第2話 最悪の出会い
青い目が見つめている。動くものも動かないものも、全て見つめている。今にも自分を殺しそうな少女を、ただ見つめることしかできない。冷たい瞳が全てを凍らせる。風の音だけが生きていた。
「何者だ?」
両手を下ろすことなく、威圧は続く。風のさざめきが、いっそう激しくなる。
「貴様は何者だ!」
少女の声が鼓膜に届くまで、数秒かかったような気がした。重くゆがんだ空気で、音が遅くなっている。
「答えろ!」
少女の周りの光球が、いっそう輝き始めたような気がした。自分の身体は何かに貼り付けられたかのように、動かすことができなかった。
「答えなければ、殺すわよ」
少女の両手が自分の首元の近くまで迫っていた。銃を突きつけられているかのように、両手を突きつけられていた。
「早く答えろ!」
銃を突き付けられた時、こうやって死への恐怖に包まれるのだろう。少女は両手を突きつけているだけだが、少女の息の荒さと血走った眼、そして少女を包む無数の光球が、言いしれぬ恐ろしさを表していた。
冷たい汗が頬を伝う。必死に言葉を紡ぎだそうとするが、どれも言葉にならなかった。口を動かすことはままならなかった。
「もう一度だけチャンスをやる。貴様は何者だ。答えろ」
言葉が出てこない。音のない声だけが、口から発せられていた。
そうこうしているうちに、少女の指先が、自分の喉元にぴったりとくっついた。爪先が喉をチクリと刺す。
「答えろ!」
言葉の威勢とは裏腹に、無数の光球はその輝きを失っていった。100ワットの電球を20ワットの電球に変えたかのように、その光は次第に失われていった。
少女はこれに驚いたかのように周りの白球を見渡していた。この隙に逃げられたのかもしれないが、足がすくんで逃げるどころではなかった。
「何をした」
少女の爪先は、一層喉に食い込んでくる。少女の碧眼は、自分の両目を離してはくれなかった。
次の瞬間、少女の手のひらが喉元を囲んだ。そのまま全体重をかけられバランスを崩し、自分はあおむけに倒れた。そのまま、少女の手は頸部を絞めあげようとした。
自分はそれに抵抗し、少女の手を必死にほどこうともがいた。その甲斐あってか、少女の手を少し緩めることに成功したが、呼吸はままならない。僅かな吸気で捻りだした答えは、「何もしていない」という一言だった。
「何をした、貴様」
「何もしていない。その手を放してくれ、早く」
プライドも何もない、必死の懇願だった。少女に反撃することよりも、首を絞めている手をどけることが最優先だった。
「本当だ。信じてくれ」
少女の瞳は、依然として感情をむき出しにしている。自分は、殺意の排除を試み続けている。
「知らない。自分は何も知らないんだ」
「なら、貴様は何者だ」
「言うから。言うから首を絞めるのをやめてくれ」
やっと、少女の腕が首を絞めるのをやめた。自分は数回せき込んだ。
思考の整理のため、少し時間が欲しかった。見ず知らずの少女にいきなり首を絞められては、冷静になれるはずがない。少し黙り込んで考えてしまった。
自分は何者なのだろうか。とりあえず学校は卒業した。しかし行く先はない。何にも所属しない。浮いた存在だ、と。
「答えたくないのね?」
「え。いや……」
「だったら、何なのよ」
答えがまとまらないからだった。だが、答えればならない。再び首を絞められては、今度こそ窒息死してしまいそうだ。
「楡丘悠」
「ニレオカユウ?」
「名前だよ。自分の」
これ以外に答えはない。自分は自分に他ならない。
「異端派ではないのね」
「異端派?」
「マルティス派のことよ」
「マルティス派?」
「知らないの?」
「知らない。残念ながら」
何が何でも答えなければならないような義務感に駆られていた。先程まで自分を殺しにかかっていた相手だ。警戒は続けねばならない。いつ殺意を向けられ、殺されるかは分かったものではない。
「君こそ何者なんだ?」
「私が誰か知らないの?」
「知らない」
自分は、こんな銀髪碧眼の少女を知らない。こんな端正だが荒々しい少女を、知る由もない。
「本当に?」
「ああ、そうだ。信じてくれ」
「本当に、何も知らないの?」
「ああ」
突然、吊り糸を失った操り人形のように、少女は力を失った。少女の身体は自分にべったりとくっつくように倒れこんだ。少女の温かな息が、喉元を湿らせる。
「信じるよ。君のことを」
少女の心臓音が聞こえてくるほど、二人の身体は密着していた。自分の心臓の鼓動が早まる一方、少女の鼓動は遅くなっている気がした。
自分の警戒は少しも緩んではいなかった。いきなり首を絞められて、警戒心を抱かない方がおかしいだろう。しかし、多少の危険は覚悟して行動したほうがいいはずだ。少女に何事も聞かない限り、自分の状況が整理できる気がしない。
そういえば、この少女はどうして逃げようとはしないのだろうか。確かに暗くて何があるか分からないが、この部屋は上の部屋と違い出口がある。逃げようとすれば逃げられたはずだ。見ず知らずの自分に攻撃するくらいの度胸があるのなら、暗い出口から逃げ出そうとしても不思議ではないだろう。
ひとまず、先程の出来事は置いておいて、疑問を解消することにした。
「一つ聞いてもいいかな」
「何?」
今度は自分が聞く番だ。
「どうして君は、逃げようとしないの?」
「逃げられないのよ。結界が張ってあって……」
「結界?」
結界。マンガにでも出てきそうな言葉だ。とはいえ、そんなものは見えない。
「少しどいてもらえるかな」
「え、ああ。あ!」
少女は気付いたように跳ね起きた。自分に身を委ねていることに気付いていなかったようだ。無意識に覆いかぶさったということなのだろうか。
少女が自分から退いたことに安心した。首を絞められた恐怖が、少女の態度が変わってもそれなりに残っていたからだった。
自分は立ち上がり、出口の方に歩いた。やはり何もあるわけでもない、ぽっかりと開いた空洞があるだけだ。中には階段があり下方に向かっていた。光は全く入ってこず、数歩先は闇だった。しかし、その階段を数段下ることは、難なくできた。少女の言う結界というものは、そこにはなかった。
自分が少女の元に戻ると、少女は驚いたようにこちらを見ていた。
「結界は……?」
「そんなものなかったぞ」
「うそ……」
少女は、自分と同じようにその出口へ向かった。難なく、その出口を越えるものだと思っていたが、そうはならなかった。
少女が出口のある空間に触れると、その刹那、少女ははじき飛ばされた。出口にはじかれたのだ。少女は尻餅をつき、その場に転がった。
何があったのか、理解できなかった。なぜ、少女が出口からはじかれたのか。何か見えない力が働いて少女の脱出を阻害しているかのようだった。自分は通れて、少女は通れない。そんなことがあるのだろうか。
こういう時、どうすればいいのかよく分からない。自分を見つめる碧眼は、何か言いたげに見つめてくるだけだった。その眼には涙が浮かんでいたかもしれない。
「だ、大丈夫?」
そう声をかけるのが精いっぱいだった。少女はそのままうずくまってしまった。こちらと視線を合わそうとはしてくれなかった。
「ああ、主よ。私はどうすればよいのでしょうか。」
少女は腕で目を覆いながら、諦めたように呟いた。
「ああ、主よ。私を助けてはくださらないのですか……。」
諦めの声に涙が混じる。少女は顔を覆ったままであった。
こういう時は、おそらく手を差し伸べればいいはずだ。少しぎこちなくなってしまったが、手を差し伸べることはできた。しかし、差し伸べた手は払われてしまった。
「私を弄んで、何が面白いのよ!」
少女の涙声が響く。一瞬ひるんでしまった。
「君は、私の味方なの? それとも敵なの?」
自分はそのまま、何も答えることができなかった。
「分からない。分からないよ」
少女はうずくまったまま、こちらに目を合わせようとはしてくれなかった。どうしたら良いのか、自分には分からなかった。声をかけることはできそうにもなかった。
影は、部屋の端まで届いていた。それも次第に消えていった。