第十五章 空を支配
朝日が昇るビルの屋上で、片腕を失ったままの、ぼくは、黒いマントをまとった十七才の身体の、吸血鬼で痴女のコハクに抱きしめられて、全く動けないでいた。
吸血鬼になった者は、老いる事がなくなると同時に生殖能力を失って、性欲もなくなってしまうのだけれど、過去の記憶がなくなる訳ではないから、密着したコハクの身体によって、二人の間であった性的な記憶を思い出してしまった、ぼくは、完全に意識が飛んでしまったのだ。
今は完全に性欲がない、ぼくでも、こうなってしまうのだから、人間だった時の十四才のぼくが、この誘惑に逆らえなかったのは当然だろう。
それでも、ぼくは、なんとか努力をして、意識をコハクの身体から切り離すと、片方しかない腕でコハクの肩をつかんで、どうにかその魅惑的な身体を遠ざける。
「………コハク、教えてくれ。いつから、ぼくを見ていたんだ?」
「うーん、実は、昨日の夜、君が仲間といっしょに軍事施設で戦っていた時に、私も、そこにいたのよ」
「そうか………。あの時、地雷ゾンビの集団にロケランを撃ち込んだのは、やっぱり、お前だったのか………」
「あら、私だって気が付いていたの?」
「………吸血鬼と人狼とゾンビが集団で戦っている時に、それに、かかわろうなんて考えるのは、たとえ吸血鬼や人狼でも、よっぽどの変わり者だけだ。それで、ぼくが知っている吸血鬼の中で一番の変わり者は、お前だから、そうじゃないかと思ったんだ」
「ふーん………。私って、そんなに変っている?」
「ああ、変わっている。崩壊する前の世界だったら、病院に侵入すれば輸血用の血液がいつでも手に入ったのに、お前は、わざわざ人間の男を誘惑して、性的な関係を持った後で、その血を吸っていただろう? お前だって、吸血鬼になってからは性欲がなくなっているはずなのに、それにもかかわらず人間の男を誘惑するなんて、完全に病気だろ………」
「まあ、ずいぶん、はっきり言うのね」
「………でも、そんな事よりも、お前は、どうやって、ここにいる、ぼくを見付けたんだ? ぼくたちは、あの軍事施設から離れる時に、誰からも尾行されてない事を、何度も確認した。それに、その後で、ぼくたちは、津波ゾンビにも追われたんだから、あの状況で、ぼくたちを尾行するなんて、どんな吸血鬼でも絶対に無理だったはずだ。それなのになんでお前は、この場所の、ぼくを見付ける事ができた?」
「うーん、それは内緒」
「ちょっと待て、コハク。お前、なにか怪しい事を企んでいるだろ。そもそも、お前はなんであの軍事施設に…………」
その時、コハクが再び抱きついてきたので、ぼくは再び意識が飛んでしまう。
「少年、いきなり、そんなに知りたがらないで。君と私は、十四年前に一度、関係があっただけでしょう? ずっと会っていなかった君と久しぶりに再開したばかりなのに、何もかも話すなんて恥ずかしいわ」
お前が恥ずかしいとか言うな!
ぼくは、そう言いたかったのだけれど、密着するコハクの身体に意識が吸い込まれて、ちゃんと言葉が出ずに、口だけパクパクさせてしまう。
それから、なんとか気合いを入れ直して、再び身体を離した、ぼくは、コハクに言う。
「………コハク、これから、ぼくに、くっつくのは禁止だ。それが守れないなら、もうお前とは口をきかない」
「えー、何、そのジゴロみたいなセリフ。君、十四年の間に、そんなふうになっちゃったんだ」
「………うるさい。そんな事より、お前、ここからあの軍事施設へ戻る道が分かるのなら案内してくれ。ぼくは、あの津波ゾンビに追われてから全く道を憶えてないんだ」
「うーん、どうしようかな………」
そう言いながら、コハクは考え込むふりをして、ぼくを焦らす。
この痴女が、何かを企んでいるのは間違いないのだけれど、それが何なのかは、ぼくにはさっぱり分からない。
だけど、こうしてわざわざ、ぼくに接触してきたという事は、ぼくを何かに利用したいのだろう。
それで、できるだけ早く帰り道が知りたかった、ぼくは、時間を節約するために、この怪しい痴女に取り引きを持ちかける。
「コハク、お前が、ぼくに協力してくれるのなら、ぼくだって、お前に協力してやらない事もない。けれど、そうするには、お前が企んでいる事の内容を全て話してくれなければダメだ。それと、いい加減に、ぼくを誘惑して一方的に利用しようとするのはやめろ」
すると、コハクは、しばらく考えてから答える。
「………いいわ、教えてあげる。私、この国の軍事施設のいくつかを、すでに手に入れているの。それで、昨日の君たちが襲った軍事施設も、ずっと以前から手に入れられないか調べていたのよ。でも、あそこの軍人の中には人狼が混ざっているでしょう? だから、その人狼軍人たちをどうやって排除しようか、ずっと悩んでいて、その間に君たちが現れたという訳よ。それで、君たちが戦っている時に、人狼軍人たちの方が勝ちそうになったから、それを妨害するためにロケランを撃ったのよ」
「なるほど、そうか………。いつもなら、男たち中のリーダーを誘惑して、言う事を聞かない者は殺せば済むけれど、人狼が何人も混ざっているとなると、うかつに接触する訳にはいかないからな………。だけどコハク、軍事施設なんかいくつも手に入れてどうするんだ?」
「あら、それはまだ言えないわ。けれど君だって、あの軍事施設を襲ったのには何か理由があるからでしょう? でも、私みたいな変わり者には、その理由を教えたくないのよね? 自分は何も教えないくせに、相手からは全て聞き出そうとするなんて、ずるくない?」
これは、確かにそのとおりだ。
ぼくは、十四年ぶりに会った、この変わり者の痴女の事を、まだ信用する事ができなくて、人間養殖計画の事を話す気にはなれない。
それなのに、コハクが企んでいる事だけを、一方的に全て聞き出そうとするのは、ずるいと言われても仕方がないだろう。
だから、ぼくはコハクに謝る。
「ごめん。そのとおりだ。ぼくが悪かった。………だけど、あの軍事施設を制圧するという目的が、お互いに一致する事は分かった。ぼくとしては、あそこにいる軍人たちさえ無力化できれば、施設そのものに興味はない。だから、お前があの軍事施設を手に入れるのを手伝おう」
「ふーん。君って、あいかわらず考え方が合理的ね」
コハクは、そう言うと、スマートフォンを取り出して地図アプリを立ち上げる。
世界が崩壊して地上の通信網が死んでしまった今でも、上空の人工衛星は今までと変わらず動いていてGPSは使えるから、世界が崩壊する前に地図データを読み込んであったスマホなら、地図アプリを使えるのだ(そのスマホの充電は、たぶん、コハクが手に入れた軍事施設の中でやっているのだろう)
ただし、この国の軍事施設のほとんどは、地図には記載されておらず、地図を見ただけでは、あの人狼軍人たちの軍事施設の場所は分からないので、ぼくには、どうしてもコハクの案内が必要だったのだ(ところで、昔、日本という国では、全ての軍事施設が地図に記載されていたみたいだけれど、それって国の安全上かなり問題だよね)
それで、ぼくたちは、すぐに、あの人狼軍人たちがいる軍事施設に向けて出発して、高速で走りながら、途中で見かけたゾンビの首を、一体も逃さず刀で切断していく。
スパッ! スパッ! スパッ! スパッ!
けれど、その道中で、コハクはゾンビを見かけても全く攻撃しようとしないので、そういえば、ぼくは、コハクがどんな武器を使って、どんな戦い方をするのか、ぜんぜん知らない事に気が付く。
それで、まさか、コハクは見ているだけで、ぼくが一人で三人の人狼軍人と戦う事になるんじゃないだろうかと思って、ぞっとする。
なにしろ、昨日の夜に戦った時は、スミレが上半身だけの状態で、ぼくも、すぐに片腕を失ったけれども、それでもユキも入れて三人もいたのに、あれだけ苦戦したのだ。
その上、ぼくは、まだ、その時に失った片腕を再生できていないし、今は昼で太陽の光を浴びる危険もある分、昨日よりも人狼と戦うのは不利だから、この状態の、ぼく一人で、三人の人狼軍人たちを相手に戦うなんて、完全に自殺行為だろう。
そんな事を考えながら、コハクの案内で二時間ほど走って、ようやく人狼軍人たちがいる軍事施設の近くまで行くと、そこからサイレンの音が聞こえてくるのに気が付く。
それで、ぼくは、コハクに目配せをして、軍事施設の敷地に入る少し手前にあった、大型トレーラーの残骸の陰に隠れながら言う。
「あのサイレンは、この付近にいるゾンビたちを、一台の装甲車におびき寄せておいて、その隙に地下シェルターの中にいる軍人たちが、他の装甲車やヘリに乗り込んでいるところのはずだ。だけど、今のぼくたちには、ロケランのような武器がないから、装甲車やヘリを止める手段がない」
そう言いながら、ぼくは、急いで制圧した方の軍事施設に戻って、そこからロケランを持ち出すのと、あと万が一の事を考えて、クロを外に連れ出した方が良いのではないかと考える。
けれど、そうすると、制圧している方の軍事施設の存在を、コハクに教えてしまう事になるので、この変わり者の痴女の事を、まだ完全には信用していなかった、ぼくは、どうしようか迷ってしまう。
すると、そんな、ぼくに向かって、コハクが言う。
「装甲車やヘリの方は、私が、全て破壊するわ。あと、人狼軍人たちが使う地雷ゾンビたちの方だけれど、昨日の夜、二百体のほとんどをロケランでふっ飛ばして、残りも散り散りにさせたから、予備が残っていたとしても、せいぜい百体くらいよね? 今からする私の攻撃は、そいつらを正確には狙えないから、そいつらだけは君に任せるわ。でも君は、あの建設中だったビルから持ち帰ったワイヤーがあるから、なんとかできるでしょう?」
「くそ! お前、ぼくが、ワイヤーをこっそり持ち帰った事にも気が付いていたのか! お前には全く油断ができないな……………。だけど、どうやって、お前は、装甲車やヘリを攻撃するんだ?」
「こうするのよ」
コハクは、そう言って、スマホとは違う、少し大きな携帯電話を取り出して、ボタンを操作してから、それを耳に当てる。
「ちょっと待て! なんで、今の世界で携帯電話が使えるんだよ!」
「これは衛星携帯電話よ。地上の基地局を必要としないわ。…………………私よ。例の軍事施設で装甲車やヘリが動き出したのが見える? そうよ。全て破壊して」
そして、ぼくが、あっけにとられていると、軍事施設から飛び立った何機ものへりと、地上を走る何台もの装甲車が、こっちに向かって来るのが見えて、それらが、ぼくたちのそばを通過しようとした瞬間に、次々と爆発していく。
ズガーーン!! ズガーーン!! ズガーーン!! ズガーーン!! ズガーーン!! ズガーーン!! ズガーーン!!
それは、明らかに、上空からのミサイル攻撃だ。
そして、全てのヘリと装甲車が破壊された後で、やっと、ぼくは、コハクが使った攻撃方法に気が付く。
地上の通信網が死んだ今の世界でも、衛星回線は生きている訳だから、空軍の軍事施設の地下シェルターに隠れている軍人たちならば、衛星通信を使って無人航空機を飛ばす事が可能だ。
そして、無人航空機は、十四時間以上もの間ずっと飛行させておけるから、コハクは、以前から手に入れようと狙っていた、この軍事施設の上空に、常に交代で何機かのそれを滞空させていたのだろう。
つまり、この変わり者の痴女のコハクは、その身体で誘惑した軍人たちを使って、この国の空を支配しているのだ。