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理から外れて

 何年目かのその日が来た。


 いつもならぐっすりと寝てしまうのに、何故か寝付きが悪かった。重い体を無理矢理に動かして、アスは顔を洗い、朝食を取り、服を着替えた。去年は烏がいて、――シークがいた。今年はどちらもいない。その前のその前と同じに戻っただけだ。


 アスは絡んだ髪を指で梳く。いい加減、やり方を覚えたほうがいいような気がする。しかしもう今さらだ。あとそれほど長くはここにはいないだろう。百年も死霊使いを続けている者を聞いたことがない。七十を超えた時でさえ同業に驚かれたくらいだ。

 大抵は本来の寿命と同じ頃に役目を終えて、新しい死霊使いと代わる。アスは本来の寿命が普通の人間より大分長いのだろう。


 アスは家の扉を開ける。――目を見張った。シークがこちらに向かって歩いてきた。キラキラと陽の光を浴びて彼の髪が光る。

 シークはアスと目が合うと眩しそうな顔をした。アスの前まで来て立ち止まる。


「もう来ないと……」

「そんなことだろうと思った」


 ぼそりと呟いたシークは、次の瞬間目を細めて笑顔を浮かべる。


「髪を解くよ。そんな髪で行かせられないよ」

 家の前にある椅子に座るように促す。テーブルの上に鋏と櫛と香油を置いた。準備がいい。

 去年から一度も髪を切っていない。シークは髪に香油を塗り込みながらもつれたところをほぐす。


「アス。リボンは?」

「切れた」

「……そう。少し切るよ」


 甘い香油の匂いがする。シークの指が耳をかすめる。


 何とか結わえられる長さになってしまったリボンはいつの間にかなくしてしまった。アスが探すことも忘れてしまった頃に。

 毎朝シーツに落ちていたリボンを拾うことがなくなったのは、リディオスの真似をしているシークに彼自身の面影を探すようになってからだ。


 自分は薄情で酷い女だ。


「新しいのをあげるよ」

「え?」

「リボン。アスの目のような青がいいかな」

 少し楽しげなシークの声が嬉しい。

 シークはアスが笑ったのを了承と取ったようだ。

「青にしよう」

 嬉しそうにシークが言う。

「ああ、青がいい。約束だぞ」


 約束をすればシークの死が少しだけ遠のくような気がした。けれどシークは今日のうちに青いリボンを手に入れて、自分では渡さずどこかに隠し持っておくのだろう。


 後ろに立ったままシークはアスの髪を整えながら、それからずっと無言だった。アスの髪にベールをかけて、宝石のついた髪飾りで彩る。

「――じゃあ、またね」

 優しい甘い声。


 リディオスの声は忘れてしまった。彼の面影を思い出そうとして、シークの顔が邪魔をするようになったのはいつからだったのだろう。

 木漏れ日に髪がきらめくのを見て、シークだと思うようになったのはいつからなのだろう。

 ただ自分は寂しかっただけなのだと思い知らされた。浅ましい。そばにいてくれるなら誰でも良かったのだ。アスがリディオスの告白に答えなかったのは愛情のせいじゃない。保身だ。


 変わらない、人のことわりを外れて生きることがどういうことなのか、ただ人にはわからない。

 一時の感情に振り回されただけだと気がついて、彼が離れていくのが怖かった。普通の女性と結婚して子を成したいと幸せの後に告げられて、道理が分かっているふうな顔をして彼を送り出すには孤独な時間が長すぎた。


 アスが選んだものは、リディオスのそれからの幸せを考えてのことではなかった。


「待って!」

 シークはアスが立ち上がれないように両肩を押さえる。アスは自分の手を重ねてその左手を力いっぱい押さえた。

「死ななくていい。お前は死ななくてもいいんだ。今は辛いかもしれないが、きっと楽になれる時が来る。お前の力になりたいと思っている奴は周りを見たらきっといる。だから――」


 一体自分は何を言っているのだろう。こんな目新しくもない説教をシークに聞かせても、彼には響かない。

 だからといってアスはすがりつくことができない。リディオスのときと一緒だ。いや、もっとたちが悪い。


「……」

「死なないでくれ。明日お前が来るのを待っている」

「そんな日は来ないよ、アス」

 シークは必死に掴んでいるアスの手をこともなげに引き剥がす。

「今以上に辛くなるだけだ」


「違う違うんだ、シーク。リディオスのことはもういいんだ。もうよくて、私はお前に生きていてほしいんだ」

 告白のような言葉を口にしても顔は強張っているだろう。目も泳いでいるかもしれない。


「――嘘つき」

 みるみるとシークの顔が歪んでいく。嗚咽を漏らす前の顔をアスはよく知っている。


「言うつもりはなかったけど、これが最後だから、言うよ。

 あんたのことが好きだった。ずっとずっと、これからも好きだ。あんたの好きな男と一緒に、俺もあんたを愛してやるよ」


 シークはすぐに目をそらし体を引く。名残惜しそうに肩に触れている手だけが離れない。


 告げるならばこの瞬間なのにアスの喉は動かない。自分もそうだと言えばいいのに、言葉が出ない。何を恐れているのだろう。自分が死霊使いであることか。禁忌を犯そうとするほどにリディオスを想っているはずだった。それなのにシークを愛したことを恥じているからか――自分を好きだというこの男に。

 お前が思っているような一途な女ではないと知られることが怖いからか。


「アス。いっこだけ、頼みがある。リディオスに話しかけてたみたいに俺に言って。……さよならって」

 シークの目が赤い。潤んでいる瞳から今にも涙がこぼれそうだ。


 さあ、今すぐ言え。自分も愛していると。


 叱咤するのにアスの喉は別の言葉を紡ぎ出した。


「また会えるわ。シーク」

 瞬きをしたシークの目から涙がこぼれた。思わずアスが笑うと、シークは下を向いた。

「……ばかじゃねぇの」

 小さく呟いて今度こそ手を離し、すぐに走り出した。みるみるとその背中が小さくなった。


 どうか、思いとどまってほしい。そのままのシークで、自分といることを選んでほしい。

 何も言うことができないくせに身勝手なことを願う。


 アスはシークが見えなくなっても彼が走っていった先を見つめていた。






 川辺に見送りの人々が集う。領主とその家族の姿はまだない。アスは気が気ではない。リディオスの魂には、ほんの少しの時間しか会えないのだとシークには話している。


 術を使って魂を動かさないようにすることはできるが、そうすると死者の国に戻れなくなってしまう。死んだ動物で試したときは、ネズミなら三日から五日、鳥なら一週間ほどで魂が消えてしまった。一年など到底持たないだろう。

 だから、シークの死体が使えるのは今夜しかない。


 魂で死体を動かす方法を教えてくれた死霊使いは、動物の魂を使って人の死体を動かしていたようだ。人の魂でやったことはないのかと尋ねれば、怖くてできないと言っていた。

 普通はそうだ。禁忌に触れることは恐ろしい。


「リディオス」

 今、アスのそばに一つの魂が漂っている。いつもより来るのがずっと早い。

「あなたは私の側にいたいと思っているの?」

 白いふわふわとした塊はアスの周りをぐるぐると回りだす。

「生き返りたいと思っているの? 生き返らせて、ほしいの?」

 魂とは会話ができない。ここに死体があればリディオスと話ができる。少しの間話をさせるだけなら、人の死体があればいい。しかし体も動かすとなると、簡単な話ではない。

 リディオスはアスの肩にちょんと乗った。アスの話していることをすべて理解しているなら、彼の魂が今ここにいることは彼の意思の現れだ。


「もうそんなに長くないと思うわ。それでも、一緒にいたいと思っているの」

 小さく、いつものようにふるふると震えたまま白い魂は動かない。

「――さっきも言ったけど、私決めたわ」

 アスは指で魂をなでた。感触はない。

「最後まで、いてね」


 領主とその家族が姿を現した。アスは唇を引き結ぶ。領主の後ろでシークと彼の母親が何か話をしている。時折領主が後ろを振り返るが、彼の妻は夫に前を向くように言っているようだ。周りの人間も親子をなだめるかのような様子だ。


 少しして二人とも前を向く。領主が一度咳払いをして今日のこの日を締める挨拶をする。内容はさっぱりアスの耳には入ってこない。シークが対岸のアスを見て少し笑う。リディオスを真似ているわけではない、彼の笑みだ。

 今日はシークの周りにだけ白い魂がある。彼の腰の周りをぐるぐると回っている。彼も何か気がついているのだろう。アスは白くなるほど手を握りしめる。誰でもいい。シークを止めて。


 すべてが終わった後、領主は何度かシークの肩を叩き、一緒に帰ろうと促している。母親が少し離れたところに立っている。シークは領主に何言か話し、一人になる。といっても、まだ両親は彼の近くにいる。このところ様子のおかしい息子を心配しているのだろう。

 シークが塞ぎ込んでいるという彼の噂をアスも耳にした。今日を乗り越えれば、そのつまらない演技も終わるのだ。さあ、誰か彼を連れて行け。連れて行って、宴でめいっぱいの酒を飲ませて眠らせてしまえ。



「俺の死体を使えよ、アス。使わなければ、――無駄死にだ」


 聞こえないはずのシークの声が聞こえた気がした。

 シークはアスに背を向ける。手元にきらめくナイフが見える。躊躇いなく首筋にそのナイフを当てた。血飛沫が上がった。


 ――これは、助からない。


 アスは自分が悲鳴をあげたのかどうかもわからなかった。

 その場に座り込んで真っ暗な地面をただ見つめていたことに、声をかけられるまで気が付かなかった。シークの葬儀があるのだと、声をかけた男は申し訳無さそうに言った。




 首に包帯が巻かれている。一応手当は行ったのか、あまりに深い傷だったので隠そうとしたのか。アスが来た時にはシークの葬儀の準備は終わっていた。顔なじみの葬儀屋はアスの顔を見ると悲しそうな顔をした。

「今なら、みんなと一緒に行けるかね」

「少し遅かったよ。死者の国の門はもう閉まってしまった」

「そうか。もう駄目だって話だったけど、奥様がどうしても医者をって、なあ……」

「一人息子だ。仕方ないさ」


「あんたも、親しくしてたんだろ?」

「……ああ、可愛い孫ができたと思っていたのにね」

 誰もが納得するような言葉を口にすると、葬儀屋は何度も頷いた。


「色々あったが、いい子だった」


 他人事のようだ、とアスは口に出して思う。実際どこか現実感がない。今日がその日だとシークはずっと決めていたのに結局アスは信じていなかった。だからこんなことになってしまった。

 アスはシークの頬を撫でる。冷たい感触に手が震える。

 ああ、知っているのはこの感触だけだったのに。暖かい肌など忘れてしまっていたのに。どこか膜が張ったような、奇妙に膨れ沈む肌を、この馴染んだ感触が――


「シーク」

 いつの間にか葬儀屋の男はいなくなっていた。そのことにもアスは気が付かなかった。


 ――どうして、どうして。

 こんなに泣きたいような気持ちなのに、涙が出ないのだろう。


 アスは持ってきた道具をいつものように並べる。シークの両親は呼び戻しの儀式を要求しなかった。呼び戻されてもきっと彼は一言も答えないだろう。答える言葉はないと言うだろう。シークは自分の気持ちを他の誰にも告げることなく眠るのだ。


 アスは葬送の儀式を行う。震える喉でたった一言を、――言い換えた。





 ◆





 まるで眠っていたような感覚だった。

 十分寝た朝のような、少しだけ仮眠をとった昼のような、不意に目が冷めてしまった夜更けのような。寝覚めは意外と悪くなかった。


 なかなか目の焦点が合わない。カンテラの灯りが頭上で揺れる。


「おはよう」


 最初はただの音だった。その音はじわじわと身に染み込んで、ようやくそれが言葉だったとわかる時には何か肌に触れるものがあって、今度はその感覚を掴むのに意識が奪われた。

 喉を震わせようとして、息をしてないことに気がついた。笑おうとして笑い方がわからないことに気がついた。いや、知っているのだが、その方法ではもう笑えないらしい。


 動かしたいと思った腕はぎくしゃくとしているだろうが何とか思った位置まで上げることができた。指先の感触に何故か気持ち悪いと咄嗟に感じたが、感覚に逆らってそのまま進めた。止まる。硬い感触に多分違うのだと思った。少しだけ手を戻す。その手に何かが触れる。――ぞっとするような温もり。

 声を出そうと思うのだが、多分口が動いているだけだ。


「帰っておいで、私の愛しい人」


 瞬間包み込んだのは、泥酔したときのような酩酊感。ずぶずぶと頭は重く、身体はだるく、何もかも投げ出して自分の体さえも放り出した感覚。指先はもう冷たさ以外は感じない。何かがあることも、行き止まりも、嫌悪もわからない。

 頬を撫でる感覚も、気持ち悪いのか嫌なのか気持ちいいのか好きなのか、ただ感覚として受け取りながらも、ふわふわとした感覚がこれは気持ちいいのだと教えてくる。


 起きろ。


 目覚めないと、ここには帰れない。





 ◆





 シークがゆっくりと目を開けたがまだ動かない。カンテラの灯りが眩しいのかと、アスは少し位置を下げた。


「おはよう」


 瞳孔は開ききったままで身体は弛緩しているようだ。このままなのか、これから生きている体と同じようになるのか、初めてのことなのでアスにもわからない。人で試した死霊使いはいるはずだが、それを誰かに告げる者はないだろう。アスもこのことを誰かに話すつもりはなかった。


 成功しても失敗してもシークの魂は家に連れて帰るつもりだ。

 まだそのどちらなのかわからない。アスはシークの頬を撫でる。死体の感触は変わらない。そうだろう。生者として生き返ったわけではないのだから。


 無表情のままシークが腕を上げる。その指先はアスの頬に触れて、力いっぱい押し込む。痛いくらいの強さにアスの体が傾けば、シークの力が緩んだ。少しずつ戻っていく手を掴んでアスは囁く。


「帰っておいで、私の愛しい人」


 シークの瞳孔が揺れる。乾ききってしまったのかもしれないと、アスは目玉を舐める。両方ともに水分を与える。

 持っていた水を口に含み、シークに口づける。


「……ア……ス」

「そう、私だ。――私よ、シーク」


 アスの髪には青いリボンが結ばれている。棺に入っていたシルクのリボン。つるつるとしてアスには結びにくかった。不格好になっているリボンを結び直してほしい。


 誰もいない墓地。棺の蓋を開けたアスの手は土に汚れていて爪には土が詰まっている。

 アスはシークに葬送の儀礼を行わなかった。肉体につないだままの魂をさっき、無理矢理に体に押し込んだ。呼び戻しの儀式に、別の魂をつなぐ術を重ねた。


 ――ああ、私は死霊使いとしての理から外れた。


 後ろめたさなど欠片もない。高揚感だけがアスを支配していた。確かに自分を向いている緑の瞳、それだけがあればいい。


 もしシークが目覚めないなら一緒に死のうと思っていたと知ったら彼は何と言うだろうか。嬉しそうに笑ってくれるといい。アスはうっとりと自分の名前を呼ぶ男の口に唇を重ねた。

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