第146話 小さな花
俺は六階層に上がり、転移陣を使って十六階層まで移動して、ゼクトたちに追いついて合流した。
二十一階層までは同行し、彼らはそこで一度地上に戻った。俺はそのまま探索を続ける――階層ごとに環境や仕掛けの著しく変わる迷宮を、俺は一時間ほどで一階層ずつ踏破していった。
一度も迷宮の外に出るつもりはなかった。五階層ごとに残された転移魔法陣は、俺の手で復旧するには時間がかかる――転移魔法陣を利用できず、地上に出るまで数日かかることを覚悟して、俺はひたすら進み続けた。
一日で二十階層潜り、安全地帯で数時間の仮眠を取る。五十階層を超えると、ドラゴンキマイラに匹敵するようなSSランクの魔物、あるいはSSSランクに届きかねないような階層主が道を塞ぐこともあった――Sランクの炎を吐く竜族で埋め尽くされた地獄のような階層でも、俺は立ち止まらなかった。バニングの火力を見ている俺には、生ぬるい熱量でしかない。
途中で持ち込んだ剣が折れ、俺は途中で手に入れた剣に切り替えて、どうしても戦わなくてはならない魔物だけを倒し、ひたすらに進み続けた。
七十階層を超え、一階層を抜けるごとに、スフィアが見つからないことに焦りを感じ始める。
俺の推測は外れていたのか。ユマの感覚は、彼女の言う通り、願望によって生じたもの
だったのか――そんな迷いが生じるたびに振り払い、無心で潜り続けた。
◆◇◆
一階層潜るごとに記録し、時間の感覚が失われた中で、おそらく三日と少しが過ぎただろうという頃に、俺はその階層に辿り着いた。
第九十七層――草原の広がる階層。不思議なほどに、この階層だけは魔物の姿が見当たらず、風が草原を吹き抜ける音だけが聞こえている。
見上げれば、幻影の空が広がっている。この地下で見えるはずがないのに、地上で見る空と変わらないほどに美しく、息を飲むほどに青い。
俺は草原の丘を上がっていく――そこに広がっているのは、白い花の咲く花畑だった。
八十階層以降の魔窟のような光景とは、あまりにも違いすぎる。ユマの言う、魂の至る約束の地――そんな言葉を想像するような場所だ。
ここに来るのは二度目だ。妖精の力がまだ借りられたとき、『蛇』を倒した後に一度訪れた――師匠と二人で、ディアーヌを悼むために。
しかし俺は生きてここにいて、アルベインの神が導く『約束の地』は、きっと他にある。
――そのとき、風の流れが、不意に変わったように感じた。
「……スフィア……」
懐かしい、気配がした。彼女の中に宿り、ともに戦った俺には分かる。
彼女が、ここにいる。しかし辺りを見回しても、どこにもその姿を見つけられない。
「スフィア……俺だ、ディックだ! どこにいるんだ、姿を見せてくれ!」
俺の声だけが、抜けるような空に虚しく響く。再び風が流れて、スフィアの気配が消えてしまいそうになる――。
「――頼む、スフィア……出てきてくれ……頼むからっ……!!」
言葉だけでは届かない。
それとも――俺はただ、幻影を追いかけているだけなのかもしれない。
俺は地面に膝を突く。どうしようもなく無力で、これ以上何をすることもできない。
あの場所で消えたスフィアが、ここにいるはずがない。
そう思いながら、希望がここにあると信じた。『近くて遠い場所』が、この場所なのだと――そうであってほしいと、盲目に信じようとしただけだ。
「……スフィア……俺は……」
『……お父さん』
小さな、囁くような声だった。
俺は顔を上げる。今までは何もなかったその場所に――『小さき魂』で生み出したものとよく似た、蛍のような小さな光が浮かんでいた。
「スフィア……なのか……?」
答えはない。しかし揺れる光が、眩しいほどに光量を増して、視界が白に染まる。
そして光が静まったあとには。
――求め続けてやまなかった、少女の姿がそこにあった。
「……スフィア……どうして、こんな迷宮の奥に……」
「私は……お父さんと、お母さんたちの魔力をもらって生まれた。でも、私が私であるために必要なもの……それをくれたのは……」
固有精霊以外の精霊は人格を持たない。その人格を、心と呼ぶなら――それは、どこからくるのか。
スフィアがこの場所にいる理由。そして、スフィアが生まれる前――俺の魔力が分離する前に、近くにいた存在は。
「……妖精……」
スフィアが頷く。その瞳から一筋の涙がこぼれ、風に流れて光の雫に変わる。
「あの飛行戦艦の妖精さんは、眠ってた……それは、とても永い眠りだったの。妖精さんは、いつかは眠らなければいけない。それは、お父さんたちが出会った妖精さんも同じだった」
――妖精の命が、尽きかけていた。
ならば、妖精が姿を消したのは。俺の前に、姿を見せなくなってしまったのは――。
「妖精さんは、ずっと後悔してたって言ってた。この迷宮で、たくさんの人が死んでしまうのを見て……自分のことを外に出してくれたお父さんたちだけは、そんな目には遭わせたくない。遭わせちゃいけないんだって……っ」
スフィアが、一人で外に出た日――おそらくは、妖精とスフィアが話したのは、その日のことだったのだろう。
俺は何も知らないまま、妖精の決意を知ったスフィアと共に、夜の町に出た。
十一番区の公園で、二人で過ごした。王都の空を飛んで、月を浴びながら駆け抜けた。
――スフィアがその時には、覚悟をしていたことを、何も知らないままで。
「……クヴァリスを止められたのは……妖精が、干渉したからだったんだな。クヴァリスを管理するものが、妖精と同質の存在だったから……」
スフィアは頷く。
俺たちがあの時失ったと思っていたのは――スフィアの持つ魔力を託された、妖精だった。
いや、違う。あの時確かに、スフィアは言っていた。
――お父さん、大丈夫だよ。私が守るから。
スフィアは、あの時死ぬつもりでいた。しかし、妖精がそうさせなかった。
「……あの時……最後に、入れ替わったんだな。妖精と……」
スフィアが顔を覆う。肩を震わせて、泣きじゃくる――溢れ出す感情を抑えられずに。
それが、スフィアが俺たちのもとに戻ってこられなかった理由。戻るべきではないと思ってしまった理由だった。
妖精は、スフィアの心をこの場所に戻せるようにしていた。
それは俺が『小さき魂』の魔法を使ったときと、同じ原理だ――この場所にスフィアの力の一部を残しておくことで、どれだけ離れていても引き戻すことができる。
スフィアの中に宿っていた妖精は、最後にスフィアの魔力を借り受けた。そして、スフィアの心――魂を、安全な場所へと遠ざけた。
「妖精さんは……自分が、生きていくこともできたのに……私の、ために……っ、私に……心を、くれて……お父さんたちの娘として、生まれさせてくれたの……」
妖精が、スフィアを生み出した。おそらく有限である『妖精の魂』の器を、俺と七人の仲間の魔力に心を与えるために使うことで。
俺を救うために、妖精は全てを捧げてくれた。俺の中から溢れた魔力が切り離されていなければ、今も安定することがないままでいたかもしれない。
「私の、名前は……本当は……妖精さんが、もらうべきだったもので……私は……私が、いなかったら……っ、妖精さんは……幸せに、なれたのに……っ」
スフィアは自分を責めている。妖精の身代わりになれたならと。
スフィアの優しさを、俺たちが一番よく知っている。どれだけ自分を責めるのか、その痛みも、選ぼうとするだろう道も。
「……だから……俺たちのところに、帰ってこられないっていうのか……?」
「妖精さんは、もうひとりの私だった……幸せになれたかもしれなかった。妖精さんを死なせて、私が『スフィア』でいることなんてできない……っ」
俺がここに来なければ、ユマが気づくことがなければ、スフィアはずっとここで、一人でいたのかもしれない。
――想像するだけで、それはどれほど孤独なのだろうと思う。
妖精も、同じだった。この迷宮の中で、長い孤独の中で、時折人と出会い、その死を見届けて――そして、俺たちと出会った。
妖精は俺を――人間全てを、守ろうとしてくれていた。人を小さなものとしか考えない、浮遊島の管理者でありながら。
それは、浮遊島の民全てが、地上の民を憎んでいたからではないのかもしれない。
全てのことが分かったわけじゃない。俺の知らないことはまだ多くある――だが、アルベインが、妖精によって救われたことは間違いのない事実だ。
しかし妖精の死に対する贖罪として、スフィアがここに残るというのなら。
彼女の親としての俺は、彼女が選ぼうとするその運命を、否定するほかはない。
「……スフィアは、スフィアだ。それは変わらないし、俺たちの大事な娘だっていうことも、一生変えることはできない」
「……そんなこと……私は、お父さんたちの本当の娘じゃ……」
今さらそんなことを言うのか、と笑ってしまう。その生真面目さは、誰に似てしまったのか――俺ではないと思いたいが、客観的にはそれも否めない。
「スフィアが何と言おうと、スフィアは俺たちの娘だ。娘を迷宮の底に残したままで帰るなんて、できるわけがない……そうだろ?」
スフィアは俺の言葉を聞いてくれている。
俺が呼びかけても返事をしなかった時と比べれば、今の状況は大きな進歩だ――だから。
決して諦めるわけにはいかない。スフィアを連れてみんなの待つ家に帰るために、俺はここにいる。
「すぐに戻る気になれないなら、何度でもここに来る。お父さんはしつこいぞ。俺は親馬鹿だから、スフィアが大きくなっても、誰にも嫁になんてやらないつもりでいたんだ」
「……お父さん……」
今さら照れるようなことなどない。思っていること全てを伝えるだけだ。
「ここから外に出て、またスフィアに会いに来るには、結構時間がかかるからな。その間、スフィアに寂しい思いをさせるかもしれない……でもお父さんは、諦めずに何度だって来るぞ。どんどんここまで来る時間を速くしていって、毎日くらい来られるくらいにしてな」
「っ……こんなに深いのに……いっぱい、魔物もいるのに……」
格好良い父親でも何でもない。娘に帰ってきてくれと、頭を下げてひたすらお願いしているだけの、情けない父親だ。
――それでも、スフィアが帰ってきてくれるのなら。俺はどれだけ情けなくても、構いはしない。
「娘も説得できないようなギルドマスターじゃ、皆に示しがつかない。だから……帰ってきてくれないか。俺たちはスフィアがいてくれないと、まともに歩くことすらできないんだ」
「……っ!」
俺も、ミラルカも、アイリーンも、ユマも、コーディも――師匠も、ヴェルレーヌも、シェリーも。
スフィアの親として繋がった俺たちも、スフィアと出会った人々も、俺たちの近くにいてくれる全ての人たちが、待っていてくれるはずだから。
「おいで、スフィア」
最後は、言葉も何もなかった。スフィアが駆け寄ってくる――抱きとめた身体は軽く、けれど確かな温度があった。
「ごめんなさい……お父さん、ごめんなさい……っ」
スフィアは俺の胸に縋りながら、何度も繰り返す。何も謝ることはない――こうしてここにいてくれたこと、姿を見せてくれたこと。全てに、感謝することしかできない。
「……私も、お父さんと一緒に……皆で一緒にいたい……それなのに、私……もう、一緒にいられないって……」
「いいんだ。もう、全部いいから……一緒に帰ろう、スフィア」
「……うん……ごめんなさい、お父さん……私、悪い子で……」
まだ生まれたばかりの、俺たちの娘。妖精に心を与えられた、人工精霊――けれど血の繋がりよりも、強い力で結ばれている。
もう二度と、一緒にいられないとは言わせない。言わせては、いけない。
白い花畑に風が流れる。小さな花は光の中で揺れながら、俺たちを見ていてくれるようだった。