第183話 水瓶亭の邂逅と月兎族の後悔
王都アルヴィナスには十二の通りがあり、北側に王宮、魔法大学、貴族区があるというのは変わりがなかった。
違うのは、通りにそれぞれギルドがあるわけではなく、『無色の蛇遣い亭』のみがあり、レオニードさん、カスミさんはその幹部として活動しているということ。
元の世界ではシェリーとロッテの育ての親であり『赤の双子亭』のマスターだった『赫の慈母』は、やはりシェリーたちにマスターを引き継いで姿を消していた。
他のギルドは後継者の不在、経営の失敗などで廃止となり、『白の山羊亭』のマスターが『無色の蛇遣い亭』の復活を宣言して、一つのギルドにまとめられることになった。『白の山羊亭』のマスターはエトナではなく、彼女は冒険者として頭角を現していないか、この世界にはいないということになる。
シュヴァイク、グレイシア、ミースさんたち――元の世界のギルドマスターたちもまた、冒険者ギルドに所属していない。宰相はロウェでもなく、国王陛下の名前はクラウスではない。マナリナとティミスの二人も、この世界では生まれてきていない。
サクヤさんは、この世界でもディノアの仲間として活動していた。王都に入った途端に彼女のほうから接触してきてくれて、身体を休められる場所に案内してくれた――そうしてたどり着いた場所は、存在しなくても仕方ないと思っていた『銀の水瓶亭』のギルドハウスだった。
ディノアは十三歳で冒険者としての範疇を超えた功績を上げ、王国の歴史上で最年少のギルドマスターとなった。ヴィンスブルクト公爵家の内乱をレオニードさんたちと協力して阻止し、その功績が認められたのだ――初めは内乱を止めるつもりなどなく、冒険者として受けた些細な依頼が結果的に大仕事に結びついたとのことだ。
サクヤさんは酒場のカウンターで私に飲み物を出してくれて、私の質問に答えてくれた。私が別の世界から来た『ディック』の魂を宿していること、目的を果たしたら元のディノアに身体を返すつもりでいることを伝えると、最初はやはり警戒している様子だったが、最後には理解してくれた。
「元は『銀の水瓶亭』だったこの支部を今も維持しているのは、私はギルドではなく、ディノア様……マスターのみにお仕えするという気持ちがあるからです。それなのに、私は……一人であの魔物に対抗しようとするディノア様の力になることができなかった。戦力になれないのなら、可能な限りこのギルドハウスを維持することしか、私にできることはないと思っていました」
他のギルド員たちは、他ならぬディノア自身から竜翼兵と交戦しないこと、竜翼兵が突如出現する現象が解決するまではギルドとしての活動を停止すると通達されていた。
元の世界でも、私のギルドに竜翼兵と戦う力を持つ人は、ゼクトとミヅハの姉妹しかいない。サクヤさんはSランクで、パーティを組まなければ竜翼兵とでは戦闘にすらならない――準備をして立ち回らなければ、一撃で倒されてしまうこともありうる。
「ここに居て、ギルドハウスを守ってくれてありがとうございます。この建物は私の世界とは少し違いますが、共通している部分もあります……そういった部分を目にすると懐かしいとも思いますし、何より落ち着きます」
「恐れ入ります。おそらく私の知っているディノア様と……ディック・シルバー様は、一部分では共通する価値観をお持ちなのではないでしょうか」
元々ギルドハウスを建てたのは『水瓶亭』の三代前のマスターなので、建てるときには彼の意見が関わっていると思うけれど、内装は私がマスターを引き継いでから大きく変えた。
ディノアとディックは、サクヤさんの言う通り、共通している部分も多い――けれど男性と女性の違いは大きく、店の内装や置かれた小物に女性らしさが感じられる部分がある。
「……マスターは、もう一つの世界では、あんなにも強い仲間がいらっしゃるのですね」
スオウとミカドは王都の中に入ったところで、辺りを見てくると言って私たちと別れた。
師匠や合流した仲間たちは、二階で身体を休めている。サクヤさんはその姿を見ただけでも、彼女たちの実力を感じ取ったようだった。
「私は……マスターへのご恩をお返ししなくてはならないのに。最も大切なときに、何も……」
「ギルド員には、一人ひとり成すべき役割があります。命の危険があるようなことは無理をしてするべきではありません。私はそう思っています」
「……ディノア様」
「サクヤさんや、王都の人々のことは私たちが護ります……ど、どうしたんですか?」
サクヤさんが顔を覆っている。元の世界では泣いたところを見たことのないサクヤさんが、肩を震わせて泣いていた。
「そのようなお気持ちで、人々を助けておいでになりながら、ディノア様は……いつも、自分は大したことはしていないと、謙遜ばかりで……私は、彼女がいなくなるまで、何も……何も、分からずに……っ」
私はこの世界に送られて、流されるままに何かをさせられるというわけじゃない。
自分で何を成すべきかを見つけ、そのためにどうすればいいかを考えて、答えを出さなくてはならない。『異空の神』を倒すにはどうすればいいのか、それとも倒すことができるような存在なのか。
(もしディノアが一人で戦おうとしたのなら、それは何故なんだ? 俺もまだ、彼女の記憶の断片しか見えていない。ディノアは何をしようとして、一人で姿を消したんだ……『異空の神』が竜翼兵を送り込んできているとして、、彼女はそれを知っていたのか?)
手がかりを探さなくてはいけない。ディノアの記憶が全て見えないのなら、彼女が残したものが教えてくれるかもしれない――だとしたら、まずこのギルドハウスの中を調べなければ。
(ご主人様、サクヤ殿が泣いているというのに、考えごとばかりしていて良いのか?)
「っ……」
気がつくと、ヴェルレーヌが二階から降りてきていて、物陰からこちらを伺っていた。
覗き見を怒るよりも、緊張の糸が切れて微笑んでしまう。私は席を立ってカウンターの中に入ると、サクヤさんの頬に伝う涙をハンカチで抑えた。
「……マスター……ッ」
初めは驚いた顔をしていたサクヤさんが、私の胸に飛び込んでくる。
いつも冷静で落ち着いている彼女でも、一人になってしまったことは心細かっただろう。他のギルド員が戻ってくるには、竜翼兵が出現しなくなって安全になってからになる――つまり、このまま事実上の解散となってしまうこともあり得た。
「私たちは、この状況を変えてみせます。この世界に来たのは他者の干渉によるものですが、今は来て良かったと思っています。世界が違っても、私が知っている人たちはいて、彼らと彼らが暮らす世界に危機が及ぶなら、守りたいと思いますから」
「……マスター……いえ。『ディック殿』は、やはりディノア様と同じ。勇者のような、高潔な心を持っていらっしゃいます」
勇者と呼ばれたことは前にもあるが、それは魔王討伐を果たした者が受ける称号だ。
私は――いや、俺たちは『討伐』してはいない。魔王討伐隊というのは、俺たち五人が属するパーティの名前で、今も解散していない――ヴェルレーヌは苦笑するが、俺たちの中では、ずっとこの名前は変わらないだろう。
そして『魔王討伐隊』は、必ずどんな依頼でも達成する――『銀の水瓶亭』のギルドマスターである俺が所属する、最高のパーティの名前でもある。
「俺は……いや、私はって言わないと、この姿じゃ変だから。ここにいる間は、それで通させてもらいます」
「殿方として振る舞うディノア様……想像するととても凛々しいような、やはり想像はしにくいような。けれど私が忠誠を誓うのは、お優しくて強い、私の知るディノア様です」
「分かっています。必ず、元のディノアをお返ししますから……もうしばらくは、このままでいさせてください」
私はサクヤさんと握手をする。するとヴェルレーヌが機を見計らったかのようにこちらにやってきた。
「ご主人様、私はこれからキッチンを借りて食事の準備をしようと思います。サクヤ殿、食材を使わせてもらってよろしいですか? 代金はお支払いしますので」
「いえ……ディック殿はディノア様でもあるのですから、ご遠慮なく。今でも不思議な感覚ではありますが、お話しているうちにより納得することができました」
「ありがとうございます」
「ヴェルレーヌ、私も支度を手伝います。サクヤさんも是非食べていってください、少し痩せてしまっているようですから」
「は、はい……ご心配をかけて申し訳ありません。ディノア様がお帰りになるまで、なかなか食事を摂る気になれず……あっ……」
サクヤさんのお腹がごく小さく鳴る。彼女が長い兎耳までほんのりと赤く染めて恥ずかしがるので、私はヴェルレーヌと顔を見合わせて笑い合う。
私たちはサクヤさんに案内されてキッチンに入る――ハレ姐さんとラムサスがいないのは、様子を見ればすぐに分かる。でも、ディノアは彼女なりに工夫して、キッチンの中のものを使いやすいように配置していた。
「食材は……今は店を閉めているからか、日持ちのするものが余っているな」
「出入りの業者も、仕入れが安定しない状態で……ですが、少しなら今からでも手に入れることができます。少々お待ちいただけますか」
「あ……」
そこまでしなくても大丈夫と言う前に、サクヤさんは軽やかに走って裏口から出ていった。
「サクヤ殿は、こちらの世界でもご主人様を心底慕っているのか……どんなきっかけがあったのだ?」
「……また無事に元の世界に戻れたら話します。というと、縁起が悪い言い方かもしれませんが」
「いや……ご主人様の言葉なら、私には信じる以外にはない。さて、何から始める?」
サクヤさんが仕入れから戻ってくるまで、私たちにできることは――まず小麦を練って、生地を寝かせておくこと。そして塩漬け燻製肉の塩抜きをすることなど。
「スフィアちゃん、手伝うって言いにくくなっちゃったね……二人ですごく張り切ってる」
「私はお母さんたちがお料理してるのを見るのも好きだから」
「……見ていられると気になるので、二人とも手伝ってくれると助かるんですが」
師匠とスフィアは驚いたように私を見た後、いそいそとこちらにやってくる。スフィアは見るからにはしゃいで、師匠は落ち着いたところを見せようとしてお澄ましをしている。
どれだけ切迫した状況でも、食事は全ての力の源であって、疎かにしてはいけない。今だけは休息の時間を享受して、料理をするために手を動かすことにした。