あり得ない関係
元々、女に生まれたかったわたしが突然女なっていた。しかも鏡に映るわたしはよく知る会社の上司、三才ほど年上の仕切り屋でもある男勝りの女性だ。暫し女の歓びを楽しんでいると手元の彼女がいつも手にしているスマホが着信を知らせる。表示されてる発信者はわたし自身だ。
ある朝わたしは目覚め、身体に妙な違和感が有るので我知らず胸に手を当ててびっくりした。筋肉質の固いわたしの胸が柔らかな女性の乳房状に膨らんでいる。病気?驚きと不安で蒲団をいきなりはねのけ上半身を起こした。そこで更に驚いた。わたしの頭に長い髪の毛があり乱れ髪としてわたしの顔を覆う。何だ、これは。顔の髪を払い自分の手を見る。その手は自分のごつい手ではない。華奢で白い女性の手だ。訳もわからず改めて自分の胸に手をやると柔らかい乳房が両胸にある。まさかと思いながら股間に手のひらを移動し、また驚き混乱してしまった。寝る前に小用でトイレに行き摘まんだはずのあれがない。恥毛はあるものの肝心なちんちんが消えている。わたしの身体が女性になっているようだ。
夢を見ているのに違いない、わたしはまるで漫画のように自分の頬をつねる。もちろん痛みを感じ夢でないのが分かった。しかもつねったその頬もわたしの固い、髭さえたくわえたいつもの頬ではなく、柔らかなすべすべとした肌になっている。
わたしは周りを見回した。薄暗いライトの下に見えるのはいつもの自分の部屋ではない。寝ているベッドも違い過ぎる。整理され清潔に保っていたわたしの夜具でなく汚れてはいないものの眠るためだけの寝床に思える。ホテルの一室ともまた違う。さらに香水の匂いが鼻をくすぐっている。わたしはもともと香水を付けたくても我慢し、一切つけていない。昨夜は少しの寝酒を飲み泥のように眠りに落ちたはずが目覚めるとこの現実。しかも、身に覚えのある頭痛がする。これは寝酒だけだったのに飲みすぎた二日酔いの感覚に間違いない。
わたしは全く理解出来ぬままベッドを降りようと、そっと両足を床に着けた。冷たい床の感触が伝わってくると思ったが、柔らかなものを踏みつけギョッとする。手で探り目の前にぶら下げると脱いで丸めたストッキングだ。ゆっくり立ち上がってみる。しっかりと立ち上がることができた。改めて周りを見回すとベッドの横にチェストがありその脇に大型のドレッサーがある。百センチ四方の大きな鏡がわたしを呼んでいるように思え一歩一歩その前に近づいた。そこにわたしを見つめるよく知る女性の姿が映っている。昨夜、会社で言い争いをし、嫌な雰囲気のまま別れた冨澤女史、冨澤沙織だ。びっくりして口に手をあてると鏡の中の彼女も同じ動作をする。鏡に映っているのだから当たり前だ。冷静ならすぐにもわかる。
わたしは池端薫、れっきとした男だ。にもかかわらず鏡には女性の富澤女史が映っている。試しに鏡に映る冨澤女史に手を振ってみた。同時に彼女がわたしに手をふりかえしている。髪の毛をかきあげると鏡の中でも同じ動作をする。間違いない。鏡の前にいるわたしは姿形が冨澤沙織に変わっているようだ。意識は男の池端薫ながら肉体は冨澤沙織の女性に変じている。見下ろすと確かに自分は女性用の色鮮やかなパジャマをまとっている。改めて胸と股間を手で確認した。乳房があり、有るべきところにわたしの男性器がない。
ドレッサーの椅子に腰を降ろし再び鏡の中の自分を見る。見つめ反すのは冨澤沙織だ。やや疲れ、化粧も乱れているが間違いなくわたしの知っている冨澤沙織がわたしを見つめ返している。彼女のことは異性で有りながら全くそれを意識したことはない。
わたしは女性に全く関心を持てない精神構造らしく、逆に男性に性的興奮を覚えている。いわゆるゲイの性向があるのだろうか。いや、わたしはもともと女に生まれたかったというのが正直な気持ちだ。性に目覚めてからわたしが心ときめかすのは常に男子だった。女子には少しも関心が向かない。自分でもそんなことは異常だと思う。しかし生まれながらの性分であり変えようがない。中学生の頃は無理にその秘密を隠し男子と話してはいても女子同士がかしましく話す中に交じりたい思いを密かに抱いていた。高校、大学と進みますますその傾向は深まるがなぜか違和感なく周りに溶け込んでいた。それは異常な自己欺瞞に明け暮れる毎日だったと思う。不思議な巡り合わせで一時期、唯一同じ思いを抱いている転校生が現れ、語り合い抱き合い口づけしあったことがあるが、彼は一月もしないでまた転校して行き、そんな体験はそれっきり二度としたことはない。
だから社内の同僚であり先輩でもある彼女の顔をしげしげとまともに見たことは今まで一度もない。しかし今、鏡に写る彼女を瞬きも忘れて見つめている。確かわたしより三才ほど年上のはずで二十八は越えているか、もうすぐ迎えると思う。よく見るとそれなりの年に見えるが驚くほど美人だ。程よい高さのきれいな鼻、まるで絵にかいたような形のいい唇は、もし小さく開いて白い歯をのぞかせるときっと男は震い付きたくなるはずだ。試しにその口元をしてゆっくり片目を閉じてみると鏡が一瞬光輝いたように見えた。片目を閉じた瞳も黒目勝ちで切れ長な目許はすこぶる魅力的だ。難点は少し長くほんの少し前に出ている顎だろうか。それさえも魅力だと心の声が言う。
ゆっくりとパジャマのボタンを外し、胸元を開いてみた。やっぱり形のいい乳房がある。ブラジャーをせずに眠りについたようだ。Bカップほどだろうか、乳房自体は大きくはないものの乳首が上向きのきれいな色をした乳頭だ。しかし見はしたものの悪いことをしている、覗き見している罪悪感がして急いでパジャマのボタンを留めて胸を隠した。下腹部を確認する気はない。
目の前にルージュがあり殆ど無意識にそれを手にして唇に当ててみた。しかし、その顔は昨日のメイクが残ったままで、確かに綺麗ではあるものの乱れた印象がして、他人に見せられる顔とは思えない。男でありながら女としてメイクするのにわたし憧れていた。なぜか今の現実は受け入れがたいものの、メイクしてみたい誘惑にあらがえず、ドレッサーの引き出しからクレンジングジェルを取り出しメイクをコットンでふき取った。まだ、意識は池端薫であるものの興味本位とは言え冨澤沙織の顔を再びメイクしようとしている。女になりたい意識が夢のように叶い、女の喜びでもある装いを自らに施そうとしている。鏡にメイクを全て落とした冨澤沙織がわたしを見つめている。もちろん土台でもある素顔が美しくなければいくら極上のメイクをしてもたかが知れている。冨澤沙織の素顔は申し分のない美形で目の前のコスメ品を駆使すれば絶世の美女が出来そうだ。これがしたかったわたしは、初めての体験でもあり快感を全身に走らせながら丹念にメイクしている。見とれながら鏡の冨澤さんに頷き、上唇と下唇を交互に重ねてみる。女性らしいその仕草をごく自然にしている。男としての池端薫はどこに行ったのだろう。もちろん初めての事、上手にできるわけがない。唇はうまく塗れていると思うが目許はまるでダメ。タヌキみたいに見えてせっかくの美人が台無しだ。やり直そうかと思ったその時枕元のスマホが大きく着信音を鳴らした。ドキッと心臓が止まりそうなほど驚きながらも、そのスマホを手にしてスクリーンを見ると「池端薫」からの着信だ。彼女、冨澤さんがいつも手にしているスマホを通話状態にして耳にあてる。聞きなれたわたしの声で
「もしかしたら池端君?」
といきなり問いかけてきた。わたしは冨澤女史の身体に転移したが冨澤女史はわたしの身体に同じように転移したのだろうか。わたしは
「ええ、池端です。もしかしたら冨澤さんですか?」
と聞き覚えのある富澤女史の声を出して答えている。不思議な感覚をともに抱いたのだろう。二人ともしばらく黙っている。そしてわたしより年上であり社内でも仕切り屋の異名を持つ彼女が口を開いた。
「おそらく、池端君はわたしの身体で、しかもわたしの部屋にいるよね」
「ええ、そうです。冨澤さんはわたしの身体でわたしの家にいるということですか。」
「そう、」
またしばしの間が開き、
「失敗した。部屋を綺麗にしときゃよかった。」
それはこの深刻な状況で最初に言うことかと思わず
「うふっ」
と声を出したがあまりに女っぽい言い方に自分でもびっくりしている。そしてわたしの声で話す彼女も、きっと彼女の言い方で話しているのだろうが違和感はない。社内でも男と思えるような言葉遣いだった。
「池端君、どうしてこうなったのかな。」
「わかりません。」
「だよね。」
また沈黙が続く。どうしてこうなったかよりこれからどうすればいいのだろう。この状態がこれからも永遠に続くのだろうか。何もわからない。
「冨澤さん、今日は会社休みですよ。取り敢えずどこかで会いませんか。」
「うん、わたしもそれを考えていた。」
「冨澤さんの家、つまりここは一体どこなんですか。」
「新大久保、駅前のマンションだよ。」
わたしは中野坂上にある一戸建て、伯父さんから譲ってもらった小さな家に一人で住んでいる。新大久保からならタクシーでもすぐ行けそうだ。
「冨澤さん、わたしがそちらに行きます。待っててください。」
壁掛けの時計を見るとまだ朝の七時だ。スマホを耳にしたまま、
「冨澤さん、パジャマのままじゃ出かけられませんよ。何を着ていけばいいですか。」
「そうか、」
しばし考えて
「クローゼットにある何でもいいよ、急いで来てよ。」
「わかりました。じゃあ電話切ります。」
鏡の中の冨澤さん、そしてそれが自分であるのを改めて確認し、部屋を見まわしてみた。入り口のドアのそばにクローゼットらしいのがある。扉が少し開いたままだ。ワクワクしながらそこへ行き、中を見る。色とりどりの洋服がハンガーに下げられている。そうだ、女には身を飾る楽しみがある。心臓がドキドキと高鳴るほど興奮してきたが、のんびりと選んでいる場合ではない。手近なワンピースを取り、ドレッサーの前に戻ると身体に合わせてみる。何日か前に彼女が着ていたワンピースだ。急いでそれを着て、ワンレグの髪を整えるためドレッサーの前に行く。目許が変だ。ドレッサーの上に棚が有りサングラスが何個か置いてある。一番色の濃いしかも大きめのサングラスをかけ、チェストの上のバッグに財布があるのを確認し玄関と思える方に行く。
いや、待て、出る前にトイレに行きたい。こことばかりにドアを開けるとそこは物置。雑多にいろんなものが詰め込まれている。隣を開けてやっとトイレを確認。中に入り便器のふたを開ける。待てよ、わたしの身体はおんなだ。急に戸惑いを覚える。尿意に男女の差はないと思うが排尿は若干違うはずだ。恐る恐るパンティをさげ便器に腰を下した。すごく不思議な感覚ながら緊張を解き、恐る恐る膝を開くとシーッという感覚で心地よく排尿している。ほっとした。意識は池端薫でも肉体は富澤沙織としてごく自然に対応しているようだ。ペーパーで拭き取るのも当たり前のようにし、パンティをあげる。この先生理なんかもあるのかと頭の片隅に浮かぶが取り敢えず中野坂上に急いで向かわなければならない。
下駄箱の上にカギが置いてあり大雑把な彼女の一面を知るも今はそれどころじゃない。玄関に脱ぎ散らかせていた彼女のパンプスを履き外に出る。富澤女史の事だからしゃれた高層マンションにでも住んでいるのかと思いきやわたしが出かけようとしているのは商店街の裏路地にある二階建ての時代がかったアパートだ。マンションというには無理がある。意外に思いながらも表通りに出てタクシーを拾う。行き先を告げて深くシートに身を沈めたもののわたしの身体を持つ富澤女史と会って一体どうなるというのだろう、不安がむくむくと湧いてきてわたしは無意識に自分の爪を噛んでいた。この癖は池端薫のもので考え込む時によくしている。
彼女の意識に支配され、人格さえ入れ替わっているわたしに会うのはどんな気持ちだろう。慣れ親しんだあの目付きや声をどのように受けとめればいいのか想像も出来ない。でも面と向かい、さらに手と手を合わせ元に戻れたとしたらわたしは少し残念な気もする。折角なりたかった女になれ、自分でルージュを塗り目許のシャドウも施している。さらに着る物を選んでもみた。そんな女の喜びをもっとを味わいたい。冨澤さんの身体になったわたしは美人だし、いろんな可能性が有りそうに思える。なりたかった女になれたことを当然のこととして受け入れてさえいる。美人の女からもう男には戻りたくないとまで考えているがまだ、元のわたしの富澤女史に会っているわけではないし、その対面が怖くもある。心で様々なことをあれこれと考えていると、
「お客さん。もう中野坂上ですが、どこへ行きますか?」
はっとして外を見ると見覚えのある青梅街道の駅付近だ。
「ここでいいです。」
お金を払い、タクシーを降りる。ここから我が家まで歩いて行くつもりだ。自分に会うことに躊躇いが生じている。心の整理をしながら見慣れた表通りから馴染みの裏道に入り、昨夜帰った我が家の前に改めて立つ。鍵がないから自分の家ながらドアフォーンを押す。人の気配はない。中でわたしの彼女が息をひそめているのだろう。もう一度押し待っていると玄関に人の気配が近づき
「池端君?」
とわたしの声がドア越しに聞こえる。
「そう、池端です。開けてください。」
「待ってたよ。」
わずか二十分前に新大久保を出たわたしだ。目と鼻の先とは言わないが三キロ弱の距離に二人は住んでいたことになる。わたしは待たせた意識はないが待つ身には長く感じたのだろう。
施錠を外し中からドアが開けられた。そこにわたしがいる。鏡に向かいいつも目にしていたわたしがわたしを見ている。鏡で見るわたしとは若干違う。第三者として自分を見ている感覚だからかもしれない。ビデオで見る我が姿ともいえるが、すこぶるいい男に見える。確かに身長は百八十に近くスリムで髭を蓄えた顔も好ましい。
わたしは女性に気を向ける代償として自らの身体をトレーニングジムで鍛えていた。更に心と裏腹に強面を演出しようと髭を蓄え、手入れは難渋したが化粧の一環として小さな鋏を巧みに使い気持ちいいほど髭を整えていた。依怙贔屓なのだろうか、世界一にいい男に思える。
彼女、わたしの身体を持った冨澤さんはわたしをどう見ているのだろう。表情からはわからないが好きにならずにいられないはずだ。毎日磨きに磨いてきた美貌を誇りにこそ思い、決して卑下などしないだろう。女はとことん自己肯定で生きているものだと誰か有名人がのたまっていたのを記憶している。メイクを改め美人がさらに美しくなったわたしを誇らしく思いながら我が家に足を踏み入れた。もとよりわたしの勝手知りたる我が家、帰ってきた感覚だ。
改めて彼女ならぬ自分を見る。昨夜寝た姿そのままのわたしが目の前にいる。自分の家でない違和感から彼女にとって居心地は悪いのだろうがわたしの顔を見て少し落ち着いてきたようだ。リビングで腰をおろすとまず、彼女の池端薫がわたしを見つめ
「池端君。何でこうなった?」
と聞いてくる。お互いさまだと思いながらも
「わかるわけないでしょう」
と突き放してみる。すると意外なことを言い出した。
「実は、思い当たることがあるんだ。」
えっ、どういうことだろう。わたしにはまるで見当がつかない。たぶんわたしは怪訝な表情をしているのだろう。そう思いながらサングラスを取る。すると目の前のわたしが吹き出し急いで脇を見て懸命に笑いを堪えている。余ほどおかしな目許の化粧だったのだろう。少し腹を立てた口調で
「そんなにおかしい?」
とわたしの顔をした彼女を見上げる。ほとんどの人を見上げて話すことのないわたしは不思議な気持ちがしている。男でしかもわたしの顔をしてる背の高い相手に挑むような感覚になっている。
「だって、変なメイクなんだもの。もしかして池端君がやったの?」
「そうだよ。だってメイクが崩れていたんだから。」
「後で直してあげるね。
あっ、ここには化粧品何もないんだ。」
「サングラスしたまま話しましょうか。」
けんか腰になるも肝心なのは心当たりがあるといった彼女の一言。改めてわたしの顔の彼女に聞く。
「心当たりって?」
「うん、正直に話すね。わたしは男の人に興味がないんだ。そして女の人を愛したいといつも考えていた。」
確かにそうだろうと会社の人はみんな思っていたはずだ。改めて告白されても驚きはしない。でも、次の言葉は意外だった。
「わたしは、男になりたかった。そしてその姿は池端君、君のようになりたかったんだ。」
「えっ、ほんとに?」
「うん、意外?」
「冨澤さんは男っぽいし、意外じゃないけどどうしてわたしなのかは分からない。」
「だって格好いいじゃない。」
「わたしが?」
「うん、筋肉質だし髭も男らしくていいなと思っていたよ。」
「でも、それでどうしてわたしと意識が入れ替わったの」
「昨日、わたしと些細なことで言い争いになったの覚えているかな。」
「もちろん覚えているよ。」
「わたしはなぜか悔しいほど池端君が憎くなって、一人でやけ酒を居酒屋であびるほど飲んだんだ。家に帰っても焼酎飲んで、わたしこそあの池端薫の姿・形が相応しいって思いながら意識をなくしていた。」
良くあることで、別に問題があるとは思えない。
「翌朝あんなに飲んだのに二日酔いは無いし気持ちよく目覚めた。でも身体に違和感がある。わたしの下半身がはち切れそうな充実感が有り、手探りで触れたら無いはずのものが或る。ビックリして起き上がり下半身を見ると、そう、あれがあった。」
わたしが無いことに驚いた感覚と彼女のそれは比べられないが共に青天の霹靂ではある。
「わたしすぐに納得した。望みがかなったって。」
納得に至る速度をわたしは理解できない。少なくとも女として三十年近く生きていながら一晩でそれが変わるのはあり得ないことだ。女から男であれ男から女であれ受け入れることなど無理なこと。しかし男から女になってしまったわたしはその気持ちが分かる。わたしも納得してこの現実を受け入れたい気持ちが強い。きっと冨澤さんの意識が彼女から離れ、望むわたしのもとを訪れたのだと思う。そしてわたしの女性になりたいという深層心理を知り意識が取って代わったのだろう。
「冨澤さん。わたしはこうなったことが自然だと思います。」
と心に浮かぶままに話し出した。
「どうして?」
「だって、自分の気持ちに正直に生きてこれなかったわたしの今までの生き方より、今身体が女性になった方が正常に感じるの。」
と意識しないのに女言葉で話している。この声なら自然にそうなってしまう。鏡を見ている感覚のわたしが頷き、
「うん、同じだよ。わたしも男の身体が自分には心地いい。確かに戻りたくないよ。」
わたしの声で、しかも男そのものの話しかただ。
「池端君。これがわたしだとさえ思う。
でも目覚めた時の驚きは半端じゃなかったよ。だって、無いはずのあそこが有ってしかも大きくなっていたんだもの。あれが朝立ちなんでしょう。」
無遠慮に男の生理を話し出した。わたしはたぶん若さ故毎日のように朝は一物が立ち上がるが女性への思いで反応しているとは思えない。何しろわたしは女性が性の対象にはならないのだ。
彼女にとって朝立ちは驚きであり、不思議な感覚だろうが現実はそれを見て自らが男になったことを実感し納得したのだろう。見慣れぬ部屋ながらベッドの横に大型の姿見が有り自分の姿を確認できる。
「鏡に映るのが池端君だと分かってばんざいしちゃった。望み通りなんだものね。さらに洗面所に行きよーく自分を見つめ願いが叶ったことをもう一度確認したよ。そして尿意に促されトイレに入り生まれて初めて「立ちしょん」をしちゃった。気持ちいいよね、立ったままであれをつまんで排尿するって。」
わたしも排尿で女を実感した。男女差の一歩目が排尿かもしれない。
「でも不思議だなあ。」
わたしを上から下へ、そして下から上に舐めるように見ながら
「これがわたしなんだ。美人かな?
うん、たまらなく美人だ。」
毎日鏡で見てわかっているはずなのに感心し、満足気に何度も頷いている。しかも腕を組み片方の手を顎に当てる彼女が会社でするポーズをたぶん無意識にしている。肉体はわたしでも意識や癖までが入れ替わったのが分かる。そして、
「池端君はわたしをどう見ているのかな?」
と興味津々の表情でわたしを見下ろし、自信有りげに言う。
「冨澤さん、もちろんわかるでしょう。
自分が嫌いな人ってそんなにいないはずよ。惚れ惚れするほどいい男だと思う。」
「そうだよね。反対に自分が池端君になって、改めて目の前の自分を見ると綺麗な女だから、確かに惚れちゃうよ。」
意識が入れ替わっただけでお互いを異性として受け入れ、しかもほれぼれとするなどと告白さえしているが微塵もそれを意識していない。
わたしはタクシーを降りて家に着くまでに考えてきたことを口にした。
「ねえ、冨澤さん。ここで一緒に暮らしませんか?」
「えっ、わたしと」
「だって離れるのが不安ですよ。」
「うん、わたしもそう思う。でもいいの?わたしたち男と女ですよ。」
「でも親しみ以上の感情があるでしょう。」
わたしはわたしを見下ろすわたしに
「身体が入れ替わったらお互い愛し合える気がします。」
えっ、愛し合える。自分で言っていながら自分で驚いている。そして全身が熱くなった。手を大きく振って
「ごめん、ごめん。変な言い方しちゃった。肉体的にじゃなく精神的に、っていう意味でですよ。」
わたしの彼女が魅力的な笑顔で、
「赤くなってる。可愛いね。」
とすぐ側に寄ってきた。さらにわたしは身体が熱くなってきた。可愛いねと言われただけなのに女になりたてのわたしは嬉しくって舞い上がりそうだ。この上好きだよ、とか愛してるとでも言われたらとろけてしまうかもしれない。男と違って女は愛するより愛される方に喜びを感じるのかもと考えていると、顔を近づけ、驚く間もなく口づけしてきた。こんな積極性はわたしにはなかったと思いながら目を閉じわたしは男の彼女にされるに任せた。口づけたまま強く抱き締められ夢の中に落ちていき気を失いそうになっている。と唇を離し
「愛してます。」
わたしの耳許で彼女が囁く。自分の声で言われていながら膝から崩れそうに力が抜けたわたしをしっかり抱き抱え
「嘘じゃない、わたしは女の人しか愛せない。
その姿が見慣れた自分だとしても、いや、だからこそ愛せるのかもしれない。」
ああ、同じだ。わたしも女には興味がないけど男っぽい自分を好ましく思う。
「でも、冨澤さん。普通の男と女のように愛し合える?」
「わからない。でも今口づけした時に快感が全身に満ちていたよ。
だから自然に身を任せたら大丈夫だと思う。」
「そうよね、今は普通の男女関係だもの。」
変な言い方でも的を射た言い方だ。性同一性障害と世に言われている人がこうして意識を入れ替えれば普通の男女関係になる。奇想天外な解決法だが現実にはあり得ない。
わたしは頼りがいのあるわたしの元の身体に飛び込んでいく決意をした。男嫌いを広言していた彼女が、処女か否かは自分の身体ながら自覚出来ない。その瞬間が訪れた時にわかるのだろうか。わたしの肉体、冨澤女史に委ねている元わたしの身体はまだ女性を知らない。唯一の経験が高校生の時に触れ合った男子同級生の唇とお互いに大きくなった男性器を握り合ったことだけだ。彼女のこの身体は一体どんな体験をしてきたのだろう。女性同士の性を味わったことがあるのだろうか。今になってはどうでもいいことだし彼女は聞いても答えないと思う。
それから二年経ち、わたしと彼女はもう結婚している。正確には女の身体を持つ男のわたしと、男の身体になっている女の冨澤沙織が結婚したのだ。しかもわたしは子供をみごもっている。もちろん池端薫と冨澤沙織の二人で作った愛の結晶であり自然妊娠で授かったことを二人は誇りに思う。
二人が婚約したことを社内で発表した日のことは忘れられない。まるで天と地が入れ替わったような驚きで、誰にも信じて貰えなかった。当然だ。女嫌いな男と男嫌いな女であるのは誰もが知る公然の秘密。それがある日を境に交際しアッという間に婚約し、日を置かず結婚することになった。
二人は婚約と同時に会社に辞表を出し新たな人生をスタートさせた。さらに女になったわたしはわたしの両親に結婚を報告したが、目の前の息子は嫁であり、嫁のわたしが二人の息子ですとは絶対に明かせない秘密だ。両親はわたしのことを、この子は少し違うと感じていてまともに結婚することが出来るのか心配していたらしいが可愛い嫁さんを連れてきたことで一安心したようだ。もちろんあり得ない「からくり」のことは話せないし話してはいない。しかし仮に話しても冗談もいい加減にしろと笑い話になりそうだ。一緒に暮らすなら何か感じてしまうかもしれないが年に何度も会う訳じゃない。また彼女の両親にも、二人で丹念にリハーサルを繰り返し無事何事もなく顔合わせが出来、わたしの両親同様何も知らず心から祝福してくれた。
二人は好むと好まざるとに関わらず究極のナルシストということだ。わたしは女になり男だった自分の元肉体を愛し、男になった元の持ち主の肉体をわたしの元の身体で女になったわたしを愛してくれる。あり得ない関係がもとに戻らないことを祈りながら幸せを謳歌しているわたし達だ。
アニメ「君の名は」で男女の人格が入れ替わるシチュエーションでストリーが展開されるが、わたしの作品「あり得ない関係」はそれが公開されるだいぶ前に書き上げていた。しかし発表する意思も場もなく、一人で読み返す、自画自賛の明け暮れだった。「君の名は」を見て、あら、この設定はわたしが先なのにと思い後付けながら書きおきます。