第九章 人工衛星
首のないスミレの身体から流れる血だまりの中に立って、手からスミレの首をぶら下げている、その人狼は、反対の手に持ったナイフをスミレの頭の横に構えながら言う。
「すまないが動かない聞いてくれ。俺はこの少女を殺したい訳じゃない」
その人狼の言葉が嘘ではない事は、ぼくにもすぐに分かった。
なぜなら、その人狼は、スミレの首をぶら下げる自分の手にわざと傷を付けて、そこから流れる血がスミレの頭に滴り落ちるようにして、スミレの命が尽きないようにしていたからだ。
そして、その人狼は、ナイフを手に持っているが、それは補助として使う武器らしく、どうやら本当の武器は背中に装着している、弓矢のようだ。
それで、その人狼は、ぼくから目を離さないまま、自分の後ろにあるベビーベッドで眠るクロに、ほんのわずかだけ顔を向けて話す。
「俺が、ここに来て、この人狼の子供を発見した時、ここでこの子供の世話をしているのが吸血鬼である事は、すぐに分かった。まず第一に、電気の供給が止まってエレベーターが動かない今の世界で、こんな高層ビルの最上階で生活するには、人狼か吸血鬼かそのどちらかがいないと無理だという事。そして第二に、この最上階の全ての部屋の窓を、太陽の光が入らないようにふさぐなんて、吸血鬼でなければする必要がない事。その二つの事から、それは簡単に分かった」
それで、ぼくが、自分のヘルメットを脇に抱えたまま、部屋の入口で動かずに黙っていると、その人狼は、そのまま話を続ける。
「それから、この吸血鬼の少女の首を切断したのは、俺の話を聞いてもらうためには、しかたがない事だった。なぜなら、人狼である俺が話をしようとしても、この少女がそれを拒否して俺を殺そうとしてきた場合に、そうなった後では、もう俺が生き延びる手段がないからだ。だから、確実に俺の話を聞いてもらうには、どうしても先に、この少女の戦闘能力を奪う必要があったんだ」
その人狼が、髪をつかんで手からぶら下げている、頭だけになったスミレは、無表情なまま黙っているけれど、人狼の手から滴り落ちる血を肌の細胞から吸収しているので、まだしばらくは死ぬ心配はなさそうだ(吸血鬼は、全身の細胞から血を吸収できるけど、血をこぼしたらもったいないので、人間の身体から血を吸う時は、なるべく口を使って吸うようにしているのだ)
それで、ぼくは答える。
「お前は早く本題を話した方が良い。その手にぶら下げている女の子が本当に死にそうになったら、その瞬間に、ぼくは、お前を殺すから、お前が話していられる時間はそうは多くない」
すると、年令が二十代前半くらいに見える、その人狼は、再び自分の後ろで眠るクロの方に少しだけ顔を向けてから、話の本題に入る。
「この人狼の子供は俺の子供だ。ここで暮らしていた、この子供の母親である人狼の女と、俺は、付き合っていたんだ。本当は、こんなにここを離れる予定じゃなかったんだが、ある出来事があって戻るのが遅れてしまった。それで、この子供が生まれるのに間に合わなかったんだ」
そして、その人狼は、ぼくの眼をじっと見たまま、さらに話を続ける。
「あと、本当に残念だが、この子供の母親だった人狼の女が、ゾンビとなって首を切断されているのは、この屋上で見た。その母親がゾンビに噛まれたから、君たち吸血鬼が、この子供を、ゾンビになる前に取り出してくれたんだろう? その時は、人間の男もいっしょにいたはずだけど、その男には、この世界のゾンビを撃退できるほどの力がない事は分かっている。だから、この子供を助けたのは、吸血鬼である君たち以外には考えられない」
なるほど、この人狼は、美女三号の死体も見ているのか。
自分が付き合っていた女がゾンビになって、殺されている姿を見た時は、さぞショックだったろう。
でも、その死体の腹から、子供が取り出されているのに気が付いて、もしかしたらと思った、この人狼は、美女三号が暮らしていたこの部屋に来て、クロを発見したという訳だ。
ところで、ぼくは、あの美女三号の死体は、建物の陰だったから放っておいたけど、いっしょにいた男の死体は、建物の陰からはみ出していて目障りだったから、道路に捨てたんだ。
だけど、もしも、ゾンビになっていないのに首と腕を切断された、あの男の死体が、今もこの屋上に残ったままだったら、この人狼の、ぼくに対する態度は、きっと違っていたんだろうね。
そして、そんな事は知らないその人狼は、そのまま話を続ける。
「それで、俺がいない時に、吸血鬼の君たちが、この子供を助けてくれて今まで世話をしてくれた事は、とても感謝している。けれど、この子供は、本当の父親であるこの俺が育てるべきだと思うんだ」
どうやら、この人狼は、吸血鬼を敵にまわした場合に、とてもやっかいな事になるのが、ちゃんと分かっているようだ。
それで、自分の子供を見つけた時に、それを育てているのが吸血鬼だと気が付いて、もしも、黙ってその子供を連れ去ったら、その後で吸血鬼に追われた場合に、自分がほぼ確実に殺されるだろう事にも気が付いた訳だ。
だから、こうして、この人狼は、自分の子供を返してもらうなんていう、当たり前の権利を主張するのに、わざわざ、ぼくたちに、その正当性を訴えているのだ。
まあ、ぼくとしては、クロと別れるのはさびしいけれど、この人狼が本当の父親で、ちゃんとクロの世話をするというのなら、その方がクロにとっても良い事だとは思うし、本当の親から子供を奪うなんて残酷な事はしたくはないから、クロを返すのはぜんぜん構わない。
ただ、問題はスミレだ。
なにしろ、スミレは、ここでクロと出会ってからわずか三日半の間に、完全に心を奪われてメロメロになってしまっているから、今さらクロを手放すなんて絶対に納得するはずがないだろう。
さらに、話し合いに持ち込むために仕方がなかったとはいえ、この人狼は、スミレの首を切断するなんて事をしてしまっているから、今のスミレの怒りは大変な事になっているはずだ(まだスミレが、何も言わないでいるのが、本気で怖い)
ただ、ぼくとしては、こうして話し合いをしてくる相手を、力ずくでねじ伏せるみたいな事はしたくないので(ぼくは、生意気な相手には容赦しないが、礼儀ある相手には失礼な事はしないのだ)それで、ぼくは、スミレが身体を再生した後で、この人狼を殺してしまわないように、お互いが妥協できるであろう提案をする。
「その人狼の子供が、本当の父親である、お前に育てられた方が良いという事は、もちろん、ぼくにも分かる。けれど、子供を育てるには、きれいな水とお湯を沸かすための燃料がたくさん必要だ。そして、ここにはそれが十分にある。それに、お前は、どうせ子供を育てるのは初めてだろう? だったら、しばらくここで、ぼくたちと、いっしょに暮らすのはどうだ? そうすれば、ぼくたちも、その子供の世話を、しばらくの間手伝う事ができる。それで、お前は、自分一人でも大丈夫だと思えるようになったら、その時にどこへでも自由に行けば良い」
それを聞いた、その人狼は、ぼくの、その提案を断った場合の危険が、どのくらいになるのかを考えたのだろう、しばらくしてからそれを受け入れる(もしも、その提案を断っていたら、その人狼は絶対にスミレに殺されていたのだから、これでなんとか生き延びられた訳だ)
それから、ぼくは、相手が従順な今のうちに大ウソをついておく。
「ところで、その子供の母親は、ゾンビになる前に、お腹の子供が男の子だったら、クロという名前にしてほしいと、ぼくに言っていた。だから、その子供の名前はクロだ」
「ええ! そんな事を言ったのか? いや、確かに子供の名前は母親が付ける事になっていて、それがどんな名前かは、生まれてくるまで内緒にされていたんだが……。まさか、そんな犬みたいな名前を付けるとは……………………」
なんだか、ちょっと、かわいそうな気もするけど、子どもが生まれる時にそばにいなかった、こいつが悪い訳だから(スミレが生まれる時にそばにいなかった、ぼくが言える立場ではないが)そのまま、子供の名前はクロという事で押し通す。
あと、どうでも良い事だけど、その人狼はユキ(雪)という名前で、年令は二十四才だったので、ぼくの本当の年令の方が、上なので(そもそも、人狼は人間の八倍の速さで成長するから、二十四才なら人間の時間では生まれてまだ三年だ)それで、ぼくの事はアニキと呼ばせる事にする。
「え? アニキ?」
「そうだ、ユキ。これからは、ぼくの事は、そう呼べ。あと、アニキである、ぼくには、ちゃんと丁寧に話せ」
「はあ……アニキですか…………」
こうして、人狼の子分を手に入れた、ぼくは、そんな事よりも、早くスミレの身体を再生させてあげないといけないので、自分のヘルメットを被ると、ユキからスミレの頭を受け取って、スミレのヘルメットと首のない身体を肩に担いで、その部屋を出ながらスミレに尋ねる。
「スミレ、ヘリの中から助け出した二人の奴隷、あれはどの部屋に閉じ込めた? 本当はあの二人は、人間養殖計画のために取っておきたかったんだけど、スミレがそんな状態じゃあしょうがない。あの二人の奴隷の血を吸えば、スミレの十才の身体なら、すぐに全身を再生できるだろ」
ぼくが手に抱えたスミレは、胴体がなくて肺に空気を溜められないので、かすれた声でそれに答える。
「……南側の列の……真ん中の部屋……」
それから、ぼくは、念のためスミレにくぎを刺しておく。
「あと、身体を再生してもユキを殺すなよ。クロが大きくなった時に、父親はスミレが殺したってクロが知ったら、絶対に嫌われるからな」
そう言いながら、もしも美女三号といっしょにいた男が本当の父親だったなら、その男を殺した、ぼくが、クロに嫌われる事になっていたと気が付いて、ユキが本当の父親で助かったと思った。
そして、スミレが奴隷を閉じ込めておいた部屋に入った、ぼくは、スミレの頭とヘルメットと首のない身体を床に置いてから、高速で動いて、二人の奴隷が暴れられないように、ダクトテープで目と口をふさいで手足を縛る。
それから、スミレの顔を、奴隷の一人の首に押し付けた後で、そのままではスミレの身体が全裸で再生されてしまうので、部屋のすみに置いてあった、余っていた遮光カーテンを、スミレと奴隷に被せる。
ところが、その瞬間に、何の前触れもなく部屋が爆発して、全てがふっ飛ぶ。
ズガーーン!!
それで、ぼくは、とっさに高速で動いて体勢を立て直すと、自分のヘルメットのバイザーを閉じてから、スミレが首を噛んでいる、奴隷の身体を、遮光カーテンで包まれたままの状態で受け止めて、あとスミレのヘルメットと首のない身体をつかんで(もう一人の奴隷の事はあきらめて)壊れていく部屋を飛び出す。
この時、ぼくは、一瞬、この爆発はユキが仕掛けた罠なのかとも思ったが、そんな事をするのなら、ユキは、ぼくの帰りを待たずにスミレを殺して、クロがいた部屋に罠を仕掛けてから、クロを連れて逃げているはずなので、その考えはすぐに捨てる。
しかし、そうなると、一体、何者の仕業なのか?
そして、廊下をひたすら走ってクロのいる部屋に飛び込んだ、ぼくは、走る速さを落とす事なく、クロを抱きかかえたユキに目配せをして、そのまま窓を破って昼間の高層ビルの外へ飛び出す(スミレは遮光カーテンで包まれているから、たぶん大丈夫なはずだ)
バリン!
それから、空中でちらっと後ろを振り返ると、すぐ後ろにクロを抱いたユキがちゃんと付いて来ているのと、ビルの反対側にふくれ上がる爆炎が見える。
ぼくは、そのまま斜め向かいの高層ビルの窓に飛び込み、その部屋にある物をふっ飛ばしていく。
バリン! ガシャ! ガシャ! ガシャ!
そして、ぼくは、体勢を立て直すと、すぐ後ろにいるユキに話す。
「ユキ、お前、さっき、ある出来事があって、それでクロの所に戻るのが遅れたって言っていただろ? お前、まさか人間の軍人たちに尾行されるような事をしてないだろうな?」
「……確かに俺は、十日ほど前に、山で人間の軍人たちのヘリに追われた。でも、その軍人たちは、俺が隠れていた洞窟を爆破して、俺を殺せたと思っているはずだ。それに俺は、一週間くらい経ってからその洞窟を出て、複雑な順路で遠回りをして、あの高層ビルに戻った。だから絶対に尾行されてないはずだ」
「……ユキ。ぼくには、もっと丁寧に話すんだ。あと、ちゃんとアニキって言ってから、ぼくに話しかけろ」
「え……今、そんな事を言っている場合じゃ……」
そう話している最中に、今度はその部屋が爆発する。
ズガーーン!!
それで、すぐに、その壊れていく部屋から飛び出して、そのビルの窓際の廊下を高速で走りながら、ぼくは一生懸命、考える。
これは確実に、ぼくたちを狙った遠距離からのミサイル攻撃だ。
でも、一体、何者が?
あの軍事施設から装甲車で逃げた軍人たちだろうか?
それとも、ユキを襲った方の軍人たちなのか?
だけど、どちらにしても、その者たちは、どうして、ぼくたちのいる位置がこんなに正確に分かるんだ?
すると、ぼくが抱えている、奴隷の身体を包む遮光カーテンの中から、スミレが、ぼくの腕を両手でつかんでくる。
どうやら、スミレは、奴隷の血を吸い終わって、上半身と両腕だけは再生ができたようだ。
それで、ぼくは、その奴隷の身体から手を放しながら、後ろを走るユキに目配せをして、それに気が付いたユキが、クロを抱く手の片方を放して腰のナイフを抜くと、ぼくが放した奴隷の死体が、後でゾンビに喰われてもゾンビ化しないように、その首を切断する。
スパッ!
そして、ぼくとユキは、廊下の突き当たりの窓を破って、再び高層ビルの外へ飛び出す。
バリン!
それから、今度は道路に着地した、ぼくとユキは、そのまま道路を音速までは出さずに、時速百六十キロ程度の速さで走る。
ぼくが、その時、ビルの中に入らなかったのは、ビルの外でなら飛来するミサイルを眼で確認できるので、それで、そのミサイルを撃った者の、だいたいの位置が分かるかもしれないと考えたからだ。
たぶん、そのミサイルを撃っているのは攻撃ヘリだと思うけれど、地上へ向けて撃つタイプのミサイルの速さは、せいぜい時速五百キロくらいなので、吸血鬼や人狼の眼なら事前に見つけるのは簡単だし、屋外でなら音速で動いて、そのミサイルを避ける事も可能なはずだ。
ところが、その次のミサイルは、道路を走っている、ぼくたちではなく、さっき爆発があった高層ビルの、ほぼ同じ場所に再び着弾する。
ズガーーン!!
その時、ぼくは、飛来したミサイルを、着弾する前にちゃんと眼で確認したのだけれど、それを撃った攻撃ヘリの本体は見付けられなかった。
だから、ぼくとユキは、一旦、近くのビルの陰に隠れて様子をうかがう事にする。
すると、遮光カーテンに包まれたまま、ぼくが抱えていたスミレが話しだす。
「私を床に置いて、この遮光カーテンの中に、私のヘルメットと首から下の身体を入れてちょうだい」
どうやら、スミレは、この隙にヘルメットやライダースーツなどを身に着けるつもりらしいが、ぼくは、まだ危険だと思って、それを止める。
「今は、まだ危険だから、もう少し待て」
「いいえ。もうミサイルは来ないから大丈夫よ。なぜなら、さっきの攻撃は、奴隷の身体のどこかに付けられていた、GPS発信器を狙ったものだからよ。だって、あんたが、さっき奴隷の身体を捨てて、その位置が動かなくなったとたんに、私たちの方にはミサイルが来なくなったでしょう?」
「え? でも、今の世界でGPSなんて使える訳がないだろ?」
「そんな事は、知らないわ! でも、それ以外に説明なんてできる?」
「いや、だって、GPSは人工衛星から発信される信号を……」
そこで、ぼくは、やっと気が付く。
この世界が崩壊して、地上では電気の供給が止まってしまったけれど、はるか上空にある人工衛星は、それに取り付けられた太陽電池で動いているから、そんな事は関係ない。
つまり、今のこんな世界でも、上空にある全ての人工衛星はまだちゃんと動いていて、GPSだって使えるのだ。