第156話 王女の憂いと黒き花
翌日、酒場の昼営業が始まる前。俺は厨房で準備を手伝ったあと、七番区の情報部に出向こうとする――だが店を出る前に、来客を知らせるベルが鳴った。
「申し訳ありません、まだ営業していない時間に来てしまって……」
息を切らせているマナリナ――王女がここまで走ってきたのだ。それほどの急を要することといえば、一つしかない。
外套のフードを脱ぎ、マナリナは顔を見せた。その顔は蒼白になっている――ヴェルレーヌがカウンターから出てきて、彼女の額の汗をハンカチで拭いた。
「す、すみません……」
「こちらをどうぞ。常連様の『オーダー』については、合言葉無しで承ります」
「……ありがとうございます。ディック様にお伝えしていいか迷ったのですが……やはり、彼女の言うとおりにするわけにはいかないと思いました」
彼女というのがミラルカのことだというのは予想がついた。マナリナがなぜ自らここに出向いたのかも。
「魔法大学から、ミラルカがいなくなった……そういうことなんだな」
「……はい。実験に出るという書き置きがありました。ディック様たちには、まだ知らせないようにと」
ギルドの情報部に関知されず、王都から外に出られるとしたら、可能性は二つある。一つは『隷属の首輪』を作った人物がミラルカを連れ去った場合――そして、もう一つは。
ミラルカが、自分の意志で王都を離れた場合だ。
破壊魔法の使い手である彼女は、間違いなく王国最強の魔法使いだ。しかし彼女の言う『破壊』は、ただ攻撃のためにだけ用いられるものではない。
ミラルカにもまた、魔力による仕掛けを視覚化し、解除する能力がある――王都を監視する情報網の一部を無効化し、そこから外に出たとしたら、近くで見ているしか止める方法はない。
「ご主人様、ミラルカ様が転移させられたということは考えられませんか?」
「ああ……マナリナ、ミラルカの研究室に入らせてもらってもいいか。何か手がかりがあるかもしれない」
「はい、すぐにご案内します……きゃっ……!」
「済まないが、担いで運ばせてもらう。今のところ、これが最速の方法だからな」
「は、はい……お願いします、ディック様……」
「ヴェルレーヌは牧場に行ってバニングを連れてきてくれ。空からの探索が必要になるかもしれない」
ヴェルレーヌは頷き、牧場に通じる魔法陣のある地下へと降りていく。師匠にはスフィアと一緒にギルドハウスに残ってもらうように指示して、マナリナを連れて魔法大学に急いだ――『隠密』の魔法で姿を隠し、建物の屋根の上を飛び移りながら。
◆◇◆
俺は『デューク・ソルバー』としての学生証を使い、受付にいたポロンから入構許可を得る。王都にも色々あったが、彼女は地震が増えた時期にも王都を離れず、ずっと勤め続けていた。
「ミラルカ教授はご不在ですので、部屋の鍵については外に出るときに受付にお戻しください」
「ああ、ありがとう。ミラルカ……教授がどこに行ったかはわかるか?」
「いえ、届け出が出ておりませんが……ミラルカ教授は特別講義のみの担当ですが、その予定もしばらくは入っていません。私的なご旅行などでしょうか」
誰にも伝えずに、旅に出るなんてことがあるとは思えない。だがポロンに心配をかけるわけにもいかず、俺はただ礼を言って研究室に向かった。
「デュークさん、ミラルカに何があったのか心当たりは……」
ミラルカは強くなりたいと願っていた。俺と修練ができる仲間に、羨望を抱いているとも言っていた。
研究室で学生として学び、野外での実験にも同行した。しかし、それは修練とは違う――論文を書くための研究だけでは、後進のために知識を残すことはできても彼女の目的は果たされない。
彼女は『魔王討伐を終えて引退した』とは一度も思っていない。まだ強くならなければいけないと思っていたのは、ミラルカも同じだった。
「……申し訳ありません。私も彼女がいなくなるまで気付けなかったのに、デュークさんに責任を委ねるようなことを……」
「委ねるってことはない。こうなったことには、俺に責任がある」
「デュークさん……」
盗賊の頭領を操っていた『隷属の首輪』。盗賊たちを操っていた赤い魔力――そして首輪の断片は、ミラルカの屋敷でも見つかった。
それでもミラルカに、隠していることはないかと聞かなかったのは何故なのか。
ミラルカが俺に言わずにいることがあるなら、何か理由があるはずだ。
彼女が何かに巻き込まれようとしているなら、俺がするべきことは一つしかない。ミラルカが自分の意志で何かをしようとしていて、それが俺たちにとって良い方向に向かわないとしたら――その時は、止める。
「……ミラルカは、やっぱり悩んでいたのでしょうか。その……ディック様とのことで……」
「い、いや、そういうことは……あるかもしれないが、それだけじゃないはずだ」
「す、すみません、私、大学ではデューク様と呼ぶように言われているのに、つい……」
「そうしてもらえるのは助かるが、今はそこまで気にしなくていい。それより、ミラルカの書き置きを見せてくれるか」
マナリナが頷き、話し合いをするときに使うテーブルの上にある手紙を俺のところに持ってくる。開いて見てみると、しばらく研究室を開けること、王都の外に出ること――そして、俺達にこのことを知らせないことと書いてあった。
筆跡に乱れはない。そして、俺が知っているミラルカの筆跡通りでもあった。紙に何かの魔法を使った気配も残されていない。
この部屋からミラルカは争うことなく外に出ている――やはり、自分の意志で。
(だが、誰かが干渉しているとしたら……ミラルカの後を追うしかない)
「デューク様、これは……ミラルカが、外していったのでしょうか?」
「これは……」
昨夜見たミラルカの姿が思い出される。髪を乾かしている時に気づいた――彼女がいつもつけているピアスを外していたことに。
そのピアスが、ミラルカの机の上に置かれたままになっている。
『クヴァリス』と戦う時にも、ミラルカはピアスを外した。抑制している魔力を解放するために。
そのピアスが、力を失っている。長くミラルカの力を抑え続けたことで寿命を迎えていたのか――それなら、今のミラルカは。
――ただ恐れられるだけの魔法使いにはなりたくないから。
――これがそのための『枷』になるなら、ずっと着けていても構わないわ。それでも不自由はないもの。
あのピアスを、ミラルカは魔王討伐の旅の途中で手に入れた。それが、いつだったか――確か、野営をした森でのことだったか。
「ミラルカは、大事なものだから、ここに置いていったのでしょうか……」
「いや……だとしたら、家に置いておくだろう。ミラルカもこのピアスを修復しようとしていたんじゃないかと思う。これはミラルカにとって必要なもののはずだ」
これも根拠のない推測というわけじゃない。研究室にある魔石を収納した棚に、開けられた痕跡がある――どれも、ピアスに使われている石に近いものだ。
だがこの石は、前に俺も調べさせてもらったことがあるが、材質がはっきりしていない。いや、当時は分からなかったというべきか――今なら、俺より魔道具に使う材料の知識がある師匠がいる。
「そのピアスを、ミラルカに届けてあげてください。きっと、ミラルカは見つけて欲しかったんだと思います」
「……ありがとう」
「っ……い、いえ。私もミラルカの気持ちがわかるなんて、そんな大それたことは言えません……でも、少しだけでも理解したいって、そう思っているんです」
その気持ちはおそらくミラルカにも伝わっている。情報が集まれば、すべきことは一つだ――サクヤさんに報告し、俺が動くと伝えて、ミラルカを探しに行く。
『――ご主人様、バニングを連れて、今上空まで来ている。ミラルカ殿の足跡について、何か情報は見つけられたか』
念話の魔道具を介してヴェルレーヌの声が聞こえてくる。ミラルカがこの部屋に書き置きを残してからまだ時間が経っていない――転移などの方法を使っていなければ、まだ感知できる範囲にいるかもしれない。
「マナリナの考えは、ミラルカにも伝わってるはずだ。彼女は必ず連れ戻す」
「はい……お願いいたします。ディック様にご依頼をするのは、これで二度目になりますね。いつも大切な時に力になっていただいて、ありがとうございます」
マナリナは微笑む――しかし、不安を完全に隠すことはできていない。
「あまり心配しすぎるとマナリナの身体も心配になるからな。安心しろというのは難しいかもしれないが、落ち着いて待っていてくれ」
「はい、ディック様。どうかご武運を」
俺の手を取ると、マナリナは祈るように目を閉じる。彼女の思いを託されたつもりで、俺は研究室を後にすると、中庭の木の上に飛び上がり、さらに跳躍してヴェルレーヌの駆るバニングに拾われた。
「ミラルカの書き置きと、残していった装飾具を見つけた」
「それは……いつも装着していたようだが、魔力を封印するものではないのか?」
「そうだ。ミラルカは生まれた時から、膨大な魔力を持っていたらしい……俺たちと旅に出た時には、まだ上手く制御できてない状態だった。だが、それほどの魔力を持っているからこそSSSランクと認められたんだ」
「……彼女の魔法は私と戦った時にはすでに完成されていた。それでも抑制した状態だったというのか……まさに『奇跡の子供』だったのだな」
バニングは高度を上げていく――その時、地上にいるサクヤさんからの切迫した声が、念話のピアスを通じて届いた。
『マスター、浮遊戦艦からの報告です。ミラルカ殿によるものかは確証がありませんが、王都北西の方向から強力な魔力振が感知されました』
「分かった……北西だな。これから火竜で急行する」
「――ご主人様、その方角から何か……くっ……!」
バニングが旋回し、方向を変えたまさにその瞬間だった。
王都アルヴィナスから北西に広がる荒野――過去に魔法の実験に使われていたと言われている場所だと、ミラルカが前に言っていたことがあった。
ヴェルレーヌとともに、俺も目の当たりにしていた――膨大な範囲に展開された魔法陣。それは紛れもなく、ミラルカの陣魔法だった。
「……これがミラルカ殿の力なのか。『クヴァリス』に対して使ったものよりも、さらに強力な魔法……この力を、今まで眠らせてきたというのか……?」
過ぎた力は恐怖を生む。人々に恐れられないように、可能な限り自分の力を明かさずに伏せる。そうするべきだという俺の考えは、ミラルカにも伝わっていると思っていた。
今よりも強くなるべきだという思いが、彼女を衝き動かしたのか。それとも、ミラルカもまた誰かに操られているのか――彼女が敵に回るとは考えたくない、だが眼前の光景がその可能性を示している。
バニングが飛ぶ先――荒野の地形が、大きく変化している。広大な範囲が円形に抉り取られ、その中心に、黒い服を着た人物が立っている。
視力強化の魔法を使い、それが誰なのかを確かめる――俺は初め、その名前を口にしていいのかを迷った。
「……ミラルカ……イーリス……」
彼女が必要と判断すれば、一つの砦全てを砂に還すような魔法を使うこともある。
しかし、今は違う。ミラルカが、何故これほどの魔法を使ったのか――今の俺には、理由が一つしか考えられない。
「ヴェルレーヌ、まず俺が一人で行く」
「しかし、ご主人様……いや、分かった。そうするべきなのだな」
俺はヴェルレーヌの握っている手綱に手を添える。そして、バニングに呼びかけた。
「――最大加速だ、バニング」
「グォォォォァァァァッ!!」
――紅蓮転移――
バニングが翼を広げ、全力で加速する――炎に包まれながら加速し、巨大な大穴に向かって飛び降りる。
ミラルカが俺の姿に気づく。ゆらりとこちらを振り仰ぐその姿が、震えがくるほどに美しいと思えた。
「――ミラルカッ!」
名前を呼んだあと、ミラルカはこちらに手をかざす。殺気もなにもないままに、彼女は俺に向けて立体魔法陣を展開した。
魔法使いの弱点は詠唱中に接近されること。パーティを組むことでそれを補い、詠唱を完成させて戦況を変える魔法を放つ。
――転移瞬足・残影空歩――
陣の範囲に入らないように、俺は空中で方向を変える。そして立体魔法陣を回り込むその動きは、螺旋の軌道を描く――しかし。
「――距離さえ詰めてしまえば、無力だと思った?」
ゾクリ、と悪寒が走り抜ける。前方に展開した魔法陣は、恐ろしい速さで天を貫くほどの高さにまで編み上げられている――まるで塔のように。
同時にもう一つの魔法を使うことはできないと、俺はそう決めてかかっていた。
しかしミラルカは、こちらを振り返りながら手を振るった。同時に、魔法陣が展開する――それはいつも彼女が使うものとは違う、黒い魔法陣だった。
――分散破壊型無式・絶花――
「くっ……!」
今まで見たこともない陣魔法――ミラルカの腕から発生する黒い陣が、彼女の振り払う腕に追従して広い範囲を薙ぎ払う。
凄まじい速度で展開する魔法陣を、強化された視界が捉える。通常なら幾何学模様で構成されている魔法陣が、花のような模様で構成されている――その花を構成する輪郭に、高密度で魔法式が織り込まれている。
「花は、散る時が一番美しいのよ」
もはや理屈ではない――俺はミラルカの攻撃を避け、さらに瞬間転移を発動させた。
――『修羅残影・転移瞬速』――
空間を薙ぎ払った黒い力が、破裂するようにして砕ける――文字通り、空間を破壊したのだ。
破壊した空間が黒い花びらのように舞い散る。触れればそれだけでただでは済まない。
ミラルカは加減などする気がなかった。紛れもなく、俺に本気の魔法を向けてきたのだ。
「さあ……どうしたの、ディック。もう一つの魔法は完成しているわよ」
「ミラルカ……ッ、待て、どうして俺とお前が戦わなくちゃならない……っ!」
「――あなたは剣を抜いていない。私はあなたがいなければ、魔王討伐隊の一員たりえない……それくらい不完全で、足りていなかった」
ミラルカの魔法で空間が破壊される中で、俺達の声は阻まれる――それでも、ミラルカの声だけははっきり聞き取ることができた。
「私が最強の魔法使いだというなら、『忘却の五人目』に魔法で負けるわけにはいかない。そうでしょう? ディック」
彼女の魔法を模倣し、その力を借りた――それがミラルカにとって、どう映っていたか。
『俺は一人で戦える』と思っていて、ミラルカを必要としていない。俺がそんなことを考えるわけがなくても、ミラルカの受け取り方が違っていたら――。
「あなたは何も悪くない。ただ私が強くなることを怠っただけ……『クヴァリス』を退けられる力がなければ、いつか大切なものを守れなくなる」
「ミラルカ、それは……っ!」
それは違う。俺たちは、パーティで強くなればいい――その言葉は喉から出かかり、しかし声にはならなかった。
俺もまた、一人で止めなければならないと思った。他の誰かを傷つけるよりはいい、もしそれで命を落としても、それは俺の選択だ。
そう考えることが、ミラルカにとって、皆にとって、受け入れられることなのか。俺はそのことから、一度は目を逸らした。
「あなたは私を助けようとしている。私は、それを拒絶しなければならない。私にも、守らなければいけないものがあるから」
――脳裏に過ぎるのは、ミラルカの家で拾った、隷属の首輪に似た魔道具。俺は、何者かがそれを『ミラルカに着けようとした』と考えていた。
しかしミラルカの言葉が、もう一つの可能性を生む。
ミラルカの家に勤めている従者。あの女性が、無事に家に戻っているのかどうか。
それすらも、俺の目を掻い潜るために隠蔽されていたとしたら――。
「人質を取られたのか……ミラルカ、そうなんだな……!」
彼女は答えない。空中で反転し、もう一度肉薄する俺を見つめながら――そして、かき消えるようにして眼前からいなくなる。
『それはきっかけに過ぎないわ。今こうしていることに、何の言い訳もしない』
姿は見えず、しかし声だけが聞こえる。冷たく、しかし芯の強さは変わらない声。
『私は貴方と戦いたかった。いつからそう思っていたのか、貴方には分かるでしょう?』
ミラルカは今この瞬間まで、天に届くほどに巨大な立体魔法陣を展開し続けていた。
青く輝いていた立体魔法陣が、黒く変化する――そして、破壊と共に散る黒い花が咲く。
――多重破壊型無式・塔花――
『あなたが模倣したのは、零式……私が最初に達した到達点だった。けれど零は、無とは似て非なるもの』
俺の『零式』では、今のミラルカには勝てない。そう宣告するかのように声が聞こえてくる――しかし。
「残念ながら……俺は諦めが悪い方なんでな……!」
――『負荷解除・拘束解放』――
ミラルカの腕から放たれ、反撃に使われた魔法。その原理は全て解析できていないが、分かったことがある。
今までピアスによって抑制していた、ミラルカの破壊魔法の攻撃性。人を傷つけるために魔法を使わないとミラルカは言っていた――その制約下でもなお、彼女の破壊魔法は比類なき威力を誇った。
しかし今ミラルカは、俺を倒すために魔法を使っている。そのために彼女が作り出した魔法陣は、今まで使っていた陣魔法とは次元が違う――物質の結合を切り離して破壊するのではない、その先に進んでいる。