「理不尽に立ち向かう方法」
……朝である。
「…………」
身体を起こし、無造作に首を振って、強引に睡魔をひきはがす。昨日の事があった所為で、当たり前のように眠れなかった。
結城はどうだろうか。と思いベッドの方に目を向けると、どうやら爆睡しているらしい。……こんな時でも眠れるというのは、なんというか、大物というか。
「…………」
何となく安堵しつつも、俺は立ち上がるとベッドの傍に近寄る。
今日はどんな顔をして寝ているやら。そう考えながら結城の顔を見て――硬直した。
「……………………」
はたして、結城は寝ながら涙を流していた。
その顔も、何時もの間抜け面とは違う、悲しそうな表情。
……何時もなら、アホな悪戯でもして無理やり起こすところだが……流石に今は、そんな事は出来ない。
「……………………」
代わりに、無言でその頭を撫でた。さらさらとした柔らかい髪の毛が、指の間をすり抜けていく。
「……ん」
結城が小さく唸り声を上げて、体勢を変える。……起こしてしまったかとひやひやしたが、どうやら単に寝返りを打っただけらしい。……別に不埒な事をしているわけでもないのに、何故か緊張した。
顔を覗き見ると、先ほどに比べると若干安らかな寝顔になっている。それを確認してから、俺は起こさない程度の音量で息を吐いて、彼女の細い髪の毛から手を放す。
「……駄目だな。なんだか」
……良く分からないけれど、何だか、感情がおかしなことになっている。
結城に対する罪悪感と……良く分からない。何に向けられているのかも分からない、ほんの少しの苛立ちが。
「……駄目だ駄目だ」
どうにも後ろ向きになりがちな思考を、睡魔同様に首を振って振り払おうとする。……しかし、何かと厄介事が多すぎて、どうしてもポジティブに切り替わらない。
とりあえず……彼女が目を覚ました時に、どんな顔で挨拶をすればいいのだろうか。それすらも、良く分からなかった。
♪
鞄を置いて自分の席に座ると、前の席に座っていた相川が笑顔で振り返った。
「おはよう麻上」
「……ほんと、当たり前のように座ってるよな、お前って。誰だっけ、その席の奴」
確か、昨日ちょっと話した男子Cの筈だったけど……というか、確かアイツ、相川に気があるんじゃなかったっけ?
眉根を寄せて相川を見つめると、相川はああ。と軽く頷いて、
「彼なら、多分今日はおやすみだよ?」
――なんて、笑顔でのたまった。……ちょっと怖いよ相川くん。
「お前、何かやったの」
「ん? 別に。ただちょっとお話をしただけだよ? ――主に、お互いの今後とか」
あはは。とファニーフェイスを緩ませる相川。しかし、目だけが笑っていないのでマジ怖い。なまじ顔立ちが整っている分、こういう不自然な表情をされるとある意味グロテスクに見える。
「何か酷いこと考えてないー?」
「……別にそんなことないですよ」
自然と敬語になる俺。だって怖いもんこの子。流石はあの寮監様に唯一刃向かえる男なだけの事はある。
まあ、万事何事も無く終わった様で何よりだ。男子Dくんはお気の毒というほかないが、やっぱり赤の他人より、見知った友人の方が大事です。
「…………はぁ」
俺がしたたかな友人に頭を抱えていると、当人である相川は相川で、怪訝な顔で首を傾げた。
「ふぅん……どうやら、あの子と何かあったみたいだね」
「……お前は何なの、エスパーなの」
確かに今日はその事を相川に相談しようと思っていたのだが、まさか言いだす前に看破されるとは。……やっぱりアレか、顔に出やすいってやつか。
「そんな太宰治みたいな顔してたら誰でも気付くよ。君、憂い顔が似合うような美青年でもないでしょ」
相川は苦笑いを浮かべて首を振る。……何気に酷い事を言われているような気がするが気にしない。……良いさ別に。言いだす手間が省けたというものだ。
「……んじゃ、ちょっくらお悩み相談に乗ってくれるか。……悩みというより、ただの愚痴になりそうなんだけどな……」
「オーケーオーケー。何だかんだで、ここ最近一番ホットな話題だからねー、それ。面白い話が聞けるっていうなら、幾らでも」
笑いながら、椅子を回して俺に向き直る相川。……一瞬、相談するの止めようかな。とも思ったが、残念ながらこんな悩みを相談出来る相手はこいつしか居ない。自分の交友関係の狭さを改めて自覚しつつも、仕方がないと諦めて、俺は一度ため息を吐いて口を開いた。
「……実は、だな」
昨日の夜の結城との会話を、相川に説明する。アイツが出て行った本当の事情。それを受けて、俺が言ったこと。それと、今後の展開を。
「ふぅん。……それじゃあ、今日の放課後にでも、その娘を家に連れていくと」
「……ああ」
顎に手をやって、俺の告げた結論を繰り返す相川に、俺は視線を逸らしつつ頷いた。
「それ、もう寮監様には言った?」
「いや……まだ」
昨日、気まずい雰囲気のまま話を打ち切った所為か、今朝の俺とアイツの間に漂う空気は、朝食を持ってきた寮監様が思わず後ずさる程に最悪で。そんな、お通夜みたいな空気の中で、更に空気を悪くするような発言は、どうにも出来ず……。結局そのまま、何も言えずに寮を出てしまった。
「その様子じゃ、彼女とも話、してなさそうだね」
「……一応、おはようといってきますは言ったぞ」
あと、いただきますとごちそうさまもな。と付け加えると、相川は渋い顔をする。
「……何というかー。君って普段は無駄に度胸があるというか、命知らずな癖に、こういう時だけヘタレだねぇ」
……うっせぇやい。だったらお前もあの場に居合わせてみろってんだ。絶対に何も言えなくな……いや。こいつだったらどんな空気でもヘラヘラ笑ってそうだな。そういう奴だこいつは。
で、その相川は、珍しく顔を顰めてはぁ。と息を吐くと、でもまぁ。と付け加えて、言葉を続ける。
「……まあ、良かったんじゃないの。特に心配するような事情も無いって事は、彼女は元の家に戻れるし。君もようやく彼女から解放されるし。……それに僕や寮監様も、君たちのフォローに回らなくて済むしね」
肩を竦めて、最後だけ軽い調子で言う相川に、しかし俺はどうにも納得がいかず、眉間に皺を寄せて俯く。
そんな俺を見て、相川はもう一度、ため息を吐いた。
「……ふう。全く。これで何もかも丸く収まりそうだっていうのに……一体、何を悩んでいるのだろうねぇ。君は」
「…………わかんねぇ」
相川の問い掛けに、俯いたままで小さく答えた。
「……まあ、何にせよ」
相川は席を立つと、座ったままの俺を見降ろしながら口を開く。
「どうして自分が悩んでるのか……それを、自覚することだねぇ。僕は君の悩みを聞く事は出来ても、君の悩みが何かまでは、わからないからさ」
そう言って、相川は軽く苦笑を洩らすと、そのまま踵を返して自分の机へと戻って行った。
「…………はあ」
その背中を、黙って見送ってから、俺は脱力して机に突っ伏す。
……何を悩んでいるのか。か。
……分からない。
これが一番良い選択の筈だ。相川の言う通り、別に悪い結果というわけじゃない。……むしろ、予想外に綺麗に収拾を付ける事が出来そうだというのに、……どうして俺は、こう……。
「……あぁぁああああ、もう」
頭を抱える。……何でだろう。一番当たり前で、一番正しい結末。誰も幸せにはならないが、際立って不幸にもならない結末。……だというのに、どうして俺は、こうも苛立っているのだろう。
♪
――結局。丸一日頭を抱え続けた俺は、しかし午後のHR前にもなっても、その答えを見つけ出せないでいた。
鞄に必要なものだけをしまい、そのまま机の上に突っ伏す。
「……わからん」
……もともと、他人の感情の機微を鋭く察することが出来るような人間ではなかったが、まさか自分の感情まで分からないとは思わなかった。
正しい筈なのに、どうして自分は苛立っているのか。
まさか、アイツが悲しそうだったからとかか? 三日間の共同生活は、それほど深い情を俺に与えたのだろうか。
……いや、無いな。自分の考えを自分で否定する。
悪いが、それはない。……まあ、確かにアイツは、礼儀正しいし、良い奴だし、見た目よりも面白いし。……何より可愛いし。確かに、俺が入れ込むには十分だと思う。
……でも。いや、だからこそ、アイツには似合わない真似をして欲しくない。ただでさえ危なっかしい奴だから、もうこんなことはしないで欲しいと、心から思う。
……だから、それが理由。というわけでもない。
頭を抱える。感情の動機が、理由がどうしても見当たらない――いや、そもそも、この感情に理由なんてあるのだろうか?
「――――――――」
……そうだ。そもそも、それが一番正しいんだと自分で理解も納得もしているなら――この感情は、そう言った理屈じゃないのではないだろうか。
理屈じゃない……どんなに筋の通った理由でも認められないというのなら……それはただ単に俺の好き嫌いというか、俺の独善で……。
じゃあ、どうして俺が、これほどまでに苛立っているのかと言われれば……それはきっと。
――つまらない日常と、彼女は言った。
……だから、それが答えだ。
自分と同じ苛立ちを抱えていた少女。つまらない日常。変えられない人生。そういった理不尽に、どうにかして抗いたかった、俺とアイツ。
『人生は変えられない』なんて悟ったようなふりをして斜に構えていても、何処かで求め続けていた想い。
……それを、俺は否定した。
俺にはアイツを救えないと。俺は、同じ思いを抱く同胞を、拒絶してしまった。
要するに、それが答えだ。
決してアイツの為なんかじゃない。
ここで俺が、アイツを失意の底に陥らせたまま、家に帰らせるのは、つまりアイツの日常を、俺には変えられなかったという事だ。
それはつまり、変えられない日常。どうしようもない人生。それでも抗いたかったそれを、認めてしまう事であり。
俺なんかじゃ人生は変えられないと、自分で認めるのと同じことだ。
「……………………」
……理解した。
理解したと同時に、苛立ちを超えた怒りがふつふつと込み上げてくる。
いらいらする。
……何も、日常や人生を、そう簡単に変えられるとは思わない。非日常は遠い。遠いからこその、非日常であり。
俺みたいなちんけな一介の男子高校生が、これからのアイツの生活全てを変えられるとは、思わない。そんな力、俺は持っていない。
……それでも、思い出せ。この三日間。アイツは俺の部屋で、どうしてた?
礼儀正しい、お嬢さん然とした容姿や雰囲気とは裏腹に――あの部屋で過ごすアイツは怠惰で、凡庸で……何より、笑っていた。
漫画を読みながらでも、ゲームをしながらでも。あのくだらない与太話を活き活きと語っている時も、それに突っ込みを入れられている時も。
……アイツは、笑っていたじゃないか。
それがどうだ。今のアイツは、笑っているか? いいや。違う。少なくとも、今日俺が最後に見た時のアイツの顔は――酷く悲しげで、辛そうだった。
俺が付き付けた、夢も欠片も無い現実に打ちのめされて。俺の八つ当たり染みた説教で、自分ではどうしようもない事を理解して。
アイツの笑顔は、アイツの幸せは、まるで一時の夢だったかのように、消え去った。
「…………」
……いらいらする。
自分みたいなちんけな人間が、そう簡単に日常や人生を変えられるとは思わない。当たり前だ。人間一人にそんな大した影響力があるものか。
だけど、それでも俺が、これほどまでに苛立っているのは――そんな、自分が何より嫌悪していたその事実に、あっさりと打ちのめされて、抵抗も無く納得しちまった――そんな自分の不甲斐なさに対してだ……!
「…………」
鞄を持ち、無言で立ちあがる。そのまま、HRの為に教室に入って来た担任とすれ違うように外へ出た。
「お、おい麻上!?」
担任の困惑した声が聞こえるが、気にも留めない。そのままダッシュで昇降口まで向かい、学校を出る。――向かう先は決まっていた。
「あ、おい麻上! 聞いたぞ! アンタ、あの子を追いだすらしいじゃな――って……!?」
寮に付くと同時、玄関の掃除をしていた寮監様とはち合わせた。無視して靴をしまうと、早歩きで廊下を進む。
「おい麻上! 無視すんなこら! 聞いてんのか!」
背後から寮監様の怒鳴り声が聞こえるが、聞かなかったことにする。……後が怖いけど、今はそれを気にする時じゃない。
俺は大股歩きに自分の部屋の扉の前に立つと、大きく息を吸って、乱暴に扉を開けた。
「――遊びに行くぞっ!!」
バンッという大きな音を立てて扉が壁にぶつかる。それに負けない大声で、俺は言った。
「…………え?」
寝ていたのか、それとも横になっていただけか、ベッドに寝そべる結城は、中途半端に身体を起こしたまま、ぽかんと口を開けて固まった。――気にせず、再び乱暴に扉を閉めて、部屋に入ると、大股に結城の傍に近寄る。
「だから、遊びに行くんだよ。……えっと、今から……は流石に無理か。明日だ。丁度明日は休みだし、朝から遊びに行くぞ」
「え、あ、あの……遊びに行くって……え、誰が?」
結城は俺の布団の上で、少し怯えがちに身体を引いた。……多少勢いに任せ過ぎたか。俺は一度息を吐いて、再び結城に向き直る。
「お前だよ。決まってんだろ」
「だ、誰と……ですか?」
「俺だ。不服か」
憮然と言い放つと、結城は見る見るうちに顔を真っ赤に染めて、肩に掛けていたタオルケットの端を持つと顔を隠すように口元へと持っていく。
「え……えぇぇえええええ!? そっそそそそ、それってで、でででー……」
「…………?」
何故か動揺する結城に、俺は首を傾げた。……っと、そうか。流石に説明が足りなかったな。
「……あー、少し話をしても良いか?」
「は、はい……」
結城が顔を真っ赤にし、タオルケットを身体に巻いたまま頷いた。その反応の意味は良く分からないが、とりあえず俺は一度息を吐いて、言葉を続ける。
「あのさ、お前、昨日、まともに友達と遊んだこともない。って言っただろ」
「あ……はい……」
結城の目から、一瞬にして輝きが失われる。
「それについては、昨日も言ったが俺はどうしようもない。――まさかお前が居る学校にまで行って、お前と友達になってやってくれ。なんて言うわけにもいかないし。そもそも、そんな事をして作った友達なんて、意味無いだろ?」
無言で頷く結城。……項垂れるこいつの姿は、やはり見ていて痛々しい。……だから、俺は続ける。
「そればっかりは、どうにもならない。お前の日常は、お前の人生は、俺にはどうしようもない。……どうにか出来たら良いのにとは思うのに、それを変える事は、俺にも……多分、誰にも出来ないよ。……でも」
だけど、と、俺は言葉を続けて。
「それでも、俺にだって出来る事はある。お前が友達と遊びたいっていうなら、俺が明日、一緒に遊びに行ってやる。俺にはお前に友達を作ることもできない。お前んちの家庭の事情に、首を突っ込むようなこともできない。でも、俺はお前と友達になれる。お前と何時も遊ぶ事は出来なくても、明日一日だけなら、お前と一緒に居てやれる」
俯いていた結城の顔が跳ね上がった。それを見ながら、俺はさらに続ける。
「お前に友達が居ないっていうなら、俺が最初の友達になってやる。お前と遊んでやる。くだらない馬鹿話だってしてやる。……そういう日常を、一日だけでも、お前に見せてやる」
……もしかしたらこんなのは、何の意味も無いのかもしれない。こんなことをした所で、こいつが逃げたがっていた日常には、何の変化も無いからだ。
明日、どれだけ楽しんだとしても、明後日には、また変わり映えのない毎日が待っている。
……それでも、俺は、結城を楽しませてやりたかった。
結城をもう一度、笑わせてやりたかった。
変わらない毎日だって、何時かの楽しい思い出があれば過ごしていける。「ああ、そんなこともあったっけ」と、ふと思い返して笑えるような記憶があれば、前に進める筈だ。何時かその思い出に向けて、日常を変えることだって出来るかもしれない。それはもう、届かない非日常なんかではなくて、一度は味わったことのある、楽しい日常なのだから。
例えこれが――一時の夢だったとしても。その夢に何も意味がないなんて、思わない。
だからせめて、こいつが見た夢が、底抜けに楽しいものであるように。こいつが笑って過ごす事が出来た毎日の最後を――こんな、暗く沈んだ表情で何て、終わらせてたまるものか。
「――良いか、明日は連れ回してやるぞ。お前が疲れてへとへとになるまで。そんな日常への不安や苛立ちなんて考える暇も無いくらい、お前を楽しませてやるよ。だから、覚悟しとけ!」
呆気に取られた顔で俺を見つめる結城に、俺は指を突き付けて言い放った。
――これが、俺の答えだ。
もちろん明日の午後には、こいつを家に送り返す。それは変わらない。それは、俺には、どうしようもない。
……でも、それだけだ。俺にどうしようも出来ないのは、結局のところその事実だけであり。俺がこいつを笑わせたらいけないだなんて、誰にも、一度も言われちゃいない。
そして、俺は――女の子一人笑わせる事が出来ない程、どうしようもない野郎になったつもりは、無かった。
「――――――――」
結城は茫然と俺の指先を見つめていたが、見る見るうちにその瞳に輝きが増していき、
「――はいっ!」
頬を緩ませ、最高の笑顔で、そう答えた。
次回は10月24日20時予定