第158話 拳の鬼神と蛇の巫女
アルベイン王国西方、火竜牧場付近の窪地を、飛行戦艦は今も駐留地としている。
かつてディックと戦った中央管理室で、グラスゴールは王都付近の情報収集に務めていた。その補佐を務めているシャロンは、時折他者の血液を必要とする種族であるため、時折機会を見てグラスゴールから血の供与を受けていた。
「……グラスゴール閣下は、この土地の水が合っておられるようですね」
血を吸ったあと、シャロンはグラスゴールの首筋についた小さな牙のあとを指でなぞる。その一瞬で傷は消えてなくなった。
「私は何の身分も持たない、ただの幻魔でしかないよ。シャロン伯爵の地位は、ラトクリスに戻っても保証されると思うけれどね」
「もし戻るとしても随分と先のことだと考えています。貴女の監視役を任されてもいますから……皮肉といえば皮肉ですね、貴女に牢獄の看守を任された私が、今は貴女に対して意趣返しのようなことをしています」
グラスゴールはただ微笑む――そしてすぐに、部屋中に映し出されている、周辺の光景を移す幻燈に視線を向けた。
「……今のアルベインに、悪意を持って侵入する者がいるとは。不敵な方もいらっしいますわね」
「今だからこそかもしれない。『クヴァリス』の存在に気づいていた者が他にいたなら、あれが軌道を変えたという事実は大きいからね」
「浮遊島を退ける力を示したことで、それを脅威と見なす者がいるということですか」
グラスゴールは頷く――そしてその視線は、幻燈の一つに映ったものを見逃さなかった。
「グラスゴール様、どこに行かれるのです? 私も……」
「君はここに残った方がいい」
「敵の襲撃ということなら、なおさらです。私も高貴なる夜の種族の端くれ、何の役にも立たないということは……」
シャロンの言葉にグラスゴールは首を振る。その直後、飛行戦艦の深部にまで響くような衝撃が響いた。
幻燈に映し出された飛行戦艦の上部。警備を行っている金属のゴーレムが、一撃でその防御を破られ、膝から崩れ落ちるようにして倒れる。
「あれは……まさか、魔王討伐隊の……なぜ、私たちを攻撃してくるのです……!?」
「状況は、どうやらディック殿の思う以上に芳しくはなかったようだ。『銀の水瓶亭』に感知されることなく、ここまで深くアルベインに入り込むとは……」
「っ……彼女たちが操られているというのですか? 何者かに」
シャロンは目を見開く――彼女はSSSランク冒険者が他者に遅れを取るということは、同格の存在が相手でなければ起こりえないと思っていた。
グラスゴールはサクヤを介して、王都に起きている異変について知らされていた。ミラルカの家に侵入した者がいること、そこで『首輪』が見つかったこと。その時点で、すでに可能性は示唆されていた。
「私はこの大陸の外を知らない。ディック殿たち以上の強者もまた見たことがない……しかしそれは、存在しないということではない。それだけの話さ」
「グラスゴール様……っ」
「私が外に出たあと、転移陣を封鎖してくれ。そうしたら、外からここに入ることはできなくなる……大丈夫、死ぬつもりはない。今の私なら、少しは持たせられる」
グラスゴールは『鎧精』との契約を、ディックに移譲した――しかし、ディックが望むならば、彼が召喚していないときに力を借りることはできる。
『リーヴァ、ディック殿の許しを得られるのなら、もう一度私に力を貸して欲しい』
――光輪鎧・装甲着装――
グラスゴールの身につけている軽鎧が、鎧精の作り出す装甲によって強化されていく。その姿を見ていたシャロンは、思わず呟いていた。
「その鎧を身につけていなくとも、私はあなたに勝てると思ったことはなかった。今のあなたは、それこそ、何も知らなかった私には神のように見えたでしょう……でも……」
「忘れてはならないことがある。私たちの主は神と呼ぶ他ない二つの存在に戦いを挑み、そして勝っているのだということを」
「……かつての『魔王討伐隊』は『神殺し』となった。グラスゴール様、どうか生き残ることをお考えください。ディック様は必ず手を打っていてくださいますわ」
シャロンは管理室を出ていくグラスゴールを見送る。そして一人残ったあと、幻燈に映し出されている二人の姿を見た。
アイリーンとシェリー。幻燈を通しても伝わってくるほどの力に、シャロンはただ戦慄する――そして彼女たちに臆せず挑もうとするグラスゴールの無事を祈り、目を閉じた。
◆◇◆
上部甲板に転移したグラスゴールは、倒された三体のゴーレムを目にする。熱線を放つために魔力を収束する魔石が破壊され、行き場を無くした魔力がバチバチと火花を放っている――幸い、爆散する気配はない。
「アイリーン殿……そして、シェリー殿。どうやら、何があったのかと聞くまでもないようだ」
シェリーの首にある赤い痕から、彼女の全身を赤い魔力が侵食している。それは傍らにいるアイリーンまでもを操っている。
グラスゴールは、馬車組合の馬車を『首輪』を着けられた盗賊団が襲ったということをサクヤから報告されていた。そして自身の魔道具に関する知識と照らし合わせ、一つの結論に達する。
魔法などで他者を意のままに動かし、操り人形とする。それを解放しようとした者にまで支配を及ばせる、いわば伝染する魔法。
「これも小さいけど『浮遊島』の一つなのに、ここで眠らせておくのは宝の持ち腐れだよね。有効に使ってくれる人に譲る気はない?」
「……抵抗することは勧めない。今のあなたに、私たち二人を相手にする力はない」
アイリーンの元来持つ鬼の力は、彼女を操っている力との相性が悪い――いや、敵にとっては最も良いのかもしれないとグラスゴールは思う。
(怒りや憎しみといった感情は、誰しもにある……そこに付け込み、糧として支配している。SSSランクでも抵抗できない力を持つ魔道具があると言ったことがあったが……こうして対峙してみると、厄介なものだ)
グラスゴールは自分の左眼――魔眼を発動するが、アイリーンたち二人には幻術が全くかからなかった。それは想像していた通りの結果であり、動揺はない。
「この浮遊島は、私の主人たるディック殿の所有物なのでね。無断で渡すというわけにはいかない。しかし、お引き取り願うわけにもいかないようだ」
「うん、まあね……グラスゴールさんには悪いけど、ちょっと休んでてもらおうかな」
「……っ!」
アイリーンの言葉と共に、全身を覆った魔力が爆発的に強さを増す――それでいて魔力が拡散して減衰することはなく、彼女を強化することに寄与している。
その拳がこの戦艦に向けて放たれれば、ゴーレムの熱線などとは比較にならない被害を生むだろう――一撃で浮遊島の岩盤が割られる可能性さえある。
(魔王討伐隊で鎧精の守りを破れるのは、ディック殿だけだと思っていたが……彼女もまた、自分の力を抑制していたということか。そして、シェリー殿も……)
戦慄を覚えながらも、グラスゴールに退くという考えはなかった。腰に帯びた剣を抜き、背中に巨大な翼を発生させる。
「あたしも人のことは言えないけど。魔族って、でたらめな力を持ってる種族がいるよね」
「貴女も通常の魔力ではなく、特有の能力を持っている。鬼族特有の身体強化……貴方はおそらく、始原の鬼の力をその身に宿している。半分は人間の血を引いているからこそ、それを成し得たということか……」
「見ただけで分かるものなの? ディックも気づくのは早かったけど……ううん、今はそんなことよりもやることをやらなきゃ。あたしたちは、もっと強くならなきゃいけないんだよ。自分より強い相手を見て震えてるだけなんて、もう二度とごめんだから」
「……グラスゴール、あなたのことを私は良く知らない。でも、ディックと戦ったことは聞いた。彼と戦ったあなたが、どれくらいの強さなのか見てみたい」
シェリーの瞳が赤く輝く――グラスゴールはその瞳を見て、少なからず本能的な恐怖を覚える。
『蛇』はグラスゴールの種族にとって天敵と言える存在だった。シェリーの身体に宿っている『蛇』の分霊は、蛇の中でも間違いなく地上で最強に位置する。
相性は最悪と言えた。しかし飛行戦艦の中から、シャロンが念話で報告してくる――援軍がこちらに向かっていると。
「じゃあ、始めようか。最初から本気で行くからね」
「……アイリーン殿。例え貴女が操られていても、その力の片鱗を見られることを光栄に思う……私の全霊で止めさせてもらおう」
アイリーンの表情から笑みが消える――グラスゴールは片目を閉じ、生身の眼ではなく、幻術に用いる瞳だけでアイリーンの姿を捉える。
「あたしの技には『修羅』と『羅刹』がある。『修羅』は自分と向き合って練磨すること。その道を突き詰めた先に、武闘家の真髄がある」
アイリーンの姿が二つに、そしてさらに四つに分かれる。グラスゴールの魔眼は、本体を除いたそれらが高密度の魔力体であると看破する――しかし、一体ごとを覆う鬼族特有の力が、いずれが本体なのかを見抜くことを不可能としていた。
「――守りたいものを守るためには、あたしがあたしでなくなるくらいに強くならなきゃいけない。鬼でもなく、人でもない。どちらでもないものにあたしはなりたい」
――修羅残影拳・四身阿修羅――
ディックと仲間たちが、かつてヴェルレーヌを倒したパーティであるということはグラスゴールも教えられていた。
アイリーンはパーティの前衛を務め、その攻撃力と俊敏さで魔王ヴェルレーヌを追い詰めた。
当時十三歳だったアイリーンがそれから成長をしないということは、まず考えられないことだった。しかし、アルベイン王国は魔王討伐を終えたパーティについて、その成長を追うことまではしなかった。
(ディック殿もそう……彼らを相手にして戦うなど、もはや恐れ多いこととしか言いようがない)
「しかし……こうして生きて対峙できるだけで、武人の冥利に尽きる」
「そう言ってもらえてあたしも嬉しいよ。でもね、加減はしない」
何者かに操られていてもなお、アイリーンは敵意をグラスゴールに向けてはいない。
つまりアイリーンにとって、自分が敵としてすら認められていないのだとグラスゴールは理解する――そして。
「アイリーン、まずこちらから仕掛ける……」
シェリーは赤い上着の裏側に備えた二本の鞭を取り出し、両手を翻す――次の瞬間、鞭がまるで生きた蛇のように、グラスゴールに食らいつこうとする。
――九頭の大蛇――
(ただの鞭の間合いではない……これが『蛇』の力を宿した者……!)
グラスゴールは翼を広げて飛ぶ――それでも凄まじい速度で追ってくる蛇が届く前に、グラスゴールを球状の障壁が覆った。
――光輪鎧・斥力障壁――
九頭の蛇は障壁に衝突して軌道を変えられてもなお、再び食らいつこうとする。弾けるような衝撃音が響く中で、グラスゴールはさらに障壁を大きく展開し、ようやく攻撃を振り払う――しかし。
飛行戦艦の上部甲板から、グラスゴールは雲に届くほどまで高度を上げている。その距離をものともせず、アイリーンが三体の分身と共にグラスゴールに追従していた。
魔力の蛇を足場としてこの高さまで駆け上がった。それはアイリーンもまた、ディックと同じように物理的な足場ではなくとも、足場として使えることを示唆していた。
――修羅残影拳・金剛砕破蹴――
「くっ……!」
魔力を纏った蹴りの一撃目が、グラスゴールの障壁を『抉り取った』。
煌々と輝く赤い瞳が、ただ打ち倒す対象として自分を見ている。グラスゴールは戦慄を覚えながら、続く三体の攻撃を受ける唯一の術を実行する。
「はぁぁぁぁっ!」
グラスゴールの背から展開した翼が盾となり、続くアイリーンの蹴りを受け止める――
その一撃一撃を受けきれずに、翼が文字通り弾け飛ぶ。一枚、二枚、そして最後の一撃を受けるために残りの二枚が使われ、全てが粉々に砕け散る。
それでも一糸報いようと、四連の蹴りを終えて落下していくアイリーンに追従し、グラスゴールが加速しながら剣を繰り出す。
「――そんなんじゃ、あたしは落とせない」
「っ……!」
グラスゴールが繰り出した剣を、アイリーンは止める――二本の指で。
次の瞬間、グラスゴールは身体の芯を貫くような衝撃に意識を揺らされる――アイリーンの拳が、鎧精の装甲の上から打ち込まれ、内部に叩き込まれた震動は背中にまで突き抜けていた。
「かはっ……!」
続けてアイリーンが身を捻って繰り出してきた蹴りを、グラスゴールはまだ形を留めている翼で受け、そのままもつれ合うようにして落下する。
大樹の葉の茂みに突っ込み、枝をなぎ倒しながら、草地に叩きつけられる瞬間に魔法で衝撃を緩和する。アイリーンは片手だけで身体を起こし、跳躍して着地すると、片足を上げる独特な構えを取る。
「……もう、グラスゴールは戦えない。構えなくてもいいと思う」
シェリーの言葉に抵抗するように、グラスゴールは身体を起こす。剣を地面に突いて身体を支える――そしてグラスゴールを守るように、その前に実体化した鎧精が立ちふさがった。