死者を送る川辺で
太陽の光を浴びて、キラキラと髪が光る。猫っ毛の金髪。指に絡めるとしっとりとしていて、それでいてするりと抜ける。
――アス。
彼が――リディオスが名前を呼ぶ。嬉しそうに微笑んで。
――おいで。
その広げた両腕に飛び込むと、彼は自分を抱き返してくれる。広い胸に包まれて温かい安心感を確かめる。
リディオス、リディオス。もうどこにも行かないで。
――半年前――
「――ス。アス!」
目を開けると緑色の瞳。一瞬の歓喜は焦点が合うにつれ、それが幻だったと知る。
「そろそろ行くんじゃねぇのかよ」
不機嫌そうなシークの顔を見て、アスは今がいつであるのか思い出す。
のろのろと体を起こし、ボサボサの髪に指を通そうとしたが、いつものように途中でひっかかり、そのまま指を抜く。整えればふわふわとした癖毛だが、放置すればただの毛の塊だ。
顔を洗ってアスがのんびりといつもの食事を済ませるのを、シークはさっきまでアスが寝ていたベッドに腰を掛けてむっとした顔で睨んでいる。
「……どうかしたか?」
年に一度の魂の帰る日。迎えの儀式のため明け方に寝るのは毎年のことだ。いつものように儀礼用の服のまま、髪も禊をしたため濡れたままで床についた。いつもよりひどい髪なのはそのせいだ。
「その格好でまた行くのかよ」
「いや、送りの儀式は別の衣装がある」
だからこの服がしわになるのは構わない。問題は髪だ。面倒くさい。
ため息が出る。
「ひっでぇ髪」
からかう風ではなく吐き捨てるようにシークが言う。気に入らないのはわかったが、何故そんなにも不機嫌なのか。
みっともないのはわかる。だがまとめてしまえばどうにでもなる。更に飾りのついたショールをかけるのだし問題はない。それに儀式を行う時刻は日が沈んでから。暗い上に誰も死霊使いのことなど気にしない。懐かしい人との別れを惜しむのに忙しい。
「癖毛なんだ」
「見りゃわかる」
だったらどうしろというのか。
アスは食事を終えると着替えると言ってシークを追い出した。ごねるかと思ったが、あっさりとシークは扉の外に出た。出会ってから二年と半分ほど。去年とは違い、今年はシークが送りの儀式に着いてくるという。
去年は両親とともに川辺にいるのを見た。小柄で優しそうな婿養子の領主と、線の細い黒いベールを付けた女主人と一緒に、聡明そうな跡取りの顔をしてシークはその場にいた。父親が来る時には戻らないといけないと言っていて、そのせいか今日身につけているものはいつものより数段仕立てがいい。
着替えを終えて時計を見る。
日がしっかりと暮れてしまってから、死者の魂は死者の国へ帰るために川辺に集まる。死霊使いのアスには今日はあちこちで魂が漂っているのがわかる。勿論、森の中で魂を見ることは稀だ。だから今は見えないが――いや、ひとつくらい見えればいいのだが。
アスは扉を開けて、まだ陽の高い外へ出た。
彼の弟妹はまだ生きている。きっと彼らに会いに行っているのだろう。アスがリディオスの魂に会うのはいつも人が少なくなった川辺だ。
死者を覚えている者がいる間は、魂も記憶を保っていられる。覚えている者がいなくなれば、彼は今度こそ本当にアスの手の届かないところへ行ってしまう。アスはリディオスを忘れない。死ぬまで忘れない。だが死霊使いの記憶だ。いや、それでも親しい者であるのだから魂を引き止める縁として数えられるだろうか。
それはないと、アスは知っている。アスの母親の魂はもう帰ってこなくなった。父親の魂もあと数年で帰らなくなるだろう。
「その格好で行くのかよ」
外で待っていたシークが不満そうに言う。アスが着ているのは葬送の儀礼用の装束だ。それにいつもはしないアクセサリーをいくつか付けている。毎年同じ格好だ。おかしいことは何もない。
「髪だよ、髪」
「――髪はどうにもならない」
「毎年それかよ。大丈夫かよ」
明るいうちに川辺でうろうろしていると誰かが梳いてくれる。いつもそれを当てにしてアスは早めに家を出ている――とはシークに言いづらかった。大人としての矜持というものがある。
「家に戻れ。櫛くらい持ってるんだろうな」
アスを押し込むようにしてシークは家に入る。
椅子に座らせ、アスの机から櫛を探し出すとぶつぶつと文句を言いながらアスの髪を梳かしていく。もつれにもつれた髪は簡単には櫛を通さない。
「――あーっ! イライラする!! いっそ切っちまえよ」
「それはできない」
「もつれてるとこだけでも切れ!」
それなら時々切っている。というか、引きちぎっている。それをアスが口にすると、シークの表情が目に見えて凍りついた。
「……マジで。女でこんなズボラなやつがいんのかよ……」
「申し訳ないが目の前にいる」
「鋏も出せ」
「嫌だ。髪は切れない」
多少ならいい。だが肩下の長さは譲れない。
「誰が女の髪をぶった切るかよ。揃えるだけだ」
しぶしぶ鋏を渡すと、アスが覚悟していたところよりも下の部分で鋏が動く音がした。切れねぇ、などと文句を言っている。薬草に使う枝や葉っぱを切り落とすのに使っている鋏だ。髪に使うのには向かないだろう。
「……今年は、死体はないんだよな」
「ない」
残念ながら。
半年以上前に手に入れた死体は一部がどうしようもないくらい腐ってしまった。防腐処理が甘かったらしい。去年使った死体にうまく魂が乗らなかったので鮮度を保とうとしたのだが、それがよくなかった。
コンコン
窓ガラスに烏がくちばしをつついている。最初は烏はキラキラするものが好きだよな、とか言っていたシークもこの烏の正体を知っている。
シークは手を止めて、窓を開けた。
「パンが戸棚にある」
シークの視線に答えると、彼は戸棚の籠から出したパンを窓辺に置いた。ついばむのを見届けもしないでシークは再びアスの髪に触れる。
彼の触れる手は優しくて、起きたばかりだというのにアスはうとうとと眠りそうになる。
戻ってきた魂を死体に定着させる方法を知ったのは十年以上前だ。それから動物を使って何度も実験を繰り返してきた。この烏もその実験体のひとつだ。若鳥を使ったのが良かったのか、もう三年も生きている。
この烏はアスの希望だ。
「――できた」
肩の前に一房流すようにかかっている、ふわふわとした黒髪。懐かしい気持ちに胸が暖かくなる。俯いているアスの頭にショールのような銀の飾りをシークが被せる。
「リボンはどこだ?」
「さすがにおかしいだろ」
「返してくれ。あれは大事なものだと言っただろう?」
「明日返す」
「今すぐだ」
腕をつかもうとすればシークは一歩下がり、前のめりにアスの腰が浮いた。その様子をシークは苦々しげな表情で見つめる。
「わかったよ。返すけど、身につけるなよ。みっともない」
シークはポケットから無造作に出して、アスの手のひらに置いた。
「みっともなくない! これはっ」
「知ってる。でも何十年もつけっぱなしにしてりゃ、みすぼらしくもなるだろ」
それは理屈ではわかっている。しかしこれを体から離すという選択がアスにはできない。髪から離すということも。引きちぎれないかと恐る恐る、寝ている間に取れてしまったリボンを毎日結び直しているのだ。
「それでも大事なんだ」
これは最後にリディオスが自分にくれたものだから。これをプレゼントしてくれた四日後に、雪山で足を滑らせてこの世からいなくなってしまったのだから。
アスがリディオスに葬送の儀礼をするのに死後三日もかかってしまった。彼の親族から最後に浴びせられたのは最早罵声に等しかった。三日も経たず彼等はリディオスの死を受け入れたことに腹が立った。異臭に気づいても尚、アスには決心がつかなかったのに。
確かに儀礼を行わないことで、死者は安らぎを得ず、魂は穢れるとされる。けれど、葬送の儀礼を行うことはもう確かに彼が死んだと認めることになるではないか。何故、そう簡単に諦めることができるのか。
腹が立って、腹が立って腹が立って腹が立って、諦めきれなくて、アスは一つの決心をした。
彼の魂を呼び戻そうと。リディオスの魂を呼び戻して、どこかの死体に定着させて、この世で再び生きてもらおうと。
禁忌だと知っている。やり方は――どこかの死霊使いに聞けばわかる。黒い術を使う死霊使いがいるのは知っている。その疑惑がある者も。
意外と死霊使いの繋がりは深く交流も多い。長い年月を一人で過ごすことになるから仕方がないのかも知れない。
「貸せ」
シークがアスの前に手を出した。
「……目立たないところにつけてやるから」
アスは握っていたリボンをシークの手のひらに乗せる。シークは軽く目を見張った。ややあってため息を吐いて、アスの髪の内側の一房にまきつけるようにして結びつけた。
「これなら目立たないから」
「器用だな」
「俺にしてみればあんたが不器用すぎるんだよ」
シークは別の部分の髪を一房取り、ニヤリと笑う。
「それさえなけりゃ、完璧だ」
絵本の中の王子様がするかのように、アスの髪に口付けた。
「失礼だな」
「……あんたのがよっぽど失礼だぜ」
シークが手首を起こすとふわりとアスの髪が流れた。
「礼の一つもねぇのかよ」
あまりにシークが酷いことを言うから、アスは礼を言うのをすっかり忘れていた。
「それもそうだ。ありがとう」
アスはにっこりと微笑む。今年は綺麗な姿でリディオスに会えるかもしれない。彼の魂はいつも死者の国への列の最後に並び、アスの周りを数周して帰っていく。いつもアスの髪を整えてくれる小母さんも、こんなふうに毛先まで整えてはくれない。
礼を言われたのが照れくさいかのように、シークはついっとアスから視線を外した。
「それだけかよ」
「そうだな……椅子に座ってくれ」
最近シークが勝手に増やしたのでこの家には椅子が二つある。自分が持ってきた方にシークは不思議そうな顔をしながら腰掛けた。
アスは位置が低くなったシークの頭に両手を乗せる。
禍よ 去れ
晴れ間から降る雨のようにささやかな 禍も
嵐のつれてくる濡れそぼつような 禍も
その身を決して 損なうことなく
嘆くことなく
悲しむことなく
幸福がお前を愛すように
清らかに 穢れを弾く
天の光に 包まれんことを
最後にシークの額にキスをする。不幸が続くような家人に行う儀式を簡略化したものだが、それなりに効力はあるだろう。
「魂が帰るこの二日間は穢れも多い。ないよりは役に立つだろう……?」
アスは小首をかしげる。シークの耳が赤い。頬と額がいつもより血色が良い。いつもはきゅっと結ばれている口が少しぽかんと開いている。
「暑いか?」
アスはシークの額に手のひらを置く。アスの体温は低い。そのせいで手も冷たく、シークの額が妙に熱い気もするが、思うほど実際は熱がなかったりもする。
「暑くねぇよ。つーか、お前馬鹿なのかよ……」
アスの手を払って、シークは顔を覆って俯いた。
しばらくしてシークははぁーと長い溜息をついた。
「――一緒に行くっつったけど、俺帰るわ。けど、家の用が済んだらお前んとこ行くから、川んことから動くなよ。帰りは送ってやるからよ」
その夜、アスはシークの姿を見た。去年と同じように両親とともに川辺にその姿はあった。
前と変わらない。その前からずっと同じ夜が続いている。シークは、彼の母は気づいているだろうか。一つの魂がずっと彼等の周りを飛んでいる。きっとあれがシークの父親の魂なのだろう。
アスは自分の周りに視線を配る。――何もいない。ずっと前から彼女の周りに集う魂はない。だが最後に一度だけ、リディオスの魂は彼女のもとに帰ってくる。何故最後に一度だけなのか。それまでの間一度もアスの傍に寄ってこないのか。それはアスにもわからない。
リディオスと知り合ったとき、アスはもう死霊使いだった。リディオスがアスに愛していると告げたときは、もう彼はアスが死霊使いだと知ったあとだった。アスが死霊使いだと知っても尚、愛していると言ってくれた男を、アスはもう何年もの長い間待っている。
今年もふわりふわりと魂が川辺に集まってくる。川の流れを遡るようにして彼等は死者の国へ帰る。
儀式も終え、川から一人、またひとりと人が減っていく。アスの周りには誰もいない。アスは最後までこの場に残り、迷う魂があれば導く役目がある。
「リディオスって男は、もう来たのかよ」
アスは魂だ、と訂正しようとしてやめた。シークはさっき見た服の上に黒い外套を付け、フードを深く被っている。アスから少し離れたところの木のそばに立つ。
「もうそろそろ来る頃だ」
アスにしか見えない魂。
「お前には魂は見えないんだな」
「……死霊使いになる前でも見えんの? それ」
「わからん。私は見えなかった」
辺りに漂う魂が一つ残らず川に沿って移動していく頃、一つの魂がふわふわとアスに近づいた。
「リディオス……っ」
アスは魂に手を伸ばし、両手を水をすくうように合わせた。その手のひらにすっぽり収まるくらいの魂。始めの頃と比べて随分と小さくなってしまった。
もう周りは見えない。さっきまで話していたシークのことも忘れてしまった。アスの世界には彼しかない。
「リディオス、ごめんね。ごめんなさい。今年も、駄目だったの」
魂に触れることはできるのだろうか。これは触れているといえるのだろうか。
アスは手の中に包み込んだ魂に顔を寄せる。白い魂はふるふると揺れているがアスの手から逃れようとはしない。
「途中で腐っちゃって……あなたを繋ぎ止められないの」
ポロポロと涙をこぼしながら、見えない何かに向かって話し続けているアスを少し離れたところからシークが無言で見ている。黒い外套のせいで闇夜に溶けても、静かで強い視線がアスを捉えている。
「また来年。リディオス、愛しているわ」
アスは手の中の魂に口づける。それから天に放つように両手を離した。ふわりふわりと躊躇いながら進んでいく魂に小さく手を振る。
アスの手が止まり、体の横にそっと下ろされるのを待って、シークがアスの隣に並んだ。
「前、聞いた話だけど」
「……ええ」
ぼんやりとしているアスは、自分の口調が普段とは違っていることに気づいていない。
「あんたは好きな男を生き返らせたくて、そのために死体がいるんだよな」
「そうよ。肉体がないと、魂は離れてしまうから」
「それは誰でもいいんだよな」
「誰でも?」
「男で、腕があって、怪我で死んだような欠損の少ない死体」
内臓疾患のある死体だと、施術してもすぐに朽ちてしまう。
「……そうね。――そうだ」
普段の口調で返したアスを、シークは首を傾けて見下ろす。表情のないシークの顔はフードが作る影と相まって、いつもの彼ではないように見えた。
「それがどうした。今年はもう終わりだ。帰る」
「俺は、今年で十八になる」
十八といえば成人だ。だがそれがどうしたというのだろう。
「シーク?」
「成人したら、もう後がない。俺は一人息子で、唯一のこの町の領主の後継者だ。今まで以上に息苦しい人生が待ってる」
「……」
「この先もずっと、人形だ。だったら、俺はあんたの人形のほうがいい」
「どういう意味だ?」
アスはシークの言葉の意味を正しく理解していた。しかしそれは自分の願望が思わせた勘違いではないかと――そう思おうとしたアスをシーク自身が否定した。
「来年の今日、あんたの目の前で死ぬから、俺の死体を使えよ。シークのフリしてうまいことやってもいいし、ひっそりと森に隠れてあんたと過ごすなり、そこはリディオスと相談すればいい。死んだあとのことなんか俺はどーでもいいし」
シークはアスを見て嗤う。
「なあ、アス。断る理由なんかねぇだろ?」
「シーク、……正気か?」
「ああ? 正気も狂気もどうでもいいって。ただもう、やってらんねぇってだけ」
シークは芝居がかった調子で両手を開き闇夜を仰いだ。