第5話 亡失の行方
「消えた?」
ローブの男は、メイナの攻撃によって蒸発したわけでなく、消えたのだ。
「消えた。男が、一瞬にして、どこかに」
メイナは震えている。メイナは男の居た場所を凝視したままだった。
「見てたでしょ。ねえ、ねえ!」
メイナは自分の服の裾を掴む。その手が震えていることが伝わってくる。
「怖いの……、やっぱり行かないで」
メイナは、自分の身体に顔を押し付けた。泣いているのかもしれない。自分は、メイナが落ち着くまで頭をなでることしかできなかった。
あの男は、一体どこへ消えたのだろうか。それに、あの男は一体何者なのだろうか。分からない。
メイナだけが脱出できない部屋と消失したローブの男。あの男がいつ再び現れるかの予測がつかないのに、メイナはこの部屋が脱出することができない。自分はこの部屋から脱出することができるが、メイナを置いて逃げることができるだろうか。先程までと状況が違いすぎるのだ。ローブの男はいなくなってはいない。また現出し襲い掛かってくることだろう。
こうなると、自分は何もすることができない。メイナが放っていたような魔法が使えれば、メイナを守ってあげることができるのかもしれないが、魔法を使えそうな気配はない。自分は元の世界の自分と何一つ変わらないようであった。だから、というのは言い訳がましいが、男が現れたときに自分は何もすることができなかった。それどころか、少女に守ってもらう形になっていた。
異世界に来た人がその世界の人を元の世界の知識で助けるという小説はよくある。その主人公がチート能力を持っていて、その力で人助けをする小説もある。どちらにせよ、転移した世界の人を助けている。だが今の状況で、自分はメイナを守ることができるだろうか。何の攻撃手段はない。無為無策に突撃しても先程のように飛ばされるだけであろう。
やはり何もできそうにない。自分にできることは、怯えているメイナをなで続けることくらいだった。
時間は刻々と過ぎていく。メイナは自分にくっついたまま離れようとはしなかった。雨だけが相変わらず音を立てていた。
自分もメイナも緊張の糸を切らすことは無かった。出口を背にして、部屋の隅々を見た。まるで部屋そのものが幽霊であるような、居るだけで生気を吸い取られていく空間だった。
メイナは魔法を2回放った影響か、自分にその体重の半分以上を預けており、呼吸の周期は短かった。
早くこの状況を脱しなければならないとは思うが、できそうなことなど一つもない。魔法のない世界から来たのだから、魔法が使えないことは当然なのであるかもしれないが、それでも魔法を使えたらという気持ちがあった。
メイナの助けにならないことと、あの日までの自分はどこか重なると思う。だが、そうであるのは仕方のないことだ。人は一日では変わらない。例え、異世界に飛ばされても。
自分達は、道端に捨てられた猫のように、ただ怯えて時が過ぎるのを待つだけだった。
雨音は先程よりも小さくなってはいるが、雨はまだ止んではいない。部屋の中には大きな水たまりができていた。
「ねえ」
メイナが話しかけてきた。落ち着いてきているようだが、依然としてこちらの服の裾を強く握りしめたままだ。
「これから、私たち、どうなるのかな」
「さあ……」
「死んじゃうのかな。殺されちゃうのかな」
「わからない……」
水浸しの室内はあまりにも静かだった。この静謐さに隠された脅威は、未だに姿を見せることは無い。何も起きないということが、気を張り詰めることを強いていた。
止まない雨はない。始まりがあれば終わりがある。なんだってそうだ。しかし、雨は止みそうにない。止むのはあの男が現れた時で、そしてそれは更なる嵐を呼び寄せることに他ならない。
やはり、現状打破の方策は立たないのだった。いくら考えていても仕方がないとは思うのだが、考えることしかできることは無いのだ。
泡沫のような会話が途切れてから数分経った。雨音に雷が混ざり始めていた。
メイナが袖を掴む力は弱まってはいなかった。雷が鳴るたびにその力はいっそう強まっているような気がした。
5、6回雷が鳴った後だった。
バンという音が響いた。
その音がどこから聞こえてきたのか、見当はつかない。だが、それは明らかに人工物が放った音だった。乾いた音が部屋中に響いたのだった。
自分もメイナも、その事態にあたりを見回した。散乱した石片は自分が落ちたときのままで、何も変わっていなかった。何か変わっていたのかもしれないが、それに気付けるほどの変化ではなかった。
平静な水面に石が投げ入れられ、波紋を広げるように、自分達の平静は奪われる。メイナの呼吸は激しくなり、苦しそうだ。
「落ち着いて!」
自分はそう言い、メイナの首元に手を回し自分に引き寄せた。メイナの瞳孔は開き、呼吸音はどんどん大きくなっている。
かくいう自分も、落ち着いてはいられなかった。これから何かが起こる、その予感が、脳内を占めていた。
「離してあげなよ。子猫ちゃんが怖がっているじゃないか」
黒いローブの男が再び立っていた。右手には長身の銃を持っている。
「ほら、離せよ。ボクの子猫ちゃんだぞ」
刹那、男は銃を両手で構えたかと思うと、引き金を引いた。自分のすぐ後ろの壁が砕ける音がした。
「ちぇっ、外したか。使い辛いな、これ」
男はフードを脱いだ。それと同時に、再び銃を構えた。
「動かないでね。動くと当たりづらいから」
銃口はまっすぐこちらを向いている。自分は、怯えるメイナを自分の後ろに隠した。メイナは服の裾を離しそうにない。メイナの呼吸は一層激しくなっている。
「いいね。これで害虫駆除が捗る」
フードを脱いだ顔には笑顔があった。それは狂気じみたものだった。
バンという乾いた音が響く。弾は今回も外れた。どこに着弾したかは分からなかった。
「ちぇ、また外した」
男は足元の小石を蹴った。それは自分の足に当たった。
「もっと近づくか」
そう言って、男は歩きだした。一直線に自分達の方角へ向かってくる。
「く、来るな!」
自分は、メイナがそうしたように両手を目の前に差し出した。
「そ、それ以上来てみろ。魔法で殺すぞ」
はったりだった。魔法の使い方なんて知る由もない。しかし、武器がない以上、男の歩みを止める手段はこれくらいしかなかった。それに動くことは、メイナがぴったりとくっついているので、ままならなかった。
「男っていうのがこういうことをしても醜いだけなんだよ。女の子がそうするから可愛いの」
男の歩みは止まらない。
「はったりだね。女の子の方がもっと上手に嘘をつくよ」
男はどんどん近づいてくる。
「どいてもらえるかな。虫と抱き合う趣味はないんだ」
男はもう、自分の目の前にいた。
「どけ。不快だ」
男は持っていた銃を構える。その銃口はぴったりと自分の額に当たっている。
「ど、どくもんか」
「いいの? どかなくて」
完全に足がすくんでいた。動こうにも動けない。声を出すのがやっとだった。
「子猫ちゃんがキミの血で赤く染まっちゃうよ」
「それでも、どかない」
「へえ、キミは血塗れの女の子が好きなのかい?」
「守るんだ……、今度は自分が……」
自分がやれることは、身を呈してメイナを守ることくらい。ろくでもない人生だったが、最後に女の子を守って死ねるのなら、それでもいいのかもしれない。もはや腕を伸ばす気力は無かった。伸ばしていた腕で銃を振り払うことなど、考えるに至らなかった。なにもかも、諦めていた。
「キミが死んだら子猫ちゃんを堪能させてもらうよ」
男は舌なめずりをした。狂気じみた笑顔は、脳裏に焼き付いて離れそうにない。
「ああ、そうだ。一つやってもらわなきゃね」
男はそう言って、引き金に手をかけたまま話し続けた。
「ボクの名前はシュレムラ・アルテラズ。神様によろしく言っておいてね」
瞬間、乾いた音が部屋中に響き渡った。