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Something XXX

作者: 青柳朔

 ノースモアの末娘が三歳になる、祝いの席のことだった。春の陽気は小さな姫君を祝福するかのように降り注ぎ、花々はいつもよりも大人しく、けれど華やかに世界を彩る。領主自慢のうつくしい庭には、今日の主役を祝う人々がたくさんやってきていた。


「――かわいそうに」


 あたたかな太陽が、厚く重たい灰色の雲に隠れた一瞬だった。突如その魔女は現れて、憐れむように呟いた。

「その子は今も昔もこれからも、愛されてばかりで、人を愛することがない。愛し方を知らない人間になるだろう」

 ざわりざわりと周囲がざわめく。魔女はそんなもの気にも止めずに、夜の闇よりも深い黒のドレスを翻し今日の主役へ近づいた。

 サフィニア・ノースモア。

 ふわふわとした亜麻色の髪に、青空のような澄んだ瞳のまだいとけない姫君だ。

「おまえにひとつ、呪い(しゅくふく)をやろう」

 魔女の黒い爪が、サフィニアを指し示す。幼い姫君の青い瞳はきょとんと魔女を見上げていた。

「十七になるまでに真実の愛を見つけなければ、おまえは永遠にやさしい眠りの中を彷徨うだろう」



 とある領主の末娘は、愛されすぎて魔女に呪われた。

 御伽噺のようなふざけた現状がまさにサフィニアをとりまく現状だった。いつだって周囲はサフィニアを憐れんで、そして愛し続けた。

「まぁ呪いが解けなかったところで眠り続けるだけでしょう?」

 当人はけろりとした様子で言い放つ。憐れむ周囲がいっそむなしくなるほどにサフィニアは平然と年を重ねていた。

「……お嬢様、ずっと寝たまま目が覚めなかったら美味しいものも食べられないし、綺麗な花も見ることができないし、こうやってお話することも外に出かけることもできないんですよ!?」

 サフィニアの暢気な発言にぷんぷんと髪の毛を逆立てて怒るノーマは、サフィニアが呪いにかかる前からこのノースモア家に仕えている庭師の娘だ。十歳を過ぎた頃から彼女も父の手伝いをしていて、十五歳になった今では半人前と呼べるくらいにはなった。

「だって、ずっと怖い夢を見続けるなら嫌だけど、魔女のいうことにはやさしい眠りとのことだし。案外しあわせなんじゃないかしら」

「もー! それ絶対に旦那様の前で言わないでくださいよ!?」

 ショックで寝込んじゃいますからね!? とノーマはぐちぐちと文句を言いながら花壇の雑草を抜いていく。そのうちの一本が引き抜かれたときにサフィニアが「あ」と声をあげた。

「その草も、かわいい花が咲くのに」

 庭師にとっては目の敵である雑草だが、小さな白い花が咲くのだ。残念そうにも聞こえるその声に、ノーマはまだ抜いていない同じ雑草を見た。

「……お嬢様がお好きだっていうんなら、残しますけど?」

「好き? ……うーん……よくわからないわ」

 ノーマの問いに、サフィニアは困ったように首を傾げた。

「じゃあ抜きます。わざわざ花壇に植えてなくても、そこらへんにたくさん生えていますから」

「そうねぇ……」

 魔女が告げたとおり、サフィニアはイマイチ「好き」とか「嫌い」とかが理解できなかった。それはそんなに重要なことだろうか、とさえ思う始末だ。

「……お嬢様は、どの花が好きですか」

「どんな花もかわいいと思うわ」

「じゃあ、どんなものが食べたいですか」

「どんなものでも美味しいと思うわ」

 にっこりとサフィニアが答えると、ノーマは悲しそうに目を伏せた。そばかすの散った頬を見つめながら、サフィニアはノーマがそんな顔をする理由がわからない。

「……そんなんじゃ、お嬢様の呪いはいつまでたっても解けないじゃあないですか」

「あら、私だってちゃあんと調べているのよ?」

 ふふん、と誇らしげに胸を張るサフィニアに、ノーマは顔を歪ませた。ころころと表情の変わる忙しい顔だ。

「……まさか、まだ続いているんですか? あのフィリップ・リグリーとかいうあの変な学者との手紙のやりとり」

 何がどうまさか、なのだろう、とサフィニアは不思議で仕方なかった。

 フィリップ・リグリーは呪いに関する論文をいくつも発表していて、関連する書籍も多い。それなのでサフィニアはこの奇妙な呪いはどうにかならないものかと十四歳のときに手紙を出した。書籍の奥付にファンレターの宛先が書いてあったのだ。ファンレターではないが良いだろう、と送ったサフィニアの手紙にはしっかりフィリップ・リグリーの名で返事が届いた。


『拝啓、小さな姫君。君はとても不思議な呪いにかかっているようだね』


「リグリー先生はとても良い方よ?」

 最初の手紙をきっかけに、十六歳になった今でもやりとりは続いている。

「まさかまさか、その学者が好きとか言いませんよね!?」

「お会いしてことのない人が好きかどうかなんてわからないわ」

 手紙でのやりとりしかしていないのだ。どんな顔をしているのか、髪の色も瞳の色も知らない。そんな人を好きかどうか気になるなんてノーマは相変わらずおかしなことを言う。

「そ、そうですか、よかった……」

「ノーマったら。好きなものがないとダメだって言ったり先生のことは好きになっていたらダメっていったり、ワガママね」

「それはそれ! これはこれ! です!」

 そういうものかしら? と不思議そうな顔をしているサフィニアに、ノーマは念を押すように何度も頷いた。

「サフィニア!」

 名を呼ばれてサフィニアは振り返った。赤毛の少年が手を振りながら駆け寄ってくる。

「ダニー! 何度言えばわかるよ! お嬢様って呼びなさい!」

「いいじゃん別に。サフィニアがいいっていうんだからさ……」

 ダニーはいつだってノーマの怒鳴り声は聞き流している。

「あんただって使用人なんだから! 立場はわきまえなさいよ、もう十四歳でしょ!?」

「うるせぇな! 大人の前ではちゃんとしているよ! 臨機応変ってやつだよ!」

「……私は別にいいのだけど。ダニー、何かご用?」

「あ、ああそうだ。旦那様が呼んでいるんだ。なんか大事な話みたいで」

 大事な話。

 領主であるサフィニアの父の大事な話は幅広い。避暑地はどこにしようかとか、サフィニアの新しいドレスはどんなものがいいかだとか、そんなに大事なことだろうかということもよくある。

「……ついにお嬢様にも縁談かしら」

 ノーマが神妙な顔で呟くと、ダニーは「はぁ?」と声をあげた。

「そんなわけないだろ。この国でサフィニアのことを知らない奴なんていないぜ?」

 ノースモア家の末娘は魔女に呪われている。この領地だけでなく、貴族階級には知れ渡っている事実だ。

「あんたね、呪いのことがなければお嬢様はとっくにお嫁に行ってもおかしくないんだからね! オリヴィアお嬢様なんて十五歳でご婚約が決まって十六歳になってすぐにお嫁に行ったじゃないの!」

「そうねぇ、オリヴィア姉様が嫁いでもうすぐ三年なのねぇ」

 暢気なサフィニアの声は二人にはさっぱり聞こえていないらしい。お姉様はお元気かしら、なんて思ったけれど、そういえば先週もたくさんのお菓子を持って帰ってきていた。

「でもお貴族様は呪いとか嫌なんだろ?」

「あんたねぇ! このままじゃお嬢様は」

「大丈夫だって! な、なんならさ。俺がお嫁にもらってもいいし。そうすりゃ呪いだってとけるよ!」

 なっ! とダニーは照れながらもサフィニアを見たので、サフィニアは微笑み返した。

「まぁ、ダニーったら。呪いは結婚するのではなくて、真実の愛を見つけなければとけないのよ?」

 ダニーの笑顔が凍りついたのは言うまでもないが、サフィニアはそんなことに気づかずに「お父様が呼んでいるんだったわね」と踵を返した。


 領主である父の部屋にはいろんなものがある。とりわけ多いのは山のように積まれた書類や資料だ。

「ああ、よくきたなサフィニア。座りなさい、お茶にしよう」

「お仕事はよろしいの? お父様」

「仕事よりもこちらのほうが大事だ」

 サフィニアがぼんやりする間もなくお菓子とお茶が準備される。香り高い紅茶は父の好みであってサフィニアの好みではない。サフィニアは好き嫌いはないので。

「……おまえに縁談がきた。変人で有名な、かのメイトランド伯爵だ」

「まぁ」

 ノーマの言っていたことが当たったわ、とサフィニアは目を丸くした。

「おまえはどうしたい、サフィニア」

 どうしたも何も、領主の娘としてこういう縁談がくることは知っていた。何しろ姉のときがそうであったから。

「私の呪いのことを承知の上でのお話なら、お受けしてくださってかまいません」

 嫌だとも思わないし、嬉しいとも思わない。会ったこともない人をどう思えというのか。変人という噂だが、変わっているという点ではサフィニアも負けていない。

「……伯爵はたとえおまえの呪いがとけなかったとしても、よいと言っている」

「それはつまり、眠りこけた私の面倒を見てくださるということでしょうか?」

 十七歳までに真実の愛を見つけなければ、サフィニアは覚めない夢の中に囚われる。その期限まで、もう一年を切っている。

「そういうことになる……いいんだな?」

「ええ、もちろん。むしろそんなに懐の広いお相手は他にいないと思います」

 貴族階級の結婚は政略がほとんどだ。そのなかで真実の愛を望むほうが珍しい。眠り続ける花嫁などお飾りにもならないのだから、当然サフィニアのもとに縁談はやってこなかった。




 メイトランド伯爵とノースモアの末娘の婚約は、それから一月ひとつきもしないうちに発表された。乙女がときめく婚約式は省略され、半年後に控えたサフィニアの誕生日の前日に結婚式を挙げることになった。何もかもが異例の早さで縁談は進められた。それもこれも、サフィニアの呪いのせいである。

「……縁談がきたそうね、サフィニア」

 父から話を聞かされて一週間ほど経った。サフィニアの向かいに座り、憂い顔を見せるのは従姉妹のダリアである。

「ええ、そうなの。さすがに寝たまま式を挙げるわけにいかないから大忙しで」

「お相手はあのメイトランド伯爵だっていうじゃない。家柄は立派だけど、お屋敷には使用人が全然居着かないっていうし、この間なんて変な柄の服を着ていたって噂だし、本当にいいの? もっと良い縁があるんじゃないかしら」

 伯爵との結婚が決まってからというもの、会う人には必ず同じことを言われる。だがそれがサフィニアにはさっぱり理解出来なかった。

「そうかしら。私の呪いを承知の上で、結婚したあと眠りこけたままになってもいいなんて方はそうそういないと思うの」

 貴族社会においての妻の役目は数多い。寝こけているだけでもいいなんて、なるほど確かに変わっているが――サフィニアにとってはそれが救いでもあった。

「ねぇ、サムシングフォーはどうするの?」

 ダリアの問いかけに、サフィニアは「ああ」と答えた。

「古いものは、お母様からウェディングベールを。新しいものは、お父様からウェディングドレスを。借りたものは、お姉様からレースのハンカチを。青いものはお兄様がサファイアのブレスレットを用意してくださるって」

 すらすらと答えることができるのは、家族から毎日のように聞かされているからである。

「準備は万全ってことね」

 ふふ、とダリアは楽しげに笑った。

「……でも、サフィニアにはそれだけじゃ足りなさそうねぇ」

 クッキーに手を伸ばしながらダリアがぽつりと呟いた。

「そうかしら? 十分すぎるくらいだと思うけど……」

「だって、貴女は呪われたままなのよ? もっとたくさんの人からしあわせになりますようにって祈ってもらったほうがいいわ」

 そこで、と言わんばかりにダリアは微笑んでひとつの包みを取り出した。

「それ、あげるから。式で身につけてくれると嬉しいわ」

「……ねぇダリア、結局のところそれが言いたかったのね?」

「だって、借りたものといえば友人から借りるのが普通じゃない!? 悔しいから私もまぜて」

「お姉様が譲らなかったんだもの……それにダリアだって結婚はまだでしょう? これは?」

 手のひらにおさまるほどの小さな包みだった。

「蛍石のイヤリングよ。それくらいなら邪魔にもならないでしょう?」

「ええ、綺麗ね。ありがとう」

 綺麗な細工を施された蛍石は式につけても遜色ないほどのものだった。ダリアはそっとサフィニアの手を取り、両手で包み込むと祈るように額に押し当てた。

「何かひとつ、輝くものを。サフィニアの進む道が暗闇に閉ざされても、光を失わないように」

 目を伏せて祈るダリアをサフィニアはただただ見つめるしかなかった。


 与えられる愛は、これでもかというほどに感じている。やさしさであったり、ぬくもりであったり、それは様々な形をしているけれど、愛と呼んで間違いないのだろうと、サフィニアは思う。

 ただサフィニアの心はそこまで大きく振れることがない。ただずっと、平穏なままだ。


 ダリアの屋敷から自分の屋敷へと戻り、薄暗くなり始めた夕暮れ時の庭を歩く。ダリアからもらった蛍石は暗がりに反応してぼんやりと光を帯びていた。

「まぁお嬢様、それは?」

 道具の片付けをしていたらしいノーマがサフィニアの持つ蛍石に気づいて問いかけてくる。

「ダリアからいただいたの。サムシングフォーにかけて、暗闇でも光を失わないように輝くものをって」

「ああ、ダリア様が……」

 納得した顔でノーマが頷いた。じぃっと蛍石を見下ろして、やがてノーマはおずおずと口を開いた。

「……それならお嬢様、私からも何かひとつ、差し上げても良いでしょうか」

「まぁ、ノーマも? もちろんよ、嬉しいわ」

 サフィニアが嬉しそうに笑うと、ノーマもほっと胸を撫で下ろすように微笑み返した。サフィニアはあまり気にしないが、たかが使用人とこうして親しく話すことすら、普通の令嬢ではありえない。呪われているせいだろうか、それともサフィニアのもともとの気質なのだろうか――おそらく後者なのだと誰もが思っている。だからこそ、サフィニアは家族にも屋敷の使用人たちにも愛されていた。

「お式までに用意しますから、必ずもらってくださいね」

 念を押すノーマに、サフィニアはもう一度「もちろんよ」と頷いた。メイトランド伯爵のもとへ嫁げば、ノーマにも会えなくなる。侍女ならば連れていくこともできただろうが、ノーマは庭師だ――しかも見習いの。とても連れてはいけない。

「なんの話?」

 不思議そうに首を傾げながらダニーが二人に話しかけてきた。あちこち服が土で汚れているのでノーマの手伝いをさせられていたのだろう。

「ダニー……立ち聞きなんて紳士的じゃないわ」

 ノーマがじとりとダニーを睨みつけるけれど、そんなものはいつものことだとダニーは素知らぬ顔をしている。

「ノーマがね、私の結婚式のときに贈り物をしてくれるって話をしていたの」

 一見険悪そうなノーマとダニーのやりとりはサフィニアにとっても日常のことだった。サフィニアはダリアからもらったイヤリングを見せてダニーに説明する。

「贈り物?」

「そう、サムシングフォーにかけて。私は呪われているから、四つじゃ足りないでしょうってダリアが始めたんだけど」

 皆は心配性ね、とサフィニアは微苦笑するけれど、ダリアの意見にはダニーも賛成だった。サフィニアが結婚することは嫌だけれど、不幸になるのはもっと嫌だ。呪いがとけないままなのも、もちろん嫌だった。

「なら、俺も贈ってもいい?」

「ちょっと、変な物贈るつもりじゃないでしょうね」

 あんた何を言い出すの、とノーマは眉を顰める。幼い頃からの付き合いだ、ダニーの趣味なんて当然熟知している。少なくともご令嬢にプレゼントできるようなものを彼が選べるとノーマには思えなかった。

「変な物ってなんだよ。こういうのは多い方が効き目ありそうじゃん」

「そりゃそうだけど……お嬢様にお見せする前にあたしが確認するから」

 なんでだよ、といつものように口論する二人を微笑ましく眺めながら、サフィニアは東の空に浮かび始めた星を見上げた。空は赤から青へ、青から藍へ、闇の色に染められていく。

「お嬢様、大事な婚礼を前に風邪でも召されたらたいへんです。早く屋敷に入りましょう」

 すっかり冷たい夜風が吹くようになっていたことに気づいたノーマがサフィニアを急かした。空を見上げたままサフィニアは、そうね、と相変わらずぼんやりしたまま答える。ノーマはこんなときいつも思うのだ。お嬢様は、まるであたしたちとは違う世界を見ているようだ、と。重なり合っているけれど、違う世界。だから、お嬢様があたしたちを愛することはないのだ、と。

 屋敷に入ると家令がサフィニアに一通の手紙を差し出した。

「本日お嬢様宛てに届いておりましたよ」

「まぁ、リグリー先生からだわ」

 素っ気ない封筒に、少し癖のある字は見慣れたものである。招待状などと違って厚みがあるのは、便箋を何枚も使っているからだ。

 嬉しそうに手紙を受け取ったサフィニアに、ノーマは顔を曇らせる。

「お嬢様、ご婚約者がいる身で男性と手紙のやりとりをするって……大丈夫なんですか?」

「大丈夫もなにも、リグリー先生とは呪いのことしかやり取りはないのよ?」

 伯爵に邪推されるようなことは一切ない。男女のあまやかなものなのではないのだから、何を心配する必要があるというのか。

「それはもちろん、まさか学者なんかと恋のやりとりをしていらっしゃるとは思いませんけども、殿方によっては不快に感じる方もおられますし」

「……そう、そう……かしら」

 届いたばかりの手紙を見下ろして、サフィニアはどこか寂しげに呟いた。

「結婚後も続けるわけにはいかないのですから、もうおやめになったほうがよいと思いますよ」

 結婚後。続けるも何も、呪いがとけなければサフィニアは永遠に夢の中だ。呪いがとければもちろん、リグリーとのやりとりは必要なくなる。

「……そうね」

 ――御機嫌よう、小さな姫君。君の呪いの具合はいかがかな?

 そうやって始まる手紙を、心待ちにしていたのだと今更ながらに気がついた。呪いを憐れむ人は多けれど、それを気にせずむしろ冗談めかして話してくれる人はいなかったのだ。だって、サフィニアは愛されていたから。愛してくれる人々は皆、呪いを憂いていた。




 ウェディングドレスには純白のレースをふんだんに使い、金糸と銀糸で緻密な刺繍が施された。母から受け継いだウェディングベールは今もなお繊細な形を保ったまま、新たな花嫁を飾るためにどこか誇らしげである。

 ほぼ完成したドレスはうつくしかった。この数ヶ月で準備は驚くほど順調に進んでいた。

「お嬢様!」

 慌てた様子の侍女が駆け込んできたのは、そんなときである。

「メイトランド伯爵が、当家にいらっしゃるそうです……!」

 舞い込んできた突然の知らせに、ノースモア家の人々は慌てふためいた。ただひとり、サフィニアを除いて。

「まぁ、どうして? 式はまだ先のはずだけれど」

 変人伯爵の考えることなど、常識的なノースモアの人間にわかるはずもない。伯爵は既に出立していて、明後日には到着するという。

「こちらに向かっているのだからしょうがない。急いで準備を!」

 サフィニアの父は疲れた表情でてきぱきと指示を出し始め、母も料理人とあれこれと打ち合わせをしている。のんびりとした屋敷は一瞬にして騒がしくなった。サフィニアの婚約が決まったとき以上の騒ぎだ。

「まったく! やっぱり変人はどうやっても変人ですね! こんなに突然訪問するなんて!」

 ノーマが声高に文句を言いながら庭の剪定をしている。サフィニアはその姿を見ながらそこは切っていいところなのかしら、このままだと木が素っ裸になってしまわないかしら、とどこかズレた心配をしていた。

「確かに突然で驚いたけれど、婚約期間は短いし、結婚したら私は眠りこけてしまうわけだし、少しでも交流を持とうと考えてくださるのは当然かと思うけれど……」

 少しでも未来の妻となるサフィニアを知ろうとしてくれているのなら、それはそれで紳士的だと言えなくはないと思う。この際手段は置いておくとして。

「呪いがとけないことを前提にしないでください!」

 剪定鋏を握ったままノーマが振り返る。危ないわよ、とサフィニアは平然としながら注意した。

「だって……ねぇ、ノーマ。真実の愛って一カ月や二カ月程度で見つかるものなのかしら?」

「そ、それは……」

 サフィニアの問いに、ノーマは口籠もりやがて目を落とした。

 愛されることは知れども、愛することは知らない。そんなサフィニアが真実の愛を見つけるのに、一、二カ月程度では足りないように思える。サフィニアは冷静にそのことに気づいていた。

「……確かに、難しいかもしれません。呪いはとけないかもしれません。けれどお嬢様。どうか、最後の一瞬まで諦めないでください」

 どうか、お願いです。ノーマの一生のお願いですから。

 今にも泣き出しそうなノーマに懇願され、サフィニアは困ったように笑った。その顔は諦念を滲ませている。

 だって、ねぇ。

 ……呪いは、必ずとかなければならないの?




 変人と有名なメイトランド伯爵こと、エルヴィス・メイトランドがやってきたのは澄んだ青空のうつくしい日のことであった。サフィニアは空を飛ぶ小鳥に見惚れて窓から身を乗り出していたところで、かの伯爵を乗せた馬車に気づいたのだ。

 馬車から降りたった青年は、二十五、六歳といったところだろうか。鈍い銀の髪がまるで冬の曇り空のようだとサフィニアは思った。

 夜会で変な柄の服を着ていただとか、珍妙な髪型をしていただとか、とにかく奇怪な噂の絶えない人物ではあるが、そんな前情報を抜きしてもごくごく普通の青年に見えた。いったいどうしてそんな噂がたったのか不思議なほどである。

 何と言っても一応は自分の夫となる人だ。屋敷の二階の窓からだから気づくことはあるまい、とついつい穴が開くほど伯爵を凝視していたからだろう。その、伯爵の紫の目がサフィニアをとらえた。

「御機嫌よう、レディ・サフィニア。あまり窓から身を乗り出さないほうがいい。たとえ君が羽根のように軽かったとしても、君が落ちてきたら私には受け止められないだろうからね」

 それは声を張り上げたわけでもないのに、しっかりと響く不思議な声だった。サフィニアはしっかり見られていたのだということと、自分がサフィニアであると気づかれていたことに驚いた。今日の空と同じく澄んだ青い目をまあるくして「まぁ」と呟く。

「御機嫌よう、メイトランド伯爵。よく私がサフィニアだとお分かりになりましたね?」

「簡単なことだろう。君には姉君がいるが既に嫁いでいる。ノースモア家でそのような貴婦人らしいドレスを着た令嬢となればサフィニア・ノースモアしかありえない。……はじめまして? 婚約者どの」

 なるほど伯爵は頭が良いらしい。それに随分と口も達者だ。よくもまぁそんなにすらすらと言葉が浮かぶものだ。

「そんなに穴が開くほど見つめなくても私は火を吹いたりしないし空を飛ぶこともないが?」

「あら、申し訳ありません。想像よりもずっと素敵な方だったので驚いてしまって」

 正直に答えたサフィニアに、伯爵は笑った。

「なるほど、私の未来の奥方はお世辞がうまいらしい」

 まぁ、とサフィニアが目を丸くする。お世辞だなんて。

 心外だ、サフィニアはお世辞なんて言わないし素直に思ったことしか口にしない。そう反論しようとしたところで、背後の扉のほうから「お嬢様!?」と慌てた侍女の声がした。

「あああ危のうございます! 早く窓から離れてくださいませ!」

 侍女からすればサフィニアが窓から随分と大胆に身を乗り出しているように見えただろう。想像力豊かな者ならば、呪いを嘆いたか急な結婚を憂いて身投げしようとしているようにも見えたかもしれない。

「あら、大丈夫よ落っこちたりしないわ」

「そんな暢気になさらずに!」

 ぐいぐいと侍女に腕を引かれてサフィニアは仕方なく窓から離れる。最後に伯爵を見下ろすと、彼は意味深な笑みを浮かべたままこちらを見上げていた。


 何故か伯爵はそのままサフィニアの住む屋敷に滞在することとなった。

 伯爵自身は近くに友人の屋敷があるのでそちらに――と言っていたのだが、お行儀よくしていた伯爵にサフィニアの父はすっかり気を許してしまって、いやいやぜひうちに、と話をまとめてしまったからである。父はいったいどんな化け物がやってくると思っていたのだろうか。やって来たのが予想より遥かにまともな青年だったから警戒心が吹き飛んでしまったらしい。

「君は見る限り健康体で、呪いにかかっているとはとても思えないな」

 サフィニアのために日当たりのいい場所に置かれた長椅子に腰かけながらサフィニアが読書を堪能していると、いつの間にやってきたのだろう――伯爵がまじまじとサフィニアを観察していた。

 ふわふわとした亜麻色の髪。澄んだ青空のような瞳。ふっくらとした頬は薄紅色で、唇は摘みたての薔薇のように瑞々しい。細すぎることもなく、かといって太りすぎているわけではない、少女らしい身体つきはとても不健康には見えない。

「それは当然かと思いますわ。呪いにかかっている本人も、自覚はないんですもの」

 三歳で魔女に呪われて、まもなく十七歳になるという今の今まで、サフィニアは呪われている、という自覚はない。

「呪いはとけそうかね?」

「いいえ、さっぱり。申し訳ありませんけど」

「君はこんなに愛されているのに。……愛され過ぎているからこそ、呪われたわけだが」

 伯爵は苦笑して、サフィニアの向かいに腰を下ろした。鈍い銀の髪は日の下でわずかにきらきらと輝いていて綺麗だ、とサフィニアは思う。

「……伯爵は、どなたかを愛したことはございますの?」

 まるで愛とは何か、と語り出しそうな伯爵にサフィニアは問いかけた。そんなサフィニアににっこりと伯爵は微笑んだ。

「伯爵という呼び方はいただけないな。仮にも私と君は婚約していて、まもなく夫婦になるというのに」

「では、なんとお呼びすれば?」

 首を傾げたサフィニアの真似をするように、伯爵も首を傾けた。まるで鏡のようだった。

「いっそ旦那様でもいい。少し気が早いが、君の呪いがとけなければ呼ばれないままになってしまうからね」

 冗談めかして笑う伯爵に、サフィニアはなるほど一理あるかもしれないと思った。どうせもうすぐそう呼ぶようになるのなら、慣れるためにも今から呼び始めてもよいだろう。

「では旦那様。旦那様はどなたかを愛したことはございます?」

 照れた様子もなく再び問いかけたサフィニアに、伯爵は目を丸くして、わずかに驚いたようだった。すぐにくすくすと笑いだして頬杖をつく。

「――愛。愛、ね。そりゃあ君より長く生きているのだから、当然誰かを愛したこともあるだろうさ」

「曖昧な言い方をされるんですね」

 ご自身のことなのに、とサフィニアが不思議そうにしていると、伯爵は表情を変えずけろりと言い切った。

「曖昧なものだからね」

 あれ、とサフィニアは違和感を覚えた。どこかで聞いたような話だ。誰かにも同じようなことを言われたような気がする。

 ――君にかけられた呪いは愛なんて随分と曖昧なものを絡めたものだね、と。

「……リグリー先生」

 思い出した。リグリーとの手紙のやり取りのなかで似たことが書いてあったのだ。

「うん?」

 ぽつりとリグリーの名を呟いたサフィニアに、まるで返事をするように伯爵は微笑みながら頭を傾けた。

「あ、いえ……呪いのことで手紙のやり取りをしていた方からも、似たことを言われたと思い出しまして」

「『君の呪いはたいへん面白い。魔女と呼ばれる者たちは今やすっかりと隠れ生きるようになり、ここ五十年は表に出てきた者がほとんどいない。そんななかで魔女に呪われた君は実に幸運で実に不運だ。本来呪いというものは日常の些細なことから死に至るものまで様々ではあるが、君にかれられた呪いは愛なんて随分と曖昧なものに絡めたものだね』」

 伯爵の口からすらすらと出てくる手紙の内容に、サフィニアは言葉も出ないほどに驚いた。一言一句覚えているわけではないが、それは間違いなくサフィニアのもとに届いたリグリーの返事の内容と同じだったのだ。

 どうして、とサフィニアが音もなく唇を震わせた。

「どうしても何も、私がフィリップ・リグリーだからね」

「え? ……え?」

 サフィニアは自分の耳を疑った。空耳だろうか、なんて思うことははじめてかもしれない。

 伯爵と話していると、驚かされてばかりだ。

「呪いの研究を実名でやるといろいろ面倒なことになると友人に助言されてね。隠しているわけではないが、私がフィリップ・リグリーと知る人間は多くないかな」

 伯爵ともなるといろいろ制約があっていけない、と溜息を零している姿に、サフィニアはまだ目を白黒させている。

「で、では、伯爵は私のことをご存じだったんですね」

「ご存じも何も、君のことは有名だと思うがね。呼び方が戻っているよ奥方殿」

「そういう意味ではなく――」

 フィリップ・リグリーとの手紙のやり取りは二年以上続いている。サフィニアはもともと筆まめだったし、リグリーからの返信もそう間をおかずに届いた。

「少し意地悪だったかな。まぁ、そうだね。名を偽っていたとはいえ君と手紙を送り合っていたのは私で間違いないよ。君も、私がフィリップ・リグリーだとすればこの結婚も納得いくのではないかね」

 フィリップ・リグリーは呪いに関して数々の書籍を世に出している。呪われたサフィニアに興味を持つのは当然のことだ。サフィニアにとっては都合の良すぎる「呪いがとけなくてもかまわない」という条件もつまりはそういうことなのだろう。

「……私は実験にでも使われてしまうのかしら?」

 実験となると痛いのだろうか。痛いのはあんまり嬉しくない。ああでも、決して冷めないという眠りのときに痛みを感じるのだろうか。

「人をマッドサイエンティストのように言わないでもらえるかな」

 心外だ、と言いたげに苦笑いを浮かべる伯爵に、サフィニアは「あら」と微笑んだ。伯爵のことはよく知らないけれど、リグリー先生のことは知っている。

「でもリグリー先生なら毎日観察するくらいのことはなさるのではないかしら」

「それは否定しない」

 素直にあっさりと認める伯爵にサフィニアは嫌な顔をしない。むしろサフィニアの呪いが解けてしまったら彼としてはつまらないのではないだろうか。だって伯爵がリグリー先生なら、呪いの研究の足しになる妻のほうがずっと役に立つような気がする。

 寝ていても役に立てるなら、呪いが解けなくても心苦しくなる心配がない。




「――サフィニア」

 明日には式だというときに、サフィニアは庭でダニーに呼び止められた。近頃は何かと忙しくてあまり彼と話す機会がなかったのだ。

「まぁ、ダニー。なんだか久しぶりね」

「……サフィニアは忙しそうだから。あのさ、これ」

 ダニーがもごもごと口籠もりながら、短剣を差し出した。シンプルな、それでいてサフィニアの手にも馴染むほどの大きさのものだ。

「これは?」

「何か贈り物するって、約束しただろ」

 短剣を受け取ってサフィニアが首を傾げると、ダニーは憮然として唇を尖らせた。短剣の柄は模様が彫られている。

「なにかひとつ、守るものを。どんな悪意からもサフィニアを守りますように」

 短剣を握るサフィニアの手に自分の手をそっと重ねて、ダニーは祈るように告げた。

「たとえ伯爵が守ってくれなくても、これで最低限は身を守れるだろ」

 ふん、とダニーがぼそりと呟いた声はサフィニアの耳には届かなかった。

 ありがとう、とサフィニアは素直にお礼を言って大事そうに短剣を握りしめる。これくらいの大きさならドレスの下に隠して式のときにも身につけられるだろう。

 サフィニアは贈り物のことなどすっかり忘れていたのだが、ダニーは覚えていてくれたのだ。昔からダニーはサフィニアよりしっかりしていて、何度も助けられている。

「……今のは?」

 屋敷に入った途端に伯爵に声をかけられて、サフィニアは目を丸くした。

「今の、とは?」

「先ほどの少年は」

 伯爵は今しがたサフィニアが入ってきたばかりの玄関を見つめて付け加えた。その目線の先を追うようにサフィニアも先ほどのことを思い出して「ああ」と頷いた。

「ダニーのことですか。彼はうちの使用人で……。お守りをもらったんです」

「お守り?」

 訝しげに伯爵はサフィニアの持つ短剣を見下ろした。確かにお守りと言えなくもないが、サフィニアのような少女が持つにはいささか物騒だ。

「ええ。旦那様は、サムシングフォーはご存知ですか?」

 サフィニアの問いに伯爵は「もちろん」と笑った。

「呪いの類いは専門分野だけど? それは新しくも古くも青くもないね。彼に借りるのもおかしいし」

「ふふ、皆心配性で。私は呪われているから四つでは足りないんですって」

 他にもあるんですよ、とサフィニアはくすくすと笑った。説明不足ではあるが伯爵はそれだけでおおよそのことを理解できた。

「なるほど? (のろ)いに対してまじないでどうにかしようと……そこまで考えてなさそうだけど。確かに効果はあるかもね。本来どちらも同じものだ」

 望みの方向性でそれは呪いにもなる。正か負か。それだけの違いだ。人にとっては祈りでも、他の人間には呪いになるかもしれない。

「あら、呪いがとけてしまったら旦那様は困ってしまうのでは?」

「……なぜ?」

 サフィニアが不思議そうに首を傾げるのに、伯爵は張り付いたままの笑顔で問い返した。

「呪いの研究のために私と結婚なさるのでは?」

「……さすがにそこまで人生を研究に捧げたつもりはないな」

 苦笑まじりのその言葉に、サフィニアは何度も瞬きを繰り返した。あれ、でも。それではおかしい。

「それは、どういう――」

「そうだな、それなら私からも君にまじないをあげようか」

 伯爵は流れるような仕草で、サフィニアの短剣を持っていない左手を恭しく持ち上げた。その細い指先にかすかな口づけを落とす。

「なにかひとつ、変わったものを」

 変わったものをプレゼントするなんて、本当に伯爵は噂通りの変わり者だ、と思ったところでサフィニアはすぐに答えに行き着いた。

「まぁ、それは貴方のことでしょう? 旦那様」

 伯爵から贈られる、変わったもの。変わったものといえばメイトランド伯爵その人以上に変わったものなどあるだろうか。

「間違ってはいないだろう? 私は君のものに。君は私のものに。結婚とはそういうものだ」

 告げるが早いか行動するのが早いか。伯爵はそう言いながらぱくりとサフィニアの人差し指に甘く噛み付いた。驚いたサフィニアが手を引っ込めると、素直に伯爵は解放する。

 手を食べるなんて、伯爵は本当に変わっている。どくどくとこれまでになく驚く心臓を抑えるように胸で短剣を抱き込んで、サフィニアは言葉を探した。けれど頭がうまく回らなくて何も言えない。

 伯爵は魔法使いなんだろうか? 今なにか、サフィニアに魔法でもかけたのだろうか?

「では奥方殿、また」

 くすくすと楽しげに笑いながら伯爵はさっと部屋へと戻っていく。未だに落ち着かない心臓にサフィニアは困惑しながら、ほぅと長く息を吐き出した。

 もしかしたら呪いがとけないまま、眠りこけてしまうほうが安全かもしれない。このまま伯爵と一緒に暮らすようなったらサフィニアの心臓はいつか壊れてしまいそうだ。


 そのまま部屋に戻って少し経った頃、サフィニアが部屋でぼんやりとしていると扉を叩く音がした。

「は、はい?」

「お嬢様、今よろしいですか?」

 それは、ノーマの声だった。突然の訪問者に驚いていたサフィニアもほっとしながらどうぞ、と答える。

「失礼します。以前約束していたものを持ってきたんですけど……どうしたんですか?」

 部屋に入ってきたノーマがサフィニアの顔を見るなり眉を寄せた。問いかけられたサフィニアは訳が分からずに目を丸くする。

「何が?」

「顔が赤いですけど……熱でもあります?」

 そっと歩み寄ってきたノーマはサフィニアの頬や額に触れてみるが、熱はない。

「ちょ、ちょっと火照っただけだと思うの。それでノーマの用件は……サムシングフォーの?」

「四つじゃありませんけどね。そうです」

 ノーマは手に持っていた小さな包みをサフィニアの手のひらにおいた。青い小袋はサフィニアの瞳の色と同じだ。

「これは?」

「お嬢様の名前と同じ、サフィニアの花の種です」

 袋の中に入っていますよ、とノーマは微笑んで、サフィニアの両手でその袋を包み込んだ。サフィニアの手に自分の手を重ね、そして額に押し当てる。

「なにかひとつ、芽吹くものを。あなたのこれからはじまる愛が、確かに花開きますように」

 まるでその仕草そのものが、愛を誓うようだった。

 サフィニアはいつだって愛されている。両親に、兄姉に、友人に、屋敷の使用人たちに。それの溢れるほどの愛は、サフィニアを守り続けている。

「……ありがとう、ノーマ」

 噛みしめるようにサフィニアが告げると、ノーマは嬉しそうに微笑む。

「ちゃんと、お式で持っていてくださいね」

「もちろんよ。全部ちゃんと身につけておくわ」


 ――時々、サフィニアは思うのだ。

 魔女は、愛し方を知らないサフィニアを呪ったのではなく、サフィニアが誰も愛せないように呪いをかけたのではないかと。

 そうでもなければ、なぜサフィニアはこんなにも何かを愛せないのだろう。愛されているのに。その分だけ、愛し返したいのに。


 ぼんやりとした顔のサフィニアは、そんな娘を心配する両親のあたふたした様子にも気づかずに夕飯を終えた。とぼとぼと部屋に戻るサフィニアの背中は迷子のように心細げだ。窓の外に見える月すらサフィニアの心を慰めてはくれない。

「浮かない顔だな、奥方殿」

 いつの間にいたのだろう。サフィニアの隣で伯爵はサフィニアを見下ろしていた。

「……リグリー先生」

 サフィニアが伯爵をそう呼んだのは無意識だった。

 伯爵は何も言わず、ただ紫の瞳でサフィニアを見つめる。その目を見上げながら、サフィニアは「どうして」と独り言のように呟いた。

「……私は、どうしてこんなに愛し方がわからないんでしょう。こんなにも愛されて、それは確かにわかるのに、それと同じだけ返すことができないなんて」

 欠陥品のようだわ、とサフィニアは目を落とした。

 愛されている。こんなにも、愛されているのに、同じように愛することができない。

「……愛を返すと考えている時点で、君は最初の一歩を踏み間違えている。愛は愛されたから返すものではない。いとおしい存在へ与えるものだ。手紙のように送って送り返してなんてやり取りをするものじゃないよ」

 伯爵はサフィニアの肩に自分の上着をかける。屋敷の中とはいえ夜の廊下は冷える。上着から感じるぬくもりに、サフィニアは自分の身体が冷えていたのだと気づいた。

「君の場合、いつだって与えられ続けてきたから自分から与える余裕がなかっただけだろう。愛に報いたいと思う君に欠けたものなどひとつもない」

 大きな手がサフィニアの頬を撫でる。くすぐったくてあたたかくて、サフィニアはほっと息を吐き出した。

「今日はもうおやすみ。明日花嫁が浮かない顔をしていると私が何かやったんじゃないかと疑われてしまいそうだ」

「リグリー先生は紳士です」

 きっぱりとサフィニアが言い切ると、伯爵は楽しげに首を傾けた。

「へぇ? ではメイトランド伯爵は?」

「……旦那様は、少し意地悪です」

「よくわかっていらっしゃる。ほら、部屋まで送ろう」

 くすりと笑って伯爵が差し出してきた手にサフィニアは自分の手を重ねた。まるで明日の予行練習のようだ。

 触れているところがあたたかい。じわりじわりと伝わってくる熱は、サフィニアのものか伯爵のものか。

「……旦那様。私の呪いがとけなければ、どうしますか?」

 なぜそんなことを聞いたのか自分でもわからなかった。けれどサフィニアは気づけば口を開いていた。

「どうもこうも」

 伯爵は動じた様子もない。その瞳はただ前を見ている。まっすぐすぎるくらいのその目を、サフィニアは魅入られるように見つめた。

「何年何十年かけても、呪いをとく術を見つけるよ」

 私は呪いの専門家だからね、と笑う。

 呪いなんてとけなくても――そう思っていたはずなのに、伯爵の言葉が頼もしいとサフィニアは微笑む。

「安心しなさい。そんなことにはならないだろうから」

「まぁ、どうして?」

「さて、それは明日のお楽しみかな」

 伯爵はいつもの意地悪そうな笑みを浮かべて、サフィニアの額にキスをする。気づけばもうサフィニアの自室の前まで来ていた。

「おやすみ、奥方殿」



 真っ白な新しいウェディングドレス。ドレスを飾るレースは触れたら壊れてしまいそうなほどに繊細で、胸元の刺繍は金と銀の糸で模様を描いている。サフィニアの亜麻色の髪を覆うベールは母から受け継いだものであり、純白の手袋をした細い手首にはシルバーとサファイアで出来たブレスレットがある。絹のハンカチは姉から借りたもので、ノーマからもらったサフィニアの種と一緒にこっそりと忍ばせている。ドレスの下には、物騒かもしれないがダニーからもらった短剣もある。耳元は蛍石で出来たイヤリングが時折思い出したようにキラキラと輝いていた。

 祝福に包まれて、サフィニアは今日という日を迎えた。

 サフィニアのうつくしい花嫁姿に父も母も涙ぐみ、兄にいたってはやはり嫁なんかにいかなくてもと言い出して姉に叱られていた。使用人の皆も口々に綺麗ですよお嬢様、と微笑んでいる。

 もう間も無く、やってきた神父の前で伯爵とともに愛を誓う。未だサフィニアは愛という感情を掴めずにいるのに。

 伯爵はうつくしかった。この人をどうして変人なんて言えるだろうと思うほどにうつくしい花婿だった。鈍い銀の髪は太陽の下でやさしく輝いていて、地上に星が落ちてきたみたいだとサフィニアは思った。紫水晶アメジストのような瞳に見つめられると、どこかそわそわして落ち着かなくなる。

「さぁ、花嫁殿。さいごにひとつ、あなたに変わったものを」

 くすりと笑いながら伯爵は手を差し出す。思わずサフィニアも笑ってしまって、その手を取った。

「旦那様と一緒にいたら、きっと毎日が楽しくて仕方ないのでしょうね」

 だって、伯爵がやってきてからずっとサフィニアは楽しくて仕方ないのだ。退屈なんて無縁で、時間がいくらあっても足りない。

「明日からそうなる」

「まぁ、それは楽しみです」

 私は眠りこけているかもしれませんけれど、という言葉は飲み込んだ。この場に、今日という日に、それは相応しくない。

「サフィニア」

 耳をくすぐるような伯爵の声に、サフィニアは息を飲んだ。

「君が私の花嫁でうれしい」

 まるで少年のように笑って、伯爵は告げた。途端に落ち着いていたはずのサフィニアそわそわがまた湧き上がる。だって、旦那様が突然そんなこと言うから。心臓がダンスをした後のようにどくどくしている。触れ合う手が熱くて、胸が苦しくて、サフィニアははく、と唇を震わせた。

 ――うれしい。

 サフィニアだってうれしい。

 結婚する相手が伯爵で。伯爵が、リグリー先生で。うれしい、すごくうれしい。

 ああ、呪いなんてなければよかった。

 ああ、でも呪いがなければ出会えなかった。

 死が二人をわかつその日まで、伯爵と一緒に笑いあえたらいいのに。

 こんなこと思うのは初めてだった。


「……どうしましょう、旦那様」


 そこでサフィニアの頭にはひとつの答えが落ちてきた。

「どうした?」

 もう神父のもとへ行かなければというときに、サフィニアが突然立ち止まるので伯爵は不思議そうに見下ろした。

 サフィニアはうるんだ瞳で伯爵を見上げる。

「私、あなたのことがいとしくてしかたないみたいです」

 いとしくて、こいしくて――言葉はどんなものでもいい。

 じわりじわりと胸に染み込んでくる熱は、これは、もしかすると愛だろうか。

「……私、あなたのことを愛しているみたい」

 しっかりと言葉にしてみると、驚くほどあっさりとサフィニアの胸に落ちていく。すとん、とまるでそれはいつもそこにあったかのように馴染んでいた。

「それは良かった。明日の朝にいつまでも目覚めない花嫁の姿に嘆くことにはならずにすみそうだ」

 ふ、と笑う伯爵に、サフィニアの緊張もほどけていく。でも、でも、とサフィニアの不安は完璧には消え去ることはできなかった。

「でも、こんな、こんな簡単なことで呪いはとけるものです?」

「それなら心配はいらない」

 困惑するサフィニアに、伯爵は自信ありげに笑った。


「姫君にかけられた呪いは、愛する者の口づけでとけると決まっている」


 ――誓いのキス(のろいがとける)まで、あと少し。



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