第175話 活気ある港町と雨の気配
七番通りの会館からギルドハウスに戻ると、予定通りシャロンが転移陣を使ってやってきて、飛行戦艦が目的地に到達したことを伝えてくれた。
隙あらば俺の血を吸いたがる彼女だが、眷属の彼女に血を吸われても主従逆転ということはないらしいので、このところの働きに免じて少しだけ吸血を許可したのだが――。
「ああ……まさかマスターの命の雫を分けていただけるなんて。お仕事は真面目にするものですね」
「ディー君、本当に大丈夫……? 血を分けてあげるなんて、どんなおまじないをかけられても文句は言えないんだよ?」
「お父さん、血が足りなくなった分だけお肉をいっぱい食べなきゃ」
「少し吸われただけだから大丈夫だ。シャロンの魔力容量だと、すぐに限界になるらしい」
わずかに血を吸っただけでシャロンは『魔力酔い』気味になり、今でも恍惚とした様子のままでいる。初めは血を吸う以外に何かしたのでは、と疑われてしまった。
「はぁ~、私もディックにご馳走になりたいくらい。ウェイトレスのお仕事って気苦労が結構あるよね~、えっちな目で見る人を牽制しなきゃいけないし」
「そんな客がいたのか……? うちの店はウェイトレスを困らせる客はお断りしてるんだがな」
仕事を終えたアイリーンは二階に上がってきてから、ウェイトレス姿のままでソファに寝そべっている。先ほど来てくれたミラルカが、ぐったりしたアイリーンに膝枕をしていた。
「心配ならちゃんとお店にいて監視しなさい、飲んだくれさん」
「ディックさんはギルドマスターの会合に出ていらっしゃったので、監視のためにはディックさんがお二人必要ですねっ。ディック様の魂が二つに分かれて……鎮魂も二倍に……」
『覇者の列席』を迎え撃つため、まだ家に戻ったばかりで申し訳ないが、ユマにも来てもらっている。彼女は早速いつもの妄想がエスカレートして、スフィアに心配されていた。
「お父さんは私が生まれたときみたいに、力を分ける魔法が使えるよね。それで二人になったら、ユマお母さんが言う通りになるのかな?」
「『小さき魂』は確かにそういう魔法だけどな」
「えっ、あの身体に文字を描くやつ? あれってディックの魂がついてきてくれてたの?」
「ああ、まあ……いや、なんで赤くなるんだ」
「だ、だって……魂だよ? 普通に触れたりするより、もっと距離が近いっていうか……ミラルカもそう思うよね?」
「どういう感覚なのか、私はまだ経験していないから何とも言えないのだけど……魂を分離させるというのは興味深いわね」
ミラルカがこちらを見る――彼女の身体に魔法文字を描くというのは、確かにこれまで機会がなかった。
「……ど、どこに描いてくれるか考えているの? あまり観察すると……殲滅するわよ」
「あ、ミラルカちゃんがちょっと遠慮してる。殲滅まではしないから、まじまじ見なかったら描いていいってことじゃない? ディー君、今がチャンスだよ」
「っ……リ、リムセリットさん。ディックを唆さないでください」
「ああっ……また一つ、素晴らしいこと……いえ、禁忌の考えが浮かんでしまいました。ディックさんに魔法文字を私の身体に描いていただいて……」
「俺の邪念が大変なことになったときは、鎮魂を頼む。今はお預けだ……って聞いてないな」
ユマが両手を組み合わせて、うっとりとしている――彼女のことを九歳から知っている俺としては、そんな表情をさせてしまうのはどうかと思うのだが、周囲から一人前の司祭と認められている彼女に対して子供扱いは良くないし、小柄であっても俺も一人前の大人として彼女を見ていて――と、今は葛藤している場合ではない。
「ディー君、そろそろ出発しようか。敵の人たちがどこから来るか想像ができてるなら、待ち伏せしてた方がいいよね」
「ああ、何箇所かに分かれる必要はあるが……パーティ編成については飛行戦艦に移動してから考えよう」
◆◇◆
王都アルヴィナスから、馬を使って丸二日ほどかかる場所。アルベイン東部にある岩山に、飛行戦艦は結界を張って停留していた。
制御室の幻燈晶には外の風景と、ここから少し離れた東部海岸の港町が映し出されている。待機していたグラスゴールに、俺は今後の段取りについて説明していた。
「アルベインの玄関口、港町シーファスト。その一帯に、敵が転移してくる可能性があるということですね」
「ああ。『覇者の列席』は、霊脈の一点を中心とした一定範囲内に転移する技術を持っている。俺たちの場合は霊脈に隣接してないと転移できないが、敵はそうじゃない。『金の天秤亭』のミースさんから情報を貰ったことで、この推論を導くことができた」
「どんな場所にでも自由に転移しているようでいて、そうではなかった。そして、超長距離の転移をすることはできず、一定の距離ずつしか転移できない……おそらくディックの言う通りでしょうね」
実際にカルウェンと共に転移したことのあるミラルカにも、俺の仮説は受け入れてもらえたようだ。
「一度の転移距離は『転移結晶』を使った場合よりも長くはなく、敵の本拠地にいる術師がもう一度転移を発動させる」
「その、再び転移を発動するまでの間……中継地点で捉えることができれば、みすみす王都にまで到達されることはないということだな」
「そういうことになる。黒竜に騎乗して上空から偵察する班、町中を監視する班というように分けようと思うが、それでいいか?」
「そっか、町中で戦いになる可能性もあるんだね。そういうときは、人のいる場所から離れるように誘導しないと」
「高速で移動できる手段を持つ人と、そうでない人で組むべきね。そうなると……」
誰かを連れて高速移動する手段を持つのは、俺と師匠、コーディ、アイリーンの四人だ。スフィアは単身なら『精霊体変換』と『転移瞬速』を組み合わせて疑似転移ができるが、精神体となった俺しか同行できない。
「じゃあ……もし二人で移動することになったときのために、バランスが取れてたほうがよさそうだね」
「あたしはユマと組んだほうが良さそうかな」
「はい、アイリーンさんが鬼神の力を宿されたとき、私がそばにいたほうが良いと思います」
「確かにそうだな……よし、アイリーンとユマでペアを組んでくれ。三人はどうする?」
「スフィアちゃんは私と組もうか、お互い戦い方が似てるから」
「うん、わかった。よろしくね、リムお母さん」
「私はコーディと組むわね、前の戦いではディックと組んだようなものだから」
ミラルカが少し顔を赤らめて言う――過去に行っている間は二人で行動していたので、続けて組むのは気恥ずかしいということだろうか。
「では、私がご主人様とペアということか。それこそ、酒場で常にペアを組んでいるようなものなのだがな」
「どのみち、敵を発見したら全員で合流することになる。二人だけで勝負をつけることは考えないこと、住民のいない場所で戦うようにすること……注意することはそれくらいかな」
コーディは騎士団長だけあって、住民のことをしっかり考えている。敵が敵である以上、見つけ次第戦闘に入るというのは避けなくてはならない。
「敵の強さを考えると、黒竜を出すと落とされる可能性がある。空中偵察はバニング一騎のみとして、師匠に偵察を頼みたい。他の三班は地上担当だ」
「「「了解っ!」」」
俺たちはグラスゴールたちに後のことを頼み、飛行戦艦の甲板に上がる――そして、待機してもらっていたバニングに乗り、シーファストの町に向かった。
◆◇◆
アルベイン王国における海の玄関口で、多くの国から船がやってくる港町。王都でもアルベイン人や獣人以外を目にすることはあるが、シーファストの通りで見かける人々はさらに多様だ。
いつもなら偵察時には外套を羽織り、フードで顔を隠すのが常だが、そんな格好では注目を浴びるので、今回は素性を隠すことはしなかった。
「敵が転移してきたら、次の転移を行う前に急行する……ご主人様の速度がなければ、とても間に合いませんね」
この街では魔族の姿は皆無ではないものの、本来の姿では目立つのでヴェルレーヌは白エルフの姿をしている。と言っても、外套を羽織っているとはいえ、従者の服装で歩いている時点で人目を引いてしまうのだが。
「こんにちは、そこのエルフのお姉さん。今日は旦那さんと買い物かい? 良かったら見ていきなよ、獲れたての……あっ、あんた、前にも来たお兄さんじゃないか」
「おっと……すみません、通り過ぎるところでした。前に仕入れさせてもらった魚介は新しいメニューに早速使わせてもらいました」
前にハレ姐さんを連れて仕入れに来たとき、この通りにある海産物問屋を覗いた――顔を覚えていてもらえるとは思わず、偵察中ということもあって通り過ぎようとしたが、店頭にいた店主の女性に見つかってしまった。
彼女は三十代半ばといったところで、小麦色の肌が健康的だ。気候のこともあってか肌の露出が多めだが、この街ではそういった服装の人が多い。そのため、長袖で暑そうな格好をしている俺たちを見て少し不思議そうにしていたが――。
「今回は連れてる女の人が違うんだねえ……」
「……ディック様?」
「いや、そういうことじゃなくてだな。前に一緒だったのは、うちの店の料理長なんです」
「ああ、そうだったのかい。じゃあ若旦那、今回も何か買ってくれるのかい?」
前にはなかった魚、海老、貝――水揚げしたばかりのものばかりでなく、乾物も取り扱っている。どんな料理に使えるかと頭が回転を始めるが、今回は自重しなくてはならない。
「今日は仕入れじゃなくて、用事でこの街に来てまして。あとでウェルテム商会を通じて仕入れの相談をさせてもらいます。商会から人が来たら、この注文票の品物を渡してもらえますか」
「ああ、竜を使って魚を運べるようになったって言ってたね。あれって値が張るんじゃないのかい?」
「鮮度が高い魚介類には、それだけの価値がありますから。王都では川のものは出回りますが、なかなか海のものは出す店が少ないんです」
「馬車で運んでも途中でだめになっちまうからねえ。お兄さんのおかげで王都の人たちにも魚が届くなら、漁師の暮らしも良くなりそうだねえ。お兄さんみたいに羽振りのいいお客さんはそういないだろうけど」
現状では採算を度外視して、店で出す料理のバリエーションを増やしたいというくらいしか考えていないが、騎竜配達便が一般化するようなら、シーファストの漁業は王都の食卓に直結するようになるだろう。騎竜士の育成はイリーナが指導してくれているおかげで捗っているし、エルセインから黒竜をさらに数頭借りる交渉も進んでいる。
「じゃあ、また寄ってちょうだいね。お姉さん、それにしてもほんとに美人だねえ。お兄さんがフラフラしないように見ててあげなよ。いかにももてそうだから」
「見た通りに実直な方ですので、その辺りは心配しておりません。お心遣いをいただきありがとうございます」
ヴェルレーヌはスカートをつまんで会釈をする。アルベインでは貴族やその従者が見せる作法だが、エルセインでもそれは同じらしく、かなり畏まった挨拶といえる。
「これはこれは、ご丁寧に……お姉さん、もしかしてエルフのやんごとなき家の人だったりしないかい?」
「私はご主人様にお仕えする従者です。それ以外の何者でもございません」
彼女が元魔王と知ったら、シーファスト全体が混乱に陥ってしまうだろう――いかに淑やかな振る舞いをしていても、それは忘れてはいけない。
店主の女性に見送られ、俺たちは再び人の行き交う通りを歩き始める。しずしずとついてくるヴェルレーヌだが、彼女にとっても物珍しいのか、通り過ぎる店に視線を送っていた。
「従者の服装をしていても、やはり見る人が見れば妻に見えてしまうようですね」
「っ……時間差で言うな、完全に不意を突かれたぞ」
ヴェルレーヌは白い手袋をつけた手で口元を隠して笑う。緊張感は忘れていないが、ふとした瞬間に肩の力を抜いて、自然に気を許せている。
確かにこんなふうに歩いているところを見られては、俺たちは睦まじい男女に見えなくもないのだろう。
(ディー君、シーファストの街を通ってる霊脈がだいたい把握できたから、イメージを伝えるね)
バニングに騎乗して上空から監視している師匠が念話を送ってくる。師匠が頭の中に思い浮かべたこの辺り一体の俯瞰図が、俺の頭にそのまま流れこんできた。
霊脈は一本道ではなく、細かく分岐したりもしている。しかし、東方諸島の方角からこちらに向けて走ってくる太い霊脈は一本だけだった。
(東側の海岸から、西南西に向かって街の中心部を通り抜けてる。ちょうど俺たちが歩いてる先にある広場を通ってるな)
(霊脈のことを知らなくても、街ができるときは自然と霊脈の近くだったり、魔力が集まるところを中心にしてできることが多いんだって)
師匠の授業を受けながら、スフィアも頑張ってくれているようだ。ヴェルレーヌにも念話は伝わっているので、声が聞けて嬉しそうにしている。
「しかし人の数が多いな……」
「船乗りたちの無事を祈る祭りが近く行われるため、日頃より滞在者が多いようですね。船乗りや漁師の方々も街に戻っていて、家族や恋人と過ごされているようです」
祭りが近いこと自体は俺も知ってはいたが、男女で連れ立って歩いている人が多い理由について深く考えていなかった。
(揃いの装飾品を身につけてる人が多いな……それも祭りだからか? そういう風習っていうことか)
元々輸入品の細工物――イヤリング、ブレスレットの露店が多い街だが、広場が近づくとさらに路上に敷物を敷いて店を開いている装飾品屋が増える。
混雑しているのでなかなか立ち止まるわけにも行かず、じっくりは見られない――と、ふと振り返るとヴェルレーヌがついてきていなかった。
人の流れに逆流するのは大変だが、流れを読めば邪魔にならないようにするのは不可能ではない。俺はするすると人の流れに逆らって戻っていき、露天商のところで屈み込んでいるヴェルレーヌの姿を見つけた。
今は買い物をしている時ではない――と、それはヴェルレーヌにも分かっているはずだ。ここで立ち止まって商品を見る理由があるなら、急かすことはせずにおく。
「これは、あなたが作ったのですか?」
「ううん、お母さんが作ったの。お母さんは少し用事があるから、あたしがお店番をしてるの」
袖などが擦り切れた服を着た少女が、ヴェルレーヌの問いかけにはきはきと答える。ヴェルレーヌは優しく微笑むと、座っている少女と視線の高さを合わせて、敷物の上に並べられている装飾品を手に取る。
この街で暮らす船乗りの夫を持つ女性は、夫が海に出ている間に細工物を作り、露店で売って生計の足しにするという。ヴェルレーヌが目を止めた店もその一つのようだった。
「……綺麗な石がついたカフスですね。これは、この辺りで採れる石ですか?」
「うん、川原とか浜辺で見つけてくるの。きれいな石だけ選んで、飾りを作るの。この黄色い石は透明なのはあんまりなくて、すごく珍しいんだよ」
そう言って少女が手に取って勧める装飾品を見て、俺は思わず目を見開く。
黄色い宝石でよく流通しているのは『黄水晶』だが、ヴェルレーヌが見ているカフス――腕につける飾りのようなものだ――に使われているものはそれよりも濃い黄色をしている『黄玉』だ。大きなものは国の宝物庫に入れられるほどの価値がある。
「これ、綺麗な石がいっぱい使ってあるから、お母さんは銀貨2枚って。エルフのお姉ちゃん、買ってくれる?」
いつもそうしているのだろう、少女はヴェルレーヌにカフスを熱心に勧める――ヴェルレーヌはそれを手の上に載せ、じっと見ていた。
護符を受け取らなかったことも理由の一つなのかもしれないが、ヴェルレーヌは俺のギルドに入ってから、一度も何かを欲しがったりということはなかった。仕事に見合う給金を出すと言っても、最低限身の回りのものを揃えられればいいと言い、ほとんど手をつけていない。
その彼女が、黄玉をあしらったカフスに興味を示している。それは、少女が母の手伝いをして売っていることも理由なのだろう。
(あいつは……やっぱり、国にいたころは皆に慕われてたたんだろうな。自分で気づいてるか分からないが、あれは民を思いやる女王の顔だ)
「……私は、このカフスにはもっと価値があると思います。私が指定する金額を出させていただいても……」
「えっ……あ、あの、それは……お母さんが、決まった分しか貰っちゃだめって……」
少女は迷っている――銀貨二枚、それ以上は受け取れないというが、俺もそれ以上の価値があると思っている。
「ヴェルレーヌ、『この銀貨』を使ってくれるか」
「……ご主人様、すみません、務めの途中に寄り道をしてしまって」
「それは全く構わないが……確かにきれいなアクセサリーだ。これは、街に来た人にお土産品として売ってるのか?」
「うん、いっぱいお店があるからあたしたちのはあんまり売れないけど……で、でも、お母さんは頑張って作ってるし、えっと、えっと……すごいから……っ」
言葉足らずながら、少女の熱意は十分に伝わってきた。そして、母親を想う気持ちも。
「じゃあ、そのカフスを買ってもいいか。ちょっと珍しい銀貨だが、お母さんに渡せばちゃんと使えるものだってわかるはずだ」
「お兄ちゃん、ありがとう……あれ? この銀貨、普通の銀貨と違う……」
「偽物じゃないぞ。そうだ、でも心配っていうことなら、別のものも買わせてもらおう。ええと、持ち合わせが他にないからこれでいいか」
俺は一緒に売っていた玻璃の指輪を拾い上げ、あまり目立たないように、少女の手に金貨を一枚置く。
「お、お兄ちゃんっ、この指輪、そのカフスよりずっと安い……」
「いいんだ。知り合いが王都で商売をやっているんだが、そいつがこういう品物の仕入先を探しててな。いい店が見つかって良かった」
「えっ、えっ……?」
ちょっと難しい話になってしまったか――ウェルテム商会には色々と世話になるが、ジョイスなら話に乗ってくれるだろうと、無条件に信頼させてもらうことにする。
「あ、ありがとうございましたっ……!」
購入したカフスと指輪を受け取り、露店をあとにする。先ほどより混雑が緩和して、歩いているうちにヴェルレーヌが追いついてきた。
「……あれは現行のアルベイン銀貨より希少価値がある、古銀貨ですね。あの子のお母様は気づいてくださるでしょうか」
「大丈夫だとは思うが、もし気づかなかったらそれも残念だからな」
玻璃の指輪はそれほど価値が高いものではなく、子供の玩具として扱われるようなものなので、普通の相場は銅貨数枚だ。金貨を払ったのは少し強引だったが、今後のことを考えれば安くはある――少女の母親が、装飾品を王都で売ってみることに興味を持ってくれればいいのだが。
「あの金貨は『魔除け』……売り上げを狙う不届きな輩が出ないように、貨幣に魔法をかけて保険をかけたのですね」
「この街の良いところでもあるが、多様な人間が出入りするからな。それくらいのアフターケアは必要だろう」
「顧客の立場でそこまで考えられる方は滅多にいないと思います。少なくとも、私はご主人様以外に見たことがありません」
そう言って、ヴェルレーヌはカフスを手に取って俺を見る――頷きを返すと、彼女はカフスを手首につけた。
「そちらの指輪については、言及はしないことにしておきましょう。どのような値段の指輪であっても、私たちにとっては大きな意味のあるものですから」
「……玻璃の指輪も綺麗だが、みんなそれぞれの趣味もあるし、欲しいものが指輪じゃないってこともあるんじゃないか?」
「それは乙女心が分かっていないと言わざるをえません。私の故郷でも、男性が女性に贈る指輪には特別な意味が……」
――そう、ヴェルレーヌが言いかけたとき。
雲一つない晴天の空から、雨粒が落ちる。みるみるうちに空は灰色の雲に覆われ、シーファストの街一帯に雨が降り始めた。
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