2 ~逃げて!逃げて!~
「はっ、はっ……! じ、ジル!! 待ってよ……!」
あの鳥に襲われてから森を駆け抜けている間、いつもは優しい瞳でユディタを見上げ、隣を歩いてくれるジルが険しく顔をしかめながらユディタの少し前を走るように進んでいた。そして時々振り向いてはまるでユディタにも急げと言いたいようにクルクルその場で回りながらユディタが追いつくのを待っていたのだ。
「私、そんなに早く走れないわ……!」
「バウムン!!」
そんなことわかってる、と言いたいようにジルはユディタへと一つ吠えた。ああ、きっとジルのことだ。何か危険が迫っているのを感じているんだわ。ユディタはそう考えながらも息切れする胸を一度落ち着かせるために足を止め、空気を一杯吸い込むとゆっくり吐き出した。卵の重さが僅かに辛くも思える。けれどそれより、目の前で自分を待ってくれるジルの様子に急がなければという想いが胸をついた。
「行くわ、行くからごめんね、ジル。少しだけ待って」
重くなってくる足を必死にまた動かしてジルの後を追う。すると、ジルはユディタが隣に来るのを待ってからまた道の先へ向いて一つ吠えた。
「バムッ!!」
「……あ、おうちが近いのね! ……ええ、もう少しよね、ジル!」
言葉をわかったように一つ頷くとまたジルが先を走る。大丈夫、もう少しでおうちよ。ユディタも見えてきた家の屋根と村にまた急かされるように足を進めていった。
「お父さん!! 大変よ、お父さん!!」
急いで家に飛び込むと、会合用の服に着替えた父親へと息を切らしながら走り寄った。
「ユディタ? どうした、そんなに慌てて……」
「大変だったの! 森で私……!」
どう言葉にしたらいいのかわからなくなりながら、ユディタは抱えていた卵を父親へと差し出した。
「……これはとても大きな卵だね。一体これは……?」
「森で見つけたの。そしたら大きな鳥に襲われてしまって……」
ユディタの言葉に父親は一度息を飲むと慌てたように卵を床へおいてユディタの肩をしっかりと押さえた。
「襲われただって!? 大丈夫かい? 怪我はしてないか!?」
「え、ええ。大丈夫よ! ジルが助けてくれたんだもの」
当のジルはと言うと、父親が床においた卵を守るように抱えて丸くなってこちらを見ていた。
「ジルがこんなに大切にしてるのよ? きっと何か大切な卵なのかもしれないわ!」
「……変だな。ガイオークが卵を産むなんて聞いたことがない。それに普通、野生のものたちは卵の1つを失ったってそんなに気にしないと思うんだけどユディタが持ってきた卵はみんな守ろうとしているってことかな……」
ふむう、と悩むように唸ると少しして父親は一つ頷いた。
「わかった。丁度今日、会合に見知った学者が来るんだ。彼ならきっとそれが何の卵かわかるだろう。聞いてみるよ」
「ありがとう! お父さん!」
ユディタはパアッ、と笑顔になると父親にペコリと頭を下げた。
「ユディタたちが無事ならいいんだ。……さて、エレとお母さんを呼んでくるね。さすがにユディタがまた森に行くのは危ないから、今日の会合の料理はどうしようか確認しなくちゃね」
ユディタは少しゆっくりしていなさい、疲れたろ? そう言うと父親は一度ジルの頭を労うように撫でてから調理場でユディタからの食材を待っているであろう二人の家族の元へと行ってしまった。
「そうね。……ジル、私たちも少し休みましょうか。力いっぱい走ったから疲れてしまったわ」
安心したせいか、すごく重くなる瞼をこすりながらユディタは椅子に座ると小さく息をついてゆっくりと目を閉じた。……その瞬間だった。
「バッ、バムン!?」
ジルの驚くような声にまどろみかけていた意識が完全に戻って来てしまった。
「どうしたの、ジル……?」
ジルの方へと振り向くと、今度はユディタも息を飲むことになってしまった。
「……え……?」
パリン、パリン。小さいながらもその音は確かにジルが抱えている卵から聞こえてきていた。確かに卵の殻が割れていく音だった。
「な、なんで……!?」
もしかして、私が転んだ時に出来てしまった罅から卵が割れてきているんだろうか? 不安になって急いで卵へと駆け寄ると内側から崩れていこうとするように割れる音は止まらない。
「あ、ああっ! ジル、どうしましょう!! 私がこの卵に罅をつけてしまったせいで割れてしまうわ!!」
慌ててジルから卵を受け取ると必死にその様子を探る。運んでいた時より確かに黒い線が増えていて、今この瞬間もその線が増え続けている。小さく割れる音を響かせながら確かにそれは卵が割れようとする証拠だった。
「あああ……!! どうしましょう、どうしましょうっ!!」
だがそんなユディタの気持ちなどいざ知らず、卵のてっぺんから底まで罅は入り、そして最後の一撃とでも言いたいように一番強く割れる音がして……。
「……ヒュン……?」
「え……?」
割れた卵の中から卵と同じくらいに真っ白な何かがユディタへと小さな顔を向けていた。
「え、えっと……」
「ヒュン……? ヒュン」
まるで甲高い風のような声。そう思いながらユディタが顔を近づけると卵の中から鳥のくちばしにも似た固い口が小さくユディタをつついた。痛くもなくてまるでそこにいる何かを確認するかのように数回つつくと、やがてピクピクと小さな瞼がゆっくり持ち上がり、その下から真っ黒で眩しく光る小さな瞳があらわになった。
「ヒュッ! ヒュン!!」
「わっ!!」
ユディタの姿を認めた途端、その小さな何かは卵の中で必死に飛び跳ねると自分から殻を割ってその全身を表した。
鳥のような嘴は鉤爪のように小さなアーチを描いている。けれど鳥というよりもどこかお話の中で見たドラゴンのようで、ずんぐりとした体には微かに湿った真っ白な毛が生えていた。その体を支えている足はガイオークのそれに似ていて柔らかい肉球がユディタにも見えた。だが、何よりもユディタの目を引いたのはその背中にある翼だった。まだ飛び方も知らないはずなのに今も必死にユディタの前で動かして羽ばたく練習をしているようにも見える。それに、鳥とも違って半透明の膜のようにも見えた。けれど窓から差し込む光がそれに触れるたびに翼は見えなくなり、翼が影に入るとまたその姿を見ることが出来た。
「……すごい……。すごいわ!」
きっと森の中でも珍しい種族の子供に違いないのだろう。森で見たどの生き物よりも神秘的に見えたし、それにこの辺りでは見かけない、お話しの中に出てくるドラゴンにも似ているのだから。
「ムン?」
ジルも気になってか、その何かをじっと見つめると恐る恐るその顔を舐めた。
「ヒュッ……」
「あはは、大丈夫よ。ジルはあなたを食べたりしないわ。とっても優しいんだから」
怖がるその何かに指を近づけると頼るようにその顔を摺り寄せてくる。もしユディタに妹がいたらきっとこんなふうにお姉ちゃん、って来てくれるのかな、なんて考えもしながらユディタはその何かの頭を優しく掻いた。
「ねえ、ジル。この子のお母さんやお父さんは誰なんだろうね?」
「バウ……」
わからない、と訴えるジルにユディタは小さく笑った。
「そうね、私もわからないもの。後でお父さんの知り合いが教えてくれるに違いないわ」