嫌な男
長い夜を過ごすアスの朝は、完全に日が昇ってから始まる。
昨日のうちに汲んでおいた水で顔を洗い、湯を沸かし、三日分まとめて焼くパンを食べ、そのときにある木の実を食べる。春のプックリとした果実が食べられる季節になっても、秋に仕込んだ干した果実や木の実がまだ残っているので先にそれを消化する。干した果実は汁気がない分甘みが強い。春先のまだ酸味の強い生の果実はアスの好みではない。
彼女の住む家は小屋と言っても差し支えないような質素な建物だ。それでもアスには十分だった。外から入ってすぐに簡易なキッチンと小さなテーブルと二つの椅子、壁に沿ってベッドがある。生活するのに十分な設えだ。
奥の扉は別の部屋に繋がっていて、アスは日が落ちてからの殆どを仕事部屋であるその部屋で過ごす。
今日もいつもと同じように朝食とも昼食とも言い難い時間にアスが食事を取っていると、窓をコンコンと烏がつついた。アスはパンを咀嚼しながら窓を開ける。
「おはよう」
烏は歪な鳴き声を上げる。アスが差し出した手のひらをツンツンとつつく。
「ああ、すまないね」
アスはテーブルに取って返してパンの塊を烏の前に置く。もう一度烏は鳴いてパンをつつき始めた。
アスは寝癖のついた髪をくるくると巻きながら一つにまとめ、色のあせたボロボロのリボンを結ぶ。
元は目の醒めるような真紅のリボンだった。アスの黒い髪によく映える色だった。
烏を見つめながら、アスは十七歳の少女らしい屈託のない笑顔を浮かべる。
「まだまだ、頑張っておくれよ」
食事を済ませたあとは明るいうちではないとできないことをやる。
暖かくなってきたが、まだ夜は冷え込むことがある。雨が降ってもまだ蒸し暑いというようになるにはまだ早い。足りなくなってきた枯れ木を調達に森へ出かける。暖炉の掃除はまだやれそうにない。
パキリ
踏んで音がするような木が丁度いい。折れてしまった枝も拾う。一晩中使うようなことはもうないのだから細い小枝くらいがいい。無心でアスが拾っていると前から足音が聞こえた。少し早いが駆けているほどではない。
アスには誰だかわかっている。仕事を伝える人間と違って、この足音には迷いがない。
木漏れ日に金色の髪が輝く。わかっていても一瞬息を呑んでしまう。
「遅くなってごめんね」
金髪の青年は側に寄るとアスの持っていた小枝を取る。他にも抱えていた枝を全部奪って、シークはにっこりと微笑んだ。
「まだ取る? これで終わりかな」
少し離れたところに置いている籠を見たのだろう。今シークが持っている枝を入れると満杯になる。
「……そうだな」
「ちょっと喉がかすれているね。昨夜は少し冷え込んだから……蜂蜜残ってたっけ? ハーブティに少し入れるといいよ」
「言われなくても、する」
優しく細められた目からアスは視線をそらす。シークは籠を満杯にすると自分が背負った。押し問答になるのがわかっているので、自分が背負うとはアスは言わない。
「今日は何をするの? ああ、水汲みはもうしておこうかな。僕は今日は早く戻らなくちゃいけなくて」
「誰か死んだんだね」
アスの言葉を聞いたシークの表情が一瞬別人のようになり、すぐに優しげな青年のものに変わる。
「そう。父の取引先の方の祖父なんだ。アスのところへ依頼があったんだね」
「まだ来ていない。そうなのかなと思っただけだよ」
こういう時のアスの勘は外れない。
「じゃあこれから来るのかな」
どうだろうか。
人が死ねばすぐアスが呼ばれるというわけではない。葬儀が行われるのは死んで一日経ってからだ。しかし、今回死んだのはシークの取引先の人間だと言う。可能性は高い。
「アスの仕事を見てみたいけど、駄目だよね?」
「そうだ。部外者だろう」
きっと相続で問題があるから呼ばれるのだ。
シークも知っているのか物騒なことを言う。
「ひょっとすると、しばらく命を狙われることもあるかもね。――僕が守ってあげるよ」
「お前の助けなどいらない」
「そう? でも何かあったら言ってね。屋敷に匿ってあげる」
「絶対に嫌だ」
アスが感情を押し殺し、冷たい声で返しても、シークは心配そうな瞳で少し微笑んだ。
「君が心配なんだよ」
アスは歪みそうになる口を必死で堪える。
嫌な男だ。その姿で、その言葉遣いで、そんな言葉を言うなんて。
――三年前――
アスは黙々とスコップを動かす。今日の夕刻埋めたばかりでまだ土が柔らかいとはいえ、棺にかかっているすべての土を取り除くのは少女の体では骨が折れる。
棺の蓋が見えてきたところで一息つく。
昨日死んだばかりの新鮮な死体。しかも欠損はほぼなく、年齢も若い。しかも男。こんな死体は滅多に出ない。
「今どきの墓荒らしは美少女なんだな」
不意に上の方から声をかけられた。
まだ掠れが残る少年の声。からかうような響きがある。
完全に油断していた。アスはほのかな灯りに向かって顔を上げる。言い訳なら用意している。しかし、この口ぶりでは相手は自分が誰なのか気づいていないということだ。
灯りを持っているのは成人したかどうかくらいの少年だ。いや、成人しているなら青年か。
両手で握ったスコップが動きを妨げているのをいいことに、少年はぐいぐいとカンテラをアスの顔に近づけた。
眩しくて少年の顔はよくわからない。
「――ああ、金に困ってんの? そんだけ顔が良けりゃ、男にねだりゃあ食う物に困らねぇだろ」
少年はちらりとアスのリボンに目をやる。夜灯の灯りでもその粗末さはよくわかる。
「金目当てなら、もうちょっと墓標が立派なのを選べばいいと思うぜ――っと」
シークはアスが投げつけたスコップを避け、墓標の上にカンテラを置いたあと、走り出したアスの前に回り込む。両手を広げて立ちふさがる。
後ろにはアス自身が投げつけたスコップと掘ったばかりの穴、目の前には自分より背の高い少年。
アスは逃げ道を思案する。楽しそうにニヤニヤと笑う少年を見て、やはりこれしかないかと腰のベルトにつけていたポーチを開け、箱マッチを取り出した。
彼と話すことなど何もない。墓をこのままにしておくのは気が引けたが仕方ない。
箱の側面でマッチを擦るとぽっと一瞬だけ火が灯り、あとは長い長い煙が渦を巻く。細い渦は途切れることなくぐるぐると巡り、アスがすっぽり入るくらいの筒になった。
間抜けな少年の顔を見て、アスはにんまりと笑う。そのままアスは煙に向かって一歩進み、その体は煙に溶けた。
しばらくは会うまいと思っていた少年は、その夕方にアスの家に現れた。道を塞いだ時のようにニヤニヤと笑いながら、扉を開けたアスを見た。
「もうちょっとドアを開けるのを警戒したほうがいいんじゃねぇか?」
閉めようとしたドアの隙間に足を挟む。強引に閉めてやろうと思うが、アスの力では痛みを感じないらしい。平気な顔をして扉をこじ開けようとする。
「なあ、あんた死霊使いなんだって? 何だって墓荒らしとかやってんだ? イカサマの回収とかじゃないよな?」
まくしたてる内容の一部分が聞き捨てならない。アスは激しい声で言い返す。
「イカサマなんかじゃない!」
「そりゃイカサマだって認める山師はいねぇわ」
笑いながら足だけではなく腕も使ってドアをこじ開ける。
すっかり中に入ってしまった少年は部屋を見回す。舌打ちをして、部屋に一つだけある椅子に座った。
「食うもんには困ってないって聞いたぜ? 墓荒らしの理由は装飾品の盗掘じゃあないな。だったらなんだ?」
少年は探るような目でアスを見る。
「何で墓を暴いた?」
「……」
アスには理由が言えない。大体、墓を掘り起こすこと自体がやってはならないことだ。死者の眠りを妨げる禁忌だと、死霊使いのアスならば今更説明されなくとも知っている。むしろそれを嗜める立場だ。
「勘違いしてもらっちゃ困るんだけど」
不機嫌そうに眉を寄せて、少年は椅子のそばのテーブルを指先でコツコツと叩く。
「あんたに拒否権はねぇんだよ。あれはウチの管理する墓地だ」
目を見開いたアスに少年は口の端を歪めて笑った。
「俺の名前は知ってるな? シーク・アークロイド。この辺一帯のご領主サマの跡継ぎ息子だよ」
酷く自嘲気味に名乗った。
アスは嘆息する。
「名前は知っているよ。こんなガラの悪い子供だとは思わなかったが」
夜にはよくわからなかったが、茶色い髪に緑の瞳。顔立ちに粗野さはなく、着ているものも多少膝が擦り切れたり、丈が少し足らないようにも感じられるが物自体は悪くない。裕福な家の子供だということがわかる。
ただ見た目よりも言動が少し幼いようにも思えた。
シークは内容よりも子供と言われたことに苛立ち、アスを睨みつける。
「生まれが卑しいんでね」
アークロイド家の一人娘が卑しい馬丁の子供を産んだという噂はアスも知っている。
卑しいとは言うが、アークロイドの血を継いでいることは間違いない。母方の血なのだから。ドラ息子がよくわからない飲み屋の女に産ませた子供というより信憑性は高い。というか、当時の一人娘のお腹を見た者がいる以上、曲げられない事実だ。
馬丁と引き離されたシークの母親には、遠くこの地とは縁もゆかりもない男があてがわれた。男爵家の三男とか遠くに子爵の血が入っているとか――見栄を張ったものだとアスは思っている。そんなもので醜聞を誤魔化そうと思っても全く意味がない。
その二人の間には子供が産まれていないために、次の領主は既に生まれた子供がなるのだろう。評判は良くもなく悪くもなく。非常に無口な少年だという噂だが目の前の彼はよく喋る。
「あの後、土をかぶせるのは大変だったんだぜ」
アスは棺が見えるくらいに土を除いた時にシークに会い、そのままで帰ってきてしまったのだ。
彼はアスが墓を暴いたと誰かに告げればよかったのに、どうしてそんな真似をした?
アスは死霊使いだ。死者が安らかに眠るための儀式を執り行ったり、死者の魂を一時的に呼び出して生者と話をさせることが仕事だ。死者の儀礼と、年に一度戻ってくる死者の魂を迎え、再び送り出す儀礼を生業にしている。
死霊使いはなりたくてなるものでも、好きな時にやめられるものでもない。
アスが十七歳の時に死者に選ばれてから七十五年が経つ。住民には既に十分気味悪がられている。墓荒らしがバレても仕事の一環だと言えばいい。それが通用するかは微妙だが、深く追求されることはないだろう。
「そのままにしておいてくれてもよかった」
「あん?」
あの墓地は共同墓地だ。墓守もいないような寂れた墓地だ。アスが掘り起こそうとした棺は安物で、中で眠っていた男には身寄りがいない。よって墓参りに来る人間もいない。
そういう者に与えられる土地は入り口から離れた行きにくい場所で、数日そのままにしておいても誰も気が付かないだろう。
「お前こそ、その年にもなって夜中に肝試しか?」
「そんなんじゃねぇよ」
「恥ずかしがることはない。男の子なら普通の話だ」
「ハッ、えらっそうに。女ってのは何かあると、自分は大人ですって面をしたがるよな」
まだ自分を見た目で判断する人間がいたとは。アスは新鮮な驚きに思わず笑みを浮かべた。
大人たちにとっては当たり前の話だ。死霊使いは死者に選ばれると年を取らなくなる。そして新しい死霊使いが選ばれると――前の死霊使いは数年で死ぬ。
まだ次の死霊使いは選ばれていない。少なくとも数年はアスは死霊使いでいられる。
まだアスは死にたくない。もう少し、後もう少しなのだ。ずっとずっとそれだけを考えていた。
あの人に会いたい。それだけを。
「今年で七十五年目だ」
「は?」
「私は死霊使いを七十五年やっているのさ、坊や」
老人めいた話し方をするようになってからは何年になるのだろう。幼馴染を見送った辺りからだったろうか。
それが馴染んでしまってからならば、数年か。
「お前はいくつだい?」
無遠慮にアスを眺めていたシークはぼそぼそとした声で答える。
「……じゅう、ご」
成程、幼く見えたのはそのせいか。
「へえ、随分体が大きいんだね。私の体は十七歳だ」
アスの肉体年齢を聞いて、シークは意味がわからないと眉間にシワを寄せた。
「死霊使いについて知らないの?」
「慰霊祭で祭壇を作っているヤツだろ? あと、葬式で死体に喋らせてるよな」
子供の認識ならその程度だろう。かつてはアスもそうだった。
「死霊使いになると年を取らないんだよ」
「……へえ、死霊使いって誰でもなれんの?」
シークの表情に喜色が浮かぶ。
「さあ? 死霊使いは死者が選ぶ」
ある日突然墓地で目覚めるのだ。死霊使いの元へ行き、継承の儀式を行う――そうしないと、死霊使いであることを認めるまで何度も真夜中の墓地に呼ばれるのだ。
どれだけその親が、兄弟が、夫が、妻が、ベッドに押し込めようとも、家に閉じ込めようとも、死者は新しい死霊使いを墓地へ連れて行く。どこか離れた土地に引っ越したとしても。
「どうやったら選んでもらえるんだ?」
「知らんよ。お前、死霊使いになりたいのかい」
シークは屈託のない笑顔を浮かべる。
「ああ。面白そうじゃん? 年も取らねえし。家からも自由になれる。最高じゃん」
彼の出生だと家は煩わしいものなのだろう。人前ではそれなりに猫をかぶって、従順な一人息子を演じていれば息も詰まる。
だからといって。
「……そんないいものではない」
「俺よりマシじゃねぇか」
子供特有の経験の少なさからくる無邪気さでシークは言う。とはいえ、彼の境遇が楽なものだとも思わない。ただアスが彼よりも、大変だと思うことを多く知っているというだけである。
「棺を掘り起こすのも死霊使いの仕事なのか?」
話は元に戻ってきた。
「そうだよ」
アスは嘘をつく。
「毎回ああやって掘り起こしてんの?」
「毎回というわけではない」
都合のいい死体だったときだけだ。
身寄りがないなど、折角作った墓がどうなっても誰も気にしないような若い男の遺体が入っている棺だけだ。それをまだ遺体が腐っていない状態で掘り起こしたいのは、全くもってアス個人の都合だ。
「じゃあ、次掘り起こす時に俺を呼べよ。あんたじゃ掘り起こすのも大変だろ。俺が手伝ったらもうちょっと早く掘れるぜ」
当然のごとく、アスはシークの申し出を無視した。