第154話 残された手がかりと一夜の雨宿り
「……このまま帰るなんて言わないなら、離してあげてもいいわ」
普段のミラルカから想像のできないような言葉だった。彼女にそうさせる今の状況は、やはり良くはないのだろうとも思った。
ミラルカの身体は冷え切っている。この雨の中、夜に家を出てきた理由も、頭に浮かぶのは疑問ばかりだ。
「……そのままだと風邪を引くから、ひとまず雨を凌がせてくれ」
いつもなら何か返事をしてくれそうなところを、ミラルカはただ俺を見つめたままで頷く。冷えて血の気の引いた唇は、震えてはいない。
改めて向き合うと、目を奪われない部分などない。十一歳のミラルカと初めて会った時にすら、俺は二つ年下の少女の可憐な姿に見とれてしまった。
師匠を除いて、覚えたことのない感情だった。その時の俺も、今の俺も、何ら変わってはいない――だがミラルカに対してのそれを自覚してしまえば、パーティメンバーとして今までと同じように見られなくなるように思った。
そうして変わっていくことを、今の俺は否定できていない。弱まった雨の中で、まだ俺の腕から逃れないミラルカを、離すことができずにいる。
「……今夜は、魔法は使わないのね。ディックのそんな姿を見られるのは、貴重なことだと思うのだけど」
精霊魔法で俺たち二人の雨を凌ぐことなど容易だ――『水天幕』という魔法がある。戦闘で防御に使うものというよりは、それこそ雨天の移動に使うような移動中のパーティを補助するための魔法だ。
詠唱もなく、水精霊に干渉して魔法を発動させる。水の粒が俺たちを避けるように、降り注ぐようになる――見えない膜に包まれているかのような状態だ。
同時に『明かり』の魔法で光球を二つ発生させ、俺達の周囲をゆっくりと周回させる。水の膜で和らげられた淡い光が、俺とミラルカに柔らかく降り注ぐ。
「いつも夜道で使う『明かり』よりは明るいが、雨の中ってことで大目に見てくれ」
ミラルカは俺ほど、目立つことを気にしたりはしない。
彼女は微笑んだように見えたが、すぐに目を閉じて脱力する。このまま運べということのようだが、どこか違和感がある。
ミラルカの姿を見つけたときから、その何かが警告してくるような感覚は続いていた。
それでも眠っているように目を閉じたミラルカに、何かを言える状態じゃない。俺は嘆息しつつ、彼女の邸宅に向かった。
◆◇◆
ミラルカの邸宅には誰もいなかった。門は少し開いたままになっており、ミラルカが自分で外に出たのだとしたら、施錠をせずに出てきたということになる。
違和感は、玄関を通る時点でもあった。ごくわずかだが、魔法を使ったあとに生じる痕跡が残っている――それも、ミラルカ自身が攻撃魔法に類する魔法を使っている。
魔法の痕跡として起きる魔力場の乱れ、それを魔力振と呼ぶ。魔力振は使う魔法の種類、そして術者によって異なっており、偽装や隠蔽をされていない限りは使用者の特定が可能だ。
(……ここで何かがあった。この王都で、ミラルカを襲撃してくるような輩がいるとは考えにくいが)
ミラルカには濡れた服だけは着替えてもらい、休んでもらっている。見ないようにするのは至難の業だったが、風邪を引かせるわけにもいかない――さっきは意識を取り戻したのに、今はまた深く眠ってしまっている。
この家に務めている従者の女性は、通いで来ているということらしく、すでに帰宅したようだった。屋敷の中に泊まり込むこともあるようだが、今日はその予定では無かったようだ。
まだ外は雨が降り続いている。日が変わらないうちには戻ると伝えたので時間にはまだ余裕がある――ミラルカが眠ったままなら、応援を呼んだ方がいいかもしれない。師匠なら俺よりも医療魔法には長けている。
従者の女性がいてくれれば、色々と聞くこともできたのだが。ミラルカに何か変化があったとしても、ずっとついていなかった俺では把握しきれていない。
(……弛緩しすぎていたのか、俺は)
いついかなる時に何が起きてもいいように、準備をしてきた。小さなことまで脅威だと感じるのはただの臆病だと分かっているが、今の事態をただミラルカが気まぐれを起こしただけと思うには、違和感が重なりすぎている。
玄関の扉を開け、俺はもう一度外に出る。ここからミラルカは外に出て、さっきの場所まで移動した――その道筋を、自分の目でもう一度確かめてみたい。
そして、歩き出そうとして。明かりの光球が照らし出した中庭の茂みに、何かが落ちていることに気づく。
ひと目見ただけで、それが何なのかは理解していた。しかし手に取るまで、認めがたいと思ってしまった。
――なぜ、ここに『これ』が落ちているのか。
切断された『隷属の首輪』の破片。『遺された者』の技術でしか作ることのできない魔道具。
馬車組合の荷馬車を襲撃していた盗賊団の頭領も、同じ型のもので操られていた。これがここにあるということは、答えは一つしかない。
盗賊団に荷馬車を襲わせた人物は、ミラルカにも接触しようとした――あるいは、既に接触している。
首輪は鋭利な切り口で切断されている。刃物では不可能だが、ミラルカの魔法――『粒子断裂陣』を使えば、ちょうどこんな切断面になるだろう。
(ミラルカは『誰か』の襲撃を受けて応戦した。そして、あの場所まで襲撃者を追いかけてきた……そこで何かしらの方法で、意識を混迷させられた)
だとしたら、敵はSSSランク相当の能力を持っていることになる。そんな人物が王都に入り込んでいるとしたら、やはり認めざるを得ない――非常事態なのだと。
『サクヤさん、聞こえるか。夜分にすまない』
『――聞こえております。申し訳ありません、雨天のため、水精霊の干渉があるようです』
声が少しかすれて聞こえるのはそのせいか――それ以上に、全体に雑音が混じって聞こえる。
『落ち着いて聞いてくれ。王都に何者かが侵入して、ミラルカを襲撃した』
『っ……』
『俺たちのギルドが構築した情報網の存在を知っていて、感知されないように妨害してきたんだろう』
『マスター、ミラルカ様はご無事なのですか……?』
『ああ、今のところは……本当に無事かは、少し様子を見てないといけないが』
『……良かった。マスターは、ミラルカ様の傍にいらっしゃるということですね』
『もう少し早く来ないといけなかったんだがな……スフィアの方が、俺より勘は優れてた。スフィアに言われなかったら、俺は今も何も知らないままでいたよ』
サクヤさんの逡巡するような息遣いが伝わってくる。俺も慰めというつもりはなく、自分の至らなさを戒めるための言葉だった。
それを汲み取ってもらえればいいのだが――と思っていると、ふっとサクヤさんが息をつく。
『私たちの網を掻い潜り、ミラルカ様のもとにたどり着いた者がいるとしたら……私たちの力では及ばない相手かもしれません。しかしそれゆえに、私たちは自分たちの役割を果たすべきだと考えます』
『ああ……戦うことはしなくていい。もし王都の要所で不審な動きがあったら対応することだ。後手に回るのは不本意だが、これ以上好きにさせなければいい』
『かしこまりました。しかし何も感知できなかったとして、それが自分たちが気づいていないだけなのか、断定しきれないのは情けない限りですが……』
『俺も魔力の痕跡を辿ることができない。王都にいるか、外に出たかだけ把握できるだけでも助かる……何とか頼むぞ』
『はい。私はSランクですが、この情報網を築いたマスターはSSSランク……それを運用させていただいているのですから、今度こそ気配を掴んでみせます』
サクヤさんとの念話が切れる。彼女ならもし襲撃者を見つけても、必要な戦力が整うまでは交戦せず、追跡と監視に徹してくれるだろう。
俺も追跡に参加するべきだ――一度ギルドハウスに戻らなくてはならない。俺は念話でヴェルレーヌと師匠に連絡し、近くに住んでいるアイリーンにも来てもらうように頼む。
ユマとコーディにも警戒する旨を伝え、俺はミラルカの部屋に向かう。彼女が目を覚ましていたら、この家から動かないように伝えて出る。家の周囲に侵入者を防ぐ術式を仕掛けておけば、もしもの時に俺が駆けつけるまでの時間は稼げるだろう。
ミラルカの部屋に入り、居間を抜けて、寝室のドアを静かに開ける。
「……ミラルカ、すまない。俺の声は聞こえてるか」
ベッドの傍らに立って、俺はミラルカの姿を見る。眠っているように、静かに胸が上下している――毛布の上からでも分かる安らかな動きを見て、少なからず安堵する。
「何かあったら、すぐに俺を呼んでくれ。今度こそは……」
確実に駆けつける。そう言う前に、ミラルカの手が動いた。
「……もう少し、ここにいなさい」
ミラルカは顔を覆って見せないようにしながら、もう片方の手で俺の服の裾を掴む。それは強い力ではなく、声にもいつもの気丈さは感じられない。
撃退したとはいえ、ミラルカもこれほどの消耗を強いられるような戦いがあった。そう考えると、すぐにここを後にするのは割り切りが過ぎる。
「……起きたのなら、一度風呂に入って温まった方がいいな。身体が冷えたままじゃ良くない」
「……あなたもね」
「ああ、俺も……いや、俺はそうそう風邪なんて引くことは……」
そんな場合ではないと即座に辞退しようとするが、ミラルカは顔を覆っていた腕をずらして、その下から俺を見る。
「……少しくらい、いいでしょう。あなたのことだから、もう色々と手は回してくれているのでしょうし」
「し、しかしだな……皆に命令しておいて、俺が出ないというのは……」
言っている途中から、すでにミラルカの目が潤んできている。彼女としても、我がままに近いことを言っていると分かっていて、あえて俺を引き止めているということだ。
「わ、分かった。俺は少し湯を浴びるだけでいいからな。ミラルカが出るまでも様子は見ていてやるから」
「……そうしなさい」
短い返事をしたあと、ミラルカは再び顔を覆ってしまう。俺もいつまでも迷っているわけにはいかず、頭を切り替えることにした。
◆◇◆
魔道具で風呂を沸かす仕組みを取り入れている家は、王都の中でも一部しかない。ミラルカの家もその一つで、魔力のコントロールができれば俺でも問題なく使うことができた。
(人の家の風呂を使うのは、何か緊張するが……ミラルカが好きな湯加減も知らないしな。後で確かめる必要があるか……)
俺が浸かったあとにミラルカが入るというのも何か気が引ける。身体を温めるだけなら魔法でも代替できるのだが――と、今更そんなことを言っても潔くない。
魔法でできることが多いというのは、何でも魔法でやるべきだということではない。特に女性は風呂が好きなので、魔法で衛生的な状態を保てるとしても、気分の問題というものは無視してはならない、重要なことだ。
魔王討伐の旅の途中でも、俺は一度皆が数日間風呂に入れず、それを言い出せないでいることに気づかなかったことがあった。
――そんなふうに考え事をしているのは、やはりこの状況が落ち着かないからだ。やはり早く出て、ミラルカに順番を変わった方がいい。
湯を桶で掬い、肩から浴びる。しかし雨に濡れた髪が気になり、やはり一度頭から浴びて、魔法で乾かしてしまえばいいと考える。
「……ふう……」
「――お湯に浸かって温まればいいのに。やっぱりあなたは、変なところで真面目なのね」
「っ……ミ、ミラルカ……!?」
決して気を抜いていたわけじゃない。それなのに今日に限って、不意を突かれっぱなしだ。
いや――俺でも完全に接近を感知できない相手がいる。SSSランクか、それ以上に達しようとしている俺の仲間たちなら、それができる。魔力の流れを完全に絶つか、あるいは俺の魔力探知を妨害するという方法で。
「……入ってもいい?」
「そこまで来たら、止めるわけにもいかないな……俺はすぐ上がるから、待っていてもらえるか」
俺は立ち上がろうとする――しかしその前に、肩に手を置かれる。
ひんやりとした手。やはりミラルカの身体は冷えている。寝かせる前に何かの方法で温めておくべきだった。
「……こんなに鍛えているのに、いつも涼しい顔をしているのね」
「昔からやってきたことだからな。魔法で負荷をかけて鍛えるってのは、真面目に鍛錬してる人間からすると、反則に思われるんだろうが……」
「ええ……でも、きっとあなたと同じ負荷をかけたら、他の人は動けなくなってしまうでしょう。アイリーンとコーディなら、大丈夫なのでしょうけど。私は……」
アイリーンとコーディの二人の名前が出たところで、俺は一瞬安堵した。ミラルカは俺と二人のこの状況でも、仲間のことを考えている。
――しかしミラルカが次に起こした行動は、俺の想像の中にないものだった。
ミラルカが背中に寄り添ってくる。冷たいのは手だけで、その身体は温かい――熱とともに、心臓の鼓動が伝わってくる。
「……羨ましいと思っていた。剣士として、武闘家として、ディックと鍛錬できるふたりが」
今まで決してミラルカは、そう思っていたことを態度に出さなかった。
魔王討伐隊は一人ひとり役割が違う。ミラルカは魔法使いで、近接戦闘の訓練をする必要はない――それはアイリーンとコーディの役目で、俺は鍛錬の相手をする立ち位置だ。
しかし、そういった理屈だけで割り切れるものではなかったのだとしたら。俺はミラルカの考えていることを、何も分かっていなかったことになる。
「リムセリットさんや、ヴェルレーヌさんもそう。魔法だけじゃなく、戦うための力を持っている。でも、私もそう……本当は……」
「……ミラルカ、話ならいつでも聞く。だが、今は……」
逃げているわけじゃない。向き合う気持ちはあっても、今ここでというのは違う。
俺は立ち上がろうとする。それでもミラルカは俺の手首を掴む――振り返ると、ミラルカの身体を隠すものは、長い髪が胸にかかる以外には何ひとつなかった。
そのまま彼女は立ち上がる。俺から目を逸らさないままで、一歩ずつ俺を追い詰めていく。これ以上下がれないと分かっていながら、俺はミラルカに腕を取られたまま、壁に背中を押し付けられた。
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