第201話 ギルドマスターの不在 中
時刻は夜、『銀の水瓶亭』の別邸。
ベアトリス・シルバーが主人として管理を続けているその館に、ギルド情報部の面々の姿があった。
常日頃は居間で集まるところを、今日は二階の寝室の一室で、五人の女性が話をしている。ベアトリス、サクヤ、リーザ、そしてレオニードの孫娘であり、『銀の水瓶亭』に移籍してきたティオと、虎人族のリコである。
「救い手様、いつ帰ってくるの? リコ、それまでここにいたい。もう一度しっぽを触ってもらうまで、帰れない……」
「それほど長くは留守にされないと思っていたのですが、もう少し時間がかかるようです」
「……ベアトリス、魔力は大丈夫ですか? あまり私たちからは吸わないようにしているようですが」
ベアトリスの姿が少し透き通って見えることに気づき、サクヤは心配して声をかける。ベアトリスは儚げに微笑むと、リーザの席に近づき、空になったカップに紅茶を注いだ。
「あ、ありがとうございます……」
「……リーザさんはディック様とお酒を嗜まれたことがあるのですね。ご主人様の魔力が、少しだけお身体の中に……」
「はぇっ……あ、あのっ、私の魔力吸っちゃったりします……? マスターの魔力とか、貰った覚えないんですけどっ」
「マスターの隣の席でお酒を飲むだけでも、影響を受けることがあります。依頼を受ける際に、ギルド員に強化魔法を施すこともありますし」
「……私も、マスターがお戻りになったら、魔法をかけてもらえるんでしょうか」
引っ込み思案なティオだが、ディックに対する憧れをこの一年の間に募らせているのは明らかだった。
サクヤとリーザはティオが情報部に所属してから指導役をしているのだが、そのディックに対する思いはどこから来るのかと不思議に思っていた。
「……あ。ティオって、レオニードさんからマスターのことを聞いてたりする?」
「はい、祖父はディックさんの大ファンですので。ディックさんと一緒に仕事をしたときのことを、お酒を飲んで機嫌が良いときには武勇伝として話してくれて……おとぎ話に出てくる勇者様みたいに素敵だなって……あっ……」
一気に早口でまくしたてて、ティオは我に返る。勢い余って立ち上がった拍子に、いつも目を隠している前髪が乱れて、顔が露わになっていた。
「え、えっと……ティオ、可愛い顔してるんだから髪は上げたら?」
「い、いえっ……すみません、私、過ぎたことを申し上げて……」
「気にすることはありません、レオニードさんとマスターの関係については私たちも理解していますので。よくお店に来ては、マスターを褒め称えていたものです」
「そうなんですよねー、あのおじさんが来ると凄く賑やかで……」
リーザがふと、遠くを見るような顔をする。
まだ一年と考えはしても、ふとした拍子に、もう一年が経ったのだと思ってしまう。
この一年にディックがあの酒場にいて、飲んだくれたふりをして、この王都を見守ってくれていたら。
『銀の水瓶亭』のマスターとして、彼が自分たちを導いてくれていたら。
ギルド員は誰ひとりとして、ディックの不在のうちに『銀の水瓶亭』を離れなかった。ディックに依存していたリゲルも随分と変わり、リーザもサクヤの補佐役として、情報部の要として働いている。
「……あー、駄目ですよね。マスターがいなくたって、寂しいなんて言ってたら……」
「っ……ひっく……ぐすっ……」
「リ、リコちゃん……」
リコは大粒の涙を流し、リーザに抱きつく。彼女がディックとミラルカに助けられたこと、その恩を返すために虎人族の代表としてやってきたこと。それでもディックに会えていないことを思うと、リーザの胸は痛んだ。
「もう……本当にそろそろ帰ってきてくれないと……」
「……全くもって、その通りです」
「ひぃっ……い、いつの間に入ってきてたんですか? エトナさん」
『白の山羊亭』のマスター、エトナ・フェルドール。リムセリットとディックの信奉者である彼女は、リムセリットの滞在することのあるこの館に時折訪れることを許可されていた。
しかし訪問する時に限って、リムセリットは留守にしている。そうすると彼女はどうするかというと――。
「こちらの部屋で会合を行っているということは……今日は、泊まることはできませんか?」
「あいにくながら、ディック様の使用される寝室は、お留守のうちは私が管理しておりますので……」
エトナとベアトリスの間に、静かに火花が散る――サクヤは落ち着いているが、リーザはリコの背中を撫でつつも、その顔は少々青ざめている。
「あ、あの……このお部屋のベッドが、ディックさんの使っていたものなんですか?」
そこにティオがおずおずと参戦する。エトナは切れ長の瞳で、ベアトリスは左右違う色のアーモンド型の瞳で、ティオをそれぞれ見つめる。
緊張の時が流れる――そして。
三人が照れ笑いをして、空気が和らぐ。リーザは安堵の息をつき、サクヤは警戒して立てていた兎耳から力を抜く。
「シーツを洗っているのですから、残り香などはかすかにしかありません。それは私が確認しています」
サクヤは淡々とした口調で言う――そしてしばらくして、その頬が赤くなっていく。
「サクヤ先輩ってやっぱり……そうだったんですねー」
「い、いえ……マスターと私には、雇用関係に基づく信頼関係があるというだけです」
「何も恥ずかしがる必要はありません。ディック様の人となりを知り、彼の活躍を知れば、敬愛を抱くのは自然なことです。自分の全てを捧げたいと思うのが当然です」
「っ……エ、エトナ殿。前から思っていたのですが、その表現では、あらぬ誤解を受けてしまいますので……」
サクヤの指摘にもエトナは一切動じず、頬に手を当てて艷やかに微笑む。
「私は常に、思うままをお話しているつもりですが……そうですね、リムセリット様からお叱りを受けてしまうかもしれませんし。ディック様のお考え次第ではあります」
「マスターって凄く真面目なので、エトナさんくらいの美人さんに誘惑されても簡単に揺らいだりしないですよ?」
「……誘惑するというわけでは……私は女性として魅力がありませんし、ディック様に示せるものがあるとしたら、ただただ信仰心のみですので」
真顔で言うエトナを見て、サクヤとリーザは内心で安堵する。これ以上ディックに対して思いを寄せる女性が増えると、そのうち訪れるのは相当な修羅場なのではないかと心配しているからだ。
「……現状でも十分大変ですけどね。マスター、それで帰ってこないんだったりして」
「何のことを言っているのかは、聞かずにおきますが……マスターは、必ず帰ってきます。リコも何も心配することはありません」
「あ、あの……リコ、村の人たちに相談してきた。今の王都、獣人のこと差別しないようになってきた。だから……私も、救い主様のギルドに入りたい!」
リコの申し出に、サクヤとリーザは顔を見合わせる。
サクヤはディックならどう答えるだろうかと考えて、彼がいないのなら、その判断を受けるまでは保留にしておくのが良いと思った。
「では……仮加入ということで、どのような仕事が向いているか、適性を見させていただきますね」
「っ……やったー! リコ、役に立てるように頑張る!」
「虎人族って足音を消せるんだよね。それなら私たちと同じ情報部向きかな?」
喜びを全身で現してリーザとじゃれ合うリコ。二人を見ていてベアトリスが微笑む。
「ベアトリス、マスターが戻るまであなたには健在でいてもらわなくては……」
「……はい。では、少しだけ……サクヤさん、よろしくお願いいたします」
ベアトリスはサクヤの許しを得て、彼女の後ろに回って肩に手を置く。
「んっ……す、少しビリビリとしますね……マスターは、いつもこのように魔力供与を……?」
「ご主人様は、私と肌を合わせても、とても落ち着いていらっしゃいました」
「は、肌を……それってあの、そういうことですか?」
「ディック様、レイスクィーンの方とそのような関係を結ばれているなんて……『ご主人様』という呼び名も、考えてみればこれ以上ふさわしいものはございません」
「? 救い主様は、幽霊の人のご主人さま……? それなら、リコもご主人様って呼ばなきゃ……!」
恍惚としているエトナの発言に、リコが影響されてしまう。リーザは顔を赤らめて何か妄想しており、ティオはすでにのびてしまって、ディックが使っているベッドに寝そべっていた。
「こんな日々が続いては、私たちも身体が持ちませんね……」
「ええ……やはりディック様からいただく魔力が、私にとっても最も甘美なものですから」
ベアトリスの言葉に、自分の魔力はそれほど良いものではないのか、とサクヤは不平を言うことはしなかった。
サクヤもまた、ディックの存在は代わりが利かないと思っている。彼がいつ戻っても良いように、ギルドの一員としてあり続ける、その決意には少しの揺らぎもなかった。
◆◇◆
ラトクリス王宮の庭園。魔法の力で吹き上がる噴水が、月光を受けて幻想的な光景を作り出している。
メルメアは昼のうちに届いた封書を開き、それを庭に置かれた飾り椅子に座って読んでいた。
ベルベキア共和国がアルベイン王国の休戦要求を受け入れたあと、ラトクリスはアルベインと国交を持つようになった。アルベインは魔王国エルセインとの国交を回復していたこともあり、同じ魔王国であるラトクリスに対しても同じように交流することで、大陸内の安定を保とうと動いたのである。
アルベインと国交を結んだあと、騎竜運送便によって互いの特産物を贈り合うようになり、その便にヴェルレーヌがメルメア宛ての手紙を預け、メルメアも返事を送り返すようになった。
「……あの方は、まだ戻られていないのですね」
「メルメア殿下、こちらにいらっしゃったのですか。自室に戻られていないので、侍女が心配していましたよ」
メルメアに声をかけたのはジナイーダ将軍だった。
ラトクリス四将軍の顔ぶれは、グラスゴールが去り、フォルクスが魔法研究所の守備隊に配属されたことで入れ替わっている。シェイド将軍は健在だが、ラトクリス王宮から離れ、内乱が始まる前から行っていた東部開拓の任務に戻っていた。
「……申し訳ありません、聞いてしまうつもりはなかったのですが。あの方というのは、やはり……」
「ええ……ディック様は、まだ戻られていないようです。ヴェルレーヌお姉様は、今も『銀の水瓶亭』で彼の帰りを待っていらっしゃいます」
「そうですか……しかし、デューク殿……いえ、ディック殿であれば、必ず事を成して戻られるはずです」
ジナイーダは仮の名を使っていたディックと共に行動していた間は、彼らと友人のように接していた。しかしディックたちがラトクリスを救い、アルベインに戻ってからは、彼らに対して敬う気持ちを込めて話すようになっていた。
「……グラスゴールは国を出て、ディック殿に仕えている。そのようなことは、内乱が起きたときには全く想像できていませんでした」
「はい……でも、ディック様は、どのような相手でも引きつける魅力を持っている。グラスゴールもシャロンも、ディック様に仕えていて、きっと毎日が充実しているでしょうね」
「そのディック殿が、今は王都アルヴィナスにいない。みんな、きっと寂しい思いをしているでしょうね……」
ジナイーダは王女の前で、あえてディックたちと共に行動していたときの口調に戻った。
今のような彼女を見ると、メルメアはジナイーダもまた、ヴェルレーヌと同じように姉のような包容力を持っていると感じる。
「……ジナイーダ。無理を承知で、お願いしたいことがあります」
「この国が落ち着いたあと、アルベイン王国を訪問したいということですね。エルセインを含めた歴訪という形になるかもしれませんが、可能だと思います」
言おうとしたことを当てられて、メルメアは驚いていたが――困った人だというように、ジナイーダに笑いかける。
「私は、そんなにアルベインに行きたがっているように見えましたか?」
「恋煩いは、止められるものではないもの……王女殿下であっても」
「……きっと、この想いをお伝えすることはないのでしょう。ですが、ディック様にもう一度お会いして、彼が幸せでいるところを見たい。彼が穏やかに暮らしているところを見られたら、私はそれで……」
メルメアが全て言い終える前に、ジナイーダは自分より小柄な王女を抱きしめる。
いつも騎士として鎧を身につけているジナイーダだが、今はラトクリスの内乱が終わってから一年を祝うパーティの後で、女性らしさを引き立たせるドレスを身に着けている。そんな彼女に抱きしめられ、柔らかく包み込まれるようにメルメアは感じた。
「これくらいのことは、再会の記念に許してもらえると思うわ。ヴェルレーヌ様も、メルメア様のお気持ちには気づいていると思うし」
「……いいのでしょうか、そんなに贅沢なことを求めたりしても」
「遠慮していたら、ずっと後悔することになるでしょう。思い出くらいは貰っても、罰は当たらないはずよ」
「ジナイーダさん……」
メルメアは慈しむようなジナイーダの表情を見て、瞳を潤ませる。ジナイーダはハンカチで王女の涙を拭くと、顔を赤らめて、騎士として振る舞うときには決して見せない顔をした。
「……彼が娘のスフィアちゃんを可愛がっているところを見ていると、心が安らいでいる自分に気づいたの。女の幸せは捨てたはずなのに、こんなことを言うのは未練がましいけれど」
「そんなことは……ジナイーダさんは、ディック様のことを……」
「ふふっ……どうかしら。私は王女殿下を応援する立場として……いえ、これでは権限の私的利用になってしまうわね……」
ジナイーダが真剣に悩み始めたところを見て、メルメアはくすっと微笑んだ。
その笑顔には、王国の危機を救うために動いていたときの悲壮さは影すらも感じられない。年齢相応に、ささやかな悪戯ごとを楽しむ乙女の表情だった。
「ジナイーダさんには護衛として同行していただきます。これは、王女としてのお願いです」
「……命令ではなくて、お願いなのね」
「はい。私とジナイーダさんは、共犯ですから……こんなことを言っていたら、ディック様にお会いしたときお叱りを受けてしまうでしょうか」
ジナイーダはディックの反応を想像する。
積極的に前に出たがらないようでいて、大切なことは逃さずに言う。そして、口にしたことを必ず達成する信念を持っている。
そんな彼は何より、女性に弱い――言い方を変えれば、女性に優しい。会わないうちにもディックに女性の知り合いが増えてしまっているだろうということは、ジナイーダには目に見えるような気がした。
「……明日は久しぶりに、騎竜の練習をしようと思います。ジナイーダさん、ご一緒にいかがですか? 離宮とルジェンタ城の様子を見に行こうと思うのですが」
こういったときに、お忍びでアルベインに行くと言い出さないのが、王女の生真面目なところだとジナイーダは思う。しかしその申し出は、彼女にとって受けない以外にはないほど魅力的だった。
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