刑事と少年と
いつものように、タイヘイと登校する、曇り空の下。
タイヘイは、いつ見ても、不抜けた顔をしている太平天国だ。
そして、根性坂を登っている。
殴られてあんな目にあったというのに、今日も玲子さんのスカートの中を覗こうと画策している。といっても、昨日家であんなことが起こった後だから、今日はきっと学校に来られないだろう。
「今日も覗くつもり? 散々酷い目にあったっていうのに」
「うるさいでごわす!! あちきの一日は、玲子殿の麗しきヒップを見ないことには、画竜点睛を欠くのでごわす」
タイヘイは腕時計を確認した。ここにいるのはいつもと同じ時間だった。
「おかしいでごわすね? いつもなら、この時間には前方を歩いている時間でごわすのに」
と話しているときに、突然、後ろから声を掛けられる。いつも、後ろからストーキングするのは慣れているが、逆に後ろから声を掛けられたら驚いてしまう。
「二人とも、この間は、ごめんね、よってたかって殴らせるっていうのは人間の行いでは無かったわね」
と言ったのは、玲子先輩だった。今日も綺麗だが、やつれている。目の下にクマが出来ている、寝れなかったのだろうか。疲れているはずなのによく学校に来れるものだ。
「え、いえ、別に気にしていないでごわす、もういいでごわすすよ!」
タイヘイは、鼻息を荒く。ブフォッブフォオッ、といっている。もはや、人語を解さなくなった獣のごとき。まだ希望を持っているのだろう、ここまで情熱的だと、いっそすがすがしいほど涙ぐましい。
「それと、マサキくん」
じっと、こちらを見つめてきて、少しずつこちらに近づいてくる。そして、大胆に体を寄せて来る。
うおおおあおあおおお?
「もう、助けてくれて、ありがとうね?」
「え、え、あうあう、おう?」
僕は予想外のことで、ゴリラみたいに喋ってしまう。というか、言葉にならない。
「おかげで、お父さん、死なないですんだわ。ありがとう」
「……それは良かった…ですね」
「ピンチのときに助けてくれた、王子様。ふふっ、私、正樹くんのこともっと良く知りたくなっちゃったなあ~、なんて」
今、自分で言ったことに照れてしまったかのように、頬を上気させ、上目づかいで見上げて来る。
「え、えええ?」
凄まじい態度の変わりように、僕はただただ、驚くしかない。
「じゃあまたね」
そして、たたっと坂を駆け上がった。丈の短いスカートが危なげに扇情的に揺れている。タイヘイはしかし、そのスカートの中を覗こうとせずに、ぶるぶると震えてこちらを見ていた。
「なんでごわすか! お父さんがどうとか一体どういうことでごわすか!!」
「え、ええ? 僕もちょっとわかんないんだけど」
半分本当。
「白々しいでごわす! いつの間に抜け駆けでごわすか、この男恐ろしいでごわす、自分は何かにつけて勉強に専念しているふりをして、油断させといて、裏で何をやっているかと言えば! ふんでごわす」
そして、そのまま、僕を置いて、坂を駆け上がって行ってしまった。
タイヘイ、泣いてたな……。
そして、軽快なカスミさんのランニングの音が聞こえてくる。心なしかいつもより、激しいようにも聞こえるが気のせいかな。毎朝の心の癒し、天使の足音が、たたたたっ、と僕の横をそのまま通り過ぎていった。
「正樹くん、ちょっと来て」
授業中に、にゅっと、教室の前の扉から顔を出したのは、担任の美優先生だった。
なんだろう、と思った。廊下に僕が出て行くと、妙に緊張した面持ちで、僕を相談室1に連れていく。
「先生は、正樹くんのこと信じているからね」
と、意味深なことを言い残して、僕をこの中に入るように促した。この担任は熱血な先生だが、その先生にこんなセリフを吐かせるとは一体どういうことなのだろうか。自然に背筋が強張る。
さて、入るぞ。
あれちょっと待て、入る時のノックの回数は何回だったっけ? 三回でいいっけ?
コンコンコン
と三回ノックして相談室に入る。
そこには、二人の人がいた、どちらもうちの高校の教師ではない。一人は恐ろしく顔色が悪い男の人で、もう一人は栗色の髪の毛をしている女の人だった。
「どうぞ、座ってください」
と女の人が行ったので、机を挟んで向かいあわせになるように座った。
「私たちは警察です。事情聴取に参りました。心当たりはありますか?」
来たか! そりゃそうか……、玲子先輩は僕の顔をしっかりとみていたのだから。
ここで嘘を言ってもしょうがない、昨日の晩のことだろう、聞かれて困ることはしていない、しかし、どう答えるのがいいのやら。
「はい、そうですね、あります」
沈黙が訪れた。
「単刀直入に聞きましょう、あなたが鏑木玲子の父親を助けたんですね?」
「……」
確かにそうなのだが、それを全部説明しきる自信は無い、信じてもらえるだろうか。
「君、外食するときは、何を、食べるかね?」
隣の顔色の悪い男が、口を開いた。急に話題が飛び過ぎている、緊張をほぐすためのどうでもいい質問なのだろうか。
「ラーメン……ですかね」
「ほう、何味だい?」
「ゆずこしょう、ですけど」
「はい、どうもありがとう、決定、君だね、三条くん、続き、よろしく」
今の質問に、なんの意味があったのだろう。しかし、何かの言質をとられたようだ。小刻みに首がかくかくと動いているのが不気味だ。
「正直に話してくれれば何も問題はありません。正樹くん。そして、その話がどんなに突飛な話だろうと我々はそれを信じます。そうですね、先に我々が手の内を少し晒しましょうか。私達が所属している警視庁の公安部に属する第三科特対犯罪職務局は、平安時代の陰陽寮まで時代を遡ることが出来る組織です」
また雰囲気を和やかにするための冗談かと思ったけれど、隣の男は、全く笑っていない。二人とも本気なのか?
「基本的に国を鬼から守るために活動をする部署です」
本気だ、自然に反論が口をついて出る。
「まさか、そんな冗談でしょう? こんな現代にそんな鬼とか言われて信じれるわけがないじゃないですか、鬼なんてどこにいるというんですか」
「鬼は過去五百年間現れてはいません。戦国時代に突入するとき、直接世の中を乱世に変えてしまったのが現状最後の鬼の出現ですね」
「そんな馬鹿な……」
「そういうわけです、そしてそれは本当なのです。ですから、正直にお話しください、突飛な話を信じる器は持ち合わせているつもりですので」
世界はそんなに理不尽なのか?
まさか、そんな? いや、でも自分の経験したことを考えるとそれくらいのことがあってもおかしくはない。
しかし、大多数の高校生ならもうとっくに卒業しているようなどんな稚拙なオカルト話よりも、断トツで突飛なこの話が真実なのか。
前に座る二人の刑事の雰囲気に気おされて、僕は信じるしかなかった。
僕はありのままに話すことにした。悲鳴が聞こえて駆け付けたこと、体を縛った縄、そして、自分の変身……。
話していて、結構恥ずかしくなる。
「あなたたちはこの話を信じられますか? 僕がそのアルバム集を持って叫ぶと変身したなんて」
「ええ、勿論信じます。そういう不思議なことは君が思っているよりは良くあることなのです。人は誰しも潜在的に超常的な力を持っている。そして、それが、人生の転機、或いは、一念発起、とにかくなんらかの理由によって感情の爆発が起きた時とともに解放され、その人の一番大事なものを作り替える。そうして、マジックアイテムが生まれるのです。君はアルバムが変身アイテムになったと言いましたね、そして使い方を何故か知っている、と。それはそういうことなのです。その力は無意識下のうちにではありますが正樹君が自分で作ったから、その使い方を知っているのです」
「そういうわけだ、何か質問は、あるかい? 正樹くん、君の言いたいことは、わかるよ? あれだろう? 不思議な力を、宿した道具だからって、マジックアイテムというネーミングは、安直すぎるとか、そう思っているんだろ?」
「いえ、思っていませんけど」
「ほら、ライトノベルとかで、漢字に、かっちょいいルビがついている、ような奴とは、なんか違うな、なんてさ、ほら、思うだろ?」
「いえ、別に思っていませんけど」
なんなんだろうか、この人は、妙なところでスイッチが入ってテンションがおかしくなる人みたいだ。
「いや、わかるんだ、警察ってほら、ネーミングセンス、おかしいんだ。お役所仕事は、本当に、頭が固いんだ。例えば、歩行者用信号機の青信号は、さ、正式には『人の形の記号を有する青信号』って言うんだぜ? 誰も、言わないよな、そう考えると、まだましだろ。マジックアイテムって名」
僕の言ったことにおかまいなくどんどんしゃべる刑事だった。青白い顔色の割に意外と活発だ……。
「先輩も警察でしょうが身内の悪口はよくないですよ……。この人のことはお気になさらずに、正樹くん、事情聴取は終了しました、どうもありがとうございました」
この女の人も、きっと苦労しているのだろう。
そうして、僕は相談室一を後にした。
今日は天気が悪く、湿度が高い。
今日の僕の髪の毛はあいにくすさまじい天然パーマ具合で、クラスの女子が僕を陰毛頭と馬鹿にしている。
その女子達の悪口を顔を赤くしながらたしなめているカスミさんはやはり優しい。下ネタに耐性もないのだろう。
その姿に僕は満足して、弁当を持って教室を出た。
今日は、図書委員長と二人きりでご飯を食べる。
タイヘイが今僕にご立腹で、一緒にご飯を食べる気はしないのだという。まぁ、誤解もそのうち晴れるだろう。
今日は図書委員長のうんちくを聞きながらご飯を食べる。
図書委員長の体は相変わらず、まぁ率直にいって大きい。バトル漫画だったら、急速に一時的に痩せて力を発揮するとかそういうこともあるかもしれないが、図書委員長は僕が初めて見た時からずっと細くないままで、つまりそういう力はないのだ、そりゃそうだ。
「今や、世界的に差別は撤廃する方向に進んでいるのだ。ポリティカルコレクトネスという言葉が何十年か前に流行り出した。差別や偏見が含まれない言葉を使おうという概念だ。その影響で例えば、有名なところでは、police manを、police officerと呼ぶようになったりしている。女性でもなれる職業名に、manを付けているのは女性差別にあたる、というわけだ」
「へぇえ」
僕は、今日の弁当のレッドホットチキンをかみちぎりながら、一つ疑問に思ったことを口に出した。
「日本でもそういうのってあるのかい?」
「そうだねもちろんある。例えば、看護婦っていう言葉は今や死語で、今じゃ看護師っていうほうが正確だな」
「そうか……、うーん、ところで、少年院っていうのあるよね。少年院って言っても、女の子も入ると思うんだけど、あれは差別用語にはならないの?」
「少年っていう言葉を辞書で引いてみると良い。少年は、年若い人のことを指すから、女子も男子も含めた言葉なんだ。だから、差別にはならないよ」
「そうだったんだ」
ごくん、と僕は、水筒のお茶を飲んだ。
今日の六限目は、全校集会があった。
月に一回、つまらない話を聞くだけで潰れる一時間なのだが、今日は少しばかり違うようだった。
校長先生が、登壇して、国旗に向かって一例をする。
そして、マイクの前に立ち、もたもたとマイクの位置をなおす。マイクをやたら直すので、校長船影はマイク直し男と呼ばれている。
「最近、ここの地域を中心にして、奇妙な新興宗教が勧誘をしているようだが、君達は断じて誘いに乗らないように。人目のつかないところで断りにくくして、無理に勧誘するということも聞いているので、皆は気を付けるように、最近物騒な事件も多いし、それもこの件と全く関係が無いとは言えないのだから、こころするように」
これまた、困ったことになった。しかし、うちの宗教が無理やり勧誘しているなんて事実があるのだろうか。
うちの宗教は、この間の朝のデモ以来面倒事は起こっていない。うまく父親がガス抜きをしているようだ。信者の中に、成長した姿派と、幼かった頃派で別れて、各々が互いに競い合ってガス抜きになっているから、それが上の方に文句がいかないようになっているのだ。
問題を起こしているのはうちの宗教ではないような気がする。
いや、そういうことではない。親をまともな職業につけなければ……。宗教の教祖なんてまともじゃない職業はやめさせなければ、もっと普通で良い。早く普通の職業につけなければ。
その日の調査を終えてホテルの駐車場に車を止めて、セダンから二人が降りる。
「三条くん、君は、どこが一番怪しい、と睨んでいる?」
「そうですね、ヤクザよりも、やはり、ダントツで宗教ですね」
「オレも、そう、思う、神秘に近づこうとする、サイコで、カルトな奴らが、近くにいるはずだ」
「調べはおおかたついています。一応もう一度言っておきますが、ここの近辺で流行っているのは、一つ、娑喜光教と、古参の新興宗教白蛇水教の二つです」
「古い、新興宗教って、ふふ」
「言葉の定義上仕方がありません、笑わないでください。百年経ってても、新興宗教の定義です」
二人が話しているときだった。
しゅるしゅるしゅるしゅるしゅるしゅるしゅるしゅる
「お前たちはぁ、『動けない、自縄自縛』」
そのとき、縄が、二人の足元の地面から上へ、上へと湧き上がり、絡みつく。すぐさま、二人は縄にからめとられる。
駐車場には、水銀灯が二本立っているだけで、酷く暗い。
その中から突然、湧き上がるように影が立つ。
「むっ?」
「最近、お前ら、余計なことをかぎまわっているらしいなあぁああああああああ! うぉおおおい!」
体中に縄を巻き付けて白い夜叉の面を付けた少年が現れる。二人が調査していた通りの風貌だ。
「はじめましてと、さようならだあぁああ! ご苦労様でしたぁあ!! あはははああああああ」
「お前の、アイテムは、その縄か? 怨念が、こもっていそうだ」
「へえ? よく、わかるじゃねえか、無念をとどめた首つり縄、宿っているぜ、この、絶望、ひしひしと感じるだろう? お前を縛っているのは、お前たちのォオ、絶望の具現だ!」
「なるほど、縄に込められ、発現している力の一つは、まずそれか、有用そうだ、普通の、人間なら、行動不能だろう」
こいつがくだんの犯人である、と安倍は確信した。
奴が持っている力は、それだけではないはずだ。自分達の体を縛っているのは単なる幻だ。動きを止めることは出来ても、殺傷能力はない。
実際に、あの屋敷で男達を殺したような力が別にある。あの縄にその能力も備わっているか、或いは奴が攻撃用の別のマジックアイテムを保有しているか、そのどちらかだ。
「おいおいおいおいおい!! もっと泣きわめけよぉぉおこらぁああ、ひゃははっ!」
「馬鹿笑い、しやがって」
安倍は、縄がまるで存在しないかのように軽く振りほどくと、何事もなく歩き始めた。
「何っ、てめぇ、どうしてこの拘束が効かない」
少年の焦った声色が駐車場に響き渡る。
「オレ達みたいな、狂気に、片足突っ込んで、マジックアイテムを、生成した人間には、ちんけな、精神干渉系の力は、効かない、お前は、アイテム持ちとの、戦闘経験が、全然足りてないな、知らなかったかな?」
安倍は、トレンチコートを風になびかせながら、首を小刻みに揺らしている。
「さて、三条クン、こいつが、例の犯人だ。さっさと片付けて、オレの車の車検に行こうか」
すたすたと安倍は歩き始めた。
「先輩!! すみません、私動けません!」
「ああ、君は、本当に、常識人だ、効いてしまうのか……。三条クン、ちょっと、待ってろ、すぐ助ける、と言っても、それは、物理的な拘束ではないからな、手でほどく、というわけにはいかん、アイテム保持者を、早急に、叩く」
安倍が、トレンチコートの下の懐に手を突っ込んだ。
少年は、拳銃を取り出すのかと、身構える。
しかし懐から、出したのは哺乳瓶だった。
「これが俺の、マジックアイテムだ」
俺の人生の転機は、これで始まった。
七転び八起き(でんぐり返し)
人の強烈な思想、観念、感情の高ぶりが焼き付けられたモノが、能力を発現する。
「オレの、力は、加減を、知らない。骨の二三本は、覚悟しとけ」
「哺乳瓶、へへっ、キモイねえええええ!!」
「お前の覚悟と、オレの覚悟、どちらが強いか、勝負だ」
ぞぞぉッ
奴の体中に巻きついている縄が、意志を持った生き物のようにうごめき始める。まるでそれは、蛇のように!
口縄だな、なるほどそういう感じか。
縄は、物理的な長さの限界を無視するかのように、ドンドンとその長さを延長して、完全に安倍を包囲して襲い掛かる。
「捕まえたぁあああ!!」
しかし、安倍の表情は全く変わらない、顔色も変わらない、青白いままだ。
安倍は取り乱すことなく、れろれろれろれろ、と哺乳瓶の乳首の部分を舐めまわした。
瞬間、安倍の姿が消えた。縄が安倍を逃げ場のないように包囲していたのだが、取り逃がしたようだ。
「どこだぁああッ、逃げやがって! くそが! テレポートかァ?」
「どこを、見ている」
少年から、右前方に距離十mのところまで詰めていた。
安倍は、さらに全力で駆けて、距離を詰める。
縄の能力は有効距離が長く、近寄らせずに攻撃手段を持っているということがメリット、従って、一気に勝負をかけるのが正着。そう安倍は判断した。
少年は、即座に戦法を変える。
相手を包むのではなく、その逆をやるだけだ。
少年は、縄で相手を包囲するのを諦めて、自分の周囲を鞭のようにしなる縄で埋め尽くした。少年の周囲五mが、触れれば肉をえぐり取るような勢いで巡る、完全な鉄壁が完成した。
安倍は、足を止める。
反応とそれの対策への頭の回転は遅くない、と安倍は少年をそう分析した。
「これなら近寄れないだろう? あぁあああん?」
少年は、自分を包み込む絶対の防御を敷いて、敵を観察する。
哺乳瓶の力を最初は瞬間移動かと判断したが、どうやら違うようだ。最初にいた地点と、次に移動した地点のアスファルトが抉れるように跡が付いていた。
「瞬間移動じゃああねえなぁあ?」
少年が看破した通り、安倍が哺乳瓶に発現させた力は、瞬間移動とは少し違った。
安倍が能力を発現させたのは、二十四歳の時であり、そのときの体験が能力に顕著に表れていた。
安倍は小さい頃から英才教育を受けていて、エリート街道を進んでいた。東京大学から、国家公務員試験一級を合格し、警察庁にいわゆるキャリア組として入庁して、トップへつくことが約束された人生だった。しかし、安倍は自分でもわからない漠然とした不満を感じていた。
あるとき安倍は、政治家のT氏の接待として、連れ添いで赤ちゃんパブへと行くはめになった。もちろんいやいやだった。
赤ちゃんパブへいった安倍はそこで手の付けられない赤ん坊に扮した。そしてその赤ちゃんパブで安倍は、何もかも包み込む愛情が世の中にはある、ということに気付いた。
決められたレールに乗せられて努力をしてきた、それが当たり前だと思っていたから、苦しいとも思わなかった、だが、安倍はその時に、全てに気付いた。人生と言うものの意味、それは、限りない母性に、包まれることで、得られる幸福の、ためにあると。
そして安倍は、喜びを表現するために、でんぐり返しを繰り返した。
彼の漠然とした不満が、満たされた瞬間だった。
そして、そのとき、プレイに使っていた哺乳瓶に不思議な力が宿った。
『七転八倒(でんぐり返し)』
哺乳瓶を使うと、高速で回転して移動することが出来る。
高速回転中は、外界からの攻撃が、まるでゆりかごのなかにいるようにしか感じなくなる、ほぼ無敵時間になるというわけだ。
ただ、発動の継続時間は、限られている。
回転が継続している時間は0.7秒程と、それほど長くはない。また、回転と回転のインターバルは、0.8秒は最低必要で、隙は大きい。
少年は、そんな安倍の過去と詳細な能力の条件を知らないが、対処に必要な情報は、整理していた。
「短時間の肉体強化、か? 一定時間拘束出来りゃあ、勝ちだァ、はっはああああああ」
「……うん、まずい、な」
五mのあの幾重にも重なったロープを潜り抜けて少年に到達するのは至難の業だった。
恐らく突破力が足りない。
突っ込んですぐにからめとられ勢いを止められて、0.7秒経過して守りがはがれたところを締め付けられて、終了だ。
少年は、向こうから突進してきた。
力の差を認識して、その厚さの防御のまま攻撃してくるということだろう。防御は最大の攻撃、か。
意外に戦い慣れている。
「少し、本気を、出さないといけない、みたいだ」
安倍は、コートの中から水筒を取り出して、そして、黒い粉末が入ったジップロックを取り出して、水筒に投入する。水筒に入っているのは熱湯だ。
「死ねええええええええええええええええええええ」
少年が叫ぶ。
迫り来る少年、だが、安倍は水筒をじゃかじゃかと軽く振って、コーヒーを作った。
そして、安倍は腰に手をあてて一息でコーヒーを飲む。
三条は縄に縛られたまま、その様子を見て驚いた。安倍が本気を出すところを初めて見るからだ。
三条は最初に安倍と組むことになったとき、局長に説明をされていた。局長は言っていた。彼は常時睡眠不足症候群みたいなものでね、普段は半レム状態のせいで少し頼りなく見えるかもしれないが、頭が覚醒しているときの彼に勝る人材はこの世に存在しないよ――
一気にコーヒーを飲み干した安倍は、いつもの雰囲気と全く違う。顔は活力でみなぎっており、いつも小刻みに動いている首がしゃんとまっすぐに伸びている。そして、いつも空いているか空いていないかわからないような細い目は、見開かれていた。
「今さら何をやったっておせええんだよ!!」
迫りくる縄の壁は、安倍からあとのこり二メートルの位置まで接近していた。
「チャンスは一回だが、今のオレならいける」
安倍の額から冷汗がたらりと、落ちる。
縄は無造作に動いているようで、一本一本それぞれが、まさに本物の蛇のようにくせがあった。そして、全ての動きを安倍は見極めようとしている。
縄が幾重にも重なってもはや一つの球体のようになっていた、縄たちが凄まじい厚さの暴力となって、まさに安倍にぶつかろうとする。
衝突しようとする極限まで縄に近づいた瞬間、安倍は己の武器を縄の豪風雨に投げ入れた。
安倍は、縄の全ての動きを見切り、哺乳瓶が一直線に相手の面に到着するルートを、見出していた。
安倍が全力で投擲した哺乳瓶は、少年の仮面に当たる。
そして、そのまま勢いは失わず、メリメリと仮面は音を立てる。
「行け!」
哺乳瓶は仮面を貫く。
哺乳瓶の乳首は、少年の口と衝突する!
そして、マジックアイテムの発動条件は満たされた。
少年が自ら高速回転を始める。
グルグルグルグルグルグルグルグル
高速で回り出す少年、それを、安倍は、紙一重でかわす。
そして、安倍は、通り過ぎた後の相手の姿を、振り向いて確認した。
「はい、毛糸玉の出来上がり」
相手の口から外れて、宙に跳ね上がった大切な哺乳瓶をパシリ、とキャッチして、安倍は呟いた。
そこには、巨大な毛糸玉が出来上がっていた。
縄を張り巡らせた少年自身が回転すると、伸ばして無数に張り巡らせた縄が、猛烈に中心に巻き取られそして少年自身を絡めとったのだ。
巨大な毛糸玉の中心からうめき声が聞こえる。
毛糸玉の表面に見える縄の先がほどけようとうごめいているが、強引に回転して適当に巻き取られた縄は簡単にはほどけない。
「ちくしょぉおおおおおおおおおおおおお!!」
と毛糸玉の中心では少年が叫んでいるのだったが、くぐもって、呻いているようにしか外には聞こえなかった。
「さて、それじゃあこいつをもうちょっと無力化しますか」
安倍は、毛糸玉になった少年に近づく。
ずずずずうう
安倍は、足を止めた。
「おっと、もう一人、いらっしゃったか」
背が曲がっている小柄な老婆が、どこからともなく現れた。
しかし、その顔は面で隠されている。黒地の肌に金で顔が描かれた能面だ。
「ひひっ、許さんぞ、歯向かう者は皆、許さん、覚えておくがいい」
恐ろしく冷たい声音が駐車場に響き渡る。
老婆は、縄で出来た毛糸玉に触れて、そして、消えた。
文字通り、跡形もなくいなくなった。
「アイテム保持者が二人もいるのか、厄介だな」
安倍は、ひとまず脅威がいなくなったことに対して安堵しながらため息をついた。
二人が姿を消したのと同時に、三条を拘束していた縄が消えた。
慌てて安倍に駆け寄り、頭を下げる。
「先輩、今回はなんのお役にも立てずすみませんでした。それにしても、先輩の本気ってあんなにお強いんですね、私知りませんでした」
「ああ、なるべく使わないようにしてるんだ、今回も本当は使うつもりがなかったし、それが使わされた。カフェインは、慣れで覚醒度は浅くなるし、持続時間も短くなるからな。カフェインが完全に効かなくなったら、もうアッパー系の薬物に手を出さなきゃいけないかもしれなくなる」
目が冴えていて、呂律の回りも良い安倍はいつもと違って、会話に不自然な区切れが無い。
「なるほど、警察としてそれは避けたいですね」
「奴ら、強いぞ」
「謙遜が上手ですね、いつからそんなにまともな人間になったんですか? 本気の先輩なら負けませんよ」
「三条クン、君が事態の深刻さを正しく認識できていないというのは珍しいな」
「え? コテンパンだったじゃないですか、逃げられたのは伏兵がいたせいなだけで」
「奴がまだ余力を残した状態でオレと戦っていたのが分からなかったのか? 奴の縄は、現時点で少なくとも二つの能力があるということがわかるな。幻覚と、そして物理的に縄を伸ばして意のままに操る力。アイツは、最後まで両方の力を使い続けていた。お前は、アイツが消えるまでずっと、幻覚の縄に拘束され続けていただろう?」
「そういわれれば……、そうですね」
「二つの能力の同時行使っていうのは、ある程度の負担があるのはわかるよな、お前でも? もし、あいつとタイマンでやらなくちゃいけなかったとき、もしかすると、さっきは、半径五mほどの縄の嵐で鉄壁を作っていたが、アイツが幻覚に一切力を振らずにあの物理的な縄の攻撃のみに集中していたとする。そうなると、半径6、7、或いは酷ければ10メートルに達していたかもしれない。そうなると、間隙をついて哺乳瓶を投擲するのはオレでも物理的に不可能だった。アイツは、マジックアイテムを持っている人間同士の戦いには慣れていない、それであのポテンシャルだ。それと、今回の戦いで、オレはほとんど手の内を明かした状態になったのも痛い」
「すいません、事態の深刻さをわかってませんでした」
「わかれば、いいよ。流石に応援を呼ばないとまずいだろうな? 戦闘要員がオレ一人じゃあ解決はきつい」
「先輩、お言葉ですが、本局は保管庫襲撃の件で手いっぱいだと思われますが」
「え……、そうだっけ?」
また、いつもの安倍に戻り始めていた。パッチリ二重で元気はつらつにしゃきんと柳眉が上がった状態から、いつもの半目で、糸目でかくかくぶるぶるしている安倍に戻っていた。
「ええ、ですから、応援をこれから期待することはできません」
「じゃあ、他から、協力してもらうことに、しようか」
「え……? まさか、あの高校生を、事件に引き込むというんですか」
三条は、強く反発した。
「ああ、それ以外に、現実的に奴らと、対等に渡り合う方法を、オレは、考え付かないからな。このまま、みすみす犠牲者が増えるのを、見ていろ、というのか、それはあまりに残酷だ。奴らは、サイコだ、そして、オレ達と同じようにマジックアイテムの成り立ちを良く知っている奴らだ。恐らく奴らは、もっと狂気に身をゆだねようとするだろう、そして、実際にもっと深いところへ、と。強制的にマジックアイテムを作る方法を知っているか? 奴らは、それどころか、鬼に到達するかもしれない、はやいうちに片付けよう」
「はやいうちにと言っても、奴がどこにいるか、誰なのかはまだわかりません」
「いや、ほとんど、もう、わかっている。君の、調査の、おかげでも、ある。必要な情報は、そろった。……少年は、少年でも、少年ではない、だ」




