失う魂
森の外へ続く道は馬車が通れるくらいの幅がある。道の真ん中は乾いているが、端の方は数日前の雨がまだ残っていて、あまり寄って歩くとぬかるみに足を取られてしまう。
身内に死者が出ても、馬車でアスを迎えに来るほどの家はあまりない。堂々と道の真ん中を歩いても何も言われない。ロシェも真ん中を走ってきた。裾に少しの泥跳ねがついていた。
「お前、あの死霊使いが好きなのか。それでリリーを?」
アスから声が聞こえないほど離れてからすぐ、ロシェがシークに詰め寄った。
「それだけなら、別に。彼女のことは嫌いじゃないですし」
シークはそっけなく答える。
特別好きではないが嫌いでもない。一生を女主人としてそばにいてもらって問題がないくらいには好ましいと思っている。母親と張り合うには少々気が弱いようにも思えるが、女というものはわからない。アスとてあんな可憐な容姿をしていながら、やろうとしていることは普通ではない。
恋が人を変えるというのなら、彼女は頑張って自分の役割を果たしてくれるだろう。
シーク自身も恋に準じて死のうと思っているのだから。
「想い合ってるというわけでもなさそうだな。あの女、初めて知ったというような顔をしていたぞ」
「そうでしょう――だろうな」
ロシェに対してリディオスのように振る舞う必要はなかった。もうこの男とは生きているうちにシークは会うことがない。自分の本当を知ってもらっていたほうが、リリーに対して上手くやってくれると感じていた。こんな男は彼女に相応しくないと思わせたほうがきっといい。
露悪的に振る舞ったほうがロシェの心象は悪くなる。
シークがリリーを大切に思っていると言ったのは本当だ。彼女の純真さには柄もなく癒やされたし、妹がいるならこんな感じなのだろうと思ったくらいには、可愛い女の子だと思っている。だからこの先、彼女の立場が悪くなったり、自分のことで無駄な時間を費やしてほしくない。
「俺が勝手に好きなだけだ。このことは誰にも言うなよ」
数ヶ月やそこらで他人のふりは自分のものにならない。元の話し方のほうがずっと楽だった。
「あいつにだって言うつもりはない。今から誤魔化しに行かなきゃならねぇんだ。聞きたいことがあるなら手短にやってくれ」
ロシェは雑な話し方を始めたシークを妙に納得した顔で見ている。
「お前、そっちが本性だったか」
「悪いか」
「いや。なんかお前嘘くさかったからな」
「そういう嘘くさいのが女どもはいいんだとよ」
その女の中にアスも含まれている。ちくりとシークの胸が痛んだ。シークがリディオスの真似をするようになってからというもの、アスは戸惑うことはあっても喜んでいるような様子は伺えない。
「今から誤魔化すってことは、無理心中しようとかそういうのじゃないってことか? いや、油断させておいてってことも……?」
「しねぇよ。大体、死霊使いが死んだら困るだろ」
「変なとこ律儀だな、お前」
「うるせぇ」
もうアスの元へ帰ってしまおうか。
しかしロシェに二度とここに来ようと思わせないようにしたい。
「死ぬのか、一人で。別に死ぬことはないんじゃないか?」
「リリーに言えんのかよ。お前の婚約者には別に好きな女がいるって。好きな女がいるのにお前と結婚して、子供作るんだって。結婚したら跡継ぎは用意しなきゃならねぇだろ。うちの親と同じように寝室を別にしてもいいっていうなら、それでも構わねぇけどよ」
知りたくもない他人の夫婦事情を聞いてロシェが顔をしかめる。
「別に死ななくてもいいだろう」
「死んだほうが上手くいくってこともあんだよ」
きっかけは親に対するあてつけだったが、今ははっきりとアスのためだと言える。肉体だけでも側にいられるのだから、ただ死んでしまうよりもずっといい。好きな女のためにできることがあるということが、心が震えるほど嬉しいことだと知らなかった。
リリーに告げる言葉はこちらのほうがいいだろう。シークはリディオスのように話す。
「僕は何もかもが嫌になったんですよ。リリーに聞かれたら、そう言ってください。――成人したら死のうとずっと思ってたんです。最後に少しだけ優しくしてしまって、ごめんと」
身分差を苦にした自殺。住む世界が違う女に入れ上げて、現実に絶望して自ら命を断つ。
そういうのでもいいが、それだとアスに迷惑がかかる。シークの生い立ちは十分自殺の原因になる。それを理由にして死ぬのが一番自然だ。少しの奇行も後押しになる。
森の木は道を覆い囲むように生い茂り、ひんやりしている。時折、木の葉がすれて木漏れ日が揺れた。
「お前、髪染めてるんだな」
元々濃い髪色ではなかったが、根元が目立ってくるくらいには伸びてきた。――近々髪を切るついでに染め直そうと思っていたところだ。
「あいつの好みに合わせてるんだよ」
ロシェは痛ましいものを見るかのように顔を歪めた。
ロシェは最後まで送らなくていいと森を出ていった。何も言わなかったが、もう二度と会うことはないだろう。
アスにはどう言おうか。ロシェに誤解させたかっただけだと言って信じてくれるだろうか。相手は九十五年も生きていて、醜い駆け引きもたくさん見てきたことだろう。シークの嘘を信じてくれるだろうか。
アスが未だに死体を探しているのかどうかはよくわからない。リディオスを生き返らせたいと思っているくせに、シークの身体を使うことに躊躇しているような様子も見られる。念の為、隠し持っているのではないことをシークは確認していた。
どうして自分の体を使うのが嫌なのかシークにはわからない。アスが殺すのではない。シークが勝手に死ぬのだ。死んだあとの死体がただの物だということくらい、アスが一番よくわかっているだろうに。
自分が死んだ後は年に一度の夜に最後までアスの隣にいるだろう。魂だけとなって帰る時にはずっとアスの側にいる。他に行きたいところなどシークにはない。
「……帰ったのか」
「うん。転んだの?」
少し戻るとアスが立っていた。家で待っていればいいのに追いかけてきたらしい。途中こけたのか、茶色い服の裾が泥だらけになっている。
決まり悪いのかアスの視線が泳ぐ。
「まぁ、ちょっと……」
「着替える? 洗ってくるよ――水浴びしたほうがよくない?」
アスの頬についた泥を拭う。
「いい。自分で軽く洗ってくる」
つっとアスが目をそらせる。背中を向けて走るように去っていくのをシークは駆けるように追う。川の支流が家の裏にある。そこなら人目はないが気にはなる。
「アス。――なぁ、アス」
シークはアスの腕を掴む。腕を振りほどこうとする力に逆らって、アスを自分に向き直らせた。
「ロシェに仄めかしたのは冗談だ。もし俺がお前を好きだっていうなら、なんだかんだ理由をつけてリディオスと同じ年になるまで粘ったりするんじゃねぇの? でも俺は今死にてぇんだよ。俺の勝手なんだ。死霊使いにはなれそうにないしな」
アスは顔をあげない。誤解は解かないと。とんでもないことを目論んでいる割にはアスは人がいい。いや、シークがアスと言葉を交わさなければ、アスはシークの死体をただの物だと思えたのかもしれない。理由をつけてアスの家に通ったシークが、アスを今苦しめている。
「お前のことなんか、考えちゃいねぇよ」
リディオスのふりなどやめておけばよかった。そのほうが違和感が減っていいのではと思った時には、シークはアスに恋をしていた。できるだけそれらしくと頑張って、自然に言葉が出るようになった頃、ふわりと向けてくれたアスの笑顔に喜びながらもどれだけ悔しかったか。
アスが顔を上げる。泣きそうな顔。
勘違いするな。アスが好きなのは、自分じゃない。
シークが被っている偽りのリディオスだ。
「……もうしんどいんだよ」
行け、と引き止めたくせにアスを前に向かせて背中を押した。
「わかった。着替え終わるまで外で座って待っているんだよ。まだ、頼むことがあるから」
「ああ。――待ってるよ」
かろうじて、なんとかリディオスのような言葉が言えた。シークはアスの姿が見えなくなると顔を覆った。
もうこれで最後だ。最後にしよう。会わなければ、アスの決心も固まるだろう。
川辺でアスはリディオスの魂と共に泣いていた。見た目通りの少女のような言葉遣いで、泣きながら恋人に謝っていた。
あと数年でリディオスの魂は戻らなくなる。覚えている人間がいなくなると、その魂はこちらへ帰ってこなくなるのだ。
魂が使えるのはこちらに帰ってきている間。
だがアスははっきりとは言わなかったが、魂を死体に入れることは必ずしも成功するとは限らない。できたとしてもあの烏のように数年で再び死ぬかもしれない。
シークは死に損になることもある。それはアスからはっきり言われた。
それでもいいとシークは思っている。駄目だったなら自分の肉体は朽ちて土に帰る。リディオスの魂も死者の国に帰る。
もしそうなったら、アスはどちらを失ったことを悲しんでくれるのだろうか。まだ健康で若いのだからと諭したことを思い出してくれるのだろうか。それともすぐ先にあるはずだった幸せな未来を失った方を嘆くのだろうか。
どちらも嫌だな、とシークは思った。
アスには笑っていてほしい。死体になっててもいい。笑う彼女を抱きしめたい。抱きしめているのはリディオスでも、抱きしめた腕は自分のものだ。