第130話 剣の禊と幻魔の名前
開いた扉の向こうには、暗闇が広がっていた――しかし足を踏み入れた途端に、床と壁全体に魔力回路が走り、ところどころに淡い光が灯る。
「まだ、通路が続いてるんだね。この扉は、選別装置みたいなものっていうこと……?」
「一定の力がなければ、奥に進めない……そういうことなら、確かに選別と言えるかもな」
「王様が怖がってたのは、そのせいなのかな……」
敵の気配は感じない――照明が弱く、辺りは薄暗いが、誰かが潜んでいるということもない。
扉を開いてから、鎧精の気配を魔力追跡で追うことができるようになった。確実にグラスゴールの居場所に近づくことができている。
可能な限り急がなければならず、俺たちは歩を速める――罠を警戒するが、特に仕掛けのようなものはない。このままグラスゴールの元に辿り着ける、そう思ったとき、俺たちは前方の側壁に浮かび上がっている図柄に気づいて立ち止まった。
「……あの壁画に似てる……だが、これは……」
そこには空に浮かぶ、二つの大きな島が描かれていた。もうひとつ小さな島のようなものがあり、青い光を放っている。
一つの浮遊島は光を失い、暗く沈んでいるように見える。しかし、もう一つ――翼を持つ生物が周囲を飛び回っている大きな島は、赤く輝いている。その光は、俺にはひどく禍々しいものに見えた。
「この、光が消えてるのはアルベインの浮遊島……青く光っている小さな島は、私たちがいるここ。もうひとつは……昔アルベインの浮遊島を襲った、怪物のいる島……?」
「……っ」
スフィアが服の裾を掴んでくる――俺も久しぶりに、気分の悪さを感じている。スフィアを安心させようと手を出すと、彼女はきゅっと握ってきた。
「アルベインの浮遊島を滅ぼした、もう一つの浮遊島が今も生きている……そういうことなの……?」
この壁画は、そう類推するに足る材料を備えている。アルベインの浮遊島と比べて、その規模は一回り大きい――こんなものが今も存在して、どこかの空に浮かんでいるとでもいうのか。
そしてまだ、この『もう一つの浮遊島』が機能しているとしたら。それは、アルベインの浮遊島の動力だった『蛇』と、同等の存在が中にいて、今も活動していることを意味している。
アルベインの浮遊島を示す絵は、光を放っていない。それは、『蛇』が倒されたからだと考えられる。グラスゴールに尋ねなければ確かめようがないが、『蛇』が目覚め、生きていたときには、他の二つの島と同じように光っていたのではないか。
――アルベインの浮遊島の状況を、他の浮遊島が察知することができる。その意味の重さに、戦慄を覚えずにはいられなかった。
「……ディー君……」
師匠が俺を見る――それは、縋るような瞳だった。
しかしそれは一瞬のことで、彼女はすぐに気を取り直したように笑顔を見せる。
「大丈夫だよ、ディー君。『蛇』みたいな存在が、他にもいるなんて……そんなこと絶対、あるわけない。もしそうだったら、この世界は、もっと早くに……」
滅んでしまっていてもおかしくはない。そうならなかったのは、『蛇』と同等の脅威など、存在しないからだ――師匠がそう言いたい気持ちは分かる。
しかしグラスゴールが、なぜ謀反を起こさなければならなかったのか。その理由がこの壁画にあるのだと、どうしても因果を結びつけてしまう。
「まだ、確証は持てない。グラスゴールはおそらくこの赤く光る島が、ラトクリスに危害を及ぼす可能性があると考えた……この壁画を見たラシウス王は、この絵が意味するところが理解できていなかったんだ。似たものを見たことがある俺たちと、この遺跡の深部に入ったグラスゴールは、共通の認識を持ってもおかしくない」
怪物の住まう浮遊島が存在する可能性。『ベルサリスの蛇』の力を上回り、遥か昔に、師匠が暮らしていたと考えられる浮遊島を地に落とした――そんな力を持つ存在が、未だに活動を続けているなどと。
「……グラスゴールさんは、一人で何とかしようとしてたのかな」
ラトクリス王家は、遺跡を監視する役目を担っていた。ラシウス王は遺跡に入ることを禁じたが、その禁はラシウス王たちが捕らえられているうちに解かれた――グラスゴールは、最後までラシウス王が決断を下すのを待っていたのだろう。
しかし、グラスゴールの望んだ通りにはならず、ラシウス王は最後まで遺跡に触れるべきではないという意思を貫いた。グラスゴールはラシウス王を一度見限り、処刑の指示を出した――孤立する覚悟を決めた上で。
「今はまだ、全てが想像の範囲内だ。グラスゴールに会って確かめよう」
長い通路の終端に、再び転移陣が設けられている。罠の気配はなく、師匠が陣を起動させると、再び瞬時に景色が変わる。
転移した先は、さらに深部――飛行戦艦の動力部に近づいている。
床一面に遺跡迷宮で目にすることの多い紋様が描かれた。広い部屋。向こう側に、動力部に向かうためのものらしい扉がある。
部屋の中心に、グラスゴールが立っている。その翼はぼろぼろに破れたままで、治療をした形跡すらない。
色素の薄い、肩の辺りにかかる髪。そして軽装の鎧であっても、肌を見せないように心がけていた――それはすべて、国王直属の将としてのしきたりを守るため。
グラスゴールは顔を上げて、こちらを見る。その目に宿る光は薄いが、口元にはかすかに微笑が浮かんでいる。
「……何て顔をしてる。俺たちがここに来るのは、分かっていたんだろう」
「逃げることはしないと言った。王宮で待つと言ったが、それは違えてしまったね」
「この遺跡を浮上させると言われても、実際に見るまでは信じられなかっただろうな」
グラスゴールはまだ殺気を放つこともなく、一定の距離まで近づいても、その表情は変わらない。
しかし、これ以上近づけば剣を抜くのだろうといことはわかる。俺はグラスゴールという人物をまだ一部しか知らないが、軍人としての矜持をまだ持っているように思える。
――だが、この場においてその矜持は、容易に認めていいものではない。
「……俺たちに後のことを託して、死ぬつもりででもいるのか?」
グラスゴールはすぐに答えなかった。俺たちを見て、微笑している――その諦めにも似た表情は、無言の肯定とも受け取れた。
「どうして、王に相談しなかったの? 相談しても駄目だって、諦めてたの……?」
「力のない者では、何も護ることはできない。その事実を教えたところで、残酷であることに変わりはない」
「……あんたは、レオンとルガードの悪意がラトクリスの民に向かないように仕向けた。王を捕らえたのも、守るためだ。メルメアがいなくなったことを看過したのも、そうすることで状況を変える材料になると思ったからじゃないのか」
俺の問いかけに、やはりすぐには応じない――そして俺は気がつく。もはや、グラスゴールは立っていることすら難しい状態なのだと。
革鎧の胸甲は、俺たちの剣で切り裂かれ、その下の肌が見えている。コーディと同じように硬く巻かれたサラシは破れ、締め付けが緩み、ただ手繰り寄せて身にまとわせているのみとなっている。
「メルメア王女が何かをできると期待してはいなかったよ。レオンとルガードに捕らえられてもおかしくはないと思っていた……しかしエルセインには、女王ヴェルレーヌがいる。かの稀代の女王を相手に、レオンとルガードがどこまで戦えるかは試してみたかった」
「……レオンに『鎧精』を貸し出したのは、監視させるためだけだったっていうこと?」
「SSランクのレオンが鎧精を用いることで魔王に勝てるとしたら、戦力として期待ができる。だが、レオンは鎧精を得たところで、自らの能力の壁を破る器がなかった。彼は鎧精の力を、妹に対する劣等感を拭う材料に使っただけだった」
グラスゴールは敵であるレオンとルガードを試してまで、何のための戦力を集めようとしていたのか――それは、改めて問うまでもない。
「あの、赤く光る浮遊島……あれと戦うために、一人で準備を進めていたんだな」
その存在を肯定することすら、師匠は禁忌を覚えている。しかし、避けて通ることはできない。
グラスゴールの表情が、ついに陰る。目を伏せ、唇を噛み、自分の身体を抱くようにして、彼女は震えながら声を絞り出す。
「……あの壁画を見た時、ラシウスは禍々しいと言って目を背けた。なぜ、そんなことができるのか……理解はできても、許すことはできない。見てみぬふりをするところか、ラシウスは私を……っ」
「この遺跡から遠ざけた。そして……自分の傍からも、あんたを離そうとしたんだな」
「っ……ディー君、どうしてそんなこと……」
明確に方針を違えたグラスゴールを、ラシウス王は「貴殿」と呼んだ。名前で呼んでいた相手にそうすることが、どんな意味を持っているかは明白だ。
「……ジナイーダを四将軍の筆頭として中央に置き、私とフォルクスは北方国境の守りに就く。それが、ラシウスの出した結論だった」
――それが、始まり。グラスゴールはその時王に失望し、行動を起こすことを決めたのだろう。
「そんな……ずっと、グラスゴールさんは……」
「……君が泣くことはない。私の忠義心など、場合によっては捨てられるようなものでしかなかった。私は自らのしたいようにして、今もそうしている。この遺跡を起動させ、造った魔物の強さを試している……そして最後の一体までが敗れ、あとは私一人だ」
グラスゴールが腰に携えた剣に手をかけ、鞘から引き抜く。彼女は俺だけを見ていた――俺と剣を交えたいと、そう言うように。
「お父さん……」
「ディー君……」
俺は剣を抜く――グラスゴールの白銀の剣に対して、俺の剣はただの無銘の剣だ。
だが、決してグラスゴールを甘く見ているつもりはない。いつもの俺で、彼女に負けを認めさせる――俺にできるのは、それくらいだ。
「……私の名は、フレイ・グラスゴール・ゼルライネ。貴君の名を聞かせてもらいたい」
今こうして名乗ることが、何を意味しているのか。分からないわけもない――だが、それをここで言うべきではない。
「俺は……ディック。ディック・シルバーだ」
「……ディック。あのコーディという剣士が、名前を呼んでいたな。あれほどの強者に慕われる君が、私は……」
唇だけが動き、声は届かない。そして、グラスゴールの破れた四枚の翼が開く――俺は強化魔法を使い、間合いを詰めながら斬撃を放つ。
「――おぉぉっ!」
――『斬撃回数強化』――
魔力によって手数を増やし、ほぼ同時に十三回の斬撃を全方向から浴びせる。しかしそのほとんどを、グラスゴールの前に現れた鎧精が防ぐ――両腕を広げて立ちふさがるだけで、その防御力は十分に発揮される。
「リーヴァ……!」
「私は我が主と共にある。主を護るためだけに存在している」
ずっと感情を出さなかったグラスゴールが、鎧精の名を叫ぶ。グラスゴールはもう鎧精を戦わせるつもりはなかった――声を聞く限りでは、そう思えた。
「――だめっ! リーヴァさん、そのままじゃ消えちゃう……っ!」
――『光輪鎧・物理反射壁』――
鎧精は全ての能力を見せていたわけではなかった――鎧精が受けた攻撃がそのまま反射される。しかし魔力が尽き、グラスゴールの力を求めようとしない鎧精は、斬撃を反射して威力を逃しきったところで存在が薄れ、姿が消えかかる。
「っ……リーヴァ、もういい……!」
「……我が、主……私を目覚めさせ、契約を結んでくれた……存在意義を失いかけていた私を、繋ぎ止めてくれた……」
「……すべて、自分の足りない力を補うため。それでも最後は、私は一人で終わらせなければならない。リーヴァ、君まで消える必要はない」
「それでも……私は……我が主を、守る……」
精霊ならば、魔力さえ供給されれば再生することができる。しかしそうしないのは、グラスゴールの鎧として、彼女を守るためだけに俺の前に立っているからだ。
「……君は、役目を果たした。私でなくとも、良い主が見つかる」
「そんなに簡単なことじゃない。固有精霊に選ばれるっていうのは、そういうことだ……レオンは剣精を求めても手に入れられなかった。鎧精はあんたを選んだんだ、グラスゴール。一度力を借りたなら、見放すな。一緒に戦ってきたのなら、切り捨てるな」
鎧精は俺の言葉からグラスゴールを守るように、両手を広げる。だがその姿は極限まで薄れ、向こう側にいるグラスゴールが、片手で顔を覆う姿が見えていた。
「あんたは、自分が信じた道を貫いたんだ……グラスゴール。もしあんたが自分の罪を受け入れているんだとしても、最後までその意思を貫いてみせたらどうだ。何をしてでも、この国を守ろうとしたんだろ……?」
「それでも……ここで、終わらなくてはならない。私がすべきことは、全て終わった。ディック・シルバー……君がここに来たときに」
「――それがあんたの答えなら、そんなものを認めるわけにはいかない。俺に勝ったなら、好きにしてみせればいい。あんたはずっと、そうしてきたんだ……!」
このラトクリス魔王国で最強の存在。その孤独を、俺たちなら理解することができる。
しかし、やり方を間違えている。少なくとも俺たちは、『一人で』大切なことを決めてしまうことはない。ましてそれが、アルベインという国の行く末を決めることならば。
グラスゴールの翼が瞬く――破れた翼が輝き、残された最後の力を、その剣に収束させていく。
(魔力剣の物質化……それと同等のことを可能にしたのか。SSランク……鎧精の力を得れば、SSSランク。グラスゴール、大した武将だ……しかし……)
グラスゴールの剣が、高く澄んだ音を立てて振動する――そして白銀の剣を両手で構えると、彼女は殺意も何もなく、ただ真っ直ぐに俺を見た。
「参る……!」
「――来いっ!」
――『負荷解除・拘束解放』――
鎧精の音にならない声が聞こえた気がした。師匠とスフィアも叫んでいる――俺には時間が止まったように、全てが遅く見えている。
(……遠くに来すぎたのか。いや、俺は……)
全て、皆と共に戦っているからこそだ。皆がいてくれる限り、俺は俺のまま――同じ速度で、自分が行きたい方向へと進む。
「――はぁぁっ!」
「おぉっ……!」
裂帛の気合と共に、グラスゴールの剣が光の軌跡を残しながら振り下ろされる。
――『四翼剣・天魔掃滅』――
――『修羅斬影剣・四極裂閃』――
グラスゴールの剣は、翼の枚数だけ斬撃を重ねる――その読み通りに、四重の斬撃が同時に発生する。
アイリーンの拳術の中には、三つの質量を持つ分身を生み出し、本体と合わせて四種類の攻撃を同時に繰り出すというものがある。四極裂拳――『剛』『柔』『貫』『徹』の異なる打撃を打たれて、完全に返せる者などいない。
四重の剣戟による衝撃が空気を揺るがし、師匠がスフィアを守るために防御壁を張る――俺とグラスゴールは交錯してすれ違ったあと、いずれも動かない。
「ディー君……っ!」
「お父さん……!」
俺の戦闘服が破り裂ける――その直後に、グラスゴールの剣がその手を離れ、音を立てて転がった。
振り返ると、グラスゴールは無傷で立っているかに見えた。しかし、ふっと力なく微笑むと、口の端から血が伝う。
「……っ……あ……あぁ……っ!」
四重の斬撃は、グラスゴールの身体に威力を届かせていた――攻撃が実際の効果を現すまで、数秒の猶予が与えられただけだ。
グラスゴールはその場に膝を突くが、倒れ込むことはせず、両腕で身体を支えて荒く息をつく。
「……はぁっ、はぁっ……」
「……お父さん……」
スフィアの気持ちは分かっている。グラスゴールのしたことは決して許されない――だが、彼女は自ら死を選ぼうとしていて、スフィアはそれを望んでいない。
グラスゴールは顔を上げて、俺を見上げる。血を吐いてもなお、その美貌は寒気がするほどで、破れた翼も相まって天の使いか何かのように見える。
しかしその頬には朱が差し、苦痛を前には感情を殺すことができなくなる。今まで諦念ばかりを感じさせる態度をしていながら、本心は違っていた――そう思わざるを得なかった。
「ここで終わることが本望なのか? あんたがしようとしたことは、何もかもが間違っていたのか……? そう思っていないから、この遺跡を浮上させたんじゃないのか」
「……私は……何も成し得てなどいない。敗れるということは、正しくないということだ。敗者は死を以て消えなければならない」
「――そんなことありません! お父さんが今、何のためにグラスゴールさんに合わせた技を使ったのか、あなたなら分からないはずないです!」
スフィアは、俺のことをよく分かっている――そうするべきでないと迷いながら、俺はグラスゴールを殺すために剣を振るわなかった。
斬撃ではなく、打撃。剣の側面を使った峰打ち――それだけでもグラスゴールの技を返すことができる。それほどまでに、今の彼女の力は失われているのだ。
「……加減を……私は、残りの力を、全力で……っ」
「そうだとしても……俺は、あんたの思い通りにしてはやれない。グラスゴール……ラシウス王はあんたともう一度話がしたいと言っていた。処刑しようとした相手と会うなんて考えられないことかもしれないが、王はあんたが死ぬことは望んでない」
「っ……いつまで甘いことを……っ、ラシウスは、いつもそうやって日和見をしてきた! 私の力で守ってくれと言っておいて、私の訴えに耳を貸そうともせずに……っ」
「グラスゴール……貴女は、思いを共有して欲しかったんだよね。あの壁画を見たとき、ラシウス王にも、何かしなくてはいけないんだって思って欲しかった」
師匠がグラスゴールに歩み寄り、語りかける。グラスゴールは唇が震わせ、近寄るなと言うように腕を振り払う。
「私を憐れむのか……ラシウスが私を遠ざけたときのように、君たちは……っ」
「……この浮遊島には、他に二つある浮遊島の状態を察知する能力が備わっている。あんたはそれを見たからこそ、行動を起こした。この浮遊島について得ている知識は、今から俺たちが調べるよりずっと豊富なはずだ……そうだろ?」
「……何を……言って……私がいなくても、君たちならば……」
グラスゴールは師匠を見る――『遺された民』の特徴を知っていて、師匠がこの遺跡を造った人々に連なっていると察しているのだろう。
「……この遺跡がどうやって動いてるか説明してもらえば、動かすことはできると思う。でも、あなたがずっとこの遺跡を調べてきたのなら、私より分かることは多いはず」
「グラスゴールさん、もう終わりだなんて言わないでください。お父さんは、そうするためにここに来たんじゃないんです。あなたを、助けに来たんです」
「助けなど……救われていいわけがない、私は……私がしてきたことは……っ」
「ラトクリスの民は傷ついたが、その反面、あんたは守ろうともした。レオンとルガードは、魔族を食い物にしようとしていた……あんたは、俺たちがここに来るまでの時間を作ってくれた。全部が全部、間違ってたわけじゃない。それはこれまであんたを見てきた人たちや、俺が見たものから判断したことだ」
ラシウス王は、グラスゴールが叛意を起こした理由を理解していた。
ジナイーダ将軍を捕らえたことには、グラスゴールの私情もあっただろう。償うべき点は多いが、ここで彼女の望む通りにすれば、何もできなくなる。
俺が剣を鞘に納めると、グラスゴールは憔悴しきった様子で俺たちを見る。死ぬことで楽になれると思っている、そんな相手に生きろと言うのは、残酷なことなのかもしれない。
だが俺は、戦う前に全てが終わっていると思っていた。こうして剣を交えたのは、けじめをつけるという意味しかない。
「あんたはここで死にたいと言うが、俺たちがあんたに与える罰は生きてもらうことだ。ラトクリスに戻るまでは時間がかかるかもしれないが、いずれはラシウス王とも話すべきだと思う。俺たちはこの国にこれ以上干渉することはしない……ただ、どうしても独力で無理な困りごとがあるなら、その時は相談に乗らせてもらう」
「言ってなかったと思うけど、ディー君の裏の顔はアルベインのギルドマスターだから……あ、表の顔だった?」
「基本的には裏だな。いや、そんな冗談を言ってる場合じゃないんだが……」
「ギルド……マスター……なぜ、そんな地位に甘んじて……それだけの力を持ちながら……」
「それが俺の性に合ってるからってだけだが……あ、あまり呆れた目をしないでくれ。ギルドマスターをやってることすら、普段は人に言うことはないんだ」
ギルドマスターで呆れられるなら、俺は何をしていればいいのだろう。時期が来ればいつでも隠居したいのだが、なかなか状況が許してはくれない。
「……ディー君は、こういう人だから。ほんとは、あなたにも本当の名前なんて言わないで、全部こっそり終わらせて帰りたいくらいの人なの。目立ちたくないから」
「目立ちたくない……それだけの力を、そんな目的のために傾けて……」
「お父さんには、ちゃんとそうしたい理由があるんです。そうしてきたから、アルベインの国は今も平和です。これからもそうするために、目立たないように頑張るんです。私も、そのお手伝いができたらいいなって……」
俺の主義をここまで肯定されても逆に照れるのだが、娘が肯定してくれることを喜ばない親はいない――親馬鹿と言われても否定はできない。
「……まあ、そんなわけで。俺もあんたを断罪すべきだとか、そんな使命感だけでここに来たわけじゃないんだ。そして、まだ終わってもいない。フレイ、あんたにもこれから協力してもらいたいんだが……」
「……っ」
おそらく『グラスゴール』ではなく、『フレイ』の方が正式な個人の名前であるような気がしたので、それを口にしたのだが――思いがけないことが起こった。
「ど、どうした……? すまない、無神経だったか」
「……違うよ、ディー君。彼女は……」
顔を伏せたグラスゴールの頬に、涙が伝い落ちる。床に点々と涙が落ちて、俺は言葉を失う――名前を聞いたとはいえ、簡単に口にすべきではなかったのか。
しかし俺は、フレイという名前を名乗ったことが、彼女の遺言のように感じていた。それを否定するために戦ったようなものだ――名を聞いたあとも、生き続けて貰わなければならない。それが彼女にとって苦しく、ラトクリスの民の理解を得られるか、今は分からなくても。
師匠とスフィアが泣いているグラスゴールに歩み寄り、了解を得て傷の手当てを始める。彼女たちの少し後ろに、かすかに鎧精が姿を現す――だが、見守るだけで、何かをしようとすることはなかった。
グラスゴールとの戦いは、これで終わった。ラトクリス魔王国の動乱は終結に向かうが、やらなければならないことが新しくできてしまった――しかし、今は。
『銀の水瓶亭』は、俺が居なくてもしっかりやれているだろうか。もちろん信頼はしているが、あの懐かしい酒場に戻って仲間たちの顔を見たい。そう、心から思った。
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