第98話 親子の会話と師匠の迫力
イリーナとメルメアは黒竜に乗ってエルセインに帰っていった。後は、『エルフ酒』がちゃんと効果を発揮し、ジュリアスの黒竜を解毒できれば問題はない。
「メルメアさんは、ヴェルお母さんに帰ってきてほしいんだね。お母さんの弟さんって、そんなにだめな王様なのかな?」
(ヴェルレーヌに対する憧れが大きかったんだろうな。幼い頃に会って助けてもらったことをずっと覚えていたら、それが理想の魔王の姿だと思うのも無理はない。ヴェルレーヌは弟を信頼してたし、自立を促すために国を出たんだと思うが……)
「……お父さんは、私のこと、しっかりしてほしいからって、離れていったりしない?」
(しないぞ)
「そ、そんなにすぐ答えないで、もっとしっかり考えて」
(ははは……むしろスフィアが大人になって、広い世界を見たくなったりして、俺のとこから離れていきたくなる日が来るかもしれない。それは、俺やみんなのことが嫌いになったからとかじゃなくてな)
「そんなことないよ。私はお父さんと一緒にいるのが一番楽しいんだもん」
(そうか。じゃあ、何も心配する必要はないみたいだな)
「……うん。お父さん、ごめんなさい。変なこと聞いたりして」
ヴェルレーヌが出奔したあと、エルセインの人々がどれだけ彼女の不在を惜しんだか。
スフィアはそれを想像して胸を痛めたのだろう。
――俺も、師匠から離れたことがある。もしスフィアがその記憶を少しでも引き継いでいるなら、心配するのも無理はない。
(じゃあ、約束するか。俺はどこに行かないし、スフィアもそうするんだ)
自分に子供ができるなんて想像もしたことがなかったし、どんな親になるのかを考えたこともなかった。
俺は、過保護な親でいい。スフィアが成長しても、彼女が望まない限りは手元から離そうとは思わない。
人工精霊だからではなく、こうして彼女に宿っているから、どれだけ俺たちを慕っているのかが理解できるからだ。
それこそ俺を含め、誰一人として欠けてはならないというほどに。
「私はどこにも行かない。ずっと、お父さんの傍にいたい」
(……スフィア?)
――スフィアの瞳から、涙がこぼれた。彼女の視界を借りてしか外界を認識できない俺は、スフィアがどんな顔をしているのかが分からない。
「あ……ううん、何でもない。ねえお父さん、帰ったらもうお父さんの身体、元気になってるかな?」
(どうだろうな……聞いてみないと分からないが。そろそろだと思いたいところだ)
俺たちの会話に呼応して、バニングがグルル、と唸り声を上げる。威嚇ではなく、ただ喉を鳴らしただけでも低すぎて迫力を感じるだけだ。
「バニングさん、明日は頑張ろうね」
バニングの首を撫でてスフィアが言う。生まれたばかりで大役を任せることになってしまったが、明日の皆の反応はどうなるのだろう。
国王、貴族、エルセインからの観戦者――六魔公も来る可能性がある。明日のことが楽しみなようで、親として心配でもあり、実に複雑な気分だ。
◆◇◆
『銀の水瓶亭』に帰ってくると、今日もいつもと違う面子で切り盛りされていた。
「おまたせしましたー! ご注文のお品になります!」
「あれ、新しい店員さん? 常連さんじゃなかったっけ?」
「今日はお手伝いで入らせてもらいました。ゆっくり楽しんでいってくださいねー」
アイリーンはその卓越したバランス感覚で、腕全体を使って料理を運んでいる。頭の上にまで酒が乗っている――曲芸師でもなかなかできない芸当だろう。
熱い料理も何のそので、魔力を練って熱を遮断している。故郷の村が火山の近くにあるので、熱さには強いらしいのだが。
「あ……あぁぁ~!?」
(なんて声を出してるんだ……仕事中に)
「あのね、アイお母さん。お父さんが、店員さんの服がすごく似合うって」
「ほぁ!? そ、それは、スフィアちゃんに言われるのも嬉しいけど、直接言ってもらった方が嬉しいっていうかね? でもそんなことより、おかえり~。よしよし、かわいいかわいい」
「ふぁ……お、お母さん、みんなの前だと恥ずかしい……」
アイリーンは何だかんだ言ってスフィアを捕獲し、正面から抱きしめてくる。それを見て、スフィアの親であるみんなが次々と集まってくる――師匠とユマは姿が見えないが、他の五人が店を手伝ってくれていた。
「……スカートが短すぎて恥ずかしい。ディ……あの人がいるのに……」
シェリーは長い髪を仕事中はリボンで結っている。そしていつもの服より体型が強調され、近づいてこられると思わず意識させられてしまう。
「ごめんなさい、私が長いスカートの制服を取ってしまったから、短いものしか残っていなくて」
「う、ううん……大丈夫。私こそ、急に手伝わせてもらったから……」
前はマナリナが着ていたロングスカートの制服は、ミラルカが着ている。ではコーディはというと、俺の制服を着こなしていた。袖が余るのか、折ってピンで留めているが。
「コーディおか……コーディお兄さん、お父さんが手伝ってくれてありがとうって言ってます」
「うん、僕こそありがとう。一度、酒場の仕事をしてみたかったんだ。さっきまでカウンターで飲んだりもしていたよ。誰かさんみたいにね」
(楽しんでくれてるなら何よりだが……真似をされるのは、微妙に恥ずかしいぞ)
「僕はいつも君の真似をしてるじゃないか。今さら言うのもなんだけどね」
男としての振る舞いという意味では、俺のことを参考にしてきたというのは分かっている。
だが女性と分かった今もそれを続けるというのは、無性に照れるものがある。コーディは楽しそうに笑うと、接客に向かう――腕のリーチは俺の方が長いが、コーディは足がすらっと長いのでズボンの丈があまり余らず、ウェイターの服装がさまになっている。
「店員さーん、オーダーお願いします」
「はい、少々お待ちください。それじゃ、行ってくるよ。また後でね、スフィアちゃん」
「はい! 私、みんなとお話しながら待ってます」
コーディはスフィアの頭を撫でてから、女性客の元に向かう。こんなに人気があると、コーディがいるかいないかで女性客の入りが変わりそうだ。
ミラルカとアイリーンも呼ばれてオーダーを取りに行く。残ったシェリーはスフィアを前にして遠慮がちにしていたが、スフィアの方から抱きついた――ちょうど顔のところに胸が来るような身長差なので、俺は意識を無にせざるを得なくなる。
「……おかえり。お父さんと一緒で、楽しかった?」
「凄く楽しかったです。いっぱい冒険もしたので、後でお話してもいいですか?」
「うん……私も聞きたい。今日は、ロッテに遅くなるって言ってきたから……」
姉の不在にギルドを切り盛りするロッテ――彼女も大変そうなので、また機会があったら労いの機会を設けたい。
ヴェルレーヌもそろそろ仕事に戻らなければならないが、その前にスフィアの前で膝を曲げて屈み、耳打ちをしてきた。
「スフィアのために明日の壮行会を開こうと思って、待っていたのだ。その前に、まずリムセリット殿に食事を持っていってもらえるか。ご主人様の傍につきっきりで、食事を摂れていないのでな」
「はい、分かりました。リムお母さん、食べなくても平気って言ってたけど心配です」
厨房でハレ姐さんから夕食の乗ったトレイを受け取り、二階に上がる。師匠は肉をあまり食べないので野菜や穀類を使ったメニューだが、ハレ姐さんの工夫で食べごたえのある内容に仕上がり、香辛料の食欲をそそる香りがする。これなら力がつきそうだ。
「お父さん、リムお母さんに外に出てきてもらっても大丈夫かな?」
(この建物内なら、俺に対する術式は維持できるって言ってたから大丈夫だろう)
居間のテーブルにトレイを置いて、スフィアは寝室に近づく――前は気配を消して近づいたが、どうも寝室に近づくのは緊張させられる。
そんなことを考えていて、気づくのが遅れた。寝室のドアが少し開いている。
(っ……待て、スフィア、一応開いててもノックを……!)
「「え……?」」
慌てて止めたときには、もうドアが開いていて――中にいた師匠の姿が、しっかり目に入る。
なぜそうなったのか、全く理解ができない。いや、考えてみれば分かるのだろうが、今は理解してはいけない。
端的に言うと、師匠はシャツ一枚だけを着ていた――そして、なぜかちょうど、下着を脱ごうとするところだった。
シャツの前のボタンが全部開いていて、少し動くだけで危険な、予断の許されない状況になっている。
「……お、お母さん、ごはんできたから、こっちで食べませんか?」
「……う、うん。ありがとう、スフィアちゃん」
(よ、よし。ちゃんと呼んだから、何事もなかったように、俺たちは撤退を……)
そんなふうに何事もなかったように振る舞おうなどと、許されるわけもなく。後ろからすっとスフィアの肩に手をかけられる。
「ディー君、後でちょっとお話していい? 大事な話があるから」
「あ、あの……お父さんのこと、怒りませんか?」
スフィアが心配そうに聞くと、師匠はシャツの前を引き寄せて隠しつつ言った。
「スフィアちゃん、ディー君はどんなこと考えてる? それを教えてくれたら、私はそれでいいかなって」
(や、やめてくれ……俺の感想を娘に語らせないでくれ……!)
(言っちゃだめなの? お父さん、お母さんのこときれいって思ってるのに)
そんなことより、師匠にはシャツの下に何か穿いて欲しい。脱ぎかけていたのであって、脱いでないのでまだいいが、少しタイミングが遅れたら致命的だった。
おそらく魔力の供与をするときに邪魔になる服を脱いだのだろう――しかし今の師匠には、そのことに関して全く質問を許さない迫力があった。