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バケモノ騎士の花嫁  作者: 込留 まこ
10/17

九.

 ミゼウルがエレノアを誘ったのは、馴染みの店であるアントンの店だった。

 街の中にある小さな店で、昼間は食堂夜は酒場をしているため、調理場側の長机の向こう側には、様々な種類の酒が並んでいた。

 ミゼウルが良く来るのは酒場の方だった。


「まあ、こんなところ初めてだわ」


 エレノアはそわそわしながらも嬉しそうに窓際の席に座り、丸テーブルを囲むその正面にミゼウルは澄まして座る。


「汚いが味は世界一だぜ」


「汚いとかいう奴に、飯はださねぇ」


 そう言いながら、アントンがコップに入れた水を二つ運んでくる。


「客誰もいないじゃねえか、大事なお客様だぞ」


「まったく…てめえが来ると肉がすぐなくなる」


 アントンは、六〇歳を迎えた坊主の店主だが、まだまだ口達者でミゼウルは昔から世話になっていた。


「しかし、また可愛らしいお嬢さんを連れて来たな。ミゼウル」


「あら、お嬢さんだなんて」


「見た目はな。俺より年上だけど」


「ええ!」


 アントンが目を見張ると、エレノアは可愛らしく微笑んでみせる。


「ララの叔母のエレノア・ハニクラウン侯爵夫人だ」


「ぐえぇ!貴族様が俺の汚い店に!」


「自分で言ってんじゃん」


「あら、元よ。爵位は息子が継いだの。ただのエレノアですわ、おじ様」


 アントンは照れたように頭を掻く。


「アントン・ベルです。奥様」


「あら、お嬢さんで構わなくってよ」


「よく言うぜ」


「うるさいわよ、モジャウルさん」


 アントンは、長机の前の椅子に座る。


「ララちゃんもたまには連れて来てくれよ。しかし、あのララちゃんが結婚か。懐かしいなあ、お前が忙しい時はここの手伝いもしてくれたっけ。お前のために料理まで覚えて」


「まあ、俺の飯をいつもひどい顔で食べてたからな」


「料理の覚えも良くて上手になったが、不器用なのはお前にそっくりだ」


「ララがここで手伝いを?」


 エレノアは目を丸くした。

 ミゼウルは得意げに言う。


「そうそう、労働の大切さも大事な教育だろ」


「そんな…」


 その時店の鐘が鳴り、ミゼウルは入り口の方へ目を向ける。

 明るい茶色の髪を軽く結い上げた女性が入ってくると、迷うことなくこちらへ向かってくる。


「ミゼウルじゃない」


「リリアか」


「窓から見えたの。久しぶりね」


 娼婦だったリリアと付き合いがあったのはもう十年近く前のことだ。

 しかし、昔のように豊かな胸を押し付けミゼウルの背中に抱き付いてくる。


「おい」


 リリアは、髪をかき上げ微笑む。


「あんた、女の趣味変ったわね。こんなお上品なお嬢ちゃんに手を出すなんて」


 品書きを見ていたエレノアがくすりを笑って顔を上げた。


「お嬢ちゃんだなんて、わたくしもうおばあちゃんなのよ」


「嘘でしょ?」

「嘘だろ。」


 ミゼウルは思わず口を挟んだ。

 リリアが忌々し気に言った。


「どんだけ金掛けてんのよ、バケモノだわ」


「おい」


「こんな年増よりも、あたしと久しぶりに遊ばない?」


 リリアはそう言って、ミゼウルの顔を覗き込んでくる。


「は?お前何言ってんの」


「あんた、あっちだけは最高に上手いんだもの。忘れられないの」


「お前なぁ」


「あら、だめよ。せっかくお年寄りの相手をしてくれているのだから、邪魔はしないで欲しいわ」


 エレノアが愛らしく微笑む。


「ばばあは黙ってな」


「あら、男の人は追いかけるのではなく追わせなくちゃ。そんなことも知らないの?お嬢ちゃん」


「なっ!ばばあのくせに調子に乗らないでよ!」


「いい加減にしろ、リリア。旦那と喧嘩したのか?」


「はあ?違うわよ!」


「じゃ、帰れ帰れ。俺達の邪魔すんな」


 ミゼウルはリリアの腕を優しく振りほどいた。


「ふん、下品なあんたとその女じゃ釣り合わないわよ」


「分かってるよ。でも、俺本気なの。もしかしたら、初めての恋かも…」


 リリアは、無言のまま机のコップを摂ると中の水をミゼウルの頭から掛けた。


「ま」


 エレノアは驚いて、手に口を当てる。

 ミゼウルは顔を顰めてリリアを見上げる。


「冷たっ!何すんだよ」


「ばーか、死ね」


 そう言いながらリリアは店を出て行った。


「だ、大丈夫?ミゼウルさん」


「大丈夫、大丈夫」


 エレノアがハンカチを差し出すのをミゼウルは、手で制した。

 自分のハンカチを取り出し、顔面を拭く。

 せっかくのおろしたてのシャツとジャケットが濡れてしまったのをみて溜息を吐く。


「懐かしいな」


 アントンが口を挟む。


「お前らが別れた日もこんな風に水掛けられただろ?ほらっ」


 アントンが放り投げた拭き布を受け取り、ミゼウルは頭をがしがしと拭く。


「あん時は顔殴られて葡萄酒ぶっかけられたわ」


「お前ってほんと忍耐強いよな。俺なら殴ってるぜ」


「じいさん、女は殴るものじゃないの。守られ愛されるものなの」


「偉そうに言うな、腹立つ」


「悪いな、エレノア。みっともないところを」


 エレノアはやや放心したようにミゼウルを見ていた。


「いえ…」


「リリアの奴、何しに来たんだか」


「お前が結婚してくれなかったのを根に持ってんだろう」


「はぁ?」


「別れる時のことよく覚えてるぜ。あたしとあの子どっちを選ぶのよって。お前がいつもララちゃん優先させるから、ララちゃんを目の敵にしてただろ?」


「そりゃ、ララに決まってんだろう。あんな口の悪い女、結婚なんて考えたこともない」


「やることやってたくせによく言うぜ」


「俺はおっぱいが大きい女が好きなんですー」


「ただれているわ」


 エレノアが吐き捨てる様に言ったので、ミゼウルは思わずはっと口を閉じる。

 すっかりアントンといつも通りの会話を繰り広げてしまった。

 エレノアが両手を組み、目を見開き瞬きもせず無表情でミゼウルを睨んでいる。


「…ただれている」


「いや、すみません。エレノアさんの前でお下品なお話を」


「不潔だわ。人妻となんて」


「いやいやいや、俺と別れてからだからね。あいつが結婚したの。あいつ、俺以外にも男がいたんだからね」


「お前に振られた当てつけに結婚したんだろう」


「あ、エレノアさんご飯どうなさいますぅ?俺のお勧めでいい?」


「ええ。よく分からないもの」


「あ、アントンさん。羊肉のトマト煮込みで。パンもつけてね」


「気色悪い喋り方すんな、不潔」


「あんたまで」


「新しい水、こっから取れ」 


「もう水じゃなくて、泡麦酒にする」


「勝手に注げよ」


 そう言ってアントンは厨房へと入っていった。


「エレノアさんは?」


「飲むわ」


「うん、返事してくれて良かった」


 ミゼウルは立ち上がると長机まで向かい、慣れた手つきで樽から泡麦酒を取っ手付きのコップに二杯注ぐ。

 そして、それを机まで持っていくとエレノアはまだ無表情でミゼウルを睨んでいた。

 エレノアは、おもむろに泡麦酒を口にするとぐっとひと口飲み、口元に付いた泡を拭きとる。 

 その豪快な動きでさえ、ずっと眺めていたくなるほど可愛らしく見える。


「美味しいわね、これ」


 やはりミゼウルを睨みながらエレノアは低めの声で言った。


「だ、だろ?」


 ミゼウルも静かにコップを傾ける。


「あなた、まさかララの前であの女性とふしだらなことをしたりしてないわよね」


「ぶほっ!」


 ミゼウルは、思わず泡麦酒を吹き出しそうになる。


「しないしない!ばかじゃないの!子どもの前でそんな…」


「そうよね。ララがあんなにいい子なのが信じられない。どうしてあなたみたいな人なんかに…」


「あ、あんた孫がいるって本当か?見えねぇなー。何人だ?」


 誤魔化す様にミゼウルは話題を変えた。


「…三人よ」


「ほ、本当かよ」


「息子は二一歳で結婚したの」


「孫と一緒に過ごしたくはないのか」


「べつに」


 ずっと喧嘩腰のエレノアの口調に、ミゼウルは戸惑う。


「この四、五年ララとずっと居てくれるだろう?いいのか?」


「会いに行っているわ。たまにね。それに侯爵家の子どもは、教育に忙しいの。おばあちゃんと遊んでいる暇なんてないのですって」


 エレノアはやっとミゼウルを睨むのをやめ、息を吐くと再び泡麦酒を口にする。


「わたくし嫌われているの、嫁から」


「え?なんで。」


「わたくしといると、惨めな気持ちになるのですって。孫もわたくしに似れば良かったのにと言われるそうよ」


「はあ。あんた美人だもんなぁ」


「息子なんて冷たいものよ。全部嫁の言いなりなのですもの。母親に、王都から離れた別荘に移り住んで隠居してくれだなんて言って追い出したのよ。酷過ぎるわ」


「そりゃ、悲しいな」


「義理の母も、格好が派手過ぎると説教するの。もっと地味な年相応の格好をしろと。でも、わたくし暗い色を身に付けると気分まで沈んでしまって」


「自分の好きな服着ればいいだろう。今のそれもめちゃめちゃ綺麗で可愛いし」


 エレノアは深く息を吐き、なぜか忌々し気にミゼウルを睨む。


「疲れるわ」


「美人は大変なんだな。でもいいのか?ずっとここにいても問題ないのか?」


「ないわ。わたくしなんていなくてもどうにでもなるの」


 エレノアは再び泡麦酒を煽ると拗ねた様に、口を尖らす。


「何よ、さっさと家に帰れと言いたいの?」


「違う、違う!帰ったら寂しいなぁと思って」


 ミゼウルは慌てて手を振った。

 そして、澄ました顔をして低い声で言う。


「どうだい、俺の…」


「不潔」


「瞬殺どころじゃないわ。最後まで言わせろよ」


「大きくないわよ、わたくし」


「いや、それはそれ。これはこれ」


「意味が分からない」


「なんで分からないかなぁ」


 エレノアは深い溜息を吐き、目を反らすと窓から外を眺める。


「分かっているわ、男の人ってそう言う勝手な生き物よ」


「もしかして…旦那の話し?」


 エレノアは答えなかった。


「…旦那ってどんな奴だったんだ?」


「あなたと正反対よ」


 ミゼウルは溜息を吐き、舌を出す。


「聞かなきゃよかった。どうせ美男で上品で礼儀正しくて…」


「そうね。品行方正、貴族の鏡。侯爵家の誇り。…よく羨ましいと言われたわ」


「はいはい」


「そして…平気で女性を殴るの」


 ミゼウルは大きく目を見開いた。

 エレノアは窓の外を眺めながら淡々という。


「恐ろしい人だったわ。人を人形のように弄んで、飽きたら塵のように投げ捨てるのよ。夫に従うのは妻の義務だとかなんとか言って。お父様に話しても無駄だった。お前が我慢すればいいだけだと。誰にも相談できなくて。わたくしがあの人と過ごした三年間は、恐怖…それ以外になにもなかった」


「お、俺がぶっ殺してやるよ」


 ミゼウルは思わずそう口にしていた。

 エレノアはミゼウルの方を向くと静かに笑った。


「とっくに死んでいるわ」


 エレノアは笑顔のまま言った。


「最悪なのはね、あの人愛人との最中に死んだの」


「はぁ?」


「心臓が止まったの。…天罰よ」


 エレノアが吐き捨てるようにそう言った。


「あーすっきりしたわ。こんな最悪な話、義理の両親にも誰にも言えなくて」


 エレノアは話を続けた。


「夫を失ってからも辛いことばかりだったわ。わたくし、ララの姿にいつも励まされていたのよ。あの子は、男性にも負けないように頑張っているのだから、わたくしだって頑張れるって。…わたくしのハニクラウン家の勤めはもう終わったの。自由で何でも出来るの。こんな貴族じゃ来られないような店にも来られて…楽しいわ」


「そりゃ、俺といればいつでも来られるぜ」


 エレノアは再び泡麦酒を口にするとコップを置いた。

 可愛らしく両手を組むと、机に肘をつきにっこりと微笑んだ。


「わたくし、あなたが嫌いなの」


 ミゼウルは静かに目を見開き、ずくりと痛んだ胸に手を置いた。


「強くて大柄で下品で、騒がしくて。男らしさをひけらかすようなあなたのような男性、大嫌い」


 自分でも予想以上の衝撃に、声が震えそうになるのを堪えながらミゼウルは茶化すように笑ってみせる。


「が、がーん。今のはかなり痛かった」


 ミゼウルは、エレノアから目を逸らし静かに窓の方を向く。


「…そんな可愛い顔して酷いこと言うなよぉ。何?こうして飯誘うのもだめ?だめならそう言ってよー」


「…不思議ね。あなたって、どうして怒らないの?」


「へ?」


「あなたに恥をかかせたのよ。腹立たしくないの?」


「恥って…俺をふってるのは毎日のことだろ?…嫌いはかなり堪えたけど」


「じゃあ、さっきの女性は?殴っていうことをきかせたいとは思わないの?」


「まあ、腹は立ったけど殴らねぇよ。というか、俺は女を殴らない主義なの」


「力で言うことを聞かせ方が楽でしょう?騎士なら敵を倒した方がいいのと同じよ」


「いやいや、敵じゃないし。どうしたんだ、エレノア。急にそんなことを言い出すなんて」


 エレノアは目を伏せた。


「別に、ただ聞きたいだけよ。」


 ミゼウルは少し考えると言った。


「そうだな。あんたの旦那は死んで当然だ。母親を殴る父親なんて最低だ。それを…俺も見てきたから」


「どういうこと?」


「…子どもってのはさ、母親が殴られてるのを見ると自分が殴られるよりずっと痛いんだ。俺は、それに耐えられずにお袋を庇って、よく親父にぼこぼこにされてた。で、お袋を庇ったら、お袋がもっと殴られる。そして、お袋から俺が怒られる。お前のせいで、もっとひどい目に合わされるって。ちっこい俺には、どうしようもなかった」


 ミゼウルは思い出しながら、つらい記憶が蘇りそうになり首を振る。


「うっかり家出して親父を倒せるほど強くなって戻った。だが残念ながら…お袋からも見捨てられちまった」


「そんな…」


「まあ、お袋も自分を守るために必死だったんだ。…それでいいんだよ」


「ミゼウルさん…」


 エレノアがふいに、ミゼウルの手を握った。

 手袋越しではあるが、エレノアの細い指先を感じる。

 思いがない出来事に、ミゼウルはその手をじっと見て視線だけエレノアに向ける。


「嫌いだなんて言って、ごめんなさい。嫌いというよりは、あなたのことが怖かったの」


「ああ、髭のバケモノだったしな」


「わたくしの中でのあなたの評価は、一番底の底だったのよ」


「…俺が何言われも傷付かないと思ってる?」


「だけど、底からなら上がるしかないでしょう」


 そう言って、エレノアは微笑む。


「わたくしもあなたと話している時間が好きよ。品のない話もこうして聞いてくれるもの」


「好きって。エレノア…」


 ミゼウルは、エレノアの手を握り返そうとした。


「ほい、出来たぞー」


「あら」


 アントンが厨房から出て来るとエレノアはあっさりとミゼウルの手を離す。


「じじい、こら。早い」


「はい?昨日から煮込んでんだから温めるだけだ。知ってんだろう?」


「まぁ、美味しそう!」


 皿には、煮込まれた野菜と羊肉がトマトのスープと絡まって湯気を立て、薄く切ったパンがカリカリに焼かれて添えられている。


「ララちゃんが初めて作れるようになった料理です。お嬢さん」


「まあ、ララが?」


 ミゼウルは、ララが初めて作った時のことを思い出して、思わず苦笑した。


「具はこれより大きかったけどな。食べてみろよ」


 エレノアはスプーンで崩せるほど柔らかくなった肉と汁をすくい、口にすると目を輝かせる。


「おいしいわ!お肉も蕩けるほど柔らか!」


「お気に召して最高の気分です、お嬢さん」


 アントンはそう言って、再び調理場へと戻っていった。

 ミゼウルはエレノアの笑顔を見て微笑んだ。


「エレノア。俺は尽くす男だぜ。いつでもどこでも、ベッドの中でも」


 エレノアは美しく微笑んだがすっと無表情になる。


「…気持ち悪い」


「なんでだよ」


「どうして一言品のないことを言わないと気がすまないのかしら」


「はあ?本心だよ」


「呆れた」


 アントンが再び別の皿を持ってくる。


「お嬢さん、これもよろしければ」


 そこには、薄く切った牛肉のオーブン焼きが並んでいた。

 外側は香ばしく焼いているが中はしっとりと柔らかく、綺麗な桃色をしている。

 その上に肉汁と玉葱を使ったソースが掛かっている。


「あら、綺麗!いいの?おじさま」


「もちろん。俺のまごころです」


「俺には、こんなこと一度もしてくれないのに!」


「俺は美しい女性が好きなんだよ。不潔とは違うの」


「じじい!」


「お嬢さん、デザートもありますからね」


 再びアントンは調理場へ戻っていく。

 エレノアが肉をナイフで切り、一口食べて再び笑顔を浮かべる。


「あら、これも最高ね。このソースがなんとも言えないわ」


「魔性の女め」


 ミゼウルは呟く。


「ねえ、ミゼウルさん」


 ふいにエレノアが言った。


「あなたに聞きたくても聞けなかったことがあるの」


「なんだ、何でも聞けよ」


「どうして、ララを騎士にしようなんて無謀なことを?」


 ミゼウルは目を見開いた。


「女性が守られ愛されるものだと言うなら、どうしてララをそんな風には思えなかったの?」


 その時店の鐘が鳴り響き、飛び込んで来たのはレチリカだった。


「いた!本当にエレノアといる!大丈夫?エレノア」


「ちょっと、お兄様を何だと思ってるんだ」


「あら、大丈夫よ。レチちゃん」


 駆け寄ってくるレチリカをミゼウルが睨む。


「あーなんか二人だけで美味しそうなお肉食べてる」


「お前も食べたことあるだろうが。こら、手で食べないの」


 レチリカがオーブン焼きの肉を摘まもうとするのを、ミゼウルは手で制してフォークを渡し、自分は立つ。


「食べるなら、座って食べなさい」


 レチリカは、座ってミゼウルの皿から肉を食べ始める。

 再び店の鐘が鳴り、サリーが息を切らせてやってくる。


「あら、サリーちゃんまで」


「ミゼ…ウルさん。キア様が呼んで…ます」


「はあ?俺今日休みなんだけど」


「あの…えと」


 息も絶え絶えサリーが言うのを見て、ミゼウルは溜息を吐いた。


「エレノア、水貰ってもいいか?」


「あら、どうぞ」


 ミゼウルはコップに入った水をサリーへ渡す。


「わかった、わかった。水飲んでから来い。悪いな、エレノア。食べてってくれ」


「わたくしはいいのよ」


「てか…肉食べてんの?レチリカさん」


「サリーちゃんも食べようよ。美味しいよ」


「…自由過ぎ」


「レチリカ、エレノアを送っていってくれるか」


「あら、わたくし馬車で帰るわ。ララを拾った方がいいかしら」


 水を飲んでようやく呼吸を整えたサリーが口を開く。


「そうですね、ララ様は騎士団本部にいます」


「わかったわ。迎えにいくわ」


 ミゼウルは、エレノアに右手を差し出す。


「何かしら」


「お別れの握手」


「え?いいけれど」


 エレノアが手を差し出すと、ミゼウルはその細い手をぎゅっと握る。


「好きだぜ、エレノア」


「それはどうも」


 すっと無表情でエレノアが答える。


「さっきのことは今度話す」


「…分かったわ」


 ミゼウルが長机の方へいくと、丁度アントンがデザートのイチゴのタルトを手に調理場から出て来る。


「おお、増えてる。てか、お前もう行くのか」


「ああ。騎士団長様は忙しいの」


 そう言いながら、ミゼウルは金貨の入った袋を取り出す。


「お前、本気とか本気か?貴族様に」


「うるせえわ、じじい。いつか夢は叶うの」


「お前全く相手にされてねぇな。可哀そうに。それなりに女が寄って来るのに」


「ほんと、うるさい!」


 そう言って、乱暴に長机に金貨を置く。


「レチリカが御代わりとか言い出したらその分は付けといてくれ」


「お前、相変わらずいい親父してるよ。品はないが」


「一言余計だよ」


 ミゼウルはそう告げると店を出た。




 ララは洗濯室から裁縫道具を借り団長室に入った。

 騎士達が不振そうに自分を見つめるので、ララティナであることを告げるととんでもなく驚かれたが。

 騎士団にいる時は、ミゼウルの補佐をしていたため団長室は使い慣れていた。

 団長室のすぐ横の部屋は、仮眠室になっておりベッドと長椅子が置いてある。

 仮眠室に入ると、ララはキアのコートを腰から外すと、ドレスの胸元のボタンを外し頭から脱いだ。

 コルセットと下はパニエを着ていたが、そのままでいるには恥じらいがないとエレノアに言われそうなので、その上から再びキアのコートを着る。

 釦を止めてしまうと、本当にドレスを着ているような大きさだった。

 檸檬のような香りとともにふわりと甘い不思議な香りがする。

 何の匂いだろうと思わず嗅ぎ、はっとして顔をはずす。


「なにをしているんだ、私は」


 そう呟き、壁沿いに置いてある長椅子に座る。

 裁縫は上手いとは言えない。

 しかし、破れた靴下や衣服をミゼウルの分まで縫っていた。

 ミゼウルからは下手くそと言われたので、自分で縫うように言うとそれ以降文句は言わなくなった。

 藤色の糸はないため針に白い糸を通し、ひとさし、ひとさし縫っていくが、縫い目の大きさがだんだん不揃いになっていく。


「エドバルの奴、こんなに斬って」


 大きな切れ目にうんざりしながら、ララは呟いた。

 扉を叩く音に顔を上げると、キアが入って来た。


「ここにいたのか」


「ああ」


「…そんな格好でいるなら、鍵をかけろ」


 そう言うと、キアは部屋に鍵を掛けた。


「そんな格好って?」


 なぜかキアはじっとララの身体を見ている気がした。

 ララはよく分からず首を傾げた。


「まだ借りていても構わないか。縫い終わるまで」


「ああ」


 ララが再び縫い始めると、キアはララに近付き手元を覗き込んだ。


「…縫おうか」


「え?」


「得意ではないのだろう?」


「あ、ああ」


 キアはララの右隣に座ると手を差し出すので、思わず針ごとドレスを渡す。


「え?あなたが?」


 キアは、黙って縫い始めた。

 慣れた手つきでララよりもずっと早い速度だ。

 ララが近付くと視線は動かさず身構えたのが分かったので、少し離れたところでその手元を覗き込む。

 全く同じ綺麗で細かい縫い目が並んでいる。


「…負けた」


「こういうのに勝ち負けがあるのか」


「まさか刺繍も得意とか?」


「布に模様を付けることに興味はない」


 あっという間に切れ目が塞がれていく。


「…あなたが縫い物をするなんて、不思議だな。だが、ありがとう。細かい作業は苦手で。母親から習ったのか」


「いや、孤児院で先生から教わった」


「そう…なのか」


 キアはそれ以上何も答えず、ララはそれ以上聞いても良いのか分からず、キアの横顔をただ見つめていた。

 柔らかな髪も、眼鏡の向こうの短い睫毛に縁どられた宝石のような瞳もあの頃と変わらない。

 いつまででも眺めていたい気持ちになる。

 キアは、鋭い視線だけをこちらへ向けた。

 ララははっとした。

 なんだか迷惑だと言われたような気がして、目を伏せた。

 昨日のことを思い出せば、こうして二人きりで隣に座っていても落ち着かない。

 まだ怒っているのかと聞きたいが、怒っていると言われたらなんと答えればいいのか分からなかった。

 ララは目を伏せながらも、再び視線をキアに向けた。

 驚くほど長い足は、少し近付けば引っ付いてしまいそうな近さだ。

 首を締めているのは嫌いなのだろうか。

 釦を止めずタイも着けていない首からは、浮き出た綺麗な鎖骨が見えている。


「すまなかった」


 視線は動かさずキアはふいに言った。


「噛んで」


「あ、ああ」


 ララはリボンを巻いた自分の首に触れた。


「あんなことは初めてだ。…君を壊してしまいそうだった」


「いや、それだけ怒っていたのだろう。黙っていた私が悪い」


「サリーの言う通りだ。僕が愚かだった。君の話を聞こうともしなかった。君が会いに来てくれたのに…気が付かないなんて」


「いや、あれは…私も話しかけられなくて。…目はかなり悪いのだな」


「眼鏡がなくては、あまりに見えていない。王都では兄さんに言われて眼鏡はしていなかった」


 キアはちらりとララに視線を向けた。


「眼鏡をしていても、君だとは気が付かなかったが」


「そうだな。こんな格好をしているから」


「だが、その美しさは変わらない。昔も…今も」


 さらりとキアが口にした言葉に、ララは目を見開いた。

 どう答えてよいのか戸惑い、思わず頭を掻く。


「あ、ありがとう。エ、エレノアが色々してくれたお陰かな。だいぶ女らしく見えるようになったというか」


「だいぶではなく…」


「本当は、もっと前に話せていればよかったのだが。私のことを」


「…そのつもりだったのか」


「え?」


「戦場で別れるとき、僕に話しかけようとしていた」


「お、覚えているのか。あんな昔のことを」


「ああ」


「具合が悪そうだったのに」


「違う。…僕は」


 キアは口を開いたが、小さく息を吐き話を続けた。


「ギデオン殿から僕のことは?」


「あなたに会うまで、知らされていなかった。…その、手紙も本当に隠されていたんだ」


「なんでそんなことを…」


「私に本当のことを話させないためだろう。…私を妻へと望む人はあなた以外に現れないと思って」


「そう…なのか?」


「私は背も高いし、身体に傷のある女性と知って妻にと望む人はいない」


「僕は傷が多いが、男は別に構わないのか」


「ああ。確かにそうだったな。でも、あなたの傷は戦ってきた証だ」


「君も同じはずだが、おかしな考え方だ。傷なんて暗ければ…いや、なんでもない」


 キアはまた口を閉じたのでララは話を続けた。


「おじい様には、私がヴィンセントだったことを話し、傷の責任を取ってもらえと言われた。…私は、それが嫌だった」


「だから、マリエラ嬢と結婚しろと?」


 キアが手を止め鋭い視線を向けそういうと、ララは思わず目を伏せた。


「それは…だって。彼女は可愛らしいし、あなたは楽しそうにしていた」


 思わず拗ねたような口調になってしまい、ララは口を閉じた。

 キアにすべて託していると言いながら、自分は嫉妬していたのだ。


「友好的に対応していただけだ。君の叔母さんと扱いは変わらないはずだ」


「だって私のような女は嫌いなんだろう?」


 キアが目を見開いた。

 ララはつい意地悪な口調で言った。


「恋人がいても構わないし、他の男と子どもを作ってもいい。…そんな結婚したくなかった」


「あれは違う。この間も言ったと思うが、逃げられたことに…僕は傷ついて」


 キアが悲しそうに目を伏せたのに、ララははっとした。


「す、すまない。あの時は動揺して…つい」


「だから、同じだけ君を傷つけてしまいたかった。言ったろ、初めから失敗したって。あの日の僕を殴ってやりたい」


 キアは深く息を吐いた。

 ララは改めてキアの方を向いた。


「私を許してくれるか、キア・ティハル。本当のことを話そうともせず、あなたから逃げようとしていた私を」


 キアは、じっとララを見つめた。


「許されるべきなのは僕の方だ。すまない」


 ララは微笑んだ。


「…では、仲直りだな。」


 ララはキアに向かって手を差し出すと、キアはララの顔と手をじっと見比べ、軽く握るとさっと離した。

 あまりにも素っ気ない握手だったが、ララは満足して言った。


「ありがとう。…あの日は、あなたが会いに来てくれた日は動揺してしまって…逃げてしまった。怖がったわけではない」


「分かっている。僕が怖いならあんなに笑ったりはしない」


 さっきのことを言っているのだろうと思い、ララは口を抑えた。


「品がなかったな」


「いや、いいと思う」


「いいか?」


「君が笑うと僕は…嬉しい」


 キアは顔を上げずにそう言った。

 ララは思わず微笑んだ。


「そう言って貰えると私も嬉しい」


 キアは静かに頷くと再び口を閉じ、ドレスを縫い始めた。

 ララも邪魔をしないように黙ってキアを見ていた。


「…なぜ弟のふりをしていた」


 キアは、再び口を開いた。


「五年前のことか。…王から出撃を命じられたのはヴィンセントだった。しかし、ヴィンセントは産まれつき心臓が弱かった。騎士として育った私なら出来ると思った。…ヴィンセントは、私が帰還する前に発作を起こして死んでしまった」


「そうか…辛かったな」


「ああ。…ありがとう」


「君はなぜ騎士として育てられた。女性が騎士なることは、王都では許されていなかった」


「そう…だな。ガーディアスでも初めてのことだった。母上がそう願ったからだ。父上に裏切られ、男に頼らなくても生きていける様になれと言っていた。叔父上に預けられ、そう育てられた」


「ミゼウルに…か。君は、短剣での攻撃が得意なのだな。それも両利きか」


「そうだ」


「いつもあんな風に武器を?」


「ああ。長靴と後は靴下止めの…」


 ララがコートをたくし上げようとすると、キアがそれを手で制した。


「見せなくていい。あの日剣術指南書を持っていたのは、そういうことか」


「あの日…図書館にいた時のことか。あの本は分かりやすいな。基礎が学べる」


「僕はあれで剣技を学んだ」


「私も、長剣の技は騎士団に入ってから学んだ。幼い頃は、叔父上からは短剣の技や喧嘩の方法を学んでいたから、得意なのはそちらだが。…あなたも、体術が得意なのだな」


「昔…武器なしでも戦えなくてはならなかった」


「そうか。母親を知らないと言っていたが、カイラ人ではないのか」


 キアは口を閉じた。


「…言いにくいことであれば」


「僕の国の名はダナーハという。」


「聞いたことのない国だ。遠いのか?」


「…もうないんだ、どこにも」


 キアは淡々と言った。


「王族の争いで滅んだ。数年前、カイラの一部になった。国が壊れる前に、じいさんが僕を迎えに来てくれた」


「じいさん?」


「エルディック・バルバロットのことだ。あの人は僕に父と呼べとは言わなかった。じいさんでいいと言った」


 あの英雄エルディック・バルバロットをじいさん…。

 ララは改めてキアが、バルバロット家の人間なのだと実感した。


「母親は女神で…」


「え?女神?」


 ララが驚くと、キアは目を細めて言った。


「じいさんは、大抵の女性をお姫様とか女神とか呼んでいた。じいさんは旅をしてダナーハの寺院をを訪れ…そこで、女神に抱かれる夢をみたそうだ」


「夢を…」


「で、僕が生まれた」


 ララが困ったようにキアを見ると、キアも困ったようにララを見つめ返した。


「僕もそう聞かされたんだ。…寺院の巫女から僕を託されたそうだ。しかし、子育てなんかしたことのないじいさんは、ダナーハで孤児を育てているルーシャ先生に僕を預けた。そこで六歳まで育った」


「だから、あなたは子どもの面倒に慣れているのか」


 クラリッサに何をされても静かに肩車していたことを思い出す。


「まあな。だが、王族同士の戦いでみんなばらばらになった。僕は暗殺兵になって、王族を殺した。だから、戦いが終わって…あの国にいられなくなってじいさんと国を出た」


「ああ、だからあなたは足音が響かないし、気配が少ないのだな」


 ついそう口にして、ララははっと口を閉じた。


「す、すまない。大変な目にあったのに、軽々しいことを」


 しかし、キアは淡く笑みを浮かべた。


「いいんだ。…癖というよりもう習慣だろうな」


 キアは淡々を話を続けた。


「僕はじいさんが父親とは知らなかった。だが、突然抱きついて来て僕の星の瞬きだとか言いだして。いかれたじいさんだと思った」


 ララは思わず微笑んだ。


「あなたの名は、エルディック様が付けたんだな。名の意味は私しか知らないのか」


「ああ。そんなこと聞いてきたのは君だけだ」


「そうか。美しい名だと思っていたんだ」


「それは…なんか恥ずかしいな」


 そう言って、キアは目を伏せた。


「じいさんと旅をしていた頃は良かった。だが、クルセントに来てから、自分が人とは違うバケモノだと思い知らされた」


「キア…」


「だが、じいさんには感謝している。じいさんがいなければ、僕はここにはいない」


「そうか。そうだな。…私も、叔父上がいなければ」


 ララはそう口にしたが、はっとして黙った。

 キアは手を止め、こちらを見ていた。


「ミゼウルが?」


「ああ、いやなんでもない。騎士にはなれなかっただろうという話だ」


 ララは、話を逸らすように言った。


「そう言えば、叔父上の肩を外したと」


「ああ。いきなり停戦中にやってきて、俺の姪と結婚したければ俺を倒せと言ってきた」


 ララは思わず微笑んだ。


「本当、あの人は」


「…嬉しそうだな」


 なぜか暗い声でキアは言った。


「ああ」


「あいつのことが…好き…なのか」


「もちろん」


 キアは、なぜか咎める様にララを睨んだ。


「あいつとは…その、どういうあれなんだ」


「どういうあれ?…あの人は、私の父…ではないな。兄…というにも子どものようだし。だが、大切な家族に代わりない」


「家族…それだけか」


 キアの言葉にララは首を傾げた。


「それだけだ」


「…恋人は」


「え?いや、恋人なんていたことはないが?」


「恋人の元へ行くと言った」


「あれは、嘘だ。私のような筋肉女にいると思うか?」


「誰がそんなことを。…ミゼウルか」


「ああ」


 キアは再び目を伏せた。


「…婚約者は?」


「婚約者?」


「結婚を決めた相手がいると言っていた」


「いつ?」


 キアは、顔を上げ信じられない様子で目を見開いた。


「それで、王国騎士団に入るのを断った」


「ああ、そんなこともあったな。あれは、あれ以上説得されたら困るからだ」


「僕は君が…」


 キアはふいに口を噤んだ。


「私が…どうした」


「いや、なんでもない。…ではいないのか」


「いない。いたこともない」


「そうか。…ならいい」


 そう言って、キアは再び縫い始めると口を閉じた。


「キア・ティハル。私は…」


「キアでいい」


「だが…」


「いい。僕も…と呼んでも?」


「なんだ?」


 ララが耳を近づけると、キアは肩を縮めた。


「ララと呼んでも」


 キアはあまり口を動かさずもごもごとそう言った。


「あ、ああ。もちろんだ」


「それで、なんだ」


「私でいいのか?」


「何の話だ」


「私が妻になることだ」


 キアは顔を上げた。


「どういう意味だ」


 キアの鋭い視線に、ララは戸惑った。


「い、いや。私は生きているのだから、あなたが私と結婚する必要は…ない」


 キアは目を僅かに見開き、細めると咎める様にララを睨んだ。

 ララはその視線に怯みながらも口を開いた。


「こ、この傷だってあなたのせいでは…」


「ガーディアス家を守るためには、僕が必要だ。傷が理由ではない」


「だが、私は年上だ」


「たった二つだ」


「ひどい醜聞だってある。あなたに相応しい人間では…」


「この話はもう終わりだ」


 キアは唐突に話を打ち切り、顔を背けた。


「君はガーディアス家に生まれた義務を果たしたいのだろう」


 キアは再び縫い始めた。


 義務。


 その言葉に、ララは胸に痛みを感じた。

 そうか、それは変わらないのか。

 そう思うとどうしようもない虚しさが募った。


「キア、あなたには想い人がいるのではないのか」


 思わずそう口にするとキアが手を止めたのが分かったが、顔は上げなかった。


「…何の話だ」


「私が王国騎士団に行った時、女性に言っていた。想い人がいるから、好意には答えられないと」


「昔の話だ」


 そう言いながらキアは黙々と縫い続けたが、ふいに口を開いた。


「僕では嫌なのか」


「え?」


「夫だ。…もっと普通の男が来ると思っていたのか」


「私はあなたで良かった。…あなたがいい」


 キアが手を止め、顔を上げるとララを見た。

 今度は睨んでいるのではなく、ただ子どものように目を逸らさずじっとララを見つめた。

 まるで好きだと告げてしまったような気がして、ララは慌てた。


「あ、あなたとなら、良い友人同士なれるだろう」


「ゆうじん」


 キアは眉を顰めた。


「夫婦だ」


「友人のような夫婦という意味ことだ」


「僕は友人が少ないのだが。…友人同士というのは、その」


「その?」


「その…子どもを持つようなことを?」


「あなたは、子どもは欲しくないのだろう。安心して欲しい。あなたにそういうことは望まない」


 キアはなぜかララを睨むので、ララは首を傾げた。


「女性が苦手なのだろう?」


「いや、だからそれは」


「あなたは…」


 ララが耳打ちしようとにじり寄ると、キアは嫌がる様に身体を縮める。


「逃げなくてもいいだろう」


「逃げていない。君は自分がどんな格好をしているのか考えて行動すべきだ」


「格好?」


 キアは再び顔を上げる。


「君は男の目が気にはならないのか。…それとも、僕を男とは思わないのか」


「あなたは男だ。どこからどうみても」


「君は今まで、危険な目に会うことはなかったのか」


「危険ならそれなりに…」


「僕が言いたいのは、男からという意味だ」


「男から?ああ、エドバルのようにということか?」


「ああ」


「あいつは女なら誰でもいいんだ。まったく気色の悪い。ああいう男の腕はへし折ってもいいと叔父上から言われている」


「だから…そんな格好で無防備でいられる」


「私がどんな格好でも興味ないだろう」


「なぜそう思う」


「あなたは…そうなのだろう?」


 自分が言いたいことを察してほしくてララは続ける。


「なんだ」


「…想い人は、もしかしてサリーなのか?」


 キアは静かに顔を上げた。


「は?」


 信じられないものを見るようにララを見つめる。


「何の話をしている」


「いや、叔父上が好きな部位を目なんて言う男は…」


「違う。あいつの言葉を全て鵜呑みするな」


 キアは再び凄い勢いで縫い始め、ふいに言う。


「目がいいと思ったのだから、仕方ないだろう」


「ああ、確かに可愛らしい目をしている」


「何の話をしている」


「サリーだろう?」


「違う。男に興味など…」


 ふいにキアが口を閉じ、静かに息を吐いた。


「…私は、口は堅い。誰にも言わない」


「違うと言っている」


 ドレスを縫い終えたのか、キアは鋏で糸を切ると、針と糸を裁縫箱に手早く片付ける。

 無言のままララにドレスを差し出した。


「ああ、ありがとう」


 表から見ると白い糸は見えず、ドレスは切られたなどと分からないほど綺麗に縫われていた。


「すごいな」


 ララがドレスの縫い目を眺めていると、ふいにキアが腰を上げララのすぐ横座った。

 太腿とお尻がぴったりと着き合うその距離に、ララは思わず身体を縮ませる。

 キアの方を向くと、キアはララを見つめていた。

 その宝石のような瞳に引き込まれ、お互いにしばらく見つめ合う。

 鼓動がどんどん早くなり、苦しいほどになった。


「試してみるか」


「な、何を?」


「僕が、君の言う男に興味があるかどうかを」


「だってサリーに触れたらひどく腹を立てていただろう」


「そんなことはない」


「睨んでいた」


「それは、サリーには触れたからだ」


「ほら…」


「僕には…触れなかったのに」


 ララは驚いた。


「あなたは触れられるのが好きではないのだろう?女性の手を弾いて…」


「君から触れられるのが嫌とは言っていない」


 口調は変わらないが、まるで拗ねた子どもようにキアはただじっとララを見つめた。

 これは触れて欲しいと言っているのだろうか。


「君は僕との子どもを望まないのか」


「の、望まないのはあなただろう」


「望むといったら?」


「え?」


「望むと言ったら…君に触れてもいいのか」


 ララは戸惑った。

 どうして、始めは望まないと言ったのに。


 私がヴィンセントだったからそう言うのだろうか。

 命を助けてもらったから?

 傷を負わせた責任から?


 ララは目を伏せ言った。


「それも義務…か?」


 キアは黙っていた。

 ララが再び視線を上げた時、キアは顔を背け下唇を噛みしめたのが分かった。


「…服を着るんだ、ララ」


「あ、ああ」


 ララは立ち上がった。


「僕は部屋を出…」


「え?」


 ララは、キアの上着を脱ぎ振り向いた。


「何か言ったか?ああ、上着をありがとう」


 上着を差し出すと、キアは目を見開いたララを見つめ、唖然としたままコートを受け取ったがそのまま床に落とした。

 はっとした様子で、コートを拾うと気まずそうに向こうを向いてしまった。

 

「…傷が気になるか?」


 ララはキアに背を向けて、傷をみせた。

 胸元まであるコルセットの上から出た素肌の背中からは、あの時の傷がよく見えた。

 キアなら傷などなんでもないと言ってくれるのが分かっていた。


「痕は残っているが、痛みはない」


「傷じゃない。…やっぱり僕のこと意識していないだろう」


「意識って?」


「それは下着だろう?」


「ああ。だが胸は隠れているし、これは下着ではなくスカートを膨らますパニエというらしい…」


「男の前でそんな恰好すべきじゃない」


「そうだった、叔父上とエレノアからよく怒られるんだ。もっと恥じらいを持てと。品がなかったな」


「そうじゃなくて。僕が…こう…君の格好に興奮して押し倒すような男だったら…」


「あなたはエドバルのような人じゃないだろう」


「そう言われると――何も言えないな」


 ララは足からドレスを通した。


「押し倒された時の対処方も知っている。とにかく暴れて、股を狙うか、無理なら首に足を巻き付けてとにかく絞めあげる」


「…なるほど」


「叔父上と練習したことがあるが、一度急所を叩いてからは二度と相手をしてくれなかったが」


「それは…哀れだ」


「…あれ?」


 ララは、ドレスを引き上げようとしたが、コルセットに引っかかってしまったようだった。


「どうした?」


「いや、引っかかってしまったようだ」


 ララは何度か着直したが上手く上げられずにいた。

 ふいに後ろの空気が濃くなるような感覚がする。


「…触れても?」


 キアが後ろに立っているのが分かった。

 そう改めて言われると、ララは今さらながら恥ずかしいような気がした。


「あ、ああ。助かる。いつもなら一人でできるのだが…」


 キアの柔らかい指の感触を背中に感じ、思いがけない感覚にララは首を縮める。

 コルセットから覗くあの時の背中の傷を撫でる。


「綺麗に縫われている。トルニスタ先生のお陰だな」


「あ、ああ」


「左腕が痺れたりはしないか」


「そんなこともない」


「そうか」


 キアの指先がララの項に触れ、丁度リボンを巻いた昨日キアの噛んだ場所を撫で、そのままドレスを引き上げた。

 ララは、ドレスの釦を留めた。


「この国の女性は、いつもこんな防具を?」


 キアの声が再び背後から響き、ララの背中に手が触れた。

 コルセットのことを言っているのだと分かる。


「え?いや、これは防具ではない。身体を細くみせるためのものだ。…知らないのか?」


「僕が女性の下着に詳しいとでも?以前もこれで胸を押さえていたのか」


 キアが背後から、ララの胸元に視線を向けているのが分かった。


「そ、そうだが。あの時は胸当てで…」


「どうりで。腰は細いのに、胸板はすごくしっかりしていると思っていた」


「いっ一体いつそんなことを…」


 ララは、首だけキアの方へ向けた。

 思いがけず近くにキアの顔がある。

 ララはぱっと顔を反らしたが、キアがララの髪に優しく触れるのが分かった。


「…髪飾りとかはしないか」


 それは、キアが昨日ララに送ったあの美しい髪飾りのことだと分かった。


「…ああいうのは嫌いか」


 ララは首を振った。


「とても気に入った。あなたの目と同じ色で」


「あれを見た時、君に目を若葉の色だって言われたことを思い出して」


「今度…付けてみる。ありがとう」


 キアは静かにララの髪から手を離した。


「もう少し…触れても?」


「え?」


 ふいに、背中にキアの心地よい体温を感じた。

 キアはララの身体に両手を回すとまるで包み込むようにララを後ろから抱き締めていた。

 ララは思わず身体を縮めた。


「…生きていてよかった。」


 背後から聞こえるキアの吐息に、ララはぞくりとするような感覚に陥り肩を縮めた。

 心臓の鼓動が速くなり、全身に響き渡っているようだった。


「だが、僕はもうそれだけでは足りない」


「あ、あの…どういう」


「香水は止めたのか」


 その質問にララは再び肩を縮める。


「以前は、薔薇の匂いがしていた」


「い、いや…。あれはエレノアが勧めてくれたのだが、私はあまり好きではなくて」


「そうか。薔薇の匂いは苦手だが…君から香ると、悪くないと思った」


「なぜだろうな?叔父上からは臭いと言われたが」


「あいつは本当に…」


「あ、あなたはなんだが甘い匂いがするな」


「ああ、煙草の匂いか」


「そうなのか、煙草を吸うのだな。私も煙草の匂いは苦手なのだが…あなたの煙草は良い匂いがする」


 キアはしばらく口を閉じていが、ふいに言った。


「いずれ止める」


「別に止める必要は…」


「いや、止める」


「そうか。身体には良くないそうだ」


「サリーからも言われている」


「そうか」


 気が付けば、恥ずかしさよりも心地よさでララはキアに背中を預けていた。


 キアはどうしてこんな風に私に触れるのだろうか。

 まるで…恋人同士のように。


 そう思いたい気持ちを振り払う。


「サリーが言った意味が分かったかもしれない」


「え?」


「知りたいというか…良いと思ってしまうのだろうな。…何もかも」


「何の話だ?」


 ララは思わず後ろにいるキアの顔を見上げる。

 思いがけず目の前にキアの顔があった。

 煌めく若葉色の瞳を見つめ、ララは思いがけずキアの薄い唇に目が向いた。

 キアも、ただじっとララを見つめていた。

 ふいに、キアの顔がララの顔に近づいてくる。


 「ララ、僕は…」


 「キア!いるか」


 団長室の扉を開き、ミゼウルの声が響くと、ララははっとしてキアから顔を背けた。


「おーい。来たぞー」


 キアは、深く息を吐き静かにララから離れた。

 ララは熱くなった頬に両手で触れた。


 今…何か叔父上が空気読めないと言われるのが分かった気がする。


 キアは何もなかったかのように口を開いた。


「ララ。君は、ダグラル・カイデン殿と交流があるのか」


 突然祖父の名を出され、ララは驚く。


「い、いや…あの人は私に興味がない」


「では、彼がこの先ガーディアス領から去っても…構わないな」


「それはどういう…」


 キアは仮眠室の鍵を開けて、扉を開いた。


「そこか?」


 キアとララの姿を見て目を見開く。


「お前ら、鍵かけて何を…!」


「エドバルを捕えた」


「何!…えっ?なんだって?」


「あなたの兄さんを呼ぶ予定だ。エドバルに、これまでの罪を償わせるために」


「お、おお。分かった。俺が直接呼んで来るか」


「助かる」


「で、何してた。婚前…」


「してない」


「まあ、いい。レチリカの奴、そんな大切なことも言わずに肉を…。あ、ララ。エレノアが昼飯の後馬車で拾ってくれるらしいぞ」


「分かりました」


 ミゼウルは、足音を響かせながら出て行った。


「君も話を聞くか」


 キアがそう言ったが、ララは首を振った。


「いや、これ以上あなたの邪魔をするわけには行かない」


「邪魔ではない」


「彼らとは顔を合わせたくない。正直に言えば、エドバルを捉えて置くことは、おじい様が許さない」


「分かっている。僕も、この領地のことは調べた」


「そうなのか?」


「ああ。君は、ギデオン殿からこの領地のことを何か聞いているか?」


「…正直に言えばまったくだ。おじい様は、領地のことはすべて自分で管理していた。リアンから話を聞くくらいだ。すまない、情報がなくて」


「いや、構わない。それなら良い。エレノアを待て」


「私が店に行けばいい。きっとアントンさんの店だろうから」


「君が狙われている可能性がある」


「まさか。なぜ?」


「妻となる君は、僕の弱みになる」


「そんなことは…」


「可能性はある。一人で行動はするな」


 キアは、コートを羽織った。


「ここで待っていていい。エレノアが来たら、呼びに来る」


「分かった。ありがとう」


「では、また」


 キアが出て行ってしまうと、ララは長椅子へと腰かけた。

 座っていると、先ほどのキアの問いを思い出す。


「義務じゃいやだと言ったら、あなたはどんな顔をするのだろうか」


 ララは静かに首を振った。

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