第126話 光剣の勇者と幻魔の罠
誰にも見咎められずに河を渡り終えたあと。僕のいる場所からも、『混成獣』の巨大な姿が北の方角に見えていた。
アイリーンが前に出ていた敵将の一団を壊滅させて、さらにおよそ八千という敵兵たちに向かって斬り込んでいく。僕も加勢すべきかと思ったけれど、今は役割を果たすことに集中しなくてはと迷いを振り切り、走り続けた。
(あの混成獣が現れたとき、野営地から伝令が出された。つまり、指揮官は野営地に残っている……罠の可能性はある。しかしグラスゴールが来ているのなら、首魁を倒す好機が、この段階で訪れる……!)
僕の兄たちと手を結び、国を裏切った将軍。全ての元凶とも言える存在。
ディックは僕と兄が戦うことを望まなかった。その代わりに、兄に鎧精を与えた者と戦えるようにと、この任務を与えてくれた。
けれど兄が望んで共謀し、この国を奪おうとした事実は変わらない。
僕が戦うのは、兄を唆した相手を罰したいからではない。ただ、この国を元に戻したいというだけだ。
伝令が戻っていった、遠目に見ても精緻な造りをした幕舎。兵のいないがらんどうな野営地の中を駆け抜けて、僕は幕を斬り裂いて中に踏み込む。
「貴様、何を……ぐぁっ!」
中にいた兵が剣で斬りかかってくる――なかなかの使い手ではあったけれど、回避して側頭部を裏拳で打ち、意識を刈り取る。
天幕中央の薄い部分から、薄暗い幕舎の中に光が差し込んでいる。
魔族の年齢は、容姿からは推測できない。人族で言うならば、僕と同じか、少し上か――将軍という地位から想像していた姿とは、およそ遠いものだった。
線が細く、女性のような顔立ち。身につけた鎧の肩当てが大きく張り出しているが、その身体は屈強という言葉からは程遠い。むしろ、線が細く見えるほどだった。
(魔族は種族によって、中性的な容姿の者もいる……それにしても、あまりに……メルメアが言葉に迷っていたのは、こういうことだったのか)
「Aランクの近衛兵でも、まるで相手にならない。力の片鱗すら見せずに倒してしまう……それでこそ、SSSランクということか」
「……そんな話をするために来たんじゃない。貴方が、グラスゴール将軍か」
「『光剣の勇者』殿に名前が届いているとは光栄だな。レオンの妹、コーデリア……兄上とはあまり似ていないのだね。彼と比べると、君には陽の光がよく似合う」
「兄を味方に引き入れて、この国を奪っておいてよく言う……もう、貴方がたの企みは終わりだ。僕が貴方を討ち取ることで、終わらせる……!」
僕が光剣を手にしている以上、いつ戦いが始まってもおかしくはない。
――それでもグラスゴールは動じない。僕は彼の瞳の色が、左右で異なっていることに気がついた。
右の瞳は、紫水晶のような色。左の瞳は――漆黒。
(何かが、おかしい……あの、黒い眼……)
見続けてはならないという不吉さを感じていたのに、その漆黒の眼に何かの紋様が浮かびあがるまで、僕は自らの目に映してしまった。
「っ……!」
遅いと分かっていながら、光剣を振り抜く以外の選択肢はなかった。僕の剣はグラスゴールを鎧ごと切り裂く――だが、全く手応えを感じない。
「私の二つ名を聞いてはいなかったかな。『幻魔のグラスゴール』……私の力の一側面は、剣や攻撃魔法に基づくものではない」
「――っ!」
すぐ後ろから、声が聞こえる――振り返りざまに剣を振り抜く、けれどそこにも誰の姿もない。
「この幕舎の中……そのものが、幻術……?」
グラスゴールはいつの間にか目の前にいる。腕を組んだまま、笑みを浮かべて僕を見ている――どこまでの余裕か、慈愛じみたものを、生気のある右目に宿して。
「くっ……うぁ……!」
急速に、全身の力が抜ける。魔法による麻痺――それとも異なる、強制的な断絶。僕の意識と、身体の感覚が切り離されているのだ。
「効いてきたようだね。立っているなど到底できないはずだが……わずかでも抵抗に成功したのか。これは、とても興味深い」
(まさか……魔眼……いや、そんなわけはない。僕も魔法に抵抗することはできる……それが、こうもたやすく……!)
グラスゴールの左眼は、生まれ持ったものではないように見えた――左目だけが、後から魔眼に変えられたようだった。すでに役目は終えたとばかりに魔眼に手をかざすと、紋様が消えて元の瞳に戻る。
「SSSランクといえど、抵抗のできない種類の力はある。その一つが、未知の魔道具……遺跡迷宮から発掘されるようなものは、今の魔法技術をはるかに超えた力を持っていることがある。私の左眼のようにね」
グラスゴールが何を言っているのか、途中から理解できなくなっていく。水の中に身体も意識も沈み込むようで、自分が立っているのか、目を開けているのかどうかもわからなくなる。
「君が迂闊だったのではない。私もまだ死ぬわけにはいかないというだけだ」
深く、どこまでも深く。幻の水底に、何もかもがゆっくりと沈んでいく――。
◆◇◆
いつからか、僕はひどく懐かしい光景の中にいた。
鎧や防具の類は、身に付けていない。僕は女性としての装いをして、ゆるやかな坂を登っていく。
空はよく晴れていた。短い草に覆われた丘に上がって、僕はそこで待っている人物を見つける。
風が吹いて、髪が揺れる。僕はいつも結んでいる髪を解いていた。
自分がどんな姿をしているのか。ずっと男性として振る舞ってきた僕が、決して彼に見せることなど無い姿――。
「……ディック」
名前を呼ぶと、ディックは振り返る。そしてバツが悪そうに、頬をかく――いや。
きっと彼は、照れている。僕に見せるはずのなかった表情が、そこにある。
「これがコーディの故郷か。なかなか静かでいいところだな」
「そう言ってもらえて良かった。でも……」
僕は兄のことを両親に報告するために、ディックと共に王都を離れた。
ラトクリスの動乱は、グラスゴールとメルメア王女が和議を結ぶことで終結した。グラスゴールは、侵入してきた兄とルガードから国を守るために、反逆者を装って兄たちと結んだように見せかけ、彼らを倒そうとしたのだ。
グラスゴールのその弁明を、僕は理解して受け入れたはずだ。
そうでなければ、僕はディックとここに来ることは――。
「……あ……っ」
急に目が眩んで、僕はふらついてしまう。普段なら、こんなことは決してないのに。
まして、ディックに受け止めてもらうことなんて絶対にない。それなのに僕は、彼の腕に受け止められることを、自分に許してしまっていた。
「……あまり無理するな。やっぱり、俺が伝えるべきだったな」
少しずつ、今目に見えているものが、かりそめの光景だという思いが薄れていく。
騎士団長の位を返上し、ディックに守られて――そうして、もっとスフィアの母親らしく振る舞うことができたら。
いつかディックも、コーデリアとしての僕を見てくれるかもしれない。他のみんなには、僕は女性として全く及ばない。そう思うのに、願ってしまう。
「なあ、コーディ。これから王都に戻らずに、二人で旅に出ないか」
「……二人で……どうして急に、そんな……」
「魔王討伐の旅をしてるとき、俺はコーディのことを男だと思ってただろ。そのおかげで、俺はおまえといるときだけは、気持ちが楽になったんだ。だからもう一度旅に出るとしたら、二人がいいと思ってた」
――それは、僕の心の端にあった、どうしようもなく狭小な部分。
他の女性にディックを取られたくなかった。彼の友人として、とりとめもない話ができる、そんな関係を続けていたかった。
自分のことを、少しでも構わないから、特別な存在だと思っていてほしかった。
「剣の鍛錬をしてる時に、気づいたんだ。コーディが男だったら、俺はずっと親友でいたいと思ってただろう。でも、そうじゃない」
絶対に叶うことのない願いだった。
僕はそう自分に言い聞かせて、自分の気持ちをごまかして、ディックに選ばれないことは当然のことなんだと思おうとした。
鎧を着て、剣を振るい、男性として騎士団長を務めて――それでも、家に戻って鏡を見るたびに確かめざるを得なかった。
僕が男性を演じていられる時間は、もう長く残ってはいないのだということを。
そうなったとき、僕はどうすればいいのかと思った。国を守る務めを果たすために、まだ同じ立場で有り続けたいと願っても、時間切れはいずれ訪れてしまう。
「……騎士団長の位は、誰かに譲ることになるかもしれないが。俺たちにとって、今の時間は二度と取り返せない。これ以上待てば、ずっと踏み切れなくなる」
彼がそう言ってくれるのなら。僕を女性として見て、連れていきたいと思ってくれるのなら。
どこまででも一緒に行きたい。ディックが見たいと思うものを見て、心のままに好きなことを追い求める姿をそばで見ていたい。
「答えが決まったら、教えてくれ。俺と一緒に来てくれるか……?」
「……僕は……」
答えようとした。行きたいと、そう言おうとした。
けれど、最後の最後に喉が震えた。声が出なくなって、僕は息の仕方も忘れてしまう。
答えてしまえば、大切なものを失う。僕が僕であるために必要なもの――それは。
ディックが、ディックであるためにも、必要なものであるはずだから。
「……僕たちは、パーティだ。魔王討伐隊は、二人だけじゃ成り立たない」
胸がどれだけ苦しくても、その言葉は僕の本音として、震えずに言い切れた。
「……そうか。それが、コーディの答えなんだな」
ディックの声が冷たく、別人のもののように変化する。
そして僕の目に映る故郷の風景が、灰色に変わる。ディックの姿は忽然と消えて、僕は一人残されて――どこに行けばいいのかも、分からない。
こんな世界からずっと戻れなければ、どうなってしまうのか。悪い想像ばかりが広がり、なりふり構わずに助けを求めたいという衝動が生まれる。
しかしそうすれば、幻術に屈することになる。この焦燥感も、グラスゴールが作り出した幻だ――叫んでしまえば、それだけ精神をすり減らすことになる。
「……これが、幻魔のやり方か……っ」
答えは返ってこない。灰色の世界は理由のない焦燥を煽り、怒り、悲しみ、寂しさ――あらゆる感情が胸の中で暴れている。
――とても、抑えきれない。灰色の草原を当てもなく、転がるように走りながら、怒りを吐き出さずにいられなくなる。
「それだけは、決してしてはいけなかったんだ……ディックの言葉を偽ることだけは……っ!」
自分でも分かっていた。泣き言を言っているだけだということは。
あの偽りのディックを作り出したのは、僕自身でもあった。
僕は兄のことだけで、パーティの平衡を保つために男装をしたわけじゃない。
――ディックとパーティを組むまでに。彼という人物の人となりを見て、生まれて初めて思った。
男性にも、信頼することができる人がいる。彼のことを決して異性として意識しないように、僕は男装を解くこともできたのに、ずっと続けることを選んだ。
女性としてディックの前に立てば、隠せなくなってしまう。僕が彼をどう思っているかが伝われば、彼を困らせるだけだ――ずっと、友達だと言ってきたんだから。
「……それは、嘘じゃない。友達でもいい……何も、寂しいなんて思わない」
今からでもディックについていけと声がする。でもそれは、偽りのものだ。
それがどれだけ夢見たことでも、僕は手を伸ばさない。
「僕は本当のディックを、決して裏切ったりしない……っ!」
幻術の中から戻れないまま、グラスゴールに殺されてしまうかもしれない――だが、何の抵抗もせずには終われない。
最後まで足掻く。そう誓った瞬間に――色のなかった世界の青空が、まるでガラスが割れるように砕ける。
幻の空も、草原も、全てが闇に消える。けれど僕は、何も不安には思わなかった。
『――コーディッ!』
誰かが僕を引き戻してくれる。彼が呼ぶ声がして、僕は同じように、彼の名前を呼び返した。
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