真夜中の墓地
その身を清め 既に内には心なく
既にこの国には 身のおきどころもなく
門番の誰何に応えている頃だろう
既にこの国には 彼の名前はない
それでも 彼の名前を呼ぶ
おお なんと罪深きことよ
私達は知っている
いつの日か その御下に帰らんことを
彼等は知っている
彼等の王が 慈悲深いことを
死者の王よ 一時だけわたしの元へ 彼を返しておくれ
死者が虚ろな目を開ける。がらんどうの闇がその奥にある。
アスは目の前の老人の額に中指を当てる。シワだらけの額。歳のせいだけではなくその額には殆どの潤いが失われている。死してまだ一日も経っていないというのに。
指先にまとわりつく独特の感触に、アスは老人の中に魂が帰ってきているのを感じて後ろを振り返る。
「お戻りです」
男が三人。女が四人。おお、と声が上がる。
「早速聞こうか」
一番年重の男が口を開く。
「いや、兄さん。俺に質問させてくれ。父さん――」
「お前は黙って見ていろ。俺が喪主だぞ」
「兄さんの聞き方は回りくどい。俺が直接はっきりと聞いてやる」
「うるさい! 親父はお前に甘かった。お前にはカポールの土地だけでも十分だというのに、これ以上持っていくつもりか?」
「あんな土地どうでもいいよ。それよりもお金だよ。俺は金がほしいんだよ!」
最早げんなりとすらしない。
死者の証言は遺言としての効力がある。こんなことはよくあることだ。魂を長く引き止めることはできない。それは事前に言っているし、そのため質問の内容も決めているはずだが、相続関係で死者の魂を呼び戻すときは大抵こうなる。
死者が今にも怒鳴りだしそうな怒りを感じても、魂は既に抜けてしまった肉体で感情的には振る舞えない。体は動かず、声も囁くような程度しか出せない。
「お静かに。お言葉があるそうです」
ぼそぼそと、それでも「ぼんくら息子共」と老人は息子たちを罵倒した。
何とか儀式を終えたアスが屋敷を辞去する頃には、とうに昇った月が日付を変えようとしていた。
死霊使いの大きな仕事の一つは、死者の魂が二度と肉体に戻らないように儀式を行うことだ。
葬儀は家族が行うため、大抵は墓地に埋める前に少し呼び出される。今回のように死者の魂を呼び戻す術を行う場合は、その後についでにやってしまう。
こういった老人の場合はスムーズだ。しかし死んだのが子供だった場合は親がその儀式を嫌がることが多い。しかし儀式を行わないと魂は苦しんで擦り切れてしまうと言われている。地上に残ったまま穢れて、良くないものに変じてしまうと信じられている。
死霊使いのアスでも、それが本当なのか確かめる術はない。しかし、魂によく似た穢れがたまに他の死体に入ろうとすることがあるのだから本当なのだ。そうならないためにも儀式は必要で、死霊使いは死者を守ってくれる者と言われている。
年を取らない姿を気持ち悪がれることもあるが、忌避されることはない。それでも死霊使いとなった者はあまり人とは関わらなくなる。
アスもそうだった。葬儀のないときは森の中から出ない。出たとしても周辺の墓地へ行くことが大半だ。報酬の一部を生活用品で渡してもらう慣例があるので、買い物も必要ない。質素な暮らしをしていれば無駄にお金が溜まる。大抵それは墓地の維持のために寄付をする。
「お疲れ様」
門の外にシークが立っていた。アスを見てカンテラに火を灯す。
真っ暗闇で待っていたのだろうか。良家の子息が不用心なことだ。既に成人したとはいえ、背が高いだけで屈強とはいえない体つきのシークでは、強盗に襲われたらひとたまりもないだろう。一応腰に剣を佩いているが、使えるのかどうかもわからない。
「早く帰れ。不用心だろう」
「こんな夜更けに君を一人で帰らせられないよ」
今まで問題が起きて家に辿り着かなかったことはない。暴漢に会ったことがないとは言わないが、死霊使いらしく怪しげな術をいくつかアスも使うことができる。
それをシークは知っているはずだ。彼に最初に会ったときもそのひとつを使ったのだから。
「私は一人でも大丈夫だと、何度言えばわかるんだい?」
「僕がやりたいからやっているんだよ」
シークは自然な手付きでアスの手を取る。すぐにアスが振り払えば、軽く肩をすくめた。
「離れないでね」
少し寂しそうに笑って、シークはアスの横に並んだ。カンテラを持っていない手が少しアスの腕に触れた。触れたのは衣服であって生身の体ではないのに、その部分が少し熱を持った。
「……アス?」
足早になったアスを追ってシークはカンテラを揺らす。前に長く伸びていた影は間もなく後ろに回った。
「急ぐと危ないよ」
「……」
危なくない、と返すことが相手にどう思わせるのかわかっていてアスは口にできない。嬉しそうに微笑むその顔が嫌じゃない――好きなのに――その顔は見たくなかった。
「ちゃんと着いてきてね?」
少し不安そうに尋ねるその声に、ツキンと罪悪感を抱くのも嫌だった。
もう三年経ってしまった。シークに出会って、墓を暴いていた本当の理由を話して、それなら俺を使ってくれとシークに言われた時から。
――三年前――
事前に教えたわけではない。それなのにシークは墓場に現れた。
あの死体は諦めた。それから数ヶ月待って、やっと条件に合う死体に巡り会えたというのに。
「――ひょっとして毎日来ていたのか?」
「毎日じゃねぇけど、俺夜行性だから」
覚えたばかりの言葉を得意がって使う子供に思わずため息が出る。しかしそのため息をシークは自分の都合のいいように解釈したらしくニヤニヤと笑った。
「俺はしつこいぜ。あんたの手伝いをしていたら死霊使いになれるかもしれないだろ?」
阿呆だろうか。誰かこいつに正しい知識を教えないのだろうか。
アスは呆れてしまったが、死霊使いについて正しい知識を持っている人間自体それほどいるわけではない。それでも領主の息子ならば、その辺の子供よりもきちんとした教育を受けていて然るべきはずだ。生まれに多少の差し障りがあったとしても、今後責任を持った立場で生きていくことが定められているのならばもう少し――と思ったところでアスの思考は中断された。
「なあ、なんで死体を掘り起こしてるんだ?」
アスの持っていたシャベルが棺に当たった。ガツリと腕がしびれるような感触に顔をしかめる。
「どうしたんだよ。――土避けるの手伝おうか?」
「いい。穢れがあるかもしれないぞ」
今日の棺は葬送の儀式を受けていない。ぼろぼろの使い回しのような棺は、力いっぱいシャベルを下ろせばアスでも壊せそうだ。
葬送の儀式を受けるには少額とはいえ謝礼が必要になる。それが払えない、もしくは払うのが面倒なくらい粗末に扱われている人間が死ぬとこういう事が起こる。
「そいつ、死者送りされてないんだってな」
「知っているならどうして放っておいた」
死者送り――葬送の儀礼は絶対だ。穢れた魂は生きている人間に悪さをすることもあると言われている。知っているなら領主が謝礼の肩代わりをしてもいいだろう。先代の領主はそうしていたことをアスは覚えている。
「親父は知らねぇよ。俺も偶然知ったし。だから墓を掘ってんか」
「そういうときはお父上に教えておくものだよ。葬送の儀礼をしておかないと生きている者に迷惑がかかる」
領主の預かり知らぬところなら仕方がないが、次にこんなことのないようにアスは嗜める。
「わかったよ。で、こいつに死者送りすんの?」
シークは顕になった棺をスコップで指した。
都合よく誤解してくれるならそれでいい。死体を掘り起こすのはアスの個人的な理由だ。彼をこの世に繋ぎ止めるのに必要な死体。だがシークがいては死体を持ち帰ることは難しい。
「そうだな」
アスは棺の蓋を開ける。やせ細った少年の死体。目は落ち窪み、頬はこけ、ミイラのようだ。これならば軽い。持ち帰るのに理想的なのに。
アスは葬送の儀礼を行う。そのための道具は持ってきている。彼の魂が入る前に、穢れた魂に入ってきてもらっては困る。
魂と肉体をつなぐ糸が綺麗に切れたのを見て、アスは一息ついてから道具を片付ける。
ああ、やはりこの死体がほしい。
「死霊使いさぁ。あんた、死体がほしいんだろ?」
思っていたことを言い当てられて体が震えた。
穴の上でアスがやることを眺めていたシークは、シャベルを杖のようにして棺に片足をかける。死者に対する冒涜だ、とアスは言えなかった。自分がしようとしていることのほうが余程死者への冒涜だ。
肉体にとっても、魂にとっても。
「ずっと死体見てるもんな」
アスは顔を上げられない。せせら笑うような子供の声。
「何したいんだよ、言ってみろよ。言わねぇと、親父にあんたがしていることバラすぜ」
アスは生唾を飲み込む。勘がいい、その上悪知恵の働く子供だ。
もしここで、アスが本当のことを言えば。いや、本当のことでなくてもいい。シークが納得する理由を言えれば、この死体が手に入る。
いや、誤魔化してしまえばいい。術を使って、記憶を奪ってしまえばいい。
アスは道具を片付けた袋から小さな小瓶を取り出す。蓋を開けようとしたところをシークの手が伸びて抑え込まれた。蓋にかかった手が痛くて力を緩めるとすかさず引き剥がされた。
「同じ手はもう食わねぇよ。教えろよ、なんで死体がほしいんだよ?」
アスはその時限界だった。
ひたすらに実験と試行錯誤を繰り返し、目的も忘れてしまいそうなほどの絶望とわずかな希望との間を行ったり来たりしていたのだ。その長い道のりのあとで、胸の絶望と喪失をすべて塗り替えるような希望を手に入れて、偽りを弄せるほどの余裕はもうなかった。
「――生き返らせたいんだ、あの人を」
勿論、相手が子供だという侮りもあっただろう。もしシークが誰かに告げても、子供の戯言だと、妄想だと笑い飛ばされる可能性が高い。彼がその出自のせいで普通の子供よりも、他人に相手にされない可能性もあると打算的に考えてしまったこともあるかもしれない。
何にしろ、限界だった。自分の積年の想いが実るかも知れない。その喜びを言葉にして誰かに伝えてもみたかった。
「魂は年に一度帰ってくる。その魂を繋ぎ止める器がほしかったんだ」