第155話 忘却の迷いと出迎える四人
「……ディック。あなたはいつもそう……私と出会ってからずっと。私のことを、距離を置いて見ている」
「……そんなことはない。俺は……」
「ある程度以上から、入り込まない。私がそうすることを拒絶すると思っているから……あなたは私と『仲間』であり続けなければいけないと思っている」
否定の言葉を口にしても、空々しく響くと分かっていた。
俺はミラルカに手首を握られている。もう片方の手で彼女を止めることはできるのに、その身体に触れることさえできない。
「私だけじゃない、皆もそう。あなたが作っている壁に気づいていて、みんな遠慮して見ているだけ……リムセリットさんは、贖罪という言葉で自分を縛っている。あなたはそれにも気づいていて、ただ見ているだけなのよ」
「……そう見えているとしても……俺も、いつまでも変わらないつもりはない」
それは今言える、心からの言葉だった。
今のような、いつもと違うミラルカから言われても、全て肯定するわけにはいかない。
「……ディックの嘘つき」
ミラルカの手が伸びてくる。俺の頬に触れる――彼女の瞳は熱を帯びていて、しかし、やはり俺の知っているミラルカとは違う。
俺を追い詰めているのはミラルカなのに、彼女の身体が震えている。それに気づいた俺は、掴まれていない手で、華奢な肩に触れて押し留めた。
宝石のような碧眼が、俺の顔を映し出している。俺たちは間近で見つめ合う――どちらも、引くことはできない。
「あなたはきっと変わらない。もう、誰よりも強くなってしまったから……だから……」
――変わるとしたら、私のほう。
そう囁くと同時に、ミラルカは微笑む。その魅惑するような瞳から逃れることは、どんな魔法でもできはしない。
しかしミラルカは、俺の手首を掴む手からそっと手を離すと、微笑んだままで身を引く。
「……助けてもらっておいて、こんなことを言うのもルール違反ね」
「いや……俺も、分かってるつもりだ」
分かっている。だからこそ、今はここを出なくてはならない。
浴室を出たところで、抑えていた鼓動が一気に早まる。何が起きたのか――現実とは思えない、しかし逃避はできない。
ミラルカが用意してくれていたタオルを使って身体を拭く。その間も、ミラルカは湯に浸かってはいないようだった――俺がいることを気にしているなら、少しでも早く出なくてはならない。
あのミラルカが、俺がいる浴室に入ってくるなんて想像もしなかった。
ミラルカの言葉に対してどうするべきなのか。どうしたいのか――パーティにはそれぞれ役目があるとお決まりのことを言っても、それは言い訳にしかならないだろう。
俺が強くなりすぎたと感じているのが、俺自身だけであるはずがなかった。
ミラルカが俺を見て、さらに強くなりたいと思ったのだとしたら。俺に、その想いを否定できるわけもない。
引け目も何もなく、共に歩くことができる仲間。その一人であるミラルカが、均衡が崩れたと感じているのならば、それは正すべきなのかもしれない。
だが、そうだとして、ミラルカがどんな形で強くなるのか。俺はまだ、上手く想像することができていなかった――俺は自分が知りうる限り、彼女の力を理解しているつもりでいたから。
ミラルカが入浴を終えて出てくる頃には、日付が変わる時間だった。
待っている間に家の中を調べたりするわけにもいかず、半刻ほど何もせずに待った。そのうちに姿を見せたミラルカはまだ濡れている髪をタオルでまとめており、湯上がりだからということではなく、少し顔が赤いように見えた。
バスローブの前をしっかり閉じて、帯も締めているが、胸のあたりがきつそうに見える――それは、男が容易に指摘していいことでもないだろうが。
「律儀に待っていてくれたのね。もう帰っているかもしれないと思ったのに」
「これで帰ったら、何をしに来たか分からないからな。朝まで様子を見た方がいいかと思い始めてる」
正直に思うところを言うと、ミラルカは何も答えず、部屋から出ていこうとする――しかし途中で足を止めて振り返った。
「何か飲む? あなたのことだから、私の家の台所に入ったりはしてないでしょう」
台所は家の聖域のようなもので、容易に立ち入ってはならない。俺がそう考えていることを、ミラルカも長い付き合いで理解していた。
「せっかくだから、何か飲み物でも作ろうか」
「あなたに介抱してもらったのに、お酒を飲むのは軽率になってしまうわ」
「まあ、そうか……分かった、俺も水にしておくよ」
正直を言うと、ミラルカより先に浴室を出てから、ずっと喉に渇きを覚えていた。
ミラルカが水差しとグラスを二つ持ってくる。ミラルカは俺の目の前でグラスに水を注いで、悪戯っぽく微笑んでみせた。
「心配しなくても、何かを入れたりはしていないわよ」
「……それは、心配してないが」
「ふふっ……そうね。貴方は警戒心が強いけど、私たちを疑うことはないものね」
「あんなふうに入ってこられたら、多少は……その、良いのかとは思うけどな」
ミラルカが、本当は何を考えているのか。
俺が強くなったことで距離を感じていて、大胆な行動に出た。それだけとは思えないが、尋ねても彼女は答えないだろうと分かってしまう。
きっと今答えられるような理由で、彼女は俺に肌を見せたりはしない。
俺が水を口にして喉を潤すと、ミラルカはそれを見ながら自分も水を飲んだ。白い喉が、魔法を使って灯すランタンの明かりを受けて、いつもよりも目を惹く。
「私はもう大丈夫よ。スフィアたちも心配するから、あなたは家に戻ったら?」
「その前に、聞かせてくれ。ミラルカ……何があったんだ?」
「あなたなら、もう状況から気づいているでしょう。私を狙ってくるなんて生意気だけれど、『向こう』の思い通りにはならなかったわ」
ミラルカは誰かの襲撃があったことを認めた――そして、もう案じる必要がないということもその言葉が示している。
「追いかけるために外に出て、濡れてしまったけど……貴方のおかげで、風邪は引かずに済みそうね。逃げた相手の行方は、貴方のギルドで追ってくれているんでしょう?」
「ああ、手配はしてる。だが、相手は俺たちの警戒を掻い潜って既に内側にいた……あまり楽観はできないな。それに……」
雨の中で見つけたとき、ミラルカはいつもと様子が違っていた。やはり、そのことがどうしても引っかかる。
「……何か気になることがあるなら、調べてみる?」
「これ以上ここで調べられることは……」
彼女が全てを話そうとしないなら、今は引き下がる他はない――しかし。
ミラルカはバスローブの襟元に指をかけ、俺を挑発するように見つめながら言う。
「どうしてもと言うなら、直接調べてもいいのだけど……」
「い、いや……いくらなんでも、そこまでするのは……」
「……冗談よ。意識がはっきりしているときにそんなことをされたら、私でも複雑な気持ちになるもの」
開きかけた襟元を厳重に仕舞う姿を見ていると、やはりもう心配はないのかと思える。
「その代わりに……一つ、あなたがするべきことがあるわ」
「するべきこと……?」
ミラルカは肩をすくめると、髪をまとめているタオルに触れる。動いた拍子にいつも金色の髪に隠れている白い首筋が目に入り、俺は思わず目をそらした。
「アイリーンのことには気が回るのに、私のことは目を逸らしたいのかしら……?」
「ん……あ、ああ、そういうことか」
「そうよ。もっと早く気づきなさい」
ミラルカは俺が気づくまで待ってから、髪をまとめているタオルの結び目を緩めて外した。湯に浸かるときから髪を上げていたようだが、今のような姿を正面から見るのは初めてだった。
「……何か考えているなら、言ってくれてもいいのだけど」
「い、いや……覚えてたんだな、俺がアイリーンの髪を乾かしたとか……」
「貴方が乾かしてくれるとさらさらになるというから、本当か確かめてあげる」
ものを頼むときのしおらしさなどは全く無いが、それがミラルカだとも思っているので、俺もまた肩をすくめるほかはない。
席を立ってミラルカの後ろに周り、火精霊と風精霊の力を借りて熱風を生じさせ、温度を調節してミラルカの髪を乾かし始める。
「……こんな技術があるなら、それだけで需要がありそうね」
「『髪乾かし士』なんて、さすがに専門職にはしたくないところだな」
ミラルカは時折風で乱れた髪を自分でかきあげたりはするものの、俺のするがままに任せている。
そうしているうちは、俺は違和感を忘れていた。他のことを考えることは、ミラルカに対して失礼なようにも思えた。
――そして俺は、ミラルカの髪を乾かし終えて帰途に就く途中で、ようやくあることに思い当たった。
ミラルカが目覚めてから、彼女がよく言っていたあの言葉を、まだ一度も聞かせてもらっていないこと――それともう一つ。
風呂上がりだからなのかもしれないが、ミラルカがいつもしていたピアスを着けていなかったことに。
◆◇◆
雨が上がってから少し時間が経っていて、俺はまだ濡れたままの石畳の上を歩き、ギルドハウスに戻ってきた。
裏口から入ると、そこで待っていたのは師匠だった。寝間着姿ではあるが、寝ずに俺を待っていてくれたらしい。
「ディー君、ミラルカちゃんをひとりにしていいの?」
遠回りをせずに、師匠はそれをまず聞くべきだという顔で言った。自分のことになるとすぐに遠慮をするのに、昔の師匠からは考えられないくらい、俺の周囲の人々を気遣っている。
「無理に残ったところで、ミラルカは良く思わないだろう。朝までついてるなんて言ったら、あいつは怒るはずだ」
「そんなことないと思うけど……ミラルカちゃんが大丈夫って言うのなら、それでも傍にいたら、逆に怒られちゃうかもしれないね」
初めは少し問い詰めるような調子だったのに、一言言っただけで目が優しくなる。
だから俺は、帰ってきて最初に師匠の顔を見るのは遠慮したかった。それも見透かして、師匠は言葉を続けずに俺を見ている。
何気ない挨拶をしてその横を通り過ぎる、今はそうすべきだ。俺はミラルカの様子を注意深く見ているべきだと思いながら、帰ってきてしまったのだから。
「……意地悪なこと、言ってごめんね」
それは、俺が動くよりも少しだけ早かった。
師匠が正面から俺を抱きすくめていた。そして、背中を優しく撫でてくれる。
「ディー君は私なんかよりずっと強いけど……まだ十八歳なんだもんね。いつだって、無敵でいられるわけじゃないよね」
「……それでも、そうあるべきだと思う。師匠に心配をかけないくらいに……そしてミラルカが、本心を言えるくらいには」
「ううん、ディー君が悪いわけじゃなくて、ミラルカちゃんのタイミングがあるんだと思う。そういうときは、待ってあげるのも大切なことだよ」
「待つべき時と、そうじゃない時がある。多分、今日は……」
「もしそうなんだとしても……何かあったとき、ディー君は絶対ミラルカちゃんを助けてあげられる。私はそうやって信じてるから」
背中を撫でる手が止まる。しがみつくようにしていた師匠は、そっと離れる――なんて優しい顔をするのかと思う。
「なんて……こんなときに優しくしたら、私の方がずるいよね」
「うんうん、ほんとにそう」
「っ……ア、アイリーン。来てたのか?」
二階から階段を途中まで降りてこちらをうかがっていたのは、ヴェルレーヌとスフィア、そしてアイリーンだった。三人とも目に見えて顔が赤くなっている。
「え、えっと……三人とも、もう寝ちゃってたはずなんだけど。私がベッドから出たときに、起こしちゃったの?」
「うむ……というより、ご主人様の帰りを待っていたので寝られるわけもない。私としては、色々覚悟もしなければならなかったのでな……」
「あ、あの、お父さん、ミラルカお母さんは大丈夫だったみたいで、それは良かったんだけど、別のことでお母さんが大変だったのかなって、少し伝わってきちゃいました……ご、ごめんなさいっ」
謝るようなことではないのだが、スフィアはミラルカが起こした行動というより、その時の感情を感じ取ったようだ――そうなると魂の波動に敏感なユマも気づいていてもおかしくない。
「……え、えっと……ディックもミラルカも大人だし、ミラルカは二つ年下だけど、私より大人っぽいから、二人がいいと思ったなら私は……」
「い、いや。そういうことは何もない。雨の中で見つけたときは、様子がおかしかったが……最後はしっかり話もできたし、何が起きたのかも聞かせてもらって……な、何だ?」
ありのままに説明したつもりが、師匠は苦笑し、アイリーンとヴェルレーヌも何か半分呆れたような、ほっとしたような顔をしている。スフィアはそんな母親たちの顔を交互に見て何やら慌てていた。
「あのね、ディー君。時にはね、男性の方からリードしなきゃいけないこともあるんだよ? その、上手く雰囲気を作ってあげるっていうか」
「酒場での女性に対する接し方は、私も関心しきりというか、ご主人様ならどの酒場でも瀟洒に振る舞えると思うのだがな。なぜそれが、女性と二人になっても牙を抜かれた狼のようになってしまうのか……これは、経験豊富なセレーネ殿あたりに相談してみなければならぬか」
「そうなの? セレーネさん、確かに大人の女の人って感じだけど……賭け勝負って言っておいて、ディックにアプローチしてたりしたし」
アイリーンの一言に、さらに混乱しそうになる。あれがアプローチだったとするなら、あえて負けることで俺を籠絡しようとしていたのか――それは発想がヴェルレーヌに近いものがある。
「むぅ……な、なぜ私を見る。牙を抜いた狼と言ったので怒ったのか。本当のことを言うと、その濡れた瞳で見つめられると、いつも私は翻弄されてしまうぞ」
「ミラルカお母さんもそうだったのかな? お父さんと一緒にお風呂に入ってたみたいだけど……あっ」
言ってはいけないことだと気がつくのが遅い――だが、ただ正直なだけの娘を咎めることはできない。正直なのはいいことだ、嘘をつくのは良くない。黙っていた方がいいこともこの世には多くあるのだが。
「あ、あれ? そこまでは大丈夫なの……? スフィアちゃんのお父さんとお母さんだから、大丈夫なのかなとは思ってたけど……」
「私はご主人様の背中を流す義務があるので、本当は毎日そうするべきなのだが?」
「今日は一緒に入れなかったから、またお父さんと一緒に入りたいな」
「……ううん、何も思ってないよ? ディー君が私の知らないところで……なんて、私には言う権利ないもの」
師匠の目に宿る光が薄れている――と、戦々恐々としている場合ではない。これも由々しき事態だが、今日は眠る時間を最小に留めて、情報部からの報告に備えたい。
しかしその日の夜のうちには新たな手がかりは得られず、自邸にいるミラルカに何かが起こるということもなかった。
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