第178話 もう一つの世界ともうひとりの『忘却』
――視界を埋めていた光が和らぎ、視界に誰かの姿が映る。
俺の目はほとんど開かず、初めは眩しいとばかり思っていた。
しかし光に目が慣れ、目が開いてきて気がつく。若い頃の父さん――『父さん』とは長い間呼んでいなくて、人に親のことを話すときは『親父』だとか、そんな呼び方をしていた。
生まれたばかりの頃のことなんて思い出せるものじゃないと思っていた。いや、これは現実ではなく、夢なのかもしれない。
母親のことを夢に見た次は、父親の夢を見るのか――思考を制御する方法を身につけても、記憶は思い通りにはならない。
――ジャック、そんなに揺らしちゃだめよ。やっと寝付いたところなんだから。
――赤ん坊の扱いには俺だって慣れてる。ほら、俺のことが見えてるみたいだ。
――この子は上の子たちよりも、魔力が多いって長老様が言っていたけど……。
――俺は魔法がからきしだが、シンシアの魔法は子供たちに受け継がれてるな。その中でも最も優秀ってことじゃないか。
こんな記憶が、本当に俺の中にあるのか――母さんは、俺に魔法を教えてはくれなかった。
――この子だけ特別扱いをしてはいけないけど、少し心配ね。
――全ては星の導きのままさ。この子が向かう先は、この子が出会う人々が決める。
父さんなら言いそうなことだ。その放任主義を、姉さんたちは仕方のない人だと言っていることもあった。
それでも俺たちは全員、自分で選んだ道を歩いている。家族はそれぞれなのだろうが、俺にとって親はずっと子供のことを見ているものじゃなく、親も子も自由に生きるというのは一つのあり方だと思う。
これは俺の記憶だ。そう確信した途端に――揺らぐ。
俺はディック・シルバーだ。それは間違いのない事実のはずなのに。
――しかし『ディノア』は全く泣かないな。上の子たちはみんなよく泣いたもんだが。
――あなたがお父さんだって分かってるのかもね。でも、改めて教えてあげて。
――うむ、分かった。ディノア、俺は君の父親で、ジャック・シルバーだ。そしてこの人がお母さん……シンシアだよ。
(ディノア……それが名前? 俺は一体、何を見てるんだ……?)
混乱しきったまま、赤ん坊の俺は父さんに抱き上げられて窓の近くに連れていかれる。
光の加減で、今が昼下がりだということが分かる。抗うこともできずに、目を閉じる――そしてもう一度眠りに落ちるように意識を失う。
◆◇◆
「……え、えっと……何がどうなったらこんなことに……」
「うん……そうみたい。どうしてこうなったかは推測はできるけど、まだ確証はないかな」
「彼女が……その、ディックということでいいのね?」
話し声が聞こえてくる。こうして膝枕をしてもらって目を覚ますことに慣れつつあるのもどうかと思うが、頭を支えてくれている誰かがいる。
「この方がディックさんと同じ魂を持っているのは間違いありません。この世界においては、ディックさんは女性として生まれてこられたのです。同じ人物は同じ魂を持つことができないので、ここにいるディックさんは女性でなければならなくて……すみません、説明が要領を得なくて」
「魂の形が見えるユマちゃんがいてくれてよかった。この子がディー君だっていう、何よりの証明になるもの」
「お父さんがお母さんになっちゃった……リムお母さん、お父さんはお父さんに戻れるのかな?」
「ユマ、『この世界』と言ったね。僕たちが飛ばされたのは、元の世界と違うっていうことになるけど……」
だんだんと意識がはっきりしてきた――そして理解したのは、身体に違和感があるということ。どこかを痛めたということではなく、とにかく形容しがたいが、何かがおかしい。
「……私とディックが過去に飛ばされた時の感覚に似ていた。『覇者の列席』は、『時間転移』の方法をカルウェンを通じて手に入れ、別世界への転移を可能にした……ということになるのかしら」
「どうやら、そういうことみたいだな……」
「ディー君……良かった、目が覚めたんだね」
「え、えーと……良かったって言っていいの? ディック、女の子になっちゃってるけど……」
――やはりそうなのか。身体が小柄になり、筋肉の付き方や骨格が全く変わってしまっていて、身体を起こす動作ですら意識しないと実行できない。
一つずつ身体の動かし方を確認しながら、何とかバランスを崩さずに身体を起こす。膝枕をしてくれていたのはユマだった――俺が目覚めたからか、とても感激してくれているようで、少し照れるものがある。
今いる場所は、どこかの森の中だった。森といっても木々は葉をつけておらず、大地は乾き、吹いてくる風はかすかに汐の匂いがする。
(海が近い……シーファストから離れてはいない。だが、こんな地形は周辺にはなかったが……)
一人で考えてばかりでも埒があかないので、相談すべきだ。そう考えてユマを見やると、考えに耽っていた俺を心配しているかと思いきや、何かぽーっとした様子でこちらを見ている。
「別の世界で姿が変わってしまっても、ディックさんの魂の波動は何一つ変わっていません……ああ、鎮魂したい……」
「ユ、ユマは相変わらずだな……急に姿が変わって、違和感があると思うんだが。それとも、あまり変わってないか?」
みんな気を遣ってくれているのだろうが、この反応はどう受け取ればいいのだろう。みんなの視線の行き先は――俺の胸元だった。
「さっきから思ってたんだけど……これって、あたしがいつも通り発育チェックした方が良かったりする?」
「な、何を言ってるんだ……って、うわっ……」
自分で見て驚くほどに、胸元にある谷間は深かった。胸筋があったはずの場所にあるものは、自分で見ても違和感しかない豊かな胸だ。
これがある状態でみんなは今まで戦っていたのかと思うと、俺が同じことができるのか心配になってくる。強化魔法の感覚は早めに取り戻さないと、近接戦闘で苦労することになりそうだ。
「ディック、女性になったときに装備まで合わせて変わってしまってるわね。あまり激しく動くとはしたないことになるから気をつけなさい」
ミラルカはこちらにやってくると、まだ上半身だけを起こした状態で、崩して座っている状態の俺の足を指差す。いつも全く出さない肌が大きく出ている――外套を着ていれば隠れるが、スカートの丈が思ったより短かった。
(……一体どういう原理なんだ? 俺がこの世界では女性としてしか存在できないってことは、装備品も合わせて変化するのか。久しぶりだな、こんな理解が追いつかない状況は)
「まあ、戦闘になればはしたないとか言ってられる状況じゃなくなるが……」
「それなら見せてもいいようなのを下にはいたほうがいいかもね。あたしもそうしてるし」
「そういうものを調達できればな。とりあえず、今は状況を確認しないと仕方がない。ヴェルレーヌも転移してるのか?」
「ええ、火竜のバニングもね。今は空から周囲の状況を見に行ってくれてるわ」
ミラルカは言いながら俺に右手を差し出す。その手を掴んで身体を起こす――いつもミラルカのことを華奢だと思ってきたが、こうして女性になると、体格の差をあまり感じなくなる。
「っ……」
何とか立てるかと思ったが、やはり多少足がふらつく――しかし、ふわりと後ろから誰かに優しく受け止められた。
「おっと……大丈夫かい、ディック。慣れない身体だから、無理をしちゃいけないよ」
「あ、ああ。ありがとう、コーディ」
「えっ、ちょっと……何かディックが可愛く見えるんですけど。そしてコーディが格好良く見えて……ミラルカ、これっていいの? 駄目じゃない?」
「ディックが男性の時とは、また違う見栄えになるわね……歌劇の一場面でも見せられているみたい」
「歌劇は一度両親と鑑賞したことがありますが、見目麗しい女性が男性役をされていることがありました。コーディさんはまさに適役ですね」
アイリーンとミラルカは思うところがあるようだが、ユマはうっとりとしてこちらを見てくる。コーディは苦笑しつつも、俺をしっかりとエスコートしたあと、そっと離れた。
「みんなディー君が女の子になっちゃっても気にしてないみたいだね。ずっとこうだったら、なんて心配になったりしない?」
「っ……それは困るな。『この世界』だとこうだっていうだけで、元の世界に戻れば男に戻るんじゃないのか」
「そ、そうだよね。リムお母さん、意地悪言っちゃだめだよ。お父さんがお母さんになったままだったら、みんなが寂しくなっちゃう」
「う、うん……まあそれはね、ディックはずっと男の人だったから、急に女の人になっちゃったって言われたら、それは慣れるのに時間がかかっちゃうけど……」
「色々と懸案はあるけれど……元に戻るまでは女性として扱うことにしましょう。この世界のディックが女性ということは、元々この世界ではあなたが女性として認識されていることになる……ということでしょう?」
よくよく考えなくても混乱しそうだが、身体に慣れてくれば俺の能力に変化は無いと思われる。男性の身体の方が筋力は強いだろうし、色々と差異はあるが、魔力や扱える魔法に変化がなければ、同じ戦術を使うことができる。
「元からこの世界にいた『俺』は、どうなったんだ? そのまま存在してるのか」
「これは私の考えだけど……私たちも含めて、一つの世界に一人しか存在することはできないと思う。だから、私たちが元の世界に戻ったら、この世界にいた私たちが戻ってくるんじゃないかな?」
そういうことなら『別の世界の俺たち』の身体を乗っ取ったということではなくなる。しかし『別の世界の俺たち』と関係を持つ人々とは、話が噛み合わない可能性が高い。
「ディー君、女の子として振る舞うために呼び方を変えないとね。今の身体だとディックって呼んだら不思議な顔されちゃうし」
「じゃあ、まずディックの名前を決めてから行動開始ってこと? えーっと……ディータちゃんとか?」
意外にそのまま使えそうな名前をつけてくれるアイリーンだが、さっきの夢がただの夢でないのならば、俺が名乗るべき名前は一応決まっている。
「ディック、自分で何か考えているのかい?」
「あ、ああ。俺が考えたというか……たぶん、この世界で親につけられた名前が『ディノア』だ」
「『ディ』の音は共通しているのね。ディノア……呼んでみると、確かに違和感はないわね」
「はい、とても素敵なお名前です。ディノアさん、改めてよろしくお願いします」
ユマが俺の手を取って微笑む――王都の老若男女の信奉を集める司祭だけあって、そうされるだけで心から安心できる。会話しているだけで微妙に『鎮魂』されているという感覚も否めないが。
そして改めて思うのは、自分の手が小さくなっているということだった。俺が18歳でユマは14歳なので、俺の方が手が大きいのは変わらないが、一回り大きいとまではいかなくなっている。
この外見で男っぽく振る舞うとそれだけで違和感が出てくるので、目立たないように女性らしく振る舞うよう心がけなければいけない。そうなると、まず問題になることがある。
「ディック、『俺』は封印したほうがいいんじゃない?」
「嬉しそうに言われてもな……と言いたいが。他人と接触しなければ、変える必要はないんじゃないか? 俺が『私』なんて言ったら変だろうし」
「あら、王様の前で丁寧な言葉を使うときは『私』と言っていたじゃない」
「そういえばそうだったね……ミラルカの記憶はごまかせない。なんて、揚げ足を取っているようになってしまうかな」
「あのなあ……はぁ、まあいい。師匠、『覇者の列席』の二人はどこに行った? あいつらはこの世界に転移しなかったのか」
「状況がわからないから、向こうからこっちを警戒して離れたみたい。こっちには来てるんだよね、ユマちゃん」
「はい、魂の波動が残っていましたが、すぐに気配を消してしまったようです」
スオウは魂から魔力を引き出し、炎に変換する術を習得していた。SSランク級の冒険者でも意識すらしない『魂の波長』を知っているなら、それを隠蔽する技術を持っていてもおかしくはない。
しかし俺たちを仲間に引き込むために実力行使をした彼らもまた、この『別の世界』に飛ばされてしまったというのは、最初から折り込み済みだったのだろうか。元の世界に戻る方法を探す上で、彼らが手がかりになる可能性はあるが。
「遠くに行ってないなら、探し出して話を聞かないとな。この世界に飛ばされた理由を、あの二人が知ってるとしたら……」
言いかけたところで、念話のピアスから声が聞こえてくる――ヴェルレーヌだ。
(ご主人様、上空からスオウとミカドの姿を見つけた。今は発見されない高度から監視している)
(よくやってくれた。二人はどの方角にいる?)
(ご主人様たちがいる位置からは北東の方角になる。ここは間違いなく、アルベイン東部海岸……この辺り一帯がシーファストの街だったはずだが……)
――薄々と感じていたことではあった。俺たちが飛ばされた位置は、地図上では同じ位置なのではないかと。
しかしシーファストの街はどこにもない。消えてしまったのではなく、初めからここには街が造られなかったのだ。
「ディック……どうやらこの世界のアルベインは、僕らの知る王国とは全く違う歴史を辿っているようだね」
「ここがシーファストの街があった場所というなら、あまりに生気がないわ。どんな歴史を辿ったとしても、アルベインが版図を広げたら、この東部海岸に行き着くはずなのに」
アルベインの玄関口と呼ばれる港が存在しない。それは、海を隔てた国との行き来がないことを意味する。
それが俺たちの知っている国と比べて、どれほどの変化をもたらすのかは想像がつかない。コーディの言う通り『全く違う』としか言いようがないだろう――王都の位置すら、俺たちが知っている場所にある保証はない。下手をすれば、ここがアルベイン王国でない可能性もあるのだ。
街で会った人たちの顔を思い出す――同時に、王都や国中の支部にいるギルド員たちの顔も。彼らがこの世界でどうしているのかを知りたい。
「ディー君……じゃなくて、ディノアちゃん。あとで魔力の調整をさせてね、本当は慣らしてから戦った方が安心だけど」
「あ、ああ。そうしてくれると助かる……じゃない、どう喋ったらいいんだ……?」
「ディノアちゃんのしたいようにしていいと思うよ。あたしよりお淑やかそうだし、丁寧な言葉遣いの方がいいかもね」
「私もアイリーンの言う通りだと思うわ。ディック……いえ、ディノアさん」
ミラルカが先ほどから楽しそうなのは、単に好奇心をくすぐられているのだろうか――あまりいじられてばかりでは情けないので、微妙に仕返しをしたい気分にさせられる。
「丁寧に話せばいいんだな……いや、いいんですね。ほら、やっぱり変だろ」
「ううん、ちゃんとディノアお母さんになってる。私はどっちでも好きだよ」
「そ、そうなのか……? まあ、スフィアがそう言うのなら……」
頭を切り替えることは難しい。今から女性として振る舞う必要もないと思いもする――だが、この姿になっても『ディック』のままで振る舞えば、それはそれで違和感があるのかもしれない。全く、難しい状況になってしまった。
「……こほん。ヴェルレーヌ、聞こえますか。今の状況は……」
(――ご主人様、すぐに先ほど伝えた方角に向かってほしい。何かがおかしい……先ほどまでは何もいなかったのに、なぜ……っ)
「っ……みんな、すぐに北東の方角に向かいましょう!」
「丁寧なだけでディックが別人のように女の子らしく……ううん、完全に女の子だからそれでいいんだけど。『俺』っていうの、元の世界に戻っても忘れちゃだめだよ?」
「そんなことを言っている場合ではないみたい。私は普通に走ると追いつけないのだけど……」
「あたしとコーディで、ミラルカとユマを運んでいこうか」
「それが良さそうだね。ディノア、全力で動けるように、走りながら身体を慣らしておくといい……行くよ、ユマ」
「お願いします、コーディさんっ……!」
今のパーティでは、コーディが最も紳士らしい――ユマを抱きかかえても走るスピードが全く落ちない。
(おっと……コーディを見て安心してるだけじゃいけない。私もいつもの感覚を早く戻さないと……!)
頭の中まで『ディノア』に切り替える――簡単ではないが、努力をする。
――『全能力強化』――
魔法で全員の速度を強化する。ぐん、とパーティ全員が加速して、先行しているアイリーンが振り返りつつ言った。
「っ……さすがディノアちゃん、強化魔法はいつも通りの効き目だね……っ!」
「アイリーンに背負ってもらっている私まで強化しなくてもいいのに……そういうところは律儀ね」
「私のパーティは、魔法使いと僧侶も同じように強化する方針なんです」
「いつもそうやってきたんだ……全然気づかなかった。それはみんなから信頼されちゃうわけだね」
「お父さん……今はお母さんの強化魔法、すごくあったかいからみんな好きだと思います。もちろん私も」
コーディが「私の魔法で強化されている感じ」は独特なものだと言っていたが、不快な感覚でないのならそれに越したことはない。
私も徐々にスピードが乗ってきているけど、スフィアは速さを合わせて隣を走ってくれていた。娘と同じように髪が長くなっていることを今さら自覚する――どうやってまとめたものかも分からない。風で流れる髪を気にせずにいられない私を見て、少し前を行く師匠が振り返って笑った。
どれくらいの期間女性のままなのか現状では分からない。だけど皆に教えてもらっておくべきことは、少なくはなさそうだった。
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