第30話 輝ける光剣と秘められた名前
アイリーンとの談話を終え、彼女と別れたあと、コーディ・ブランネージュは南西の国境に向かうため、密かに王都を離れた。
『銀の水瓶亭』は、王都アルヴィナスだけでなく、アルベイン王国の全域に幾つかの拠点を持っている。その拠点間は、転移魔法陣によって相互に行き来をすることができる。
転移魔法陣を設置するには、転移魔法を封じ込めた魔法結晶が必要である。この魔法結晶は古代遺跡などから発掘されたものを使用するが、それを利用することはできても、原理は解明されていない。
そのため、転移魔法の魔法結晶は希少価値が高く、金では取り引きすることができない。銀の水瓶亭は遺跡や古代迷宮の調査をある時期に精力的に行い、設置済みのものを含め、それを八つ所持していた。
そのうちの一つが、南西の国境近くの宿場町に設置されていたというのは、コーディが銀の水瓶亭の要請を受けて行動を起こす上での大きな助けとなった。
騎士団の中に、コーディが王都を離れることを知る者は、副団長の重騎士マルロのみ。しかしコーディは彼の家に仕えるメイドに『体調不良により騎士団詰所への出頭が遅れる。翌日の昼までに戻る』という封書を渡したのみで、マルロに自分がどこに行くのか、何をするのかまでを伝えることはなかった。怪しまれる前に戻れるかは賭けであったが、ラーグからもたらされた「ベルベキアが明日攻めてくる」という情報を信じての行動だった。
アイリーンに教えられたとおりコーディは銀の水瓶亭に向かい、ヴェルレーヌの案内で、店の地下の酒蔵に降りた。ヴェルレーヌは並んでいる名酒の酒瓶の棚を見て、ある一本の瓶を外すと、その奥にある仕掛けを押した。
部屋の奥、酒瓶を持つ女の絵画が飾ってある壁が、ゆっくりと回転する――隠し扉だ。
「なるほど……裏口から出入りするようにと言われたわけだ。こんな秘密があったとはね」
「ご主人様が店にいるときは、彼がここの門番のようなものだから、何も案ずることはないのだがな。私も引退したとはいえ、元魔王だ。貴君でもなければ、転移結晶を狙う者が現れても負けることはない」
「昔はあなたの暗黒魔法に、僕も苦戦させられた。流血させられたのは初めてだったよ」
「血まみれになっても私を殺そうとしなかったな。光剣を全力で振るえば、私など八つに切り裂かれていただろうに」
過去の戦いについて二人が語るのは初めてのことだった。ヴェルレーヌは店主として、コーディは客として、常にその距離を保っていた。
「ディックはあなたと戦う前から、魔王討伐が終わったあとのことを考えていた。あなたを殺してしまったら、魔族は必ず最後の一体になるまで、アルベインへの憎しみを絶やすことがない。魔王国に入ってから各地を見聞する中で、彼はそう判断したんだ」
「……魔王国に入って三ヶ月。魔王城の守備を手薄にするための攪乱が目的だと思っていたが、ご主人様は、私の国を見ていたのだな。どんな者がいて、どんな考えを持っているか」
「あなたの所に駒を進めるための準備だと言っていたけど、ディック以外の四人は、全員が魔王城になぜ向かわないのかと疑問に思っていたし、衝突もしたんだ。でも彼は最低限の労力で目的を果たすには準備が必要と言って、僕らを説得したのさ」
ヴェルレーヌはその考えに13歳で至ったことを信じがたく思う。ダークエルフは長命だが、ヴェルレーヌもまた早熟と呼ばれ、二十代から才覚を示し、前王の退位を早める形で女王の座に就いた。その彼女から見ても、ディックは自分より長く生きているのではないかと思えることがあった。
「ご主人様にとっては、それは当たり前のことなのだ。周囲から見れば遠回りであっても、彼にとっては最短であり、そうでなかったことは一度もない。だからこそ私は疑問に思う……なぜ、コーディ殿の正体に気づかずにいるのかを」
「貴族の女性たちが、僕がパーティに出るのを心待ちにしている……なんて言っていたのに。あなたも人が悪い」
「本当に魅力的な人物には、男も女もない。女勇者が、宮廷の女性を篭絡するなどという物語も、耽溺する者はさほど珍しくない。私に仕えていた者にも、同性にしか興味を持たない者がいたからな」
「僕もきっと、ディックにそう疑われていると思う。必要がなければ会わないくらいでちょうどいいのかもしれない」
「ご主人様はギルド員には慕われているが、気を許して話せる相手は少ない。コーディ殿もその一人なのだから、私としては通ってもらったほうがありがたい。あの方が18歳という年齢相応の顔をするのは、コーディ殿が来たときくらいなのだから……さて、雑談はこれまでとしよう」
ヴェルレーヌは隠し扉の向こうにある部屋にコーディを招き入れる。そこには、空中に浮かぶこぶし大の大きさの転移結晶があり、その下の床には複雑な紋様――魔法陣が描かれていた。
「これが転移の魔法陣……誰でも利用することができるのかい?」
「大まかな目安になるが、この国における魔術評価が2万以上の者でなければ、魔法陣を起動することはできない。ご主人様が条件付けをしているのでな」
「ディックはそんなことまで……」
「ご主人様は特定以上の魔力量が無ければ起動しない魔法陣を描くことができるのだ。強化魔法の逆の作用を起こし、術者の魔力を百分の一に絞る『関門』を設定する。それを通過することができれば起動できるというわけだな。コーディ殿も、魔力量だけなら条件を満たしているぞ」
「いや、僕は魔法のことは他のみんなに任せるよ。僕が使える魔法は一つだけで、他の魔法を覚えようとするとうまくいかない。転移の魔法も、あなたに起動してもらうのが一番いいだろう」
コーディは謙遜しているのではなく、本当に『一つの魔法』以外を使わないのだとヴェルレーヌは理解する。コーディから感じられる精霊の気配はただ一つで、火や水といった元素精霊を呼び出す魔術を使用した痕跡はまったくなかった。
そう――コーディが契約している精霊は、たった一つ。その一つを前に、ヴェルレーヌは膝をついたのだ。
「転移する先は国境の内側だが、それでいいのか? ベルベキア軍を国境の中に入れるわけには行くまい」
「国境壁に上り、ベルベキア軍が見えたところで戦いを終わらせる。僕は本来、そういうことに特化しているからね。間合いに入らなければ打撃を与えられないのは、あなたのような魔王だけだよ」
「それは光栄と言っていいのか……光剣の勇者と近接戦闘をして、生き残ったことを喜ぶべきなのか。いや、手加減をされたことを恥じるべきなのだろうな」
「そんなことはないよ。僕たちは五人で、ようやくあなたを倒せたんだから」
コーディは爽やかに笑うと、ヴェルレーヌに握手を求めた。ヴェルレーヌは右手の手袋を外すと、勇者の手を握り返した。
「健闘を祈る。ご主人様が帰って来たら、ぜひ活躍を報告してくれ」
ヴェルレーヌは魔法陣を起動させる。コーディの視界は光に包まれ、白に染まる。
そして光が薄らいだあと、コーディの目の前にある景色は一変していた。目の前には、壮年の男性魔法使いが立っている。『銀の水瓶亭』に所属するギルド員だとコーディは判断した。
「ギルドマスターから連絡は受けております。こちらで協力できることはございますか、騎士団長殿」
「一つ頼みたいことがあるんだ。それと……僕のことはこう呼んでくれ。『仮面の救い手』と」
「これは失礼いたしました……まったく、あの方も、そのお仲間も、考えることが破天荒でいらっしゃる」
コーディは白銀の鎧が目につかないように赤い外套を纏い、黄色の仮面を被る。正体を偽装しているにしては派手で目を惹く姿に、男性魔法使いは皺の刻まれた瞳を細めて笑った。
◆◇◆
コーディが国境近くの宿場町に転移し、数刻ほどあとのこと。
夜明け前の国境の砦近くに、派手な仮面の人物が現れた。守備兵に質問されても何も答えず、砦の外壁を恐るべき体術で跳躍を繰り返して登っていき、瞬く間にその頂上に辿りついてしまった。
「な、なんだ貴様! そこから降りろ!」
「ここは無関係の人間が来ていい場所じゃ……うわっ! て、敵襲、敵襲ぅぅっ!」
「西の方角に、大軍が……っ、ベルベキア軍が……っ!」
ベルベキア側を見張る兵たちが騒ぎ始めると同時に、コーディは砦の見張り塔の屋根の上から、まだ薄暗い西方の平原に、ベルベキアの大軍の姿を認める。
およそ五万にも及ぶ、騎兵と歩兵、攻城兵器で構成された軍。ベルベキアはヴィンスブルクトの力を借りずとも、アルベインを攻めるつもりでいたのだ。
エクスレア大陸北部に広大な版図を持ち、豊かな鉱産資源と穀倉地帯を持つアルベインだが、ベルベキアにとって魅力的であったのは、国土を南北に貫く大河が流れ、地下水も豊富であるという土地事情であった。
水はベルベキアの民にとって貴重であり、奪い合い、争いの原因となってきたものであった。現在ベルベキアは九つの民族が統合して共和国と名乗っているが、その実は、強力な騎馬隊を持つガラバ族が、一つずつ他の部族を併合していき、国の形を成したという、実質的には軍事独裁国家の様相を呈していた。
しかし軍事国家であるベルベキアは、それ以上の武力に屈し、長く他国から搾取を受けていた。
ベルベキアのさらに西方には、Sランクの魔王が統べる領土がある。魔王は一度ベルベキアの領土に侵入し、一つの村を灰燼に帰した。それは、ベルベキアの民にとって国の滅亡を覚悟する出来事であった。
魔王はそれ以上侵攻せず、貢物を求めた。村を攻めたのは滅ぼすためではなく、奪うためであった。
長く奪い続けられたベルベキアは、それでも国力を軍事に注ぎ、『黒鉄騎兵団』を編成した。魔王の国を相手に決死の戦いを挑むよりも、人間の国の方がまだ勝てる見込みはあるとそう考えたのである。
ベルベキアの将官、そして兵士たちは、この戦争に希望を託していた。かつて九つの民族を平定したガラバが、もう一つの民族――アルベイン王国の国家を併呑する、それができないはずはないと信じていた。
しかし、彼らは知らされていなかった。
アルベインの平和が、SSSランクの魔王を討伐することで得られたものであることを。
ヴィンスブルクトは彼らに教えなかった。ベルベキアに都合の良いことだけを吹聴し、ベルベキアもまた異国の民であるヴィンスブルクトを信じなかった。
それで、どうして勝てると思ったのか。コーディは怒りではなく、哀れみを抱いていた。
そして同時に、進軍してくる兵たちが、ひとりも命を無駄にせずに済むようにと願った。
「――アルベインの守備兵たちよ、そこを動くな!」
仮面の効果で、コーディの声は別人のように変化していた。その低く響くような声に、守備兵たちは圧倒される。
「何を言って……て、敵が攻めてきてるんだぞ! あの大軍じゃ、ひとたまりも……」
「に、逃げろっ! 砦を捨てて逃げろ、そうすれば助かる!」
声高に言って逃げていく何人かの兵。コーディは砦まで連れてきた「銀の水瓶亭」のギルド員たちに、彼らを捕縛するように指示をしていた。
アルベイン騎士団に、敵を前にして逃走する者はいない。コーディは騎士団長として、自分の部下に離反者が出たことを悔やんでもいたが、それは今後につなげる反省にもなった。
「ベルベキア……今回は、帰ってもらうよ。いずれ、あなたたちも救われる時が来るから」
隣国を脅かす魔王の存在を知り、あのディック・シルバーが放置するはずがない。
彼ならば、酒場から一歩も動くことなく、遠く離れた場所にいる魔王を倒すことができるだろう。
彼なら当たり前にやってみせるだろう、今までそうしてきたように。コーディはそう思って疑わない。
夜明けが近づき、コーディの背後の遥かな後方から、太陽が昇り始める。
その仮面の下の白い頬に、光る雫が一筋流れた。
それがなぜなのか、コーディには自分でも分からなかった。
「僕は、君のための駒となれているだろうか……ディック」
誰にも届くことのない声で言うと、コーディは背に太陽の光を浴び、正面に手をかざした。
無音詠唱――それを幼くして体得していなければ、どうなっていただろうかと思う。
(きっと君を欺くことができずに、僕は……『変な女』だと思われてしまっていたかな)
男性を信じられずに、ディックのことも信じずに、ミラルカよりも酷い態度を取って、嫌われていたかもしれない。
それとも、どんな過程を経たとしても、ディックは自分の心を開いてしまうだろうとも思う。
(そんなことを考えると、何だか、馬鹿らしくなってしまう。君というやつは、本当に……)
コーディは流れる涙を気にすることなく、長くの間封じ込め続けた、両親から与えられた本当の名を口にした。
「コーデリア・ブランネージュの名において請願する。剣精ラグナよ、我が手に光の剣を与えよ……!」
コーディとは、コーデリアが冒険者強度の測定を受け、SSSランク冒険者となったときからの偽名であった。
魔王討伐の旅路では真の名前を名乗らず、無音詠唱で光剣を呼び出してきた。それはただ、ディックを欺くためのことだ。
剣精は「特異精霊」と呼ばれ、元素精霊と違い、世界に一体しか存在しないとされている。コーディ――コーデリアが初めに精霊との契約を行ったとき、彼女は剣精に選ばれ、契約者となった。
剣精の力がもたらす魔力剣のうちひとつが、『光剣』である。
それは光の属性の刃を持つ剣という側面もあり、ヴェルレーヌとの戦いではそのような形で使用された。
しかしコーデリアの光剣の真の姿とは、『光そのもの』である。
近接戦闘において剣の形で使用すれば最大の威力を発揮するが、必ずしもその形にこだわる必要はない。光そのものの性質を持つ武器として使用したとき、何が起こるか――。
――光剣・超長距離光弾――
光剣の形状が変化し、二つの光弾の形に収束しきったあと、光弾が消える。
ほぼ同時にベルベキア軍の旗印が射抜かれ、その近くにいた総指揮官の鉄兜が、異音と共に弾け飛んだ。
光の速さで敵に到達し、二発の光弾は正確に狙った通りの場所をほぼ同時に射抜いた。
剣精の補助によって、コーデリアは自分のいる位置から光が到達する場所までを精細に視認し、狙うことができる。つまり、光が届く場所であれば、射程は理論上無限大だ。精霊の力によって作り出される光は通常の光のように屈折することもない。
「なんだ……ベルベキア軍が混乱してる……!?」
進軍を続けていた大軍に、動揺が走る。あと半刻で国境に到達し、砦を突破できるだけの兵力が揃っている。しかし彼らは歩みを止めた。
「あの大軍が、止まった……仮面のあいつが、何かしたのか……?」
「バカな、この距離で一体何ができる」
「だ、だが、何かしたようには見えたぞ……くっ、太陽が眩しくて見えんっ」
光剣を使ったことを知られれば、正体の特定につながる。コーデリアはアルベイン兵の言動を緊張しながら聞きつつ、ベルベキア軍の動向を見ていた。総指揮官の兜だけを射抜いただけでは、彼らは戦意を失わない可能性がある。
――しかし、コーデリアが思うよりもずっと、ベルベキア軍は未知の恐怖に対して耐性がついていなかった。
「逃げて……いく……」
「ベルベキア全軍が……ど、どういうことだ……?」
全てを賭けて攻めてくる軍が、こんなことで戦意を失うのか。コーデリアはそう叱責する念も覚えない。
自分の力は、これまでも恐れられてきた。剣精と契約し、その力を知られた時には、強かった兄すらもコーデリアを恐れるような目で見た。SSランクの冒険者が、5歳も年下の少女に恐怖したのだ。
予想外の事態に混乱する兵士たちに、コーデリアはすぅ、と息を吸い込み、ディックならばこう言うだろうというセリフを考え、高らかに言った。
「今、敵の総指揮官の兜を射抜いた! いいか、兵士たちよ! 僕ら『仮面の救い手』が、何度も窮地を救うとは思わないことだ! 気を引き締め、敵に備え、日々の訓練を続けるんだ!」
コーデリアは騎士団長としての口調が出てしまったことを気にしつつ、見張り塔の屋根から、足場を飛び移りながら砦の下まで一気に降りていく。
「仮面の救い手……す、すげえ……一体何者なんだ……!」
「兜を射抜いたって、この距離で……み、見ろ! 奴らの旗が破れてるぞ!」
「あれもあいつがやったのか……か、神業だ……!」
ベルベキア軍の旗は破れ、もはやただの大きな布切れになっている。それだけで発言の補強になるかどうかはコーデリアにとって賭けだったが、ある程度彼女の目論見の通りに進んだ。
「みんな、あとで僕が直々に指導してあげないと……長く敵が来なかったからといって、弛んでいるのは良くない。これは、厳しい訓練計画を組まないとね」
コーデリアは砦を後にしつつ、振り返りながら独りごちた。その口元に、涼やかな笑みを浮かべながら。
そして、砦からある程度離れた街道に入ったところで、コーデリアはギルド員と合流する。魔法陣の管理をしていた男性魔法使いが、部下を連れて、ラーグに買収された兵たちを捕らえていた。
「お疲れ様でございました。いや、こちらからは何が起きたのか、全く見えてはおりませんが。敵軍が撤退したというのは、砦の様子から伝わりました」
「うん、ありがとう。ディックのギルドは、やはり優秀な人が揃っているね。離反者は、それで全員かな?」
「いざとなって、逃走しなかった者がいるかもしれませんが。後であぶり出さねばなりませんな」
「いや。あとであの砦の兵たち全員に厳しい訓練を課すつもりだから。それに参加したなら、きっともう裏切ろうとは思わないはずだよ。僕や、僕の直属の部下の指導は、少々厳しいからね」
コーデリアの言葉を聞いて、ギルド員たちはその訓練の苛烈さを想像し、兵たちに同情せずにはいられなかった。彼女――誰もが『彼』だと思っている――の放つ気迫は、Bランク以上の男性冒険者の集団であっても、戦意を根こそぎ奪われるほどのものだったからだ。
捕縛した兵たちを王都に連行する手はずを考えながら、コーデリアは再び転移魔法陣を使い、王都へと帰還した。それは彼女が自分の屋敷を出てから夜が明けるまでの、およそ数時間のあいだの出来事であった。