序章その2
「……何故ですか? お父様」
――時刻は午後11時過ぎ。
国民のほとんどが明日に備えて寝静まる時間帯でありながら、とても澄んだ声が郊外の屋敷に木霊した。
声の主は、もうそろそろか弱い乙女とうら若き女性の中間辺りに差し掛かろうしている、とある大貴族の令嬢だ。
「私は自らの見識を深める為に、世界を見たいのです。国政の一役を担う貴族に生まれた者として、偏った知識のまま自国民を導いていくことなどできません」
その清楚な唇から紡がれる言葉に一切の迷いはなく、聞く者は皆その意志の強さを悟らされるだろう。
清楚で可憐、しかし、触れただけで壊れてしまいそうな儚さを醸し出す容姿であるにも関わらず、威風堂々とした彼女の前では、百の戦を知る歴戦の勇士でも怯むに違いない。
しかし、娘が父と呼称する男は眉一つ微動だにさせなかった。
「リオーヌが生まれた以上、お前が世界を見る必要などもうなくなったのだ。お前は大人しくセリオンと婚儀を結べばそれでいい」
これも現頭首の貫録か。
温かみの片鱗も覗かせない冷徹な眼差しで、男は我が娘の意志という蒼い炎を傲慢という絶対零度の氷柱で貫く。
だが、その程度では蒼い炎は小揺るぎもしない。
「しかし、リオーヌの正式なお披露目はまだ数年先でしょう? それまでは私が次期頭首です」
――と、娘は自分の立場を明確に宣言する。
「男児が生まれた以上、いずれ次期頭首としての権利を剥奪されることは理解しておりますが、だからといって私は自らに課せられた義務を放棄するつもりは毛頭ありません。私は、今の私が為すべきことを果たします」
あくまでも次期頭首らしい凛とした姿勢を崩さない大貴族の令嬢は「それと、あのような無能を婚約者と認めたことはありません」と、あくまでも"ついでに"自身の婚約に対して抗議した。「口にする程の価値もありませんが」と、婚約者という男の価値をその冷めた瞳が物語る。
「認めようが認めまいが、これは私が決定したことだ。お前に拒否を口にする権利などない」
それでも、この娘にしてこの父ありというべきか。強者の特権である傲慢をこれでもかと行使するこの男は、やはり国政を担う貴族の頭首だけあって大物なのだろう。
「……貴方がそのような態度をとられるのであれば、私にも考えがございます」
そんな父親の態度は、もう何を言っても無駄かと呆れ果てた彼女に最後の手段を行使する決意をさせた。
「ほう。言ってみろ」
「述べる必要などありません。明日になれば、全てわかることです。では、失礼致します」
小馬鹿にしたような口調だが、僅かに目を細める父の顔を見ることなく、娘はその腰まで届く蒼い長髪を靡かせながら、毅然とした態度でその場を後にした。
――その翌日の朝、クレスティア皇国天輪十二貴族【壱の臣】の次期頭首が自室から姿を消したとして、屋敷中がパニックに陥ることになる。