生よ、俺を呼んでくれ
読者の方の「命」に対する考え方を是非感想で教えて頂きたく思います
「死んだって。自殺だったって」
それは悲哀を題材にした小説ならば、いったいどれほどの言葉をもってその絶望をこの世に刻み込もうとしただろうか。どれほどの言葉で飾って、枯れない悲しみの花に色を塗りたくるのだろうか。きっとそれは百の言葉を重ねてもなお、現実には遠く及ばないからこその必死の抵抗なのだろう。
けれども現実はまったくもって色を帯びない。なぜならその誰もがそれを現実であることを望みはしないのだから。さながら報告書。情報はある。しかしそれは何一つの現実を匂わせる肉を帯びない。
だから問い直すのだ。
「なんて言った」
求めもしない現実を、けれどもあまりにも現実味を帯びないその言葉の世界からの孤独感ゆえに問い直す。
それ以降の会話に意味などない。無味で簡素。もっとも確認したくないがゆえに確認をするだけの様式。
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その瞬間に涙などはなかった。頭の中には無数の何故の問いがあふれては吐き出され、そしてまたあふれる。自分にできたことといえば、一人教室を内側から締め切って、誰の名も持たない窓際の席に身を投げて、冷え始めた11月の夜の吐息を招き入れることだけだった。
どうして。
―きっと不安だったんだろう。将来とか―
自分を見下ろす、どこまでも無機質な自分がそう答える。
そんな簡単な言葉であらわせるわけもない。どうして。
ーわからないー
なんで。
ーわからないー
思考はひたすらに迷宮を彷徨う。同じところを何度も歩いていることなんて、とうの昔に理解している。それでも問い続けなければならない。
―こういうときは悲しくて泣くもんじゃないのか。泣けないのか。冷徹なやつだ。お前、人としておかしいよ―
嘲笑する声に耳鳴りがする。けれどその声は真実を語っていると思った。この瞬間にも頭のどこかで冷静な自分を作り出して俯瞰する、その様に嫌悪感がこみ上げる。
それでも涙はこぼれない。無慈悲なる思考は感情の願望を遠く置き去って、ひたすらに迷宮を歩む。
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俯瞰者としての自分がなおも冷酷に嘲笑し続けた自身の悲哀は、当然ながら長続きなどしない。異様な空気をまとう己の原因を、集う皆に伝えなくてはならないのだから。
「あいつが、死んだって、電話が」
無味乾燥な事実の報告として受け取り、思考の中で繰り返しその現実性を投げかけては否定の壁に跳ね返ってきたその事象は、この瞬間初めて自らの言葉という現実を得、放たれた。否、放たれようとした。
言葉は完成を見ることなく、どこからか発せられた嗚咽によってかき消された。
―ようやく泣けたな。悲劇の主人公みたいでいい感じだ―
―やっぱりみんなも泣いてるな。浮いてないな―
他人事のように語りかけてくる。けれどそれはどうしようもなく自分自身の思考であることは、このような状況下においてでさえはっきりと理解できた。
夜闇の秋風は、体に冷たさと嫌悪を置き去りにして吹き去っていくのみだ。
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葬式というのは断じて死者のためのものなどではない。それは死者の肉体との対面を通して、堅牢で動かしようのない、どうしようもない真実を、現実に対して楔として打ち込む儀式だ。
行けば何もかもが終わってしまう。しかし行かなければ何もかもが始まらない。生にとっても、死にとっても必要不可欠なそれに、必要だとわかってなお精神は拒む。
それでもどうにか体が動いたのは、単純極まりない、今一度会いたいという、それだけだった。
そうして始まった命の儀式は、あつまったそれぞれの魂に、それぞれにとっての物語の最終章を刻み込む。
棺の中で、花に埋め尽くされたその顔は、口の中にこびり付く赤と対照的に穏やかに眠っていた。
死のまさにその瞬間、何をその目に移したのか。それすらももはやわからなくなってしまう。わからないからこそ、生き続けるからこそ、彼の死を問い続けねばならない。
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今になってもまだ問い続けている。答えはない。思考の迷宮は二歩先すらも見えないのに、遥か先まで出口がないことはわかる。
空は言うまでもなく、その時々で表情を変える。青ざめたような晴天、幸せ太りした雲海、生命をはぐくむ雷雨。そのどれもが彼の死など知らない顔して世に憚る。
世界はどうしようもなく不幸や絶望に埋もれているが、それとは全く無関係に無数の小さな幸せが満ち溢れている。どうしようもない絶望と、奇跡的に無関係ゆえに人は生き続ける。
例えば好きな漫画の最新刊が出る。例えば明日は好きなチームが勝つ。未来もまた奇跡的な不確定さによってあらゆる幸せを演出し得る。世界は人が生きるのに疲れるくらい負の条件を満たしていながら、同時にそれでもなお生きることに意味を、楽しみを、価値を見出せる程度には優しい。
死神はだからきっと、後ろからそっと人の目を覆い隠して包み込むのだろう。そうして日常への、世界への、他者への、自身へのまなざしを失ってしまう。
それは死神の少しばかりの悪戯ですらない、ただの偶然なのだろう。あるいは死神にとっての優しさですらあるかもしれない。だからその抱擁に人は抗わない。
誰にも平等にささやきかけるだろう。それは今、まさに今生について訳知り顔で語る聖職者においてもだ。だからもし、自分もまた同じように死神の掌に眼を奪われたならば。
どうか
生よ、俺を呼んでくれ