第133話 古代の衣装と魔力の調整
医術室の前の廊下で、ちょうど部屋から出てきたイリーナに会った。水色の髪を持つ魔族である彼女は、俺を見ると反射的に敬礼をする。
「ディ、ディック殿……お疲れさまであります!」
「ああ、お疲れ様。どこか怪我でもしたのか?」
「い、いえ……念のためにということで、リムセリット殿に診ていただきましたが、特に問題はありませんでした。これより、甲板にいる竜たちの世話に向かいます」
「それは助かるが……何か顔が赤いが、どうした?」
「っ……そ、そのようなことは。私は何も聞いておりませんし、何もディック殿にお教えしなかったと、そのようにお考えください……っ! では、これにてっ!」
イリーナは勢いでごまかすと、転びそうになりながら、俺が使った転移陣の方に向かう。
(一体何なんだ……?)
疑問に思うが、考えてどうなることでもないので、俺は医術室の前に立つ。グラスゴールが艦内の地図を見せてくれたので、迷わずに着くことができた。
居住区の扉は、触れるだけで開くものが多い。壁に線が走って左右に割れるというような、普通の扉とあまりにも違う仕組みで開くので、開けるたびに興味深く眺めてしまう。
「えーと、俺だ……入るぞ」
呼びかけてから扉を開ける。医術室は思ったより広く、手当てをする部屋と、ベッド――と言っても、それもまた星の遺物と呼ぶべき代物である――のある診療用の病床が奥に見えている。
「ディー君、やっと来てくれた。待ってたよ」
「ああ、師匠……な、何でそんな格好をしてるんだ……?」
王都はさほど医術が発達しておらず、俺のギルドでは基本的に回復魔法で体調不良に対応する。それゆえに、あまり医者を訪問することはないのだが――今の師匠の格好は、何というか、医術を専門にしている人物というか、そんな雰囲気に見える。
「治療をするんだから、ちゃんと着替えなきゃ。この部屋に着替えも置いてあったんだけど、全然傷んでなかったから着てみちゃった」
「よく傷んでなかったな……何年前の服なんだ」
「ものを長いあいだ保管できる魔道具があるから。迷宮の奥にある宝箱の中身が朽ち果ててないのは、同じような原理だよね」
確かに、と納得する――普通の箱に入っているだけでは、迷宮の奥で見つかる武具などほとんどは使い物にならず、鋳溶かして金属として再利用することくらいしかできない。
しかし、医者のような格好をしてはいるものの、また少し違うというか――俺にそんな趣味はないはずなのだが、服や髪型が違うとこれほど印象が変わるものだろうか。
「さ、ここに座って。触ってみれば、ディー君のことはだいたいわかるから」
「触らなくてもわかるんじゃないか、師匠ともなれば……っ……」
師匠の前に置かれた椅子に座ると、すっと手が伸びてきて頬に触れられた。わざとくすぐったくしているのかと思うが、師匠の目は真剣そのものだ。
「んー……」
「み、耳とか関係あるのか……? 額とか、脈を診るとかならわかるが……」
耳たぶを人に触られることがほぼないので、落ち着かないことこの上ない。師匠は無造作に身を乗り出すので、距離も近く、逃げようとすると引っ張られる。
「じっとしてなきゃだめ。ディー君も分かってるでしょ? 魔力は全身を流れてるの。身体の末端に流れる魔力が、必ずしも小さいわけじゃなくて……聞いてる?」
「き、聞いてはいるが。この状況で教えられてもだな……」
「うーん……ちょっと熱もあるし、やっぱり『調整』をしないとだね」
「調整か……まあ、そこまで調子が悪いわけじゃないんだが。向こうに到着するまでに終わりそうか?」
「うん、大丈夫だと思う。ディー君はじっとしててくれたら、それでいいからね」
こうして微笑みかけられると、昔のことを思い出す――良い思い出以外もあるが、今となってはそれほど胸が痛むことはない。
しかしなぜか、師匠が優しいと身構えてしまうのは、刷り込まれてしまっているからだろうか。そろそろ俺も大人にならなくては、と改めて思うところだ。
◆◇◆
俺は治療のために必要だからと、師匠に目隠しをさせられてベッドに寝かされた。しばらく待っていると、師匠が隣の部屋から声をかけてくる。
「ディー君、ちょっと待っててね。もうすぐ準備が終わるから」
「ああ……何の準備をしてるんだ? こうして寝転がってると、このまま寝そうになるんだが」
「あ、寝ちゃっててもいいよ。むしろ、そうしてもらった方がいいかな」
何かふわっとした言い方だが、寝てもいいと言われると、警戒心が緩んでしまう。
俺は魔法で回復できるので睡眠を必要としないが、時には休むことも必要だろうか――そんなことを考えていた俺は、向こうの部屋から聞こえてくるかすかな物音について、よく考えることをしないままで、まどろみに身を任せた。
――わ、私が先に……順番は関係があるの?
――何言ってるの、みんなで話し合って決めたんだから、今さらそんなこと言わないの。
――ご主人様の『調整』のためとはいえ、やはりこの人数では少し照れるな。
――みんなすっごい綺麗な肌してるよね……コーディ、怪我は大丈夫?
――うん、もう平気だよ。無理をして参加すると、ディックも遠慮するだろうしね。
――ディックさんの魂に、これ以上なく近く触れ合うとき……それを皆さんと共有できることを、神に感謝したいです。
(……思った以上に疲れてたのか、身体が動かないが……何か、話し声が聞こえるな)
――お母さんたち、ここで見つけた服なのにすごく似合ってる……いいな……。
――スフィアちゃんももう少し大きくなったら着せてあげる。今着ちゃうと、ディー君がお父さんとして戸惑っちゃうから。
――いや、娘の希望とあれば応じないわけにはいくまい。スフィア、こちらに来るがいい。
――じゃあミラルカちゃん、そのうちに一番手をお願いね。
話し声が途絶えて、急に静かになる。また深い眠りに戻れそうだ――というところで。
「……あなたは、いつも平気な顔をして……本当は、誰より大変なのに……」
身体にかけられた毛布がそろそろと剥がれる。そして、身体の全面に、懐かしい温かみが――というところで。
(っ……や、やっぱり、そういうことか……!)
「ミラルカ、もうちょっとぺたんってくっつかなきゃだめなんじゃない?」
「だ、だから……押さないでって言っているのに……私はあなたみたいに、腕立て伏せは得意じゃないのよ……っ」
「はい、そのままちょっと身体を低くして、深呼吸して……ディー君とおでこを触れ合わせて、魔力を循環させるの。ちょっとディー君の中から、ミラルカちゃんの魔力が減っちゃってるから」
「ほ、本当に必要なことなんでしょうね……っ……」
目隠しをしているのが幸いと言っていいのかわからないが――ミラルカが俺の髪を分けて、額をくっつけてくる。その瞬間に、他の触れている部分にも魔力が通って、ミラルカから力を分けてもらっていることが実感できた。
「……早く元気になりなさい……私の魔力でよければ、いくらでも使っていいわ……」
囁くような声だが、いつも言葉が鋭いミラルカにしては、優しく語りかけてくるようで――やはり夢でも見ているのだろうか、という気分になってくる。
「もうちょっと……うん、これくらいでいいかな。後は一回ぺたんってした方が安定するかな」
「っ……」
やはりそうなるのか、と覚悟はしていたが、師匠がミラルカの背中を軽く押したらしく、ミラルカは細腕で頑張っていたが、あえなくぺしゃんと潰れる。
胸板に当たる弾むような感触――俺の防御魔法でも全く防ぐことができない物理的な攻撃が、この世にはある。
ミラルカは何も言わず、そろそろとベッドから降りる。何か揉めているようだが、たぶん師匠のことなので、何だかんだで言いくるめてしまうだろう。
「ミラルカお母さん、顔が真っ赤になってる……リムお母さんがいたずらしたから?」
「いいのよ、スフィア……お母さんは、自分で自分の尊厳を守るから。リムセリットさんと仲違いをしているわけじゃないのよ、多少の意見の相違が生じただけ……」
「ふぇぇ、ミラルカが難しいこと言ってる……これって結構怒ってる感じじゃない?」
「……リムセリットさん、少しいいかな?」
コーディが何かを師匠に進言している。俺はもう起きてしまった方がいいのだろうか――いや、起きたら治療が中断するのか。
考えてみれば、俺の魂が身体から離れている間は、動けないということで今のような治療をしていたわけだ。今はそんなことをする必要はないのでは――と、そう気づいたのは俺だけではなかった。
「……私はどちらの趣向でも構わぬが。皆と比べて、同居しているだけはあって、場馴れはしているのでな」
「じゃあ、ディックのこと起こしちゃっていいの? えー、この格好だとちょっと照れちゃうんですけど……」
「アイお母さん、すごく似合ってるのに。お父さんもきっと驚くから、見せてあげて?」
「ふぇぇ、スフィアちゃんに言われたら断れないというか、本当は見せたくなくもないというか……」
「複雑な乙女心だね……僕が言うのは、自分でもどうかと思うけれど」
「コーディさんも、私たちとディックさんの前では乙女です。騎士団長の役目を果たしている間、男性として振る舞うことは、神もお許しになっていらっしゃいます」
神はそこまで見ているのか――と、感心している場合ではない。俺の治療は、まだ始まったばかりなのだ。
「ディー君、ごめんね。お休み中のところ悪いんだけど……」
「……ん?」
今起きたふりをするのは多少なりと罪悪感があるが、ミラルカに対する俺なりの配慮だ。俺が起きていたと知ったら――ただ俺が殲滅されるだけだが、それは困る。
「……あなた、もしかして起きて……」
「ディック、まだミラルカの分しか終わってないから……その、あたしたちも、魔力? ディックにあげたり、もらったりしなきゃなんだって。だから……」
アイリーンの細かいことを気にしない性格が、今はとても助かる――しかしミラルカが疑念の目を向けているので、まだ殲滅の可能性は失われていない。
「アイリーンちゃんとユマちゃんは二つの魔力で均衡を取ってるから、二人一緒にお願いできる?」
「は、はい……アイリーンさんの鬼神のお力は、私の力で鎮めることができます」
「そうなんだよね、ユマちゃんがいないとあたし、大変なことになっちゃうから……これはこれで大変なことなんだけど……」
師匠の指示で俺はベッドの端に座らされ、アイリーンが俺の後ろに、ユマが俺の前にやってくる。
「ユマちゃんはそのままディー君に寄り添って、アイリーンちゃんは腕を前に回してあげて」
「っ……ま、待て、その体勢は、腕を回すというより……っ」
「ディック、動かないの。ディックが元気でいてくれないと、あたしたちが困るんだから……」
「ああ……こうしていると、ディックさんの鼓動が聞こえてきます。温かい魂の波動……鎮魂したい……」
前方はユマ、後方はアイリーン――SSSランク二人の挟撃を受けて、生き残れる冒険者などいるのだろうか。
照れ隠しにそんなことを考えても、顔を引き締めたままでいるのは難しい。だが少しでも気を抜いたら、俺の築き上げてきた人物像が崩壊してしまう。
「……ご主人様……この状況で動じぬとは、まさに鋼の精神。『鋼のディック』という二つ名に変えてはどうだろうか」
「二つ名は、自分で決めるものではないと思うのだけど……確かに、動じないことは評価してあげてもいいわね」
「見ている僕の方が動じているんだけど……やっぱりディックは凄いな……」
「うん、だいぶ均衡が取れてきたかな。ディー君はアイリーンちゃんの技を使うことが多いから、多めに魔力を分けてあげてね」
「そういえばそうだよね……ディック、あたしと稽古するときはあまり使わないのに。ほんとはあたしのこと、物凄く評価してくれてたりして……」
「そ、それは否定しないというか、当然のことだが……」
(……だ、だんだん力が強く……気づいてないのか……?)
武闘家の服の上から、白いガウンのようなものを羽織っているアイリーン――だが彼女はどんなものを上から着ても、だいたい前が閉じられない。
しかしユマにくっつかれていると、問答無用で心が静まる。この二人の組み合わせは、確かに有効だ――そう思わざるを得ない。
「……ディック、いい匂いする。あんなに激しく戦ってたあとなのにね」
「はい……こうしていると、気持ちが安らぎます。ディックさんはいつも、お日様の匂いがします」
そう言ってもらえる自体は有り難いことだが、落ち着かないことこの上ない。
しかしミラルカまでいつの間にか優しい顔をして見ているので、そろそろいいだろう、と自分から言い出すことも許されない。ミラルカの仲間想いは、俺だけでなく皆が気がついているところだ。
「……それで、リムセリットさんはどうするのかしら?」
「私は調整役だから、次はコーディ君と、ヴェルちゃんかな。スフィアちゃんもやりたい?」
「……わ、私は、お母さんたちと違って、魔力をお父さんにあげてないから……」
「実はスフィアちゃんだけでも調整できたりするんだよ? だって、全員の魔力を持ってるんだもん。でも、一人だと大変なんだよね……ディー君、戦闘評価が53万なんて数字なんだもん」
「それは、霊装竜の能力を使った場合だからな。それと皆の力を借りなきゃならないし、素の俺はそれほどでも……」
「ご主人様の謙遜は、見ていて心地の良いものがある。何とも愛らしいものだな……」
恍惚とするヴェルレーヌ――そういう趣味があったのか、と言うまでもなく、以前から察してはいた。
「では、私とスフィア、そしてコーディ殿とご主人様の睦まじいところを、師匠殿に見せつけるとしよう」
「あっ……ちょ、ちょっと待って、そういうことなら私も……っ」
「リムセリットさんには最後の順番が残っているから、その重要な役目をお願いするよ」
コーディに笑顔で言われ、師匠は引き下がる。俺に何かを訴えるような目をされても困るのだが――というか、最初から二人ずつにしていれば良かったのではないだろうか。
「……三人というと、どのようにすればいいだろうか?」
「え、えっと……じゃあ、こんなふうでどう?」
師匠の指示を受けて、ヴェルレーヌがアイリーンと同じ位置に来て、右からはコーディ、左からはスフィアが寄り添ってくる。
「ご主人様の後ろを、こんなに簡単に取れるとは……無防備な背中というのは、こうも魅力的に映るものなのだな」
「お父さん、お疲れ様。私は回復魔法を使ってあげるね」
「スフィアは本当に何でもできるんだね……僕は剣しか使えないから、羨ましいな」
(……もうすぐアルヴィナスに着くのか? こんな時間があとどれだけ続くんだ……幾ら俺でも、理性を魔法で制御するにも限界が……)
「ディックの筋肉はやっぱり理想的な形をしてるね……どうしたらこんなふうになるのかな」
「背中もかなり鍛えられている……しかし、重すぎるほどではない。ふむ……」
「……何だか眠くなってきちゃった。お父さん、おやすみなさい……」
俺もやはり起きたりせず、眠っている間に治療してもらえば良かったのではないか――そう思うが、一度起こされてしまったものは仕方がない。
やがてグラスゴールが艦内に念話を伝え、目的地が近づいたことを知らせてくれるまで、俺は医術室から出ることはできなかった。