第16話 過去の住人と聖女の覚醒
さらりとした銀色の髪を編み込みにしたその少女は、夕陽の中でもそれと分かる、左右違う色の瞳で俺を見ていた。青と金色――金色の瞳は、魔族しか持たないはずなのだが。
「この屋敷を所有してた一族って……何年前の話だ?」
「十年ほど昔になります。シュトーレン公爵家というのですが、ご存じありませんか?」
アルベイン王国の貴族の頂点に立つ三つの公爵家が、ヴィンスブルクト、オルランズ、そしてシュトーレンである。俺もその名前は勿論知っている。
俺がこの屋敷を買うとき、権利書には二つ前の所有者までしか記載されていなかった。王国の法律ではそこまでしか遡って記載する義務はない。
しかし公爵が最初に所有していたというなら、そのことを教えてくれても良かったのではないか。それとも不動産屋も、この屋敷を最初に誰が建てたのかも知らなかったということか。
「俺は売りに出されていたこの屋敷を買い取らせてもらった者だ。ディック・シルバーという……今はわけあって、この屋敷に来てる客にはセバスと名乗ってるがな」
「はい、事情は理解しています。この屋敷で起きた出来事は、すべて把握しておりますので。それは、かつてこの屋敷に暮らしていた者に許された権限ということで、ご容赦ください。悪用する気はありません」
屋敷のどこにいても、彼女には事情が知れてしまう。限られた範囲の情報を収集する魔法は普通に存在するので、不思議なことではない。
屋敷一帯にその効果を広げるとなると、家のあちこちに魔法文字が書き込まれているか、それともこの屋敷の敷地一体が、巨大な魔法陣の中にあるということも考えられた。事前の調査で気づかなかったので、高度な隠蔽が施されていると考えられる。
「そのシュトーレン公爵家は、なぜこの屋敷を手放したんだ? あんたは、どういう立場の人間なんだ」
「私はベアトリス・シュトーレン。シュトーレン家の一族の者です。それ以上は、申し上げられません」
「……何か事情があるのは確かみたいだな。さっきの質問に答えてもらってないが、シュトーレン家の人間は、この屋敷に自由に出入りできるのか?」
「いいえ……私は、『どこからも出入りなどしていません』」
「……それはありえない。俺たちは、昼のうちにこの屋敷を隅々まで見て回った。それとも、どこか隠れられるような場所が別にあったっていうのか」
「私はずっとここにいました。ここだけでなく、この屋敷のどこにでも、私はいます」
――ゾクリ、と背中に冷たいものを感じる。
どこからも侵入しておらず、この屋敷のどこにでもいて、屋敷内の情報を把握している。
その荒唐無稽にも思える発言の意味を、そのまま汲み取るとしたら……彼女は。
「私は、この屋敷を見守らなくてはならない……一族が捨てた場所であっても、責任を放棄するわけにはいきませんから」
「責任……?」
それは何かと問いただす前に、俺は気づいた。
ベアトリスの姿が、薄く透けていく――そこでようやく俺は、彼女が普通の人間ではないと気が付いた。
「あんたが、この屋敷に姿を現す霊……そういうことなのか?」
「……はい。不浄なる者を浄化する力を持つ僧侶の方が、ご一緒に来られていますね。でも、私は消えるわけにはいきません」
「彼女は、無害な魂を昇天させることはないと言ってる。ベアトリス……あんたを見つけても、すぐさま鎮魂したりってことにはならないよ」
「……彼女の持つ力は、抑え込まれているように感じます。もし解放されたら、私の前にも、天へと続く道が示されるに違いありません。私はまだ、消えるわけにはいかない」
「……何か事情があるのなら、話してくれないか? この屋敷に死霊が出るっていう噂は、本当なのか」
ベアトリスの姿はさらに薄くなっていく。どうやら、自分の意志では姿を保つことができないようだ。
「私はこの屋敷を、そのままの姿で残しておきたいだけです。いつでも、家族が戻ってこられるように」
その言葉を最後に、ベアトリスの姿は見えなくなる。
屋敷の中の手入れが行き届いていた理由は、これで察しがついた。ベアトリスがこの屋敷を、一族が戻ってこられるように維持していたのだ。
それならばやはり、俺も、今までにこの屋敷に住もうとした貴族も、彼女にとっては退去させる対象ということになる。
しかし、この屋敷を捨てたシュトーレン公爵家の人間が、今さら戻ってくることなどあるのだろうか。
もう一度ベアトリスに会わなくてはならない。俺はミラルカとアイリーンに事情を説明し、専門家であるユマに相談してもらうことにした。
◆◇◆
夕食の時間になると、ユマがミラルカとアイリーンを起こして連れてきてくれた。
既に外は日が落ちて、室内は魔法を利用した明かりで煌々と照らされている。十人ほどが一緒に席につけるダイニングテーブルの端に、ミラルカとユマが並んで座り、向かいにアイリーンが座っていた。
ベアトリスが俺たちをすぐに追い出そうとしている、ということはないようだ――料理をしている時も何の支障もなかった。
「ユマちゃん、このお屋敷に無害な魂がいるって言ってたよね。それって今でも感じる?」
「はい、今でも私たちを見ていらっしゃいます」
「一方的に見られているというのは、あまりいい気分はしないわね……何とかならないものかしら」
ミラルカにはベアトリスに会ったことを話しているが、事情が分かっていても落ち着かなさそうだ。
アイリーンはまったく気にしておらず、羊のローストにワイン仕立てのソースをかけたものを、美味しそうに口に運んでいる。
「はむっ……うーん、美味しい。整体もしてもらってすっきり爽快だし、美味しいものを食べて、お酒を飲んで、あとはお風呂だよね~」
「……大丈夫かしら。お風呂といえば、一番無防備になる時間だし……不意を突かれたりしたら、つい魔法を使ってしまうかもしれないわ」
「一緒に入れば大丈夫、あたしがちゃんと見ててあげるから。ふだんでも、髪を洗うときとか、後ろに何かいそうな気がしたりするもんね~」
「ちょ、ちょっと……意味もなく警戒心をあおらないで。後ろになんて何もいないに決まってるわ」
ミラルカは今は気にする必要がないのに後ろをうかがう。そして安全を確かめたあと、野菜スープを口に運んだ。彼女は小食のようで、肉もパンも少なめにしか口にしていないが、アイリーンに合わせて酒はそこそこ進んでいる。
「お客様方、この屋敷には多少『いわれ』がございますので、夜間に部屋を出られるときはくれぐれもお気を付けください」
「っ……このタイミングで言わないで。わざとやっているなら大したものね、褒めてあげるわ」
「ミラルカ、スプーンを持つ手が震えてるんだけど……あれ、もしかしてほんとに怖い?」
「こ、怖いなんて一言も言っていないでしょう。それに、ユマがいれば何が出ても関係ないわ」
ミラルカがユマに話題を振ったが、ユマがなかなか返事をしない。彼女は水の入ったグラスを両手で持ったまま、小さく唇を動かしている。
「……鎮魂……でも、無害……邪気を感じないので、鎮魂は……いけないこと……したい……鎮魂したい……」
「えっ……ユマちゃん、いけないことしたいの? それって例えばディックに協力してもらう必要があるやつ?」
「……はい? 私、今なにか言っていましたか?」
もう完全に目がいけないところに行ってしまっていたのだが、ユマにはまったく自覚がないようだった。
「これは重症ね……早く何とかしないと、ユマの心がもたないわ」
「えっ……こ、心ですか? 私の心が、どうなってしまっているんですか?」
「んーとね、すっごく溜まってるんだと思う。これだけ溜まっちゃうともうね、普通はイライラしちゃったりするよね。ユマちゃんは内にため込むタイプだから、一気に発散しなきゃ」
「は、はい……私、何かをためてしまっているんですね。どうしたら発散できるんでしょうか」
「答えは明白よ。そこのセバスを、何も考えずに鎮魂して昇天させてあげなさい」
「お、お嬢様……何か失礼がございましたでしょうか、神の国に招かれるほどにご不快な思いを……?」
「だ、だめです、私が昇天させてさしあげたいのは……い、いえ、何でもありません……」
やはりユマは俺――セバスではなくディックの方だが――を昇天させたいらしいが、なんてどう聞いても人聞きが悪い。そんな想像をしてしまうのは心が汚れているからだろうか。
「ユマちゃんの昇天って気持ちよさそうだよね、アンデッドを昇天させたときもそんな感じだったもんね」
「っ……ごほっ、ごほっ。何をいきなり言い出すの、アイリーンには不死者の気持ちがわかるっていうの?」
「あはは、そうじゃなくて、見ててそう思っただけ。ミラルカ、どうしてむせてるの?」
「あ、あなたが変なことを言うからよ……」
「いえ、何も変なことではありません。アイリーンさんのおっしゃる通りです」
「……ユマ?」
ユマの目がまたとろんとしている――俺に迫ってきたときと同じ。今のユマには、鎮魂に関係する話は刺激が強すぎるのだ。
「魂をお救いするということは、現世への執着から解き放たれるということですから。その時に感じる感覚を、教義としては『法悦』と表現しています。これは、魂を導く僧侶も、その一端を味わうことのできる感覚です。しかし最も大きな法悦を感じる瞬間とは、魂同士が引き合っていると感じるお相手を、お導きする瞬間なのです。私がただ一度、魂の引力を感じた方というのは……」
「ゆ、ユマ……落ち着いて、とてもよく分かったから、とりあえず深呼吸をしなさい」
「はっ……あ、あれ? ミラルカさん、私今いったい何を……」
「これはちょっと、さすがのあたしも気付いちゃったよ……ユマちゃん、もうギリギリなんだね」
「ぎ、ギリギリ……そうなんでしょうか。セバスさん、私はぎりぎりなのですか?」
「と、とんでもございません、大変素晴らしい教えを説いていただき、ありがとうございます」
俺を昇天させたときに法悦を味わうというが、法悦って一体どんな感覚なんだろう。ユマの興奮ぶりを見る限り、とても教育によくない感覚のような気がする。
◆◇◆
ある意味で波乱に満ちた夕食の時間は終わり、俺は夕食の片付けを終えたあと、屋敷の一階の廊下から中庭を見ていた。
すっかり日が落ちているが、外にも魔法の明かりをともした柱が立っており、視界は確保されている。だが、死霊が現れる気配はない。
一人になったらベアトリスがまた出てきてはくれないかと思ったが、そう都合よくはいかないようだ。
今、三人は入浴の時間だ。屋敷の一階の東側に浴室があり、俺はそこから少し離れた位置にいるが、何かあったらいつでも浴室に駆けつけられるように準備をしている。
この屋敷を買った貴族は、例外なく短い期間で退去している。
ベアトリスからその理由を聞けていれば――そんなことを考えながら、何もなかったはずの庭に視線を送る。
「……お出ましか……!」
全く気配がなかったというのに、庭に幾つかの人影が見える――あれは、死霊。
人の姿をしているが、ほとんど薄れて見えないゴースト。黒いもやのような、決まった形を持たないガスト。
そしてミラルカが苦手だと言っていたレイス――その数は、こうして見ている間にも少しずつ増えていく。
「――きゃぁぁぁっ!」
「っ……!」
絹を裂くような悲鳴が上がる。声が聞こえたのは浴室から――非常時ということで仕方なく、脱衣所に踏み入る。
「お嬢様方、いかがなさいましたかっ……おおっ!?」
「か、身体を洗っていたら、下からいきなりっ……」
ミラルカは裸のままで飛び出してきている。まさに身体を洗っている最中だったのか、体中に石鹸の泡がついている――そのおかげで、大事な部分がかろうじて隠れていた。
「ひゃぁぁ、ひゃっこいっ! このぉっ、当たらないからって調子に乗ってっ……!」
浴室の中では、アイリーンが湯煙の中で、迫りくるゴーストたちに蹴りを繰り出していた。しかし彼女の言う通り、『鬼神化』するか魔法の武器を装備していなければアンデッドに有効打を与えることができず、アイリーンの攻撃は手ごたえなく空を切っている。
腰に一枚タオルを巻いただけの姿の彼女を見て、当然上半身も視界に入るが――俺はプロとして心を動かさず、この事態を打開できるはずのユマに視線を送る。
しかし彼女は、床にぺたんと座り込んだままだ――久しぶりのことで、すぐに鎮魂するとはいかないのか。
「お嬢様方、ここは危険です! 一度脱出して、体勢の立て直しを……」
「っ……待って、セバスさん! ユマちゃんなら、きっとやってくれるから!」
「そうよ……ユマ、あなたの力を貸して! こんなとき、いつもあなたなら、私たちを助けてくれたでしょう……! 立ちなさい、ユマ!」
アイリーンとミラルカが叫ぶ。しかし放心したように座り込むユマに、死霊たちが近づいていく――。
もし触れるようなことがあれば、俺がユマの代わりに死霊を吹き飛ばす。
そう決意した直後のことだった。ユマに触れようとしたゴーストが、音もなく浄化されて消滅する。
「……こんなに多くの迷える魂が……王都じゅうから、ここに集まってきている。どうして私は、今まで気づかずにいられたのでしょう……お鎮めする魂が、こんなにも多くあふれていたのに」
ガストだろうが、レイスだろうが、ユマには関係がなかった。
彼女の裸身を覆う光は、浄化の光。本来ならば、どんなに熟練した僧侶であっても、呪文の詠唱を経て不死者の浄化を行う――しかし、ユマは違う。
『沈黙の鎮魂者』。そう呼ばれるゆえん――ユマは詠唱を必要としない。
それでいて、その浄化の力は常軌を逸している。アンデッドだらけの洞窟でも、一体を浄化しようとして、洞窟の全域を浄化してしまう。
だからこその、冒険者強度101180。不死者を浄化する、その一点のみで、SSSランクの評価を受けた少女――それが、ユフィール・マナフローゼだった。
「さあ、お鎮めしてさしあげましょう……どのような迷いも、お悩みも、私が全て聞いてさしあげます。神様が用意した約束の地で、誰もが原始の姿に戻るのです……生まれたばかりの赤子のように」
ユマはただ、両手を組み合わせて祈っているだけだ。しかし際限なく浄化の力が広がり、全ての障害物をお構いなしに、どこまでも、どこまでも広がっていく。
「ど、どこまで浄化を……ユフィールお嬢様っ、お身体に差しさわりはっ……!」
あくまで執事口調で問う俺に、ユマはにっこりと微笑みかけ、そして答える。
「……アイリーンさんがおっしゃった通りです。鎮魂は、とても気持ちが良いことなのです。ずっと忘れていました……どうして我慢していられたのでしょう。これは私が生きていくために、必要なこと……とても、とても大切なこと……ああ……でも、本当にお鎮めしてさしあげたいのは……」
――その時俺は、ユマの浄化の力に触れた。アイリーンとミラルカも、同じ気分を味わったのかもしれない。
彼女の力は、不死者を打ち払い、天国に送るためだけのものではない。
生者の魂すらも、鎮める。まるでユマの手で、直接魂を撫でられているようだった。
それを恐ろしいとも思わず、ただ心地良いと思った。ユマが言っていたとおり、鎮魂する側もされる側も、同じだけの感覚を味わうのだ。
気が付けば、外から入り込んできていた死霊の姿はどこにもなくなり、床の下から湧いてくる気配もなくなった。静寂に包まれる中で、ユマは――額に少し汗をかき、肌が紅潮していたが、疲れてはおらず、むしろ一気に生気が戻り、生き生きとしていた。
「さあ……ベアトリスさんの魂は、これからお話しして鎮めてさしあげなければいけません。セバスさん、屋根裏部屋に行きましょう。彼女はそこで待っています」
ユマはそう言うが、俺は彼女の方を見られなかった。
ついに再び覚醒した聖女に、こんなことを言うのは無粋かもしれない。しかし一糸まとわぬ姿である彼女が、そのことに気づいたときのためにも、俺はしばらく目をそらしたままでいようと誓っていた。