引き止めたい
年に一度の死者の帰る日まであと一ヶ月。
必要な道具を用意しだす頃だ。故人の好んでいたものや川を彩るランプ。アスは灯りを燃やし続けるための油を少しずつ届けてもらっている。他には大量の白い紙。戻ってきた魂が穢れて帰ることのないように禍を払う言葉を書く。
シークは自分の服を一年分持ってきた。古着屋で買ったような少しくたびれた生地のものも混じっている。
自分が死んだあとのための支度を微笑みながらやる。
「前にロシェが来たので知っていると思うけど、シークには婚約者がいて」
「……ああ」
「婚約の破棄は僕ではどうにもできなくて。だから、僕がこっちに来る方がいいような気がするよ。それでも問題はあるけど……アスはここを出ていけないんだよね?」
「住む場所は変えられるが、町からは離れられない」
今は墓地に近い森に住んでいるが、それも代々の死霊使いがそうしているからというだけだ。死霊使いは土地に縛られているため、その土地の外には出られない。
「だよね。困ったな」
口ではそう言いながらも、シークはあまり困った様子ではない。
本気で考えるならもっと前から準備すべきことだった。
アスがシークの申し出を本気にしていないことは、何度も彼に伝えているつもりだ。
始めの頃はアスはまだ死体を探していて、掘り起こそうとしたところに先回りをされ、シークに怒鳴るように詰られた。それでも懲りずに死体は探していたが、死体を見てもその体を検分することがなくなったのはいつからだろう。
もうそれほど時間が残されていないなら、仮令子供の戯れ言でも利用しているはずだった。そのくらいアスにとってリディオスは全てだった。
彼に会えるというその日のために一年を過ごした。心を疲弊させるほどの長い孤独に耐えるための手段だった。アスが死霊使いになった時の友人は――死霊使いでさえ、もういない。それでも、アスが求めたことは道理を外れている。孤独に耐えられなかったなど言い訳にならない。
リディオスのことは諦めた。
そう言えばシークは自死を選ばないだろうか。
彼の孤独もわからないわけでもない。だがそれはいつか癒やされることもある孤独だ。彼にはいくらでも寄り添う者が出てくる。悪ぶっていても優しい子供だった。
だから彼はこれからも生きるべきなのだ。
どうしたらシークは死ぬことを諦めてくれるのだろう。新しい死体を探せばムキになる。
アスはシークに死んでほしくない。
そのことに気づいたきっかけには、自分の浅はかさを見せつけられているようで吐き気がした。だがこの気持に従えば――たとえ受け入れがたくても――あるべきものがあるままになる。
「まぁでも、その日が来たら僕はアスのものだよ。待ってて」
嫌になるくらい嬉しそうにシークは笑う。
それは本心からの笑顔なのだろうか。だとしたら、開放される喜びなのだろうか。それほどまでに、今シークには辛いことしかないのだろうか。
「そのことなんだが」
「アス」
シークがアスの言おうとしたことを遮るのは珍しい。彼はアスが言いかけた言葉が何であるのか知っている。
「君は待っているだけでいい。僕が死ねば君の元へ行くよ。棺に入ったあとでも前でも、君の好きなタイミングでいいよ」
「……」
「どうせシークにはわからないしね」
自分の名前を他人のように呼ぶ。もう既にここにはリディオスがいて、リディオスの体からシークの魂を追い出す算段をしているかのような口ぶりだ。
「リディオスはそんなことは言わないよ」
「そっか……ごめんね」
悲しげに微笑んでシークが謝る。リディオスなら、ともうアスは思わない。以前のシークならムッとした顔をして、謝ることもしないのだろう。あっという間に大人になってしまった。
「ああ。だったらもう既に、リディオスが言わないようなことを言っちゃった」
「そんなの、たくさんしてる」
「アスにじゃなくて、シークの婚約者に」
「シーク!?」
「これ、下に入れておくね」
シークは麻袋に入れた衣類と靴を担いで地下室に入っていく。
思わせぶりな――シークはアスにどうしてほしかったのだろうか。きっと婚約者には傷つけるようなことを言ったのだろう。婚約を破棄したくなるようなことを。
アスはシークの消えた地下室の入り口を見る。
地下室と言ってもそれほど深くない。天井は低いが、この部屋と同じくらいの広さの空間があるだけだ。昔は死体の仮安置所だったため独特の匂いが残っている。
入り口は木でできていて所々を鉄で補強している。昔は石の蓋をしていたのか、一段くぼんでいる。木板を下ろして、石臼で蓋をすれば男の力でも外へ出られない。
――どうせなら。
ガンガン
扉を殴る音にアスはびくりと身を震わせる。今考えていたことを意識の外へ追いやって、扉を開ける。
「シークは来てないか!?」
「……大声を出さなくても聞こえるぞ」
思わずアスは両耳を塞ぐ。
ロシェは走ってきたのか息を切らせている。
「水でも飲むか?」
「ああ、すまない」
アスは水差しから汲んだ水をロシェに差し出した。
ロシェはカップを受け取ると呷るように一気に飲み干した。アスはカップを受け取るとロシェを部屋の外へ押し出した。他人に部屋に入られるのは好きではない。それに一応女の一人暮らしなのだ。異性をそう簡単に中に入れるわけにはいかない。
家の外には切り株で作ったテーブルと椅子が数脚ある。そのテーブルの上にカップを置くと、勝手が分かったのかロシェは椅子に座った。
「屋敷にいなかったから、こっちだと思ったんだ。他にあいつが行くような場所を知らないか?」
「町の私の取引先の店の名前でも言おうか? それ以外のことはわからんよ。それも毎日来ているわけではないし」
「ああ……そうか、まぁそうだよな」
ロシェはふうとため息をつく。婚約者を介してのみの知り合いである彼が、こんなに息を切らせてシークを探しているということは彼女絡みなのだろう。
ついさっきもシークが気になることを言っていた。婚約を破棄することは自分ではできない。だから、彼女の方からさせようと仕向けたのだろうか。だが時代が少々進んだとはいえ、アスが乙女だった頃と婚約制度がそれほど変わっているようには思えない。
女の方から婚約を断るなど余程の理由がない限り難しい。前回ロシェと話していたシークの様子からも、大きく身分が離れているということもなさそうだ。ほぼ対等の家柄ではないだろうか。
「シークはここにいるぞ」
「え?」
「いると言おうとしたが、お前はいないと思って話を進めるからタイミングを逃してしまった」
せっかちなロシェを咎めるように言うと、彼は頭をかく。
「あー、いるんだったら……シーク! お前、リリーになんて言ったんだ!?」
アスは振り返ってシークの姿を見とめる。
「何って……僕なんかよりずっといい人がいますよって、それだけですよ」
「本当か?」
困ったように眉を下げるシークを追及する。
「本当です。例えば――年上の従兄弟とか」
「俺はそういう気はないって」
ロシェの態度から確かに恋愛感情はないとわかる。だがそれはそれでリリーにとっては可哀想なことだ。婚約者からは自分よりいい人がいますよ、と遠回しに好きではないと告げられ、あなたを想っている人が別にいると仄めかされて気になってみれば、その相手はそんなつもりはないと言う。
「最低だな」
「僕なりの親切だったんだけど」
そう思っているなら性格が悪い。シークにこういった不謹慎なところがあることはアスは知っていた。
家から出てきたシークは水差しを持っていて、空いたカップに水を満たす。ロシェの分だ。二人は少し前にシークが持ってきた果実水を飲んでいたので喉は渇いていない。
「僕を嫌いになってくれていたほうが、彼女にはいいから」
「どういうことだ?」
ロシェはシークとアスを見比べる。勘違いされているぞ、と言いたげな呆れた目線をアスはシークに送った。シークはアスと目が合うと、にっこりと笑った。目の奥は笑っていない。
「――今、僕は身辺整理を始めていて。リリーのことは大切に思っているので、あまり悲しんでほしくはないんです」
シークはアスの座っている近くに水差しを置いて、アスの体に腕を回した。まるで恋しい人にするようにすり寄ってアスの髪に顔を寄せる。
「シーク……!」
「お前、やっぱり」
「僕らはもうその日まで、会わないほうがいいんです。お願いします。そうしないと、もっとひどいことを彼女に言うかもしれません」
アスは硬直したまま、視線をロシェに送っていた。ロシェの表情もまた強張っている。
ただひとりシークだけが熱っぽい視線をアスに向け、瞬きをしてロシェを見た時にはその口元に嘲笑うような笑みを浮かべていた。
「それ――いや、どういう意味だ?」
「森の外まで送ります」
シークはアスを離して、その頬を撫でる。
「アス。すぐ戻ってくるから待ってて」
「シーク、今のは……」
「これがいいんじゃないかなって。大丈夫、俺が勝手にしたことだから。多分、上手くいく。行くよ、ロシェ」
歩き出した二人の男をアスは椅子に座ったまま見送った。
シークは、身辺整理と。
シークは一度死んだことを隠そうとは思っていないのだ。アスは何となく、人が見ていないところで死んでリディオスと入れ替わるように魂を移すことをシークが望んでいるように思っていたのだった。領主の息子だ。そのままでいたほうが色々といいような気がする。
だから実際にシークが死のうとするならば、その時止めればいいのだと思っていた。リディオスの魂が帰ってきているのは二日だけ。しかもアスがその魂に会えるのはいつも帰りがけだ。そのことはシークに話している。
なのに今の言い方だと、シークが近いうちに自殺でもするかのようだ。もしくは心中。
アスがシークの本心を知ったのが今だとロシェは思っただろう。だからシークが勝手に決めたことでアスは共犯者ではない。ロシェを証人にできると思ったから、シークは今さらこんなことを言い出した。
悪いのはシーク一人。婚約者は被害者で、アスも巻き込まれただけ。そう仕立てようとしている。
「……止めなくちゃ」
シークがロシェに話すことを止めて、何も変わらないのだと、これからも婚約者との仲は続いて、ひとつだけ変わるのは、シークとアスが無関係になるだけ。そう、もうシークはここに来てはいけない。
森に住む変わり者の死霊使い。見た目は少女だが、中身は老人の女と若い男が深い仲になるわけがない。町の人間はそう思っている。
領主の息子であるけれど、少し事情のある青年の人生相談に乗っていて、少しだけ孫のように思っている。そう町の人間は認識している。
私達には言いづらいことも話せるのだろうと、彼の父親はアスにそう言った。だから彼の力になってくれないかと。義父の情をシークが知らないのなら伝えなければ。
そんな上辺の理由だけじゃない。お前には死んでほしくないのだと伝えなければ。
リディオスの代わりにはできない。もうシークはリディオスの代わりではないのだ。お前に生きてほしいのだとシークに告げて、その理由を彼になら言ってもいい。全部口にしてしまって、軽蔑の目で見られてもいい。
それでシークが死を諦めるというのなら。
アスは固まってしまった体を叱咤して、どうにか立ち上がった。