落ち着かなかった。
どう…言えばいいだろうか。
結婚式まで、まだ一週間あるのは分かっている。
しかし、不審な動きがある中、結婚式が延期になってしまったら。
そう思い、教会に行きこれをもらってきてしまった。
「どうしよう」
キアは、思わず呟いた。
「跪いて愛を誓う…か」
ふいに、ララの言った言葉を思い出す。
愛なんて知らない。
それでも…もう彼女のいないこれからを…考えられない。
ララの唇の感触を思い出すだけで感情が昂ぶる。
一瞬のことで呆けてしまった自分が情けない。
夢のように引き寄せてしまえればと、後悔した。
義務でもいい。
それでも…いつか…自分のことを…。
扉を叩く音に、不本意にも肩がびくりと震えた。
「…どうぞ」
昂ぶった気持ちを抑え澄まして言うと、思いがけず擦れた声になりキアは咳払いした。
「キア様、失礼します」
扉から顔を出したのはマリエラだった。
一瞬にして気持ちが萎む。
「マリエラ嬢、どうかしたのか」
すぐにでも出て行って欲しくて、キアは思わず入口まで詰め寄った。
「いえ、この間はお会いすることもできなかったので…お顔をみたくて」
マリエラはそう言って微笑んだ。
「申し訳ないが、ララが来るんだ」
マリエラが素早く机に目を走らせたのが分かった。
「ララティナお姉様が?でも、わたしキア様にどうしても…」
その時、眩い光が窓から溢れ落雷が起こった。
「きゃっ!」
そう声を上げ、マリエラが胸に飛び込んでくる。
「す、すいません。わたし…雷が苦手で」
キアのベストを握りながら震えるマリエラを見て、顔を歪めてしまいそうなのをキアは堪えた。
なんで家の中にいるのに、雷を怖がる必要がある。
この光と音が怖いのか?
再び雷が光を放つとマリエラが震えながら、今では押し込むようにキアの胸に額を寄せてくる。
「マリエラ嬢。誰か呼ぶ。僕から離れて…」
「キア様…好きです」
一瞬マリエラが何を言ったのか理解できず、キアは黙ってその意味を考えていた。
「あなたとお姉様のことは分かっています。でも。あなたを…愛してしまったのです」
あい?
「わたしでは、だめ…ですか」
そう言ってマリエラはキアの胸から顔を上げ、潤んだ瞳でキアを見上げた。
再び雷鳴が轟いた。
しかし、マリエラは怯える様子はなかった。
「やめてくれないか」
キアは言った。
「母親から逃げるのに、僕を利用しないで欲しい」
マリエラが目を見開く。
「そ、そんなこと…わたし。ほ、本当にあなたのことが…」
キアはマリエラの両手を、自分のベストから剥がした。
「出て行ってくれないか」
マリエラは、瞳を潤ませて続けた。
「ひどいです。わたしを弄んだのですね?」
「もてあそぶ…なんのことだ」
「お姉様よりもわたしといることを選んでくださったのに」
「選んでいない。それに、君の母親と妹も一緒だ」
マリエラは両手で顔を覆ってしくしくと泣き出した。
「ずるいですわ、ララティナ姉様。あなたを誘惑するなんて。あんなふしだらな身体で迫られたら、あなただって夢中に…」
「迫られていない。ララはそんな人間ではない」
「そんなのわかりませんわ。偽者を用意して人の目を欺いて…裏では噂通りのことをしていたに違いありません」
キアは驚いた。
「あの醜聞は、手紙だけが原因では…」
「なぜ…君がそれを知っている」
マリエラははっとしたように泣くのをやめた。
「あの頃…君も王都にいたのか」
「わ、わたし…失礼します」
マリエラは逃げるように扉から出て行ってしまった。
「待て…」
キアはそれを追い掛けようと廊下に出ると、そこには申し訳なさそうな様子でリアンが立っていた。
「どうした」
「クラリッサ様が行方不明に」
「…すぐに人を集めろ。正門と裏門に手分けをしてくまなく探させるように」
「すでに向かわせております。ただ…ララ様がそれに一番に気づかれて、ひとりで裏門へ向かわれました」
キアは、目を見開き思わずリアンを睨みつけた。
「…僕が帰っていることは伝えているのか」
リアンは黙ってただ目を伏せていた。
それが肯定だと、キアは判断した。
「申し訳ありません、止めるまもなく出て行かれて。ただ、様子が…」
キアは部屋へ戻ると、コートを手にした。リアンを無視して階下を降りた。
それからは…このありさまだ。
キアは再び溜息を吐いた。
自分がバケモノだから悪いのだ。
何もかも奪われ、バケモノにさせられたから。
僕のせいじゃない。
僕のせいじゃない。
悪いのはすべて――。
倒れて返事もしないララの姿が脳裏に浮かぶ。
「…僕じゃないか」
そう呟いてキアは唇を噛んだ。
結婚など無理だなんて、そう口にしてキア自身が驚いた。
ララは平然としていた。
何も答えず、ただキアを見ていた。
どうして…どうして嫌だと言ってくれない。
腹立たしくなって、その姿に背を向けた。
名を呼ばれたのが分かった。
それでも振り向かず、ララが追い掛けて来てくれるのを待った。
何かが落ちる音で振り向くとそこには自分のコートが落ちているだけで、ララはいなかった。
ほらみろ。
思わず顔を歪めて笑ってしまった。
ほらみろ!
こちらが手放せば待っていましたとばかりに逃げていくのだ。
こんなバケモノの自分からは。
何が…あなたがいいだ。
嘘吐き。
嘘吐きめ!
苛立ちながら自分のコートを拾い、階段を見上げたがララの姿はもうなかった。
もういい。
もう…いい。
そっちが必要としないなら、こちらだってもういらない。
キアは階段に背を向け、廊下を歩き出した。
ララは強い。
きっとどこでだって生きている。
自分など…いなくても。
その考えに、キア自身顔を歪めた。
怒りを堪えきれずコートを床に投げつけると走りだした。
許さない。
そんなこと許さない。
全部君のためにしてきたことなのに。
全部君の、君のためだ!
ララにはすぐに追い着いた。
ララの手を、キアは乱暴に掴んだ。
頭を思いきり殴られたような感覚だった。
ララは泣いていた。
表情無くぼろぼろと涙が零れていた。
その顔に、心臓を掴まれたような痛みが胸に走った。
顔を伝い雨と混ざった血が落ちてくるのが分かった。
そして、手はまるで氷のように冷たかった。
自分のことばかりで、ララの様子に全然気が付かなかった。
マリエラとなんか、抱き合っていない。
触れたいのは君だけなのに。
でも、想いがあふれてしまいそうで。
何もかも違うんだと、そう言いたいのに。
『私の方が先だったのに。私の方がずっとあなたを好きだったのに!』
その言葉に、一瞬呆けてしまった。
しかし…。
『あなたなんて大っ嫌い!』
思い出すだけで、胸が軋む。
キアは、閉められた扉を見つめた。
ララは出て行こうとしていた。
その荷物に髪飾りは入っていなかった。
もう要らないのだ。
キアは髪飾りを握った。
ララ、君のためだったんだ。
何もかも君のためだ。
君を…忘れるため。
君の傍にいるため。
君に僕が一番だって…言って欲しくて。
キアは思わず自分を嘲笑った。
「…全部自分のためじゃないか」
自分がバケモノだからいけないのだ。
バケモノだから。
「違うか」
キアはぽつりと呟いた。
「僕は…臆病でちっぽけな…ただの人間だ」
そう吐き捨てた。