第19話 魔王の訪問と再契約
気が付くと、窓から朝の光が差し込んでいた。どうやら、まだ朝早いようだ。
俺が身じろぎをしたからか、寄り添って寝ているベアトリスの睫毛が震える。
「ん……」
そして彼女は仰向けになり、しどけない寝姿を見せる。精気を十分に吸収し、魔力に変換したことで、彼女の身体の実体化はより完全なものとなっていた。身体の向こうが透けて見えたりすることもない。
まだ眠らせておいてやることにして、俺はベッドから抜け出す。
昨日の夜も寝付くまでが大変だったが、彼女があまりに俺を信頼しきっているので、間違いを起こそうという気にはならなかった。
協力してくれた仲間たちに対しても、これで筋を通せただろうか。
しかしそれにしても、このベアトリスの無防備さは、彼女がまったく世間ずれしていないからだろう。もしくはレイスの上位種族である彼女は、男を警戒する必要のない実力を持っているからか。
「……ディックさま……もう、行ってしまわれるのですか?」
「お、起きてたか。また魔王を連れてここに来るから、待っててくれ」
俺はシャツのネクタイを締め、ジャケットを身に着ける。貴族に仕える男性が用いる、上等な仕立て屋で作ってもらったものだが、俺はその着心地が気に入っていた。上下で金貨15枚という値段は衣服としてはかなり高いと言えるが、有名な仕立て屋が上等な生地で作ったものなので、価値相応と言える。
ベアトリスは実体化した体を、引き寄せたシーツで隠しながら上半身を起こした。眠るときにほどいた銀色の髪に、少し寝癖がついている――それも実体化が進んだことの現れだろう。
「お伺いするのを失念していたのですが、魔王さまをお連れするには、交渉を含めて数ヶ月は必要なのでは……?」
俺は少し考え、ベアトリスに魔王が俺のギルドで住み込みメイド店長をしていることについては、まだ言わずにおくことにした。シュトーレン公爵との契約を上書きするまでは、ベアトリスの意志に関係なく、魔王の情報がシュトーレン公爵家の人間に洩れてしまう可能性があるからだ。
「連れてくるだけならそこまで複雑な手続きは必要ないさ。俺たちは一応、魔王を討伐した立場だからな。魔王に自分の領地を出るなとも言ったが、一時的に来てくれと頼むこともできる」
「そんなことが可能なのですね……それは、魔王様を討伐したときの契約によるものですか?」
「まあ、口約束ではあるがな。ヴェルレーヌはそれを、律儀に守り続けてくれた。魔族全部を残らず滅ぼすなんてことをすれば、他の魔族の国を治める王が黙っちゃいないだろう。可能なら、永久停戦が最も望ましかった」
俺たち五人の意見は、遠からず一致していた。コーディが魔王に降伏を勧告したのも、元から話して決めていたことだ。
魔王が魔物たちに人間を襲わない生き方を教える前は、凶悪な魔物がほとんどだった。知恵を持つ亜人種の類は人間の町や村を日常的に襲っていたし、俺が育った村も魔物の被害を受けていた。そんな環境だからこそ、俺が戦闘を学ぶ機会には事欠かなかったわけだが――と、昔話は置いておこう。
しかし知能があるということは、魔王を倒した人間に逆らうことの無益も理解できるということだ。
エルセイン魔王国の降伏後、ギルドに入る魔物退治の仕事は激減したが、そうでなくとも害獣の類の退治、他の魔王の支配下の魔物が国に侵入してくるという事態はあるので、冒険者には変わらず戦闘力が求められている。おかげで俺たちの戦闘力に対する評価も、下がることなく維持されているわけだが。
「……魔王様を討伐したのが、ディック様たちのような勇者で良かった。もし魔族が滅ぼされていたら、私もあなたたちと戦うしかなかった。かなわなくても、一族の無念を晴らそうとしたでしょう」
「だろうな。レイスクィーンというか、レイスの上位種族とは戦ってないから、ベアトリスの一族は無事だろうと思う。まあ、確かめもしないで無責任なことは言えないが」
「シュトーレン家との契約を解除し、この屋敷を離れることになったら、一度は一族の元に帰りたいと思います。私の家は『六魔公』という地位にありますので、ディック様から私が受けた恩義を知ったら、きっと謝礼を……」
「ああいや、今回のはなりゆきで助けただけだからな。できればこの屋敷の管理人として残って欲しいが、それも強要はしない。これからのことは自由に選んでくれ」
俺は自分の思うままを伝えた。この屋敷に残ってもらえれば、彼女の死霊を集める力で、ユマの鎮魂欲を定期的に満たしてやれるという考えもある。
だが、この屋敷で一人過ごしてきた彼女を、家族もきっと待っているはずだ。
「分かりました。魔王様の手でシュトーレン様との契約が解除されたら、その先のことは自分で選ばせていただきます」
「ああ。それじゃ、風邪ひかないように服を……いや、レイスは大丈夫なのか」
「はい、病気の類は不死者にもありますが、風邪などはひきません。お気遣いいただきありがとうございます」
レイスである彼女のネグリジェは特殊な素材――霊体に類するものでできているようだ。
彼女と同様に実体化の度合いが変化する、『エーテル素材』というやつだろう。それはベッドサイドのチェストに綺麗に畳んで置かれていた。
不死者が俺のギルドに所属してくれたら、こなせる依頼の幅が広がりそうだ。そうは思うが、俺は今勧誘することはしなかった。そうすることで彼女の選択を狭めてしまうことはしたくなかったからだ。
◆◇◆
ベアトリスの死霊を集める力は、ユマが敷いた結界によって遮断され、屋敷で幽霊騒ぎが起こることはなくなった。ユマたち三人は昼前にそれぞれの家に帰っていき、俺もユマを送っていってから、ギルドハウスに帰還した。
ヴェルレーヌは俺の要請に応じて、次の日の夜がやってくる前、夕方の時間帯にベアトリスの屋敷を訪れた。
ダイニングルームの窓際に立っていたベアトリスは、ヴェルレーヌを見ると深い一礼をする。
「頭を下げずともよい、私はもう魔王ではないのだからな。すでに弟に位を譲っている」
「ヴェルレーヌ様が退位を……?」
「うむ。私が女王となって三十年ほどの治世だったか……ベアトリスの一族はよく尽くしてくれたな。家族のことなら心配はない、魔王討伐隊と交戦することなく、後方の守りを命じていたのでな」
「っ……六魔公は、魔王を守るための盾であるはず。なぜ、そのようなご命令を……?」
ヴェルレーヌはエルフの姿から、幻影の魔法を解除し、ダークエルフの姿に戻る。その黒い肌と紫がかった髪は、それこそサキュバスのようにも見える――普段のエルフ姿が貞淑なメイドならば、今は文字通り魔性のメイドという印象だ。
「魔王討伐隊は、六魔公が前に出ないように、魔王国に入ってから神出鬼没な振る舞いをしたのだ。そして見事に、私の居城に六魔公が不在であるうちに、戦いを挑んできた。正直を言って信じがたかったぞ、一人だけならばまともに戦えるという存在が5人も来て、それが少年と少女なのだからな」
「ディック様が魔王様のところに辿りつかれたのは、5年前……この屋敷を買った人の話から、それは存じておりました」
「俺はそのとき13歳だったな。最年少のユマは9歳だ」
今でも最年長のコーディと俺が、同じ18歳――その事実を聞かされ、ベアトリスは改めて言葉を失い、ヴェルレーヌは俺たちと戦ったときのことでも思い出したのか、感慨深そうにしていた。
「ディック……いや、もはや隠す気もないので、ご主人様と呼ぶが。私は彼に、魔王としての大切なものを預けていてな。それを取り返すために、彼に忠誠を示しているのだ」
「それは、ヴェルレーヌ様が、ディック様のしもべとして契約しているということですか?」
「……それについては伏せておくが、似たようなものであるとは言っておこう」
「いや、契約はしてないはずだが……してないよな? 俺と何か契約書を作ったとか、そういうことはないはずだし」
「い、いえ。ディック様……」
「ベアトリス、それよりも人間との契約を解除したあとのことだが、私の支配下に戻ることになる。つまりそれは、ご主人様の支配下ということでもあるのだが、それで良いか?」
ヴェルレーヌは勢いで話を進めようとする。契約の件について誤魔化すということは――俺が知らないうちに、ヴェルレーヌと契約している可能性が出てきた。
いつ、どこでそんなことになったのか。考えるうちに俺は一つの答えに辿りつく。
そう、『魔王の護符』。俺とヴェルレーヌに強い拘束力を発生させうるものは、あれしか考えられない。
「……ん? い、いや、俺はベアトリスを支配するつもりは……それじゃ、契約者が変わるだけで、人間のしもべのままじゃないか」
「それでいい、という可能性は考えないのか? ご主人様の魔力の味を知ったレイスクィーンが、なぜ簡単に離れられると思うのだ。こう言うと引かれるかもしれないが、ご主人様の魔力は、近くで感じているだけでも心地良いものなのだぞ」
「ヴェルレーヌ様、それ以上は、その……この身体にあふれたディック様の魔力を、意識してしまいますから……」
ベアトリスは、俺との召喚契約を結ぶことを希望している。
彼女をスカウトするにしても次の機会を待ちたいと思っていたが、それなら話は百八十度変わってくる。
「では、始めるとしよう。契約を結べば、ご主人様に魔力が枯渇したときに伝わるようになる。そしてご主人様から呼ばれたときは、いついかなる場所でも召喚に応じなければならない。それで良いか?」
「ディック様がよろしければ……召喚の契約を、結ばせていただきたいです……」
ベアトリスは顔を真っ赤にして言う。ヴェルレーヌは他の魔族が、俺と契約することを何とも思っていないのだろうか――それとも、同居しているがゆえの余裕か。
「ヴェルレーヌ・エルセインが、いにしえの魔神の力を借り、再契約を宣言する。ベアトリスの旧き契約を破棄し、新たなる契約の主、ディック・シルバーと結びつけたまえ……」
「っ……」
ヴェルレーヌはベアトリスの首元に触れる。すると、白い肌に青白く輝く印が浮かび上がった。同じものが、俺の手の甲にも浮かんでいる。熱くもなく、冷たくもない、契約魔法特有の奇妙な感覚があった。
「これよりベアトリスの真名を新たに刻む。ベアトリス・シルバー。ディック・シルバーのしもべとしての名を、汝が魂に銘記せよ」
「……ベアトリス・シルバー。私の、新たな名前……謹んで、お受けさせていただきます」
印は契約の儀式を終えると消え去る。ベアトリスは印の浮かんでいた首筋を撫でながら、嬉しそうに俺を見た。
「これで、私はディック様の所有物になれたのですね……」
「召喚者と、契約者だ。そこまでバランスの崩れた関係でもないさ」
「ふふっ……それはどうだろうな。ベアトリスにとっては生殺しになるかもしれんが、私もそれは同じなのでな。ともに、ご主人様を愛でつつ見守っていくとしよう」
「なにをどさくさ紛れに言ってるんだ……簡単に愛でさせると思うなよ」
ヴェルレーヌとベアトリスは楽しそうに笑いあう。元魔王と臣下の壁を越えて、二人の女性の間に友情が生まれていた。




