第137話 過ぎゆく時間と二人の魔貴族
王都に帰ってきて、四日が過ぎていた。
俺は酒場のカウンターの端に座って、久しぶりに木製のジョッキに注がれたエールを傾けている。
「ご主人様、新しいメニューの評判は上々のようだな。東部海岸から黒竜で『空輸』した魚介を使ったスープ……王都で、他に食べられる店はあるまい」
俺は一度、ハレ姐さんを連れて東部海岸の港町シーファストに赴いた。ラムサスは高所恐怖症なので竜に乗れず、連れていけなかったが、厨房を預かるハレ姐さんに港町での仕入れを見てもらうことができた。
もう一つ、東部海岸に出向いた理由がある。それは、貿易に出る商船との契約――魔道具を積んでもらうことで、海上からも情報を収集できるようにした。周囲の音を拾って伝えるためだけの魔道具なのだが、船が難破したときの保険のためという名目で使ってもらうことにしたのだ。
実際に、海難救助の役にも立つ。悪天候に見舞われたり、海賊に襲われて行方不明になる船は年に数十隻もあるため、アルベインの貿易の発展における障害となっている。海上で何が起きたかを知る手段を設け、海軍と俺のギルド支部が連携することで、今後の事故を減らす足がかりとなればと思っている。
「……ご主人様、色々と動いているようだが。そろそろ、私にも状況を話してくれぬか? 酒場の仕事ができるのは良いが、クヴァリスのことを忘れたままでいるわけにもいくまい」
酒場のカウンターの中で、ヴェルレーヌがグラスを拭き上げながら言う。今日はヘッドドレスをつけておらず、珍しく髪を下ろしていた。
今は昼営業が終わったあとの休憩時間だ。ハレ姐さんたちも一度家に戻っており、店のホールには俺とヴェルレーヌしかいない。スフィアは師匠と一緒に、買い物をするために町に出ていた。
「現状、クヴァリスの行方は分からない。飛行戦艦の幻燈晶には、二日前からクヴァリスらしい映像は映らなくなった……妨害をかけられたのかもな」
「それは……クヴァリスが飛行戦艦の存在についても感知しているということか。このままでは、いずれ接近してくるのではないのか?」
「……どうだろうな。姿が見えない限りは対策の打ちようがない」
俺はエールを傾ける。魔法で中和すれば酒に酔うことはないが、今はあえて魔法を使わず、見た目通りに飲んだくれている。
そんな俺を見て、ヴェルレーヌはふぅ、とため息をつく。そんな顔をさせたくはないが、今は俺も待つしかない状況だ。
「『特別な依頼』は来ないようだが、通常の依頼は入っているようだな。ご主人様は、このギルドをこの状態に辿り着かせようとしてきた……そういうことなのだと、私も理解しているつもりだが……」
「ゼクトたちに任せて、自分は飲んだくれてるっていうのは、どうかと思うか」
「……そうでもないが。ご主人様が、考えもなしにそうしているとは思えぬ」
「それは買いかぶりすぎだ。俺も、休みたいことはあるさ。ヴェルレーヌは休憩しないのか?」
尋ねると、ヴェルレーヌは二階に向かう階段に視線を送り、もう一度俺を見る。
「……気づいているのではないのか? 今日は、私とご主人様の二人だということを」
「師匠とスフィアが来るまでは、ヴェルレーヌと二人だったけどな」
「っ……そ、それはそうだが……そういうことを言っているのではない。分かっているくせに、つれないことを言うな……」
ヴェルレーヌは口を尖らせて不服そうにする。彼女の言いたいことは分かっている――今の時間は、とても貴重だということだ。
しかしヴェルレーヌも、他の皆も、関係のバランスを保つことを何より大事だと考えている。
俺がヴェルレーヌを特別視したら、そのときは逆に彼女が距離感を整えるだろう。今もヴェルレーヌは、仕方ないやつだと言わんばかりに俺を見て微笑んでいる。
「まあいい、今日は大目に見てやろう。今のご主人様は、何かが起きてもエールに酔っていることを言い訳にしそうなのでな。素面のときに籠絡せねば意味がない」
ヴェルレーヌはそう言うと、エプロンを外し、二階へと上がっていく。トントンという足音が遠のいて、何も聞こえなくなり、俺は残ったエールを喉に流し込む。
――耳につけている魔道具のピアスが、情報部からの報告を伝えてくる。
最初の二日は、何の兆候も見られなかった。上がってくる情報は平和そのもので、俺はクヴァリスが脅威をもたらすことは無いのかもしれないと一時は考えた。
しかし、飛行戦艦に赴いて幻燈晶の映像が乱れ、やがて完全に見えなくなるところを見て、それを悪い予兆として考えないわけにはいかなかった。
通路の壁画に描かれたクヴァリスは、赤く輝き続けている。二千年の間、アルベインにはクヴァリスの存在が伝わらないままで、何の文献も残されていない。ベルサリスについて書かれた資料をロウェは所有していたが、そこにクヴァリスの存在を示唆する記述は何もなかった。
俺たちしか、クヴァリスのことを知らない。王都の民は国王陛下も含めて全員が、地震が起きなくなり、エルセインと同盟を結んだ今、何の恐れも抱く必要がなく穏やかに暮らしている。
――『蛇』以上の存在が、この世界のどこかにいる。それは、この王都アルヴィナスに向かってくるかもしれない。
それを訴えたところで、恐怖と混乱をばらまくだけだ。国王陛下は国のことを考え、民を慮ること為政者だ――だが、強力な外敵に対する対抗策は持たない。遷都をして王都の民を全員避難させるくらいしか、有効な方策がない。
なぜ、アルベインだけが立て続けに災厄に見舞われるのか。
俺たちが、アルベインに脅威をもたらしている。そう思われても無理のない状況だ――俺たちは常にこの国の脅威の近くにいて、関わってきている。
(……もっと上手くやれたのか。いや……まだ、何も遅くはない)
魔王討伐を終えたら、自分の望む褒美を貰い、自分のしたいようにして生きる。
今も俺はそうしている。義務感で戦っているのではなく、称賛を受けようとも思わない。
――俺はそれでいい。しかし仲間にまで、同じであって欲しいと望むことは、正しいことではない。
『――マスター、シーファストから東方諸島に到着した貿易船の船員が、ある噂を耳にしたということです』
『漁船が漁に出ているとき、急に空が暗くなり、豪雨と落雷が起こったとのことです。そして、黒い雲の塊がはるか上空に見えて――』
『雲の塊は、漁師たちの頭上を通り過ぎてしばらく進んだあと、急に姿を消したそうです。雲の進行方向と、移動する速さは――』
サクヤさんの報告は、俺の頭に刻み込まれていた。
東方諸島付近に現れた黒い雲の塊。それが向かう先は、西――アルベイン王国の方角。
進行速度から計算して、その黒雲がアルベイン東部海岸付近に到達する日数は――。
「……失礼いたします。今日は、お父様お一人なのですね」
「っ……シャロンさん、その『お父様』というのは……ご主人様のことでしょうか」
店の裏口から、二人のドレス姿の少女が入ってくる――ベアトリスとシャロンだ。
「スフィアの父親だからってことだが、やっぱり普通に呼んでもらった方が良さそうだな」
「主人と眷属の関係は主従関係ですが、魔族においては『家族』の意味合いも持っているのです。スフィア様のお父様でしたら、眷属の私にとってもお父様なのです」
「そ、それは……ラトクリスの風習でしょうか。ご主人様はスフィア様のお父様ですが、本来なら、まだお父様になられるにはお若い年齢かと……」
魔族同士ということで交流を持つようになった二人だが、ベアトリスは飛行戦艦を訪問して、グラスゴールと三人で話をしたりもしている。
「ディックお父様、グラスゴールからのご報告をお伝えさせていただいても……?」
「ああ。向こうの状況はどうなってる?」
「魔力の補充ができたため、ゴーレムの再生が開始されました。搭載している兵器について、使えるかどうかを現在調べているとのことです」
飛行戦艦には、動力となる魔力を生み出す『核晶』があり、補助用の魔力結晶が幾つか搭載されている。普段は余った魔力を魔力結晶に蓄積していて、足りなくなったときに利用する仕組みだ。
核晶は老朽化して性能が落ちてしまっていたが、師匠が動力室に入って調べた結果、老朽化した部位を新しいものに取り替え、改修することで性能を八割程度にまで回復できると分かった。
元は五割も動力が供給されていなかったのだから、浮上できただけでも僥倖だったといえる。六割を越えたところで増幅結界を発動しながら魔力を貯留できるようになり、七割に達してからは余剰魔力を他のことに使う余裕が出てきた。
「魔力が足りずに起動できなかった『魔晶圧縮砲』ですが、右舷と左舷の二つが使用可能となりました。この兵器を使うには精霊魔法など、攻撃魔法を使える方が必須となります。現状、グラスゴールからの報告は以上です」
「……あれが使えるようになったのか。森の中に埋まってた上に、根が絡みついてとても使えそうになかったんだがな」
「グラスゴールがそれぞれ一日ずつかけて、砲台まわりの整備を行いました。私は彼女の食事を作るなどしていたので、ほとんど見ているだけでしたが……」
グラスゴールは勤勉で、飛行戦艦に残っていても睡眠時間以外はほとんど働いている。休んだ方がいいと思うのだが、シャロンが忠告するとようやく仮眠するくらいで、深夜まで起きているらしい。
「私が『血の誓約』を利用して、意地悪をしているわけではありません。彼女は自主的に、できることを探しています……私は怠惰に過ごしているだけで、申し訳なく思います」
「俺も細かい指示はしてないからな。状況を知らせてくれれば、好きに過ごしてくれて構わない」
「はい……ありがとうございます。お言葉に甘えて、今日も『好き』に過ごさせていただいています」
シャロンは自分より背が高いベアトリスを、見上げるようにして目配せをする。ベアトリスは耳まで赤くなり、俯いてしまった。
「ど、どうした? ベアトリス、身体の具合でも……」
そう言いかけて気がつく――ベアトリスの身体が少し薄らいでいる。俺の近くにいるだけで存在を維持するだけの魔力を吸収できるはずだが、あえてそうせずにいるようだ。
「……ヴェルレーヌ様や、他の奥様がたは、今はお留守……なのでしょうか……?」
「お父様に、お願いがございます。私たちにどうか、お務めに対してのねぎらいを賜れたらと……」
そういうことだと分かってはいたが、ヴェルレーヌが戻ってくる前に魔力の供与をするというのは、何か目を盗んで良からぬことをしているようだ。
「ベアトリス、昼間に訪ねてくるっていうのは、夜よりも魔力の消耗があるっていうことだぞ。それに気づかない俺じゃない」
「は、はい……申し訳ありません、過ぎたことを申し上げて……」
「いや、怒ってるんじゃない。自分の身体をもう少し大事にした方がいいってことだ。魔力を供与すること自体は、何も悪いことじゃないからな」
「……ご主人様……やっぱり、お優しいです。こうしてディック様のお言葉をいただくだけで、私は……」
涙もろいところのあるベアトリスは、こんな俺の一言で目を潤ませてしまう。頭を撫でると、彼女はくすぐったそうに微笑んだ。
それを見ているシャロンが、人差し指を唇に当てる――つい出てしまう仕草のようだが、物欲しそうな瞳は直視すると危険だと感じる。『夜を這う者』は魅了を得意にしている種族だというので、瞳にも何らかの力があるのだろう。
「お父様、私の目を気にされているのですか?」
「何か、特殊な力があるんじゃないかと思ってな」
「『魅了の魔眼』は、ディックお父様には効果を現しません。それについてはご安心ください……もし血を吸ったとしても、誓約は発動しません。私は眷属なのですから、主人に支配力を及ぼすようなことはできないのです」
そういうことなら安心だが、やはりシャロンの瞳には心を乱す何かがある。精神防御はいちおうかけておいた方が良さそうだ。
「ベアトリス、魔力が必要になったらまた夜にでも訪ねてきてくれ。今のところはねぎらいというには軽いが、何か軽く食べるか。二人とも、昼はもう食べたのか?」
昼食の時間帯は過ぎているが、二人とも首を振った。ベアトリスは食事の必要がなく、シャロンも少食なので、飲み物しか摂らないような日もあると聞いていた。
「お父様のお料理……噂には聞いておりますが、王宮の料理人でも出せないほどのお味だとか……ここで頂けるなんて、身に余る光栄です」
「王宮の味付けやレシピは参考にしたこともあったが、俺の料理は庶民向けだ。予算の上限がだいたい決まってるからな。大事なときは、材料に妥協はしないが」
二人とも俺が食事を作ると聞いた途端に、目が輝いている。誰でもお腹が空いたときは、同じ感情を顔に出す――俺が料理をしたくなるのは、その顔を見たいからなのかもしれない。