第6話 往日の記憶
1週間に1回くらいの投稿ペースになると思います
何分、遅筆なものですから。
あの日は激しい雨だった。歓喜で狂乱する人々のさなか、自分は膝から崩れていた。全ての努力は無駄に終わった。何の意味もなくなった紙切れを握りしめていた。
一体、自分が費やした一年は何だったのか。全てを犠牲にした一年は、無駄に終わった。
様々な感情がひしめく群衆を掻き分け、帰路に着いた。その時にビニール傘は失くした。いや、捨てた。
最寄りの駅までの道のりは、あまりにも長いものだった。一歩一歩が重しを付けたように重かった。コンクリートに体が沈んでいくようだった。
反対側から歩いている人間達が、自分を嘲笑している気がした。自分の歩みが段々速まっていったのを覚えている。
気付けば、住宅街の十字路に佇んでいた。歩く人は無く、ただ一人だった。
頭の先から足の先まで、全てを濡らして佇む自分は、どう見えたのだろうか。掌中にある紙は雨でぐしゃぐしゃになっている。文字は滲んで、読めそうにはなかった。だが、それを捨てる気にはならなかった。これを捨てては、自分を完全に否定してしまいそうだったからだ。
歩き回って公園を見つけた。もちろん、雨だから誰もいるはずがない。遊具がたくさんある公園だ。地元の忘れられた公園とは違っていた。
自分は、雨粒がたまったベンチに腰を下ろした。そして空を眺めた。
空はすっかり鉛色だった。一片の晴れ間もない。大粒の雨が地に降り注いでいた。
こういう空は好きになれない。
これからどうしようかと考えた。自分の予想した未来とは別の未来が勝手に歩きだしていた。
あの日のことは、今でも自分にまとわりついてくる。自分の手足に絡みついて、後にも先にも進めなくする。
あの日以来、何事も続かなくなってしまっている。続けても、結局は無駄に終わる。そういうことを知ってしまったからだ。
とはいえ、何もしないことは世間が許さない。未来ある若者は、将来、世間に貢献することを求められる。自分には逃げ場がなかった。全てから逃げ、全てを諦め、未来に希望を持つことを強要されずに生きることができれば、自分は甘んじてそれを受け入れただろう。だが、そんな環境は、自分には用意されていなかった。
逃げようとしたこともあった。だが、それを手伝ってくれる者はいなかった。陰に身を潜めようとも、陽の下に引きずり出される。空しき抵抗は、すぐに意味のないものと気付き、やめてしまった。
いつしか、自分は目的も目標もなく、ただ毎日を過ごしていた。
低い目的に、低い目標。それを目指すのは嫌だった。しかし、もともと目指していた境地が自分の全てだったうえ、それを否定されて以来、今までの目標を目標とするのは嫌になっていた。
かといって何も目指さないのは、逃げ道がない自分にとって許されないものだった。だから世間体を優先して、今までの目標を目指しているふりをしていた。
起きて、勉強して、寝る。その繰り返し。そんな生活を数か月、続けていた。
「楽しい?」
「いや、全然」
そんな自問自答が繰り返される。
唯一の楽しみは、毎朝、公園で空を見ることだった。晴れ間さえあれば、それでよかった。何物にも変わることない、雄大な空が羨ましかった。
日課となったこの行動を咎める人はいなかった。誰も自分がこんなことをしているとは思ってはいないだろう。自分はこんなことをしていることを誰にも話していないし、話すつもりもない。
そえは、日々の生活でも同じだった。
誰とも話すことは無い。誰にも話しかけることもない。ただ一人、世間を歩いて行く。
それでも、他人の評価は気にした。他者の肉声は気にしないのに、他者の視線は気にする。人によっては滑稽に見えるかもしれない。おそらく自分も、自分を俯瞰すればそう感じるだろう。だが、自分にとって他者の視線は、絶対の規律、守られるべき法そのものだった。
そんな自分に、時々、語り掛ける声がある。
「逃げようよ。逃げれば楽になるよ」
どこに? どこに逃げ道があるというんだい。
「そんなもの、作ればいいじゃないか」
自分には無理だよ。逃げ道が作れるくらいなら、こんなに思い悩んでいないさ。
「だから、ダメなんだよ」
ダメなのは知っている。それが自分なんだ。
「自由になりたくはないの?」
失敗した自分には、自由になる権利なんて、到底ない。過去にも、未来にも。
こういうことを考えても、何も変わることは無い。自分の惨めさが際立っていくだけだ。どんどん自分が嫌いになる。
誰も救ってはくれない。そんなことは分かりきっているし、どうにもこうにも、最早自分は、救いようがなかった。誰が失敗した人間を、高く評価するだろうか。
こんな自分を必要とする人間はいない。人は、「価値のない人間はいない」というが、そんなことは無い。価値なき人間はここにいる。
これからの未来を想像できない。自分の未来予想図はとうに崩れている。だから、どの点から検討しても、自分の価値は見出すことができない。そして、それを指摘する人間もいないのだから、自分の価値が無いことに間違いはないのだ。
「そうだよ。自分はダメな人間なんだ」
知っている。そんなこと。
「そんなこと言っても、どうしようもないよ」
そうだね。どうもできないさ。
「でもね」
女性の声に変わる。
「ユウ君は頑張ったよ」
うるさい。
「そうさ」
男性の声に変わる。
「ユウは頑張ったんだ」
うるさい。
「そうだよ」
少女の声に変わる
「お兄ちゃんは頑張ったんだから」
うるさい。
黙れ。
「なんでそんなふうに言うの」
「なんでそんなことを言うんだ」
「なんでそんなことを言うの」
声は、三方から自分を貫く。
「何もしないくせに」
「何もできないくせに」
「何もやらないくせに」
黙れ。黙れ。黙れ。黙れ、黙れ、黙れ、黙れ!黙れ!黙れ!
「ねえ、聞いてる?」
黙ってくれ!
聞きたくない。お前の言葉なんか。聞きたくない。