第164話 目覚めの朝
「ミラルカは、母さんを守りたかったんだな。母さんに、魔法を褒めてもらいたかった……魔王討伐隊に参加したのは、そのためだった」
答えは返ってこない。ミラルカが逡巡しているのが分かる――肯定と否定のいずれも、簡単には選べないのだろう。
『……それを期待するほど、私は子供じゃない。そう思っていたわ……それにね、あなたが思うほど、私とお母様の関係は悪くないのよ。ただ、一緒には暮らせないというだけ』
「そうか。でも……ミラルカは、責任を感じてるんじゃないのか」
『自分のせいで、お父様とお母様が一緒にいられなくなった……そんなふうに思っているんじゃないかっていうこと?』
か弱くはなく、落ち着いた声でミラルカは言う。しかし俺は、ミラルカが穏やかな口調で強がりを言うことがあると分かっていた。
『……それは、私が望んだことだから。それで傷つく資格なんてないわ。お父様とお母様は、離れていても夫婦のままでいる。それは、離れて暮らしても自分らしくあることができているから……お父様は、そう言っていた。私は何も気に病むことはないって』
「そうか……俺の親も、自分らしく生きてるってところは、ミラルカの両親と同じだな」
『そう……お父様なんて、本当に勝手な人なんだから。私の知らないところでお母様に会いに行って、それを悪びれもせずに教えてくれるのよ』
そうした方が、ミラルカを安心させられると思ってのことだろうか。
いつかまた三人で話せるように、繋がりを保つこと。そのために、ミラルカの父さんは努力をしているように見える――しかし。
「本当は……いつだって、会える。資格がないなんて言うが、俺はそんなことはないと思う。俺みたいな放蕩息子は別だが、ミラルカみたいな娘なら、きっと誇らしく思ってるはずだ」
自嘲の意味はなく、本当に思ったままを言ったつもりだった。
ミラルカの気配が、心なしか柔らかくなったように感じる。
――笑ってくれているのだとしたら。何も見えない暗闇を離れて、その姿を見たい。
『……そんなに恥ずかしいことを言ってしまうんだから。あなたみたいな人を、勇者って言うんでしょうね』
「言うべきことは言うさ。笑われても、今は悪い気はしない」
ミラルカの心を最後に縛っていたもの――カルウェンの呪縛が呼び起こした、贖罪の感情が薄れていく。
母親と向き合うこと。そして、フランを救うこと。ミラルカの中にあった強い想いは、もう誰かに付け入られる弱さではなくなった。
ミラルカの心に入り込んだ俺の精神が、外に抜け出す――俺は眠っているミラルカの手を握ったままでいた。
すでに空は白んで、早朝の光が窓から差し込んでいる。その中で眠るミラルカの白い頬に、わずかに朱がさしていた。
「……ん……」
長い睫毛が震えて、ミラルカの瞳が薄く開く。
俺の姿をその目で捉えると、視線を逸らす。そして、小さな声で言った。
「……ありがとうと言うべきなのでしょうけど。あなたと戦ったときのことを思うと……とても正面から見られないわ」
「やっぱりミラルカは、俺が一番戦いたくない相手の一人だな」
「皮肉にも聞こえるけど……今は、何も言い返せないから。こんなところまで来てしまっても、落ち着いているのね……」
彼女の心に触れたとき、五年前の世界に来てしまったことも伝わっている。
しかし取り乱すようなことはなく、ミラルカは俺の手に自分の手を重ねて、そっと外させた。
「……元の世界に、早く戻らないと。その方法は、思いついている?」
「見当はついてる。確実に戻れるかどうかは分からないが……手詰まりになったわけじゃない」
ミラルカは俺の真意を測るように見ている――何も、嘘はついていない。
彼女はゆっくり身体を起こす。そして、俺に向けて手を差し出した。
「ん……?」
「……持っているでしょう、あのピアスを」
それも、ミラルカには伝わっている。俺はコートの内側に入れていたピアスを取り出し、ミラルカの手に載せた。
「これをどうやって手に入れたのか。魔王討伐の旅の途中で出会ったのが、誰だったのか……それは、今にならないと分からないことだったのね」
「そういう……ことなのか。だが、このピアスは……」
「今の私にも、必要なもののはず……でも、きっとこの世界に、『このピアス』以外に同じ封印具は存在しない。これを『五年前の私』に渡さなくてはいけない……そうしないと、私はあなたたちの足を引っ張ってしまうわ」
ミラルカが魔法を暴走させたという記憶はない。しかし、彼女が考えていたよりも多くの範囲を破壊してしまったり、想定通りの効果が出ないということもあった。
しかしこのピアスを手に入れた後、彼女が魔法を上手く使えずに心を乱したことはない。それから随分と落ち着いて、旅の途中からは、俺もそれほど身構えずに話せるようになっていった。
「あなたに頼ってばかりだけど……戦ってみてわかった。あなたはずっと私たちのことを見てくれていた。だから私たち自身よりも、私たちのことを知っているのよ」
「い、いや……俺も、何もかもが分かるってわけじゃないが」
「……私が操られていた理由。カルウェンに従っていた理由を、あなたは理解していた。何より、私の魔法をあなたは防いでみせた。それでも私のことが分からないなんて言うなら、謙遜のしすぎだと言うしかないわね」
ミラルカはそう言うが――俺が彼女のことを彼女自身より理解しているなんて言うことは、それこそシラフではできそうにない。
酒を飲んでもそんな言葉は出てこないだろう。しかし口に出すのも恐れ多いそんなことを、当のミラルカが言っているのだから、逃げ出したいような気分になる。
「……私は、あなたに助けてもらった。あなた以外に、私の魔法を受け止めることなんてできる人はいないわ」
「……ミラルカ」
「感謝……しているのよ。伝える手段が思いつかなくて、もどかしいくらい」
辺りを森に囲まれているこの場所は、まだ起きてきている村人が少なく、鳥の声しか聞こえないほどに静かだった。
ミラルカの顔がさらに赤くなっていく。それでも今度は、俺から目をそらすことはない。
――しかしミラルカが目を閉じてすぐに、階段を上ってくる足音が聞こえてくる。
「お客さん、朝ご飯だよ。お連れさんも起きられたら起きておいで」
ミラルカは部屋のドアを見て、次に俺を見て、瞬きをする――そして何か言いたそうにしてから、ふっと笑った。
「……優しそうな人ね。ディック、私が眠っている間に打ち解けてしまったの?」
「あ、ああ……この村の近くに転移したとき、夜遅い時間だったんだが。その時間でも、俺たちを泊めてくれたんだ」
宿主の女性は他の部屋にも回り、宿泊客を起こしている。ミラルカは自分が寝間着に着替えさせられていることに気づき、複雑そうな表情で俺を見た。
「……服が破れてしまっていたと思うから、村娘みたいな格好になってしまうのは仕方ないのだけど。どうやって着替えさせられたかは気になるわね」
「い、いや……もちろん俺じゃない。さっきの女性にお願いしたんだ。寝てる間にすまなかったな」
そう説明すると、ミラルカは安心したように息をつくが、まだ顔は赤いままだ。
そして何か覚悟を決めたように、ミラルカは聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いた。
「……あなたが……くれるなら、私は……」
「……ミラルカ?」
「い、いえ……何でもないわ。朝食に遅れるから、早く行かないといけないわね」
ミラルカは部屋の壁に掛けてある、破れた服を見やる。これを着て行くというわけにもいかないし、寝間着以外の服を調達しなければならない。
「……ディック、見ていた? 私が、衣服を違う色に変換したところを」
「あ、ああ……いや、あまり直視してもいけなかったんだろうが」
「そ、そんなことは今はいいのよ……これからお願いすることを、言いにくくなるでしょう」
「え……?」
聞き返す俺に対して、ミラルカは黙って窓の方向を指差す。外を見ていろということらしい。
そしてミラルカは、壁に掛かっていた服を手に取る――どうやら、着替えているようだ。
「……ミラルカ、破れた服じゃ外には出られないと思うが、どうするんだ?」
「絶対に振り向かないのね……あなたって、本当にどこまで真面目なの」
「い、いや……こういうことはけじめが必要だ」
ミラルカがまた笑った気配がする。彼女が後ろから近づいてくる……そして、トントンと俺の肩を叩く。
振り返れ、ということらしい。本当にいいのかと思いながら、俺は覚悟を決めて振り向く――すると、ミラルカが俺に背を向けていた。
「っ……ミ、ミラルカ……」
「……雨の夜のことは、謝っておかないといけないわね。あのとき、私はカルウェンに操られていた……でも、呪縛が消えても変わっていないことがあるの」
俺との戦いで、破れてしまった服。しかしミラルカの肌には、傷ひとつついていない。
赤い魔力が宿っていた背中にも、その痕跡は残っていない。しかし、ほとんど破れてしまった服は、肌を隠すことができていない。
直視してはいけない。そう思うのに、ミラルカ自身が後にいる俺を顧みる。
「……衣服を再構成する、物質変換。それを、使ってみようと思うの」
「物質……変換……」
「私がいつも着ていた、青い衣装があるでしょう。あの服は……」
「……大切なものなのか?」
「ええ。お母様からもらった服を、同じ形で仕立て直したものよ」
五年前から、ミラルカは青を基調とした服を着ていた。再会したときも近い形の服を着ていた――それが、仕立て直したものだったということだ。
その大切な服を黒く変換した。それは操られている間の、ミラルカの選択を示している。母親との訣別だ。
だが、そうはならなかった。今のミラルカは、母親と向き合うことを諦めていない。
「……元の時代に帰れるとしたら、あの服を着て戻りたいの。けれど再構成するには、私自身がもう一度、この服を変換するしかない」
「そうか……分かった」
「分かった……本当に?」
「ああ。破壊からの再構築は、破壊魔法だけを行使するより遥かに難しい……だから、俺が補助するよ」
ミラルカの魔力を託されて、俺は強くなった――しかし、ミラルカの魔法をより彼女に近く模倣できるようになったことで、不安を抱かせることにもなった。
それではいけなかった。皆に合わせてもらうだけではなく、俺から皆に歩幅を合わせることもできるはずだから。
「……ミラルカの魔法を、学ばせてもらう。俺は、ミラルカの教え子でもあるからな」
緊張を和らげるために、そんなことを言う。ミラルカは小さく笑って、そして俺を見つめる――俺を待ってくれている。
俺はミラルカを後ろから抱きすくめるようにする。躊躇する方がミラルカを戸惑わせると思ったが、どう触れたとしても、身体がある程度こわばるのは仕方がない。
「……こんな時こそ、少しお酒を飲んだりした方がいいのかもしれないわね」
「それはそれで、集中力が落ちるからな……」
「み、耳元で囁かないで……あなたの声が、いつもと違うように響くから……」
「わ、悪い……しかし、息を止めることまではできないからな。もっと、別のやり方にした方がいいか」
ミラルカは首を振る。そして、自分の胸の下に回っている俺の腕に手を重ねて――魔法陣を、自分の衣服に展開し始めた。
「……目をそらさずに見ていて。私が、間違えないように……あなたがしているみたいに、自分の魔力を使いこなせるように」
「ああ。一番近くで見させてもらう……!」
――物質変換型白一式・装衣再生陣―
「っ……!!」
破れた黒い服が、白い微細な光の粒子に分解され――違う色の衣装に再構築されていく。
「くっ……ぅ……ディック……見てくれている……?」
「大丈夫だ、上手く行ってる……そうか、ミラルカはこうやってたんだな……こんな魔法は、常識を超えてる。どんなものだって、元になる素材があれば再構築できる……!」
「……そんなにはしゃいで……あなたって、本当に……」
ピアスなしでも、ミラルカが魔力をコントロールできるようにする方法――それは、俺が自分の身体には過ぎた魔力を調整する方法と、原理としてはよく似ていた。
そうだ――スフィアの母親である皆が、協力して俺の魔力を調整してくれた。そのやり方を身体で理解している俺は、ミラルカの魔力もまた調整することができる。
「……魔力が溢れそうになったら……そうだ。俺に、預けておけばいい。少しずつ、慎重に容量を増やしていけば、器は溢れないから」
ミラルカが、俺の方に身を預けてくる。彼女は戦っている――ピアスなしでも、自分の力を持て余すことがないように。
彼女の身体は熱を持ち、溢れた魔力が俺に流れ混んでくる。しかし逆に、ミラルカが魔力を制御できるようになると、俺に預けた力を自分の中に流れ込ませる。
ミラルカは急速に成長している。俺が、そのきっかけになれているとしたら――それは願ってもみないほど、嬉しいことだ。
「……ディック……もう、大丈夫……大丈夫よ……」
「……いいのか?」
「ええ……変換は、成功したと思うから……それに、魔力も……」
ミラルカの身体を離すと、彼女は自分の足で立ち――ゆっくりと、振り返る。
――元通りのミラルカに、戻っている。
物質変換と、再構築。それを完全に成し遂げたミラルカは、青い衣装を身にまとって、俺の前に立っていた。
「……何か、間違っているところはない?」
「いや……完璧じゃないか。破れた布地の分だけ足りなくなったりするかと思ったが……」
「破れても、布地が無くなっているわけじゃないから、元通りの繊維に組成しなおすだけよ」
そう言ってから、ミラルカは後ろを気にする――背中もしっかりできているかが気になったようだ。
「……大丈夫そうだけれど。ディック、あなたに一つお願いをするわ」
「後ろも確認しろっていうんだな。変なことは考えないようにするから、見せてくれ」
ミラルカはスカートの裾を抑えながら、俺の前でくるりと回る。後ろ姿も、俺が見たところ何も問題はない――しかし。
彼女は手の中にあるピアスに気がつく。それもまた、ミラルカの魔法で再生される対象となっていた。
「いつもの私に……そう考えて、魔法を使ったのだけれど。ピアスまで成功するなんてね」
耳にピアスを当てて、ミラルカが笑う。本当に、彼女は――俺たち魔王討伐隊の、最高の魔法使いだ。
「……このピアスは、この時間にいる私が必要としているから。ディック、私たちは五年前に、この近くを通ってエルセインに向かったんでしょう?」
「ああ。ちょうど、今日の夜あたりになるな……俺の記憶が確かならだが」
「そう……なかなかないめぐり合わせね。あなたが起こしてくれていなかったら、間に合っていなかったもの」
「俺も初めての経験で、考えても混乱しそうだが……こうなるのは、決まっていたことってことになるのか」
そう言うと、ミラルカは肩をすくめて、いつもの彼女のように腕を組み、不遜な表情をして言った。
「『私たち』が歩いた時間は、決められていたものなんかじゃないわ。自分たちで選んで、ここまで歩いてきたのよ」
「……そうだな。何があっても、何とかやってきた……これからもそうだ」
ミラルカの目が潤む――しかし彼女は涙を流すことはなく。
俺に向かって手を差し出す。握手を求められて、断る理由なんてない――ただ、照れるという意外には。
しかし、手を差し出すと、ミラルカは俺の手を握らなかった。
さらに進んで、駆け寄り――俺の肩につかまって、背伸びをするようにして。
柔らかな感触が、頬に一瞬だけ触れる。俺の肩に手を置いたまま、ミラルカは大きな瞳に俺を捉えて、そして笑った。
「……全部同じままじゃ、みんな焦れてしまうわ。これは、忠告だと思いなさい」
ミラルカは軽やかに俺から離れると、先に部屋を出ていく。扉を締める前に、きっと呆然としているだろう俺を見て、笑う――本当に楽しそうに、してやったりという顔で。
「なんて顔をしているの? 『銀の水瓶亭』のマスターともあろう人が。こんなことで動揺しているようじゃ、先が思いやられるわね」
「さ、先って……ミラルカ……」
「……ずっと見ていてあげるっていうことよ。私にそう言わせたこと、後悔しないでね」
パタン、と扉が閉じられる。残された俺は、情けなくも途中まで上げた手を、そのまま下ろすしかない。
みんなが焦れてしまうという言葉。そして、ずっと見ているということ。
元の時間に戻ることができたとき、しなければならないことがある。だからこそ、必ず戻らなくてはならない。
そうこうしているうちに、宿の階下から空の鍋を叩くような音が聞こえてくる。朝食が冷めないようにということらしい――今は一旦、気持ちを切り替えなくては。