面白さと暗黙知
今から書く事は焼きなおしになると思う。ただタイトルをざっと見たが一つもないのでテーマとして再構成したって話になる。自分としては退屈なものになる。自分の中からこれは新しいぞってのを話すほうがやっぱり楽しい。今回はそういうのは無いと思う。
前置きとなるが私は結構すごい。自画自賛だが、何故それを評価できるのか?と言うとそこが自画自賛じゃないからになる。多くの人間は脳の癖で考えてしまうんだ。意思といえば自由に聞こえるが、大体の人間は脳が好むパターンに誘導される。故にあまり自由な思考にならず、大半の人間が似たような発想にしかならない。
それを打破するのはまず意識する事と、次にその誘導に逆らう明確な自制心だと思う。そこが私は桁違いだから他の人間とは違うことを語れる。だから私は凄いんだと言う結論になる。当然同じことを他人が出来たら凄いと褒める。何故ならそれは誰にでもはできない特別な思考法だからになる。それがたまたま自分に当てはまってるだけとなる。
その当たり前を解明していこう。以前か書いてるが、どうもアニメ漫画などの作品を評価する人と単純に見て楽しんでる人は別の集団なんじゃないか?って話になる。事実としては、なろうでも評価は読んでる人の極少数しかし無いって事がある。これを読んでる大集団の中の相似な小集団として当たり前に片付けてきたと思う。
でも私ランキングに対する不満が続出して違うんじゃないか?と思い始めた。何かを書こうと能動的に動く人達は微妙に価値観が違う人たちなんじゃないか?と思えてきた。最初に繋がるが、人間として当たり前の多数派に落ちいると言うのは、脳の動きが似てて、その無自覚な働きにそのまま任せて行動するからとなる。
その部分の動きが違うんじゃないか?と思っている。
どう違うのか?で以前からあんまり考える部分の面白さって漫画アニメに無い。書いて他者に発表する傾向の強い人はどうも考えてしまうタイプの人が多い。ごくごく小さな差だとは思う。根本的には考えない面白さを知ってるんだと思うが、微妙に考えてしまう。この微妙な差が結果として大きな差になる。
根本的に楽しみが違う以外にも、書く人達は書きやすい事しか書かない。その話をするには、暗黙知というのを知っておかないといけない。多分以前書いてる。ただタイトルになかったため今回纏めて書こうと考えた。経験則による言葉にならない職人芸になる。それらにも無自覚、無意識だが脳が働いて結果を出してる事実がある。神の奇跡によるものではない。
それに対して、単純に多くの人と共有する科学的知識などがある。医療なんてまさにこの発展だと思う。医者個人の技術から医学知識に広がった歴史がある。
アニメ漫画の面白さは、根本的にあまり意識下で思考した面白さではない。考えてないわけじゃない、意識して考えるものが少ないんだ。脳はその間も動いている。それを私達は考えるといわないんだ。びっくりするほどびっしり書いてあるネットなどの評価文だが、私は書ける人ほど胡散臭いと見てるんだ。
ずっといろんな人のを見てきたが、この暗黙知を意識して書いた人はほぼいない。せいぜいその視点から映像に関してだけだ。実際無意識ではない。無意識なら自意識による言及は出来ない。脳科学や心理学的な実験的アプローチしかなくなってしまう。無意識ではなく無自覚な部分が多くて十分に自意識によってアクセスできる部分も多い。
では何が書かれているのか?と言うと、面白さの本の一部で単純に意識下に上りやすいことだけを”考えて”書いてる事になる。これは見てる間に意識して”考えて”る事って意味になる。もう分かると思う。書いて長い評価文を書くタイプは、考えて楽しむから、漫画アニメの良い物も楽しめない傾向になりやすいと言うわけだ。
簡単に頭に浮かびやすい考えてしまった時間の体験だけ面白さについて言及してるだけなんだ。豆腐に対するおからみたいなものだろう。全く上手くないとは言わないが、大豆から豆腐を取って食べて上手いと思う人からすると、おからを食べて上手いと思ってる感覚は全く違うものだと思うと思う。
多分豆腐の美味しさは知ってるはずなんだが、おからを感じてしまう部分が邪魔をするんだ。一般的な凡庸な脳の使い方ならおそらく多くの書き込んでいる評価文は私から見ると本質的な面白さからずれたゴミやカスについて書いてるだけなんじゃないか?と見ている。
以前から私はそれなりに知名度のあるアニメ評論家について批判的なのは、こういった文章しかかけない連中ばかりで、暗黙知に眼を向けた人が皆無だからだ。凡庸では決してこの脳の動きから逃れられない。私はこうして教えてるから、それを見た人間は凡庸から抜け出せる可能性がある。だが教えられもせずそれが出来るか?と言うとまず無理だと私は人間に対する経験から知ってるんだ。
何故私だけが特別なのか?で私も昔はその凡庸な思考の多数派だったからだ。境地としては全く違うが、経緯としては多分仏教の悟りと似ていると見ている。私だけがあるとき覚醒して他者と違う境地になったとなる。昔は違ったから、多数の人間はどうなっていくか分かってしまうとなる。かなりの長い年月とずっと抱えた疑問を解消できずに居たことが大きい。
元々そういった素質があった気もする。そういう人間が長い時間掛けて、しかもテーマを持っていたからなんとか覚醒できただけだと、凡庸な人間にはまず無理だろうと見ている。私は人間の知性で最も凄いのは猿真似だと見てるんだ。知的にすごいわけじゃない。人間と言う集団が何故他の動物を圧倒するになったか?で文化文明の力が大きいと見てるんだ。
人類集団の蓄積された知識を使うと言うのはすなわち過去の人間の知恵の猿真似なんだ。大半の人間は猿真似すなわちコピーしかして無いんだ。覚醒者たる知恵と言うのが凡庸な知性とは全く別物だと良く分かるだろう。
とても難しいことだが、意識に上りにくい考えない楽しさをもっと書かなくては本当の良さなど多分分からない。
最後になるが文芸評論が間違ってるわけじゃない。その手法を意識下思考において同列とは言えないアニメ漫画に持ち込むのは間違ってると私は思ってるんだ。ただし、アニメ漫画でそういった面白さが共通してる作品も例外的にあるのは事実だ。問題はそれがアニメ漫画の面白さの本質みたいに広げてしまう程度の低い評価者しか居ないのが問題なんだ。