第4話 黒衣の男
黒ローブの男の表情を読み取ることはできなかった。深々と覆うフードが、表情の認識を阻害していた。
この男がいつ、どこから現れたのか、少女は視認していたのだろうか。それは、少女に聞いてみないとわからない。
「うーん。力加減を間違えたかなあ。思ったより飛ばなかったなあ」
ローブの男は、そう言って、自分たちに接近してくる。
「動くな」
少女の威圧する声が響く。その声は少し震えている。
「それ以上近付いてみろ。私の魔術が貴様を貫くぞ」
男の足取りは警告を意に介してはいなかった。
「子猫ちゃん、そんな怖い顔しないでよ。ほら、ボクの胸に飛び込んできなよ、そしたら安心できるよ」
そう言い、男は足取りを止めることなく、両手を広げつつ、まっすぐ少女の方へ向かっている。
「光の精霊よ。我に力を与え給え。我は誓約す。汝の力をして、邪悪なる影を打ち払わんことを。ルネイテン=アーロマイテ。光の矢よ。我が敵を射抜け!」
これが、自分が初めて魔法と認識できた魔法であった。詠唱中、無数の白い光球が、少女のもとに集まってきていた。それは、ビー玉位の大きさから、バスケットボール大の大きさまで、大小さまざまの球であり、完全な球体をしたものや、いびつな楕円形のものまであった。そして、少女が手を前に差し伸べると、無数の光球は少女の前に集い、一本の、先が細い矢のようなものになった。刹那、光の矢は放たれた。
光球からの光によって、視界はほとんどなかった。懐中電灯に使う白熱電球を直に見ているような状態であり、瞼を閉じても、その明るさがよくわかるくらいであった。
反射的に目をつぶってから、視界が正常になるまで数秒かかった。誤って太陽を直接見てしまった時のようであった。
男の姿はなかった。男の影は一切見えなかった。あの魔法で消し飛んだということなのだろうか。男の後ろの壁には大きな窪みができていた。それほどの威力だったということだ。
人を蒸発させるような魔法。それを一個人が持つ世界。それに入り込んだ自分。どう考えても、異質で適応性が無いのは自分だ。
少女はその場に座り込んだ。100mを全力疾走したように、肩で息をしている。
「こんなのを君は、自分にもぶち込むつもりだったのかい」
少女は大きく深呼吸をして、息を整えてから、答え始めた。
「いざとなれば、そうしてたわ。でも、ユウはあの黒いローブを着てなかった」
「でも、首を絞めてきたじゃないか」
そうして、少女に絞め殺されかけたわけだ。
「それについては悪かったわ。ごめんなさい。でも、あの時はああするしかなかったの。君が敵だかどうだか分からなかったから。雰囲気が違いすぎたのよ。異端派とね。ユウも見たでしょ。あのローブの男を」
「ああ」
「ユウは、あの異端派の仲間じゃないかと思ったの。けれど、私に危害を加える様子はなかった。だから様子を見たの。それに、脅せばどうにかなると思ったのよ。見当違いだったけれどね」
それは、自分が弱そうだと思われたということなのだろうか。まあ、無理はない。ここ最近、ろくに運動をしていないのだから。だが、少女に弱そうに思われるほど自分が弱いのではなく、少女が強すぎるだけではないのかという可能性もある。何せ、即座に魔法で敵を消し飛ばすくらいの力を持っているのだから。
「それにね、魔術は、威力は高いけど、その分疲れるの。ところで、ユウは魔術を使えるの?」
「いや、使えない」
「まあ、そうよね。貴族らしくないもの」
貴族らしさと魔法と、何か関係があるのだろうか。聞いては見たかったが、今聞く話題ではないように思えたのでやめた。
「とにかく、異端派は退治できたわ」
「君のおかげで助かったよ。ありがとう」
「どういたしまして。あ、あと、ユウ、一ついいかな」
「なにかな?」
「私のこと、名前で呼んでくれないかな。そっちの方がしっくりくるんだよ」
女子を名前で呼ぶことはしたことがない。だが、あまり気恥ずかしさは感じなかった。これは、ただ単に人との交流不足、こういったことへの鈍感さが、良い方に働いただけだろう。
「わかった。君……、じゃなかった、メイナ、これからどうしようか」
「そうね。ここから脱出することを考えないとね。いつ、あの異端派の仲間が来るか分からないし」
「そうだね。メイナ、窓から逃げるっていうのはどうなんだ?」
窓から逃げるという手はある。しかし、ここは地上まで距離がある。そのまま落ちることは、自殺することと何も変わりはない。何かロープのようなものがあれば、降りることができるのかもしれないが、例えそんなものがあったとしても、結びつけるところがないのだから、結局、無用の長物には変わらなさそうだ。ダメ元でメイナが良い案を持っていないか質問したのだが、返ってきた答えは「無理だと思うよ」だった。
「何か他にいい案はありそう?」
「そうねえ」
「こう、空を飛んでいくような魔法はないのか?」
「魔法にはないと思うけど、魔術にはあるかもしれないわね。でも、全ての魔術を学んだわけじゃないから、私は知らないわ。」
やはり、脱出口は、この出口だけ――これを少女は通れないのだが――ということになるのだろう。
「やっぱりこうするしかないようね。ユウ、君にお願いがある」
少女は改まって言った。
「ユウが、助けを呼んできてくれない?」
当然の提案だった。結界がどういうものかはよく分からないが、とにかく少女はその結界に阻まれ、外に出れない。他方、自分は結界に阻まれることなく外に出れる。それに、全身を打った時の痛みはもう引いていて、行動には全く支障はなかった。
「そうだね。それがいいと思う」
ただ、気がかりなのは、先ほどのように、メイナが異端派とか、マルティス派とか言っていた、黒のローブを着た男がまた来ないかということだ。まあ、いらない心配だろう。そのローブの男は、メイナの一撃で、葬り去られたところだ。他の人間が来ても、メイナ一人で対処できることだろう。
「じゃあ、決まり。なるべく早く帰ってきてね。一人は寂しいから」
「ああ」
こうして自分ひとり、異世界の冒険が始まる。そう思った。しかし、そうはいかなかった。
「随分と二人は仲がいいんだね。妬いちゃうな。やっぱり、隣のボクは子猫ちゃんのカノジョなのかな?」
そこには、先ほど倒したはずの、黒いローブの男が立っていた。先程と同じところに、何一つ傷をつけずに立っている。
「ボクは、男が嫌いなんだ。醜いからね。それにこれは、どこから湧いてきたか分からない、害虫みたいなもんだよ。汚いよねえ。可愛い子猫ちゃんの隣に、こんな虫がいることにボクは耐えられないんだ。だから、そんな虫はボクが排除してあげる。だから邪魔しないでね、子猫ちゃん」
男は再びこちらに向かって歩みだす。今度は、自分の方につま先を向けていた。
「動くな」
メイナは、手を前に差し出していた。メイナがその気になれば、即座に術式が発動するのだろう。
「また、私の魔術を喰らいたいのか」
メイナの警告に、男は今度こそ足を止めた。一方のメイナには、ある種の余裕が出ていた。先程、男を撃退できたからかもしれない。まあ、それを成しえてはいなかったのだが。
「大丈夫。子猫ちゃんは殺さないよ。だからそんな怖い顔をしないでよ。ほら、スマイル!」
男は、表情の見えないローブのなかに両手の人差し指をさした。少しだけ口角を上げているのが見えるが、なんだか気味が悪く、すぐに目を逸らしてしまった。
かくいう、目の前の変人に笑顔を勧められたメイナの答えは、「黙れ」という言葉だった。
「貴様の目的はなんだ」
「黙れと言いながら喋れというのか。これだから子猫ちゃんは」
「そんなことどうでもいい。話さなければ殺す」
「スマイルもいいけど、その表情も、グッとくるね。やっぱり女の子はどんな顔でも可愛いよね」
男の表情は分からない。フードの闇に隠された表情を、想像したくもない。
「ああ、そうだ。子猫ちゃんの魔術は素晴らしかったよ。中級魔術ってとこなのかな。ボクの魔法じゃ、どうにも太刀打ちできそうにないや」
「ならさっさと話しなさい。さもなくば、私の魔術が貴様を貫くわ」
「ほら、スマイル、スマイル」
「黙れ」
少女の周りには、すでに白い光球が無数にあった。
「詠唱破棄か、すごいね。さっきは身構えてしまったけれど、今度はその隙もなさそうだね」
確かに、先ほどの詠唱中、男は出方を伺っているように足を止めていた。メイナがどんな魔法を放つか、見当がついていなかった可能性が高い。
「さっさと観念しなさい」
「子猫ちゃんが笑ってくれたら、話してあげるよ」
「ふざけていると、殺すわよ」
少女の周りに更なる光球が集まる。もはや、光の矢の一端が形成されつつあった。
「薄情だなあ。まあ、今の顔も可愛いから許してあげる」
男は数歩後ろに歩くと、そこに立ち止まった。そこは、男が出てきた位置とほぼ同じくらいの場所であった。
「早く、その魔術を解いてはくれないか。こちとら、怖くて、話せるものも話せなくなってしまうよ」
「口数が減らないのによく言うわね。すぐに話せば、恐怖も終わるわよ」
「うーん。なかなかこういう女の子っていないから新鮮だなあ。こういうのも結構いいね」
男は再びこちらに歩み寄ってきた。
「ボク、いいこと思いついちゃった。子猫ちゃんみたいな子の顔をね」
男の表情は相変わらず分からないが、声には気持ち悪さがにじみ出ていた。
「恐怖でぐちゃぐちゃにしたら、どんなに可愛いだろうってね!」
男は、速度を変え、走り出した。いきなりの加速に一瞬、メイナはすくんだ。しかし、すぐに態勢を立て直した。
「ルネイテン=アーロマイテ。光の矢よ。我が敵を射抜け!」
次の瞬間、光の矢が射られた。先程よりも大きな矢が、男に向けて放たれた。
矢の明るさで瞼を閉じた目を開くと、男の姿はなかった。壁の穴は貫通し、雨水が入り込んでいた。
メイナは、再び息を切らした。両手を地面につけ、肩で息をしている。そこには、恐怖の表情が混ざっていた。
「なによ、あれ。幽霊か何かなの……?」
メイナは地面に向かってそう吐き捨てる。
「私が魔術を放った瞬間、あの異端派は、すぐに、いなくなったんだ。消えたんだよ。異端派の姿が」